礼拝メッセージ 2024年4月14日/小坂叡華主任牧師
「信仰がなくならないために」
私たちの信仰は時に揺さぶられ様々な状況のなかで失われてしまう事があります。イエス様は「人の子が来たとき(再臨のとき)はたして地上に信仰が見られるでしょうか」(ルカ18:8)と、最後まで信仰を全うするためには何が必要かペテロを通して学びます。
<十字架に掛かられる前> ルカ22章
イエス様は過ぎ越しの祭りの席で弟子たちに言われました。「わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓にあります」(20節)彼らは驚いて裏切り者は誰かと話しあっていると、更にペテロに向かって「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(31、32節)と語られるとペテロは「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」(33節)と豪語しました。一番弟子を自認していたペテロはイエス様への愛と同時に「私は裏切り者とは違う」という高慢な思いが感じられる言葉です。ペテロは自分の本当の姿が分かっていませでした。「イエスは言われた「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います」(34節)イエス様はサタンによって、ペテロの信仰が揺さぶられることをご承知でした。そしてそれをサタンに許されたのです。弟子たちは、麦のようにふるいにかけられることになりました。しかしイエス様はペテロだけのために「信仰がなくならないように」と祈られたのです。
<主を否む~主の眼差し>
イエス様が捕らえられると、弟子たちは皆恐れて逃げ出してしまいました。ペテロもあれほど豪語したのにも関わらず、自分の身に危険が生じると人を恐れて3度もイエス様を裏切り否んでしまったのです。ペテロの罪の性質(原罪)は普段は隠れていましたが自分の身に危険が及ぶ時現れ大切な主を裏切ったのです。しかしイエス様にとって十字架の前にペテロがこの罪の性質を自覚することが必要でした。鶏が鳴いた時「「主が振り向いてペテロを見つめられた。」のです。ペテロは3度否むと言われた主の言葉を思い出し内臓が引き裂かれるように「激しく泣いた」のです。みつめられた主の眼差しはペテロの裏切りを責めるものではなく憐れみと赦しの眼差しでした。深い悲しみを伴った悔い改めによって砕かれた器となっていくことは、信仰がなくならないために重要なことなのです。不信仰を悔い改めて癒されることがペテロの後の生涯に必要でした。
<癒されたペテロ>
復活の主はペテロを完全に砕かれた神のしもべとするために更にガリラヤ湖でペテロを取り扱われました。ペテロに3度「あなたはわたしを愛しますか」と問われ彼の3度の裏切りを赦し心を癒されました。「わたしの羊を飼いなさい」イエス様はペテロの悔い改めの完成をしてくださいました。ペテロがイエス様を「あなたは生ける神の子キリストです」(マタイ16:16)と告白した時「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます」(マタイ16:18~19)このように教会はペテロの悔い改めを土台にたてられたのです。私たちの信仰の土台はペテロの悔い改めと赦しから始まっていることを覚え、悔い改めの恵みを感謝して砕かれた器となって信仰の生涯を全うしていきましょう。
「信仰がなくならないために」
私たちの信仰は時に揺さぶられ様々な状況のなかで失われてしまう事があります。イエス様は「人の子が来たとき(再臨のとき)はたして地上に信仰が見られるでしょうか」(ルカ18:8)と、最後まで信仰を全うするためには何が必要かペテロを通して学びます。
<十字架に掛かられる前> ルカ22章
イエス様は過ぎ越しの祭りの席で弟子たちに言われました。「わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓にあります」(20節)彼らは驚いて裏切り者は誰かと話しあっていると、更にペテロに向かって「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(31、32節)と語られるとペテロは「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」(33節)と豪語しました。一番弟子を自認していたペテロはイエス様への愛と同時に「私は裏切り者とは違う」という高慢な思いが感じられる言葉です。ペテロは自分の本当の姿が分かっていませでした。「イエスは言われた「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います」(34節)イエス様はサタンによって、ペテロの信仰が揺さぶられることをご承知でした。そしてそれをサタンに許されたのです。弟子たちは、麦のようにふるいにかけられることになりました。しかしイエス様はペテロだけのために「信仰がなくならないように」と祈られたのです。
<主を否む~主の眼差し>
イエス様が捕らえられると、弟子たちは皆恐れて逃げ出してしまいました。ペテロもあれほど豪語したのにも関わらず、自分の身に危険が生じると人を恐れて3度もイエス様を裏切り否んでしまったのです。ペテロの罪の性質(原罪)は普段は隠れていましたが自分の身に危険が及ぶ時現れ大切な主を裏切ったのです。しかしイエス様にとって十字架の前にペテロがこの罪の性質を自覚することが必要でした。鶏が鳴いた時「「主が振り向いてペテロを見つめられた。」のです。ペテロは3度否むと言われた主の言葉を思い出し内臓が引き裂かれるように「激しく泣いた」のです。みつめられた主の眼差しはペテロの裏切りを責めるものではなく憐れみと赦しの眼差しでした。深い悲しみを伴った悔い改めによって砕かれた器となっていくことは、信仰がなくならないために重要なことなのです。不信仰を悔い改めて癒されることがペテロの後の生涯に必要でした。
<癒されたペテロ>
復活の主はペテロを完全に砕かれた神のしもべとするために更にガリラヤ湖でペテロを取り扱われました。ペテロに3度「あなたはわたしを愛しますか」と問われ彼の3度の裏切りを赦し心を癒されました。「わたしの羊を飼いなさい」イエス様はペテロの悔い改めの完成をしてくださいました。ペテロがイエス様を「あなたは生ける神の子キリストです」(マタイ16:16)と告白した時「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます」(マタイ16:18~19)このように教会はペテロの悔い改めを土台にたてられたのです。私たちの信仰の土台はペテロの悔い改めと赦しから始まっていることを覚え、悔い改めの恵みを感謝して砕かれた器となって信仰の生涯を全うしていきましょう。