礼拝メッセージ 2024年7月28日/秋山浩副牧師
「アンデレの目で」 ヨハネ6章1~13節
「大ぜいの人の群れがイエスにつき従っていた」(2節)イエス様は彼らをご覧になって弟子のピリポをためして言われました。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか」(5節)人里離れた場所で、しかも男だけで5千人とありますから、女性や子どもを合わせればその3倍以上はいたでしょう。イエス様のこの質問に対してピリポとアンデレが対照的な答えをしました。
*ピリポ…「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません」(7節)彼は瞬時に集まっている人数に対して必要なパンの数を計算し答えることができた有能な現実主義者でした。確かに現実に目を向けることは大事です。しかし、そればかり見ていると否定的な結論となりがちです。ピリポには神の御手が介入するならば、人間の理解を超えた御業が起こることを見る信仰の目が欠けていたのです。
*アンデレ…「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう」(9節)アンデレは少年が持っていた小さな弁当に気付き、それをイエス様の元に持っていったのです。彼は小さな可能性に目を向けることができる人でした。しかし否定的な思いがアンデレに無かったわけではないことも彼の答えから分かります。
イエス様はこのパンと魚を群衆に分けれられると、そこにいた全ての人は充分に食べ、それだけではなく「大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった」(13節)のです。
<両方の視点>
私たちがピリポの視点で現実だけに目を向けていたら、否定的な考えに支配されてしまいます。だからと言って現実から目を背けるのではなく、その現実を見据えながらもそこに小さな可能性的を見ようとするアンデレの視点が必要なのです。小さな可能性に目を向けていく信仰の目は神との交わりを通して開かれ、主が私たちに気付きを与えてくださるのです。
<私たち自身>
この少年の小さな弁当のような存在かもしれません。自分なんか取るに足らない何の価値もないと嘆いていないでしょうか。大切なのは、私たちがどのような者であるかということではなく、誰に私たちの人生が握られているかということです。信仰をもって自分自身を主に差し出すなら、主は人々を祝福するために大いなる御業を成してくださるのです。
イエス様は「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか」と私たちにも語りかけておられるのではないでしょうか。ヨハネ4:35ではこのように言われています。「目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています」私たちは自分の足元、つまり自分の家庭、仕事、生活だけに目を向けていないでしょうか。目を上げなければ今社会に何が起きているのか現実の問題を見る事はできません。この奇蹟は、四つの福音書すべてに記録されていますが、マルコ6章34節では集まって来る群衆に対してイエス様は「そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた」とあります。私たちが目を上げるならば、イエス様の愛を知らず人生に目的を見出すことが出来ずに迷っている人々を見るのではないでしょうか。
現実をしっかり見るピリポの視点と小さな可能性に目を向けるアンデレの視点の両方を持ち、そこに神の可能性に期待する信仰を働かせて、あなた自身を主に捧げ人々の祝福のために用いて頂きましょう。
「アンデレの目で」 ヨハネ6章1~13節
「大ぜいの人の群れがイエスにつき従っていた」(2節)イエス様は彼らをご覧になって弟子のピリポをためして言われました。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか」(5節)人里離れた場所で、しかも男だけで5千人とありますから、女性や子どもを合わせればその3倍以上はいたでしょう。イエス様のこの質問に対してピリポとアンデレが対照的な答えをしました。
*ピリポ…「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません」(7節)彼は瞬時に集まっている人数に対して必要なパンの数を計算し答えることができた有能な現実主義者でした。確かに現実に目を向けることは大事です。しかし、そればかり見ていると否定的な結論となりがちです。ピリポには神の御手が介入するならば、人間の理解を超えた御業が起こることを見る信仰の目が欠けていたのです。
*アンデレ…「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう」(9節)アンデレは少年が持っていた小さな弁当に気付き、それをイエス様の元に持っていったのです。彼は小さな可能性に目を向けることができる人でした。しかし否定的な思いがアンデレに無かったわけではないことも彼の答えから分かります。
イエス様はこのパンと魚を群衆に分けれられると、そこにいた全ての人は充分に食べ、それだけではなく「大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった」(13節)のです。
<両方の視点>
私たちがピリポの視点で現実だけに目を向けていたら、否定的な考えに支配されてしまいます。だからと言って現実から目を背けるのではなく、その現実を見据えながらもそこに小さな可能性的を見ようとするアンデレの視点が必要なのです。小さな可能性に目を向けていく信仰の目は神との交わりを通して開かれ、主が私たちに気付きを与えてくださるのです。
<私たち自身>
この少年の小さな弁当のような存在かもしれません。自分なんか取るに足らない何の価値もないと嘆いていないでしょうか。大切なのは、私たちがどのような者であるかということではなく、誰に私たちの人生が握られているかということです。信仰をもって自分自身を主に差し出すなら、主は人々を祝福するために大いなる御業を成してくださるのです。
イエス様は「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか」と私たちにも語りかけておられるのではないでしょうか。ヨハネ4:35ではこのように言われています。「目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています」私たちは自分の足元、つまり自分の家庭、仕事、生活だけに目を向けていないでしょうか。目を上げなければ今社会に何が起きているのか現実の問題を見る事はできません。この奇蹟は、四つの福音書すべてに記録されていますが、マルコ6章34節では集まって来る群衆に対してイエス様は「そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた」とあります。私たちが目を上げるならば、イエス様の愛を知らず人生に目的を見出すことが出来ずに迷っている人々を見るのではないでしょうか。
現実をしっかり見るピリポの視点と小さな可能性に目を向けるアンデレの視点の両方を持ち、そこに神の可能性に期待する信仰を働かせて、あなた自身を主に捧げ人々の祝福のために用いて頂きましょう。