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  礼拝メッセージ 2024年6月23日/小坂叡華主任牧師

「律法から福音へ」(大事なのは新しい創造です 

「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です」ガラテヤ6章15節
割礼は神がアブラハムと結ばれた契約の印です。(創世記17:9~14)割礼はイスラエル人の証明であると同時に、彼ら自身が自分のアイデンティティを失わないようにとの意味があります。しかし、時代が経って本来の意味を忘れ形だけの割礼に預言者たちは「心に割礼を受けよ」諭したのです。
ガラテヤの教会では割礼を受けていない人たちを排除したり強制するような風潮がありました。そこでパウロは「キリストの十字架以外に誇るものがあってはならない」と見せかけの権威主義者らを戒めたのです。「律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです」(5:4)
割礼は律法を象徴し、律法には刑罰が伴います。律法学者やパリサイ人は、律法を守らなければ義とされないと人々に間違った教えを強いていました。更にパウロは「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」(5:1)と忠告をしました。

<律法とモーセの十戒>
パウロが奴隷のくびきと言った律法は民を縛るためのものではありません。父なる神はエジプトという異教の国に長く生活しその肉的な生き方に馴染んでしまったイスラエルの民にとって必要な神の律法を与えられたのです。エジプトから脱出したイスラエルの民はモーセによって十の律法をうけました。この律法はモーセの十戒と呼ばれ、それには更に細かい命令が伴い重荷となっていました。

<解放者イエス>

地上にこられて働かれたイエス様の数々の出来事はいつも型破りでその行動はいつも新しい御業でした。古い伝統の中で働かれることは皆無でした。安息日に人を癒すのは律法に適っていないと批判したパリサイ人や律法学者の態度を戒められ「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」(マタイ5:17)と宣言されました。

<黄金律>
そして1戒から4戒の神に対して守る戒めを『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』これがたいせつな第一の戒めです」(マタイ22:37~38)とされ、5戒から10戒に記された人に対して守る戒めを「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めもそれと同じようにたいせつです」(マタイ22:38)と教えられました。この二つは十戒をすべて含む教えてあり黄金律と呼ばれています。このようにイエス様は人々に分かりやすく誰でも理解できるように律法を福音に替えて説明されました。

<新しい創造の使命に生きる>
使命や幻は人が与えるものではありません。大事なのは神がくださる新しい創造への幻と使命、それを実現させる聖霊による力なのです。賜物を通して力強いキリストの証人となるためです。聖書ははっきりと全てのクリスチャンそれぞれに賜物が与えられたのですから、互いに仕えあいなさいと命じられています。イエス様ご自身が新しい創造に生きる改革者であったのを覚えて、決して形だけの律法的な信仰者とならずに神の栄光を表わす人生を歩み、賜物を活かして遣わされた場所に起こる主の創造の御業に期待しましょう。


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