礼拝メッセージ 2024年9月8日/秋山浩副牧師
「イサクの生涯から学ぶ」 創世記26章12~25節
イサクは父アブラハムから遺産として受けた井戸がありましたが、それをペリシテ人に埋められてしまいます。この当時の人々にとって井戸は生きてゆくためには決して欠かすことはできない大切な財産でした。その後イサクの羊飼いたちが二つの井戸を掘りあてますが、今度はゲラルの羊飼いたちが「この水はわれわれのものだ」と争いを仕掛けてきました。しかし、イサクは自分の権利を主張せずに、別な場所に移動しそこで新しい井戸を掘り直したのです。争いを避けるイサクの姿を見る時にイエス様のことばを思い起こします。
「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです」(マタイ5:5)
柔和な者を別訳の聖書では<穏やかな、忍耐深い、しんぼう強い人>と記しています。イサクは戦いを好まない人物でした。けれども敵対しあう羊飼たちを収められたのですから、強いリーダーシップがあったのではないでしょうか。それと共に穏やかで忍耐深い人だったと思われます。
<聖書の教える柔和とは>
イエス様はマタイ11章29節で「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」と教えられました。「心優しく」を口語訳聖書と新共同訳聖書では「柔和」と訳しています。イエス様ご自身が柔和な者となって神様のご計画に従い全人類の救いのために十字架の道を歩まれたのです。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです」(ピリピ2章6~8節)
<井戸を掘り続け、ついに広い場所が与えられたイサク>
どうしても水は必要なので、争いを嫌い避けるだけでは問題の解決にはなりません。井戸は掘り続けて行かなくてはならないからです。しかもそこには大変な労力と時間が必要でした。それでもイサクが権利を手放せたのは、何故でしょうか。イサクは主が共におられ、必ずもっと最善な場所を与えて下さることを信じていたからです。そのように…
「イサクはそこから移って、ほかの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテと呼んだ。そして彼は言った。「今や、主は私たちに広い所を与えて、私たちがこの地でふえるようにしてくださった」(22節)
ここにはもはや争いは 起きませんでした。主は試練を与えたのちイサクに安全な広く自由で最善な場所に導かれたのです。イサクの生涯はひたすら井戸を掘り続けた生涯にも思えます。しかし彼は結果的に多くの井戸を掘って各地の人々の生活を支えることになったのです。
<イサクの井戸掘りは>
祈りに通ずるものがあります。 イエス様は「絶えず祈りなさい」と私たちに教えています。たとえ理不尽で受け入れられない現実に直面していても手放したくない思いを明け渡し、主に信頼し祈り求めていくのです。主は共におられ私たちの祈りに応え、やがて神の時が満ちるならば平安という広い場所を与えてくださいます。イサクのように柔和な者となって主の導きに従っていくならば、私たちも最善な広い地を相続するのです。
「イサクの生涯から学ぶ」 創世記26章12~25節
イサクは父アブラハムから遺産として受けた井戸がありましたが、それをペリシテ人に埋められてしまいます。この当時の人々にとって井戸は生きてゆくためには決して欠かすことはできない大切な財産でした。その後イサクの羊飼いたちが二つの井戸を掘りあてますが、今度はゲラルの羊飼いたちが「この水はわれわれのものだ」と争いを仕掛けてきました。しかし、イサクは自分の権利を主張せずに、別な場所に移動しそこで新しい井戸を掘り直したのです。争いを避けるイサクの姿を見る時にイエス様のことばを思い起こします。
「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです」(マタイ5:5)
柔和な者を別訳の聖書では<穏やかな、忍耐深い、しんぼう強い人>と記しています。イサクは戦いを好まない人物でした。けれども敵対しあう羊飼たちを収められたのですから、強いリーダーシップがあったのではないでしょうか。それと共に穏やかで忍耐深い人だったと思われます。
<聖書の教える柔和とは>
イエス様はマタイ11章29節で「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」と教えられました。「心優しく」を口語訳聖書と新共同訳聖書では「柔和」と訳しています。イエス様ご自身が柔和な者となって神様のご計画に従い全人類の救いのために十字架の道を歩まれたのです。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです」(ピリピ2章6~8節)
<井戸を掘り続け、ついに広い場所が与えられたイサク>
どうしても水は必要なので、争いを嫌い避けるだけでは問題の解決にはなりません。井戸は掘り続けて行かなくてはならないからです。しかもそこには大変な労力と時間が必要でした。それでもイサクが権利を手放せたのは、何故でしょうか。イサクは主が共におられ、必ずもっと最善な場所を与えて下さることを信じていたからです。そのように…
「イサクはそこから移って、ほかの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテと呼んだ。そして彼は言った。「今や、主は私たちに広い所を与えて、私たちがこの地でふえるようにしてくださった」(22節)
ここにはもはや争いは 起きませんでした。主は試練を与えたのちイサクに安全な広く自由で最善な場所に導かれたのです。イサクの生涯はひたすら井戸を掘り続けた生涯にも思えます。しかし彼は結果的に多くの井戸を掘って各地の人々の生活を支えることになったのです。
<イサクの井戸掘りは>
祈りに通ずるものがあります。 イエス様は「絶えず祈りなさい」と私たちに教えています。たとえ理不尽で受け入れられない現実に直面していても手放したくない思いを明け渡し、主に信頼し祈り求めていくのです。主は共におられ私たちの祈りに応え、やがて神の時が満ちるならば平安という広い場所を与えてくださいます。イサクのように柔和な者となって主の導きに従っていくならば、私たちも最善な広い地を相続するのです。