礼拝メッセージ 2024年4月7日/秋山浩副牧師
「イエスを見上げて」
「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか」(1節)
みことばは私たちの人生をマラソンの長距離ランナーに例えています。新共同訳では「自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか」とあるように、私たちはそれぞれに定められた信仰の歩みをゴール目指して進んで行くのです。そのために何が必要なのか1節に記されています。
1)いっさいの重荷を捨て…<重荷>は詳約聖書では「全ての邪魔になるもの」と訳しています。私たちが最も重荷としてしまうものが「思い煩い・心配事」ではないでしょうか。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」(Ⅰペテロ5:7)聖書が教える思い煩いは「心を分ける」で、ゆだねるとは神の計画に明け渡すという意味です。神の御思いと自分が願っている思いで心が分かれてしまうと、私たちは揺らいでしまいます。ですが主が私たちを心配してくださるから、思い煩いや心配事などの邪魔になるものを捨て去ることができるのです。(マタイ6:29~34)
2)まつわりつく罪を捨て…罪という言葉の原語は「ハマルティア」で「的はずれ」という意味です。競技者がコースから外れてしまえば失格になってしまいます。私たちの信仰の歩みは神に向かっているでしょうか。自分勝手に的を設定して、自分の行きたい方向に向かっているようなことはありませんか。私たちの多くは罪を犯そうと思って犯すわけではなく、知らず知らずのうちに無意識のうちに、気が付いたら道を踏み外していたということが多いのです。聖霊によって私たちの内側を探っていただき、もし罪があるなら悔い改めて、正しい道へと導いていただかなければなりません。
3)忍耐をもって走る続ける…マラソンランナーは30キロ地点あたりが体力的に非常に辛くなり、思いの中に駄目ではないかと不安が湧き上がってくるそうです。しかし諦めずに歯を食いしばり、その苦しい時間を乗り越えゴールを目指します。信仰のレースを完走するためには忍耐が必要だと教えていますが、聖書は私たちが信仰のレースをしっかりと完走できるための処方箋を教えてくださっています。
<信仰のレースを完走するために>
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」(2節)私たちの信仰はイエスから出発し、イエスによって完成させられるのです。ですから私たちの信仰はイエスから離れては成り立たないのです。人生の苦みや悲しみの時にこそ、私たちの罪の身代わりとなって全てのはずかしめをものともせずに十字架に掛かられたイエス・キリストを見上げていくのです。「あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです」(3節)私たちを取り巻く環境は凄まじく変化し、何が起こってもおかしくない時代です。先が見えない恐れと不安に満ちている現実だけに目を向けていたら、私たちはこの社会の荒波に飲み込まれてしまいます。イエスを見上げながら、それぞれの信仰のゴールを目指していきましょう。
「イエスを見上げて」
「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか」(1節)
みことばは私たちの人生をマラソンの長距離ランナーに例えています。新共同訳では「自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか」とあるように、私たちはそれぞれに定められた信仰の歩みをゴール目指して進んで行くのです。そのために何が必要なのか1節に記されています。
1)いっさいの重荷を捨て…<重荷>は詳約聖書では「全ての邪魔になるもの」と訳しています。私たちが最も重荷としてしまうものが「思い煩い・心配事」ではないでしょうか。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」(Ⅰペテロ5:7)聖書が教える思い煩いは「心を分ける」で、ゆだねるとは神の計画に明け渡すという意味です。神の御思いと自分が願っている思いで心が分かれてしまうと、私たちは揺らいでしまいます。ですが主が私たちを心配してくださるから、思い煩いや心配事などの邪魔になるものを捨て去ることができるのです。(マタイ6:29~34)
2)まつわりつく罪を捨て…罪という言葉の原語は「ハマルティア」で「的はずれ」という意味です。競技者がコースから外れてしまえば失格になってしまいます。私たちの信仰の歩みは神に向かっているでしょうか。自分勝手に的を設定して、自分の行きたい方向に向かっているようなことはありませんか。私たちの多くは罪を犯そうと思って犯すわけではなく、知らず知らずのうちに無意識のうちに、気が付いたら道を踏み外していたということが多いのです。聖霊によって私たちの内側を探っていただき、もし罪があるなら悔い改めて、正しい道へと導いていただかなければなりません。
3)忍耐をもって走る続ける…マラソンランナーは30キロ地点あたりが体力的に非常に辛くなり、思いの中に駄目ではないかと不安が湧き上がってくるそうです。しかし諦めずに歯を食いしばり、その苦しい時間を乗り越えゴールを目指します。信仰のレースを完走するためには忍耐が必要だと教えていますが、聖書は私たちが信仰のレースをしっかりと完走できるための処方箋を教えてくださっています。
<信仰のレースを完走するために>
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」(2節)私たちの信仰はイエスから出発し、イエスによって完成させられるのです。ですから私たちの信仰はイエスから離れては成り立たないのです。人生の苦みや悲しみの時にこそ、私たちの罪の身代わりとなって全てのはずかしめをものともせずに十字架に掛かられたイエス・キリストを見上げていくのです。「あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです」(3節)私たちを取り巻く環境は凄まじく変化し、何が起こってもおかしくない時代です。先が見えない恐れと不安に満ちている現実だけに目を向けていたら、私たちはこの社会の荒波に飲み込まれてしまいます。イエスを見上げながら、それぞれの信仰のゴールを目指していきましょう。