礼拝メッセージ 2024年7月14日/小坂叡華主任牧師
「言葉から生まれるもの」
最近は言葉に対してとてもデリケートになっています。何故なら重要な問題が言葉が原因で数多く起きているからです。聖書にはこの地球、宇宙と人類は神の言葉によって生み出されたと記されています。「神は仰せられた。「光があれ」すると光があった」(創世記1:3)クリスチャンはこの事実を信仰によって悟るのです。(ヘブル11:3)また聖書はイエス様ご自身が言葉であると示されています。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た」(ヨハネ1:4)
さて、人間の言葉はどうでしょうか。舌禍と言う言葉があるようにたったひと言で殺人事件が起きたり、戦争が勃発し経済が破綻することさえあるのです。神の助けによって制御されない言葉は危険なのです。最近はハラスメントという言葉が様々な場面で使われています。言葉が人を傷つけ病に陥らせることがあるのです。職場の上司が良かれと思って厳しく指導した言葉で相手が傷ついてしまうとそれはパワハラと認定されるのです。パワハラは言った人の思いではなく言われた人が受け取る感覚で決められてしまうのです。私たちクリスチャンは難しい言葉の問題に向き合う時、いつも神様はどのように導いていらっしゃるか聖書はどのように戒めているかを判断の基準にしなければなません。
聖書は言葉について次のように警告しています。「もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です」(ヤコブ3:2)「人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。~中略~罪に定められるのも、あなたのことばによるのです」(マタイ12:37)ですから「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい」(エペソ4:29)と教えます。イエス様は「心にみちていることを口が話すのです」(マタイ12:34)と語られました。私たちには言葉の権威を授けられていますが、その言葉によって裁きの日に申し開きをしなければならないのです。いつもイライラした心でいると言わなくても良い事で失敗するのです。心に何が満ちているか点検しましょう。
<バベル(混乱)の塔>
旧約聖書に人の言葉についてこんな記述があります。ノアの子孫たちの時代に地上は繁栄し、文化も文明も発達していきました。ある時人間達がこんなことを言い出しました。「さあ、われわれは町を建て、頂きが天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから」(創世記11:4)そして、巨大な塔(バベルの塔)を中心とした町の建設に取り掛かったのです。創造主なる神はその様子を見て「さあ降りて行って、そこで彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう」(6節)とされました。突然、神によって言語が乱れ、互いに言葉が通じなくなった人間達には大きな混乱が起き、塔と町の建設は出来なくなったのです。今日、世界中に多様な言葉が存在するのは、バベル(混乱)の塔を建てようとした人間の傲慢を、神が裁いた結果なのです。しかし今も世界は競って高さを誇る建物を建設し続けています。「彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。(ピリピ3:19)ですから「 あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい」(コロサイ3:2)と、私たちは、以前はそのような中に生きていましたが、もう今は怒り、憤り、悪意、そしり等の口から出る恥ずべき言葉を、捨ててしまうよう勧められているのです。言葉で失敗してしまう弱い私たちですから、みことばを心に蓄えて良い言葉を発して聞く人に恵みを与える者になりましょう。
「言葉から生まれるもの」
最近は言葉に対してとてもデリケートになっています。何故なら重要な問題が言葉が原因で数多く起きているからです。聖書にはこの地球、宇宙と人類は神の言葉によって生み出されたと記されています。「神は仰せられた。「光があれ」すると光があった」(創世記1:3)クリスチャンはこの事実を信仰によって悟るのです。(ヘブル11:3)また聖書はイエス様ご自身が言葉であると示されています。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た」(ヨハネ1:4)
さて、人間の言葉はどうでしょうか。舌禍と言う言葉があるようにたったひと言で殺人事件が起きたり、戦争が勃発し経済が破綻することさえあるのです。神の助けによって制御されない言葉は危険なのです。最近はハラスメントという言葉が様々な場面で使われています。言葉が人を傷つけ病に陥らせることがあるのです。職場の上司が良かれと思って厳しく指導した言葉で相手が傷ついてしまうとそれはパワハラと認定されるのです。パワハラは言った人の思いではなく言われた人が受け取る感覚で決められてしまうのです。私たちクリスチャンは難しい言葉の問題に向き合う時、いつも神様はどのように導いていらっしゃるか聖書はどのように戒めているかを判断の基準にしなければなません。
聖書は言葉について次のように警告しています。「もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です」(ヤコブ3:2)「人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。~中略~罪に定められるのも、あなたのことばによるのです」(マタイ12:37)ですから「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい」(エペソ4:29)と教えます。イエス様は「心にみちていることを口が話すのです」(マタイ12:34)と語られました。私たちには言葉の権威を授けられていますが、その言葉によって裁きの日に申し開きをしなければならないのです。いつもイライラした心でいると言わなくても良い事で失敗するのです。心に何が満ちているか点検しましょう。
<バベル(混乱)の塔>
旧約聖書に人の言葉についてこんな記述があります。ノアの子孫たちの時代に地上は繁栄し、文化も文明も発達していきました。ある時人間達がこんなことを言い出しました。「さあ、われわれは町を建て、頂きが天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから」(創世記11:4)そして、巨大な塔(バベルの塔)を中心とした町の建設に取り掛かったのです。創造主なる神はその様子を見て「さあ降りて行って、そこで彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう」(6節)とされました。突然、神によって言語が乱れ、互いに言葉が通じなくなった人間達には大きな混乱が起き、塔と町の建設は出来なくなったのです。今日、世界中に多様な言葉が存在するのは、バベル(混乱)の塔を建てようとした人間の傲慢を、神が裁いた結果なのです。しかし今も世界は競って高さを誇る建物を建設し続けています。「彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。(ピリピ3:19)ですから「 あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい」(コロサイ3:2)と、私たちは、以前はそのような中に生きていましたが、もう今は怒り、憤り、悪意、そしり等の口から出る恥ずべき言葉を、捨ててしまうよう勧められているのです。言葉で失敗してしまう弱い私たちですから、みことばを心に蓄えて良い言葉を発して聞く人に恵みを与える者になりましょう。