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旅日記のコーナーです。

宮脇俊三さんの作品から受けた多大なる影響
〜作家・宮脇俊三という人について〜

2003/3/30公開(第19回)
<最終更新2004/4/4>

 こんにちは。いつの間にかもうすぐ4月。1ヶ月ぶりの更新となりました。

 先月(2月)26日に、紀行作家の宮脇俊三さんが亡くなられました。

「最長片道切符の旅」(新潮文庫版)
 ▲宮脇俊三さんの2作目
 「最長片道切符の旅」
 (1979年=写真は新潮文庫版)
 もう皆さんもご存知の通り、鉄道を使った鉄道紀行文の第一人者として、『時刻表2万キロ』(1978年<昭和53>年7月河出書房新社、文庫版は1984<昭和59>年11月角川文庫)でデビューし、以後、『最長片道切符の旅』(1979<昭和54>年10月新潮社)、『時刻表昭和史』(1980<昭和55>年7月角川書店)などを皮切りに、数え切れないほどのの紀行文、エッセイなどの作品を残しています。

 
鉄道に乗ること自体を楽しみながら、全線乗車を目的とした「乗りつぶし」や、実用的ではなく趣味としての「時刻表愛読」、「廃線跡巡り」など、宮脇さんの作品によって世に知らしめ、一般化した゛鉄道趣味゛の世界も数多くあります。

 鉄道や鉄道旅行が好きな人なら、一度はその作品に接したことがあるかと思います。なぜ私たちはこれほどまでに魅力を感じ、嬉々として宮脇作品を愛読したのでしょうか。

 作品の中では、乗った、降りた、食べた、寝た…という一種、阿呆らしいともいえる単調な「鉄道乗りつぶし旅行」に対し、緻密な数字と歴史を始め各方面に豊富な知識を駆使し、諧謔(かいぎゃく)の精神を一杯に発揮した文章で、笑いと感動の「宮脇俊三・鉄道紀行」が展開されていきます。
 読んでいると「そうだよな、そうなんだ」と心で頷きながら、思わず顔が綻(ほころ)んでしまいます。そういった共感を呼び起こす内容がふんだんに盛り込まれているからこそ、私たちは取りつかれたかのように次々と読みたくなってしまうのではないか、と私は思っています。


「時刻表2万キロ」角川文庫版
 私が宮脇俊三さんの作品を初めて読んだのは、高校生の頃でした。
 小中学生時代に種村直樹さん(レイルウェイライター)の本で「汽車旅のイロハ」を学び、それに何か物足りなさを感じていた時に『時刻表2万キロ』
(写真右=角川文庫版)に出合いました。

 鉄道の「時刻表」にも愛読者がいる、私もその一人である――。
 「独白」的な書き出しで始まるこの作品は、ひたすらに国鉄の全線を「乗りつぶす」ことを達成するまでを描いた作品です。それが宮脇さんの手によって立派な「文芸作品」として世に出され、高い評価を受けて、鉄道ファンだけでなく一般の人にも数多くその趣味が知られることとなったのです。
 今まで「日陰者」いや、「変わり者」とさえ思われていた時刻表の愛読者、ただ鉄道に乗ることが目的の旅をする者にとって、大きな勇気と共感を与えられました。

 私も幼稚園児の頃から時刻表を読んでいましたが、たいていは「そんな数字の羅列の何が面白いの?」といった反応で、その趣味を理解してくれるのはほんの一部の鉄道好きの友人だけしかいませんでした。

 それがこの作品を読むと、社会的地位も高く、50を過ぎた立派な大人が、駅員や車掌、その他旅で出会った人に不思議がられ、時には不審がられながらも「乗りつぶし」を敢行しては、子どもが先に寝てしまった家に帰って、白地図に乗った路線や距離を記入して悦に浸っている…、そしてその様子を綴って世に堂々と発表しているのです。

 驚きとともに、呆れもしましたが、決して押し付けをせず、自らの「阿呆な行為」を時に客観視して(させて)ユーモアたっぷりの文章で笑わせる、この宮脇流の文章術にすっかり魅了されてしまった私は、高校生時代にそのほとんどの作品をむさぼるように読んでいきました。


 しかしその後、宮脇俊三の名声が広がるとともに、何やら読む気が失せていきました。これは私の偏屈な性格のせいもあるのですが、特に近年は「宮脇俊三という名を冠しておけば売れるだろう」とも感じられる本が数多く出されています。こうなっては、こちらも「出版社や編集者の策略には絶対に乗るものか!」と意地になって、意識的に宮脇さんの本から遠ざかっていました。

 今年のお正月、大阪の実家に帰った折、かっての自分の部屋の本棚でたまたま宮脇さんの文庫本を見つけ、帰りの新幹線の中でぼんやりと眺めていました。

 宮脇作品を10数年ぶりに読んでみて驚きました。
 私が「鉄道紀行文」などと称して書いている文章内容や書き方などその多くが、宮脇作品のエピゴーネンなのです。
 私は模倣しようと思ったことはまったくなかったですし、参照をしたこともありません。しかし、私の書いていることの多くは、知らず知らずのうちに宮脇作品から多大な影響を受けていたのです。

 大変な驚きとショックとともに、あらためて畏敬の念を持ち、今年の初頭から宮脇作品を読み直そうと思っていた矢先、訃報に接してしまいました。


 2月26日という歴史上、重要な日に亡くなられ、それを葬儀終了の3月3日まで公表しなかったのは宮脇さんらしい最後だったような気がします。

 昭和の鉄道黄金期に生きた宮脇俊三さん、鉄道や鉄道の旅の素晴らしさを私たちにたくさん伝え残してくれました。

 原武史氏(明治学院大助教授)が指摘するように、宮脇さんの死によって、内田百閧ゥら続く鉄道紀行文学の系譜が存続の危機に瀕するというのも事実かもしれませんし、宮脇さんが生きた時代の活き活きとした鉄道風景はもう、日本中どこを探しても見つからないでしょう。

 しかし私たちは、宮脇さんが生きた時代の紀行文にいつでも接することができますし、作者亡き後でも、これらの素晴らしい作品を読みつなげることによって、宮脇俊三・鉄道紀行の世界は、これらからも永く生き続けるはずです。
 そんな大きな財産に心から感謝しながら、この時代に生きる一人として、21世紀の鉄道の旅を宮脇さんの分まで楽しんでいきたいと思っています。


※朝日新聞(東京発行版)2003年3月5日夕刊・原武史氏による「作家・宮脇俊三さんを悼む−鉄道に生き、昭和に生き」ほか、宮脇俊三さんの各文庫版作品などを参考にしました。



■作家・宮脇俊三という人について

 
 宮脇俊三さんの経歴については、各作品の筆者紹介の欄には、おおむね、「1926(大正15)年、埼玉県川越市に生まれる。1951(昭和26)年東京大学文学部西洋史学科卒業後、中央公論社に入社。『中央公論』編集長を経てフリーに」といったような略歴が紹介されています。

 幼少時代から作家になるまでの間の経歴については、公式にはあまり明かにはされていませんが、作品中にはエピソードとともに、様々な個人的な事項が出ています。それらを追っていくと、宮脇俊三という人がどういう道を歩み、作家となってこれらの作品を生み出すに至ったのか、ということの一端が分かるかもしれません。

 以下、各作品などから備忘録的に追ってみたものです。あくまでも作品中からのものですので、事実と異なる可能性もありますが、公式な経歴については『宮脇俊三鉄道紀行全集6』の「自筆年譜」などから追ったものを、本ページ下記の「補足」にて記しておきます。


 宮脇俊三氏は、上記略歴の通り、大正15年に埼玉県川越市で生まれていますが、父が軍人だったため、生後すぐに東京へ転居。父は日露戦争で活躍した陸軍大佐・宮脇長吉(後に国会議員になる)、母は医者の娘という夫婦の7人目の末子です(※1)。上の2人の兄が若くして亡くなり、唯一の息子となった俊三氏を父・長吉は「孫のように可愛がった」そうです。

「時刻表昭和史−増補版」角川文庫
 宮脇氏が最も力を注いだという大作『時刻表昭和史』には、氏の幼年時代から終戦までの鉄道風景や家族の出来事、一緒に行った旅行などが多数書かれていますが、それによると、当時国会議員だった父が選挙区の香川県と東京の間をよく往復していたため、常に家には時刻表が置いてあったそうです(※2)。

 その時刻表を眺め、鉄道への夢が膨らむ一方の宮脇少年、昭和10年代初頭には家族に連れられ、各地への旅行に出かけていましたが、世は戦時下「不要不急の旅行は禁止」とされた時代に突入。しかし宮脇青年は、父がかって国家の要職にあったこともあり、鉱山調査のために、昭和17年の北海道※3、同19年の北九州など、幾度か長距離旅行にも出かけています。

 昭和20年の東京大空襲では、東京世田谷区北沢の宮脇家は被害を免れたものの、食料不足により、7月に新潟県の村上市へ父を除く一家で疎開。そして8月、山形県大石田の炭坑視察に行く父に随行し、15日、米坂線今泉駅前で終戦を迎えます。この時の情景を描いた名高い文章が、『時刻表昭和史』の最終章に残っています。

 宮脇氏は東京帝国大学(現東京大学)の理学部地質学科に進学(※4)したものの、戦争で大学は中断。戦後に再開したものの、今度は宮脇一家が熱海へ転居することになり、週に1度程度、熱海から満員の列車に揺られて東京へ通ったそうです。翌年、一家は神奈川県の片瀬に新居を構えたため、大学への通学はしやすくなったものの、当時、文学への傾倒を強めていった宮脇氏は、翌年の昭和23年に西洋史学科に再入学しました(※5)。

 昭年26年に大学を卒業、マスコミを中心に入社試験を受けたものの、不合格が続き、「どうにもならなくなったところで、父の同郷の南原繁東大総長の強力な推薦により、辛くも中央公論社にすべり込んだ」(『旅は自由席』の「拾いもの人生」より)※6。しかし、入社して1年後には結核で2年間の入院生活。それに落胆した父・宮脇長吉は、東海道本線車内で脳溢血で亡くなりました※7)。

 全快し、中央公論社(現中央公論新社)に復帰した宮脇氏は以後、北杜夫のベストセラー『どくとるマンボウ航海記』の出版に関わるなど、「美術書や音楽書まで、行くところ可ならざるはなき編集者」(『時刻表2万キロ』での山崎正和氏書評より)として、出版部長や『中央公論』編集長、常務取締役を勤めるなど、順調に出世街道を走りますが、実はその間には3度も辞表を書いていたそうです※8

 昭和53年、処女作『時刻表2万キロ』を出版するにあたり、「編集者として人さまの出版をさんざん断ってきた手前、自分の作品を自分の社から出すわけにはいかない。他社から出す以上自社にとどまっているわけにはいかない。これが退職の理由であり、宮脇さんのけじめであった」(『最長片道切符の旅』での江國滋氏書評より)として、3度目の辞表でようやく受理され、紀行作家としての道を歩むことになったのです※9


 以上、作品の中から宮脇俊三さんの履歴だけを拾ってみました。

 これらを読んで感じたのが、宮脇さんの生まれた家庭は、父が代議士を務めるなど裕福だったものの、氏自身の体は強くなく、病弱で末子。この境遇は、どこか太宰治に似てはいないか、などとふと思いました。

 宮脇作品の中に一貫してある諧謔(かいぎゃく)の精神、それをもっとも発揮していたのが太宰ですし、作品内容や方向性は異なれど、もしかしたら親近感を持ち、何らかの影響を受けていたのかもしれません。ちょうど宮脇さんの青春時代は、太宰が文壇で活躍した時期でもあります。
 また、宮脇さんの小学生時代の同級生であり友人の奥野健男氏(故人)は、太宰治論で有名な文芸評論家、これもなにかの偶然なのでしょうか。論理的な裏付けを取っていない、私なりのちょっとした疑問の域を出ませんが…。

<了>

※追記(2004/4/4)
 宮脇俊三氏と太宰治については、『途中下車の味』(1988年新潮社、1992年新潮文庫)<初出『小説新潮』1985年4月号〜1987年8月号連載、原題「途中下車のたのしみ」>の「のどかな津軽での忙しい一日」作品中、太宰治の生家を訪ねた際、同行した編集者との会話を文章化した下記のような記述がありました。

 「それはそうと、ぼくはね、学生時代に太宰に会いに行ったことがあるのですよ。三鷹の家へね」
 「そんなことがあったのですか」
 「奥さんに、主人は家におりませんって言われて、あっさり門前払いをくったけれど」
−前出『途中下車の味』(1992新潮文庫,p148)より

 この点、読者のぴょこたん様よりご指摘いただきました。ありがとうございます。

■参考とした宮脇俊三氏の著作
「時刻表2万キロ」(1984年11月、角川文庫)、「最長片道切符の旅」(1983年4月新潮文庫)、「時刻表昭和史−増補版」(2001年6月、角川文庫)、「旅は自由席」(1995年3月、新潮文庫)

▼補足
※1
大正15(1926)年12月9日生まれ。兄2人、姉4人。父は46歳、陸軍大佐、所沢気球隊長。母は38歳、両親とも香川県出身。
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※2
昭和8(1933)年4月、青山師範学校(現東京学芸大)の付属小学校に入学。同級生に奥野健男氏(1926〜1997、文芸評論家)、田村明氏(1926〜、地域政策プランナー、法政大名誉教授)。「両君は私の小学生時代の同級生で、学校の帰りに東海道本線の駅名を『新橋、品川……』と言い合った仲である」(『昭和八年渋谷駅』1995年12月PHP研究所刊)。昭和14(1939)年4月、旧制成蹊高校入学。
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※3
昭和17(1942)年4月の総選挙(翼賛選挙)で父、宮脇長吉が落選。国鉄無料パスを失うものの、富良野付近にある石綿鉱山の調査のために北海道へ行く父に同行。
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※4
昭和20(1945)年4月東京帝国大学理学部地質学科に入学。自筆年譜によると「高校の年限が二年に短縮されたので、一年早く大学生になった。地質学科を志望したのは私が地理少年であったことと、父が鉱山経営で政治資金を捻出していた影響だろうと思う」とある。
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※5
2年間留年し、昭和22(1947)年4月から地質学科に通いはじめるが、「身が入らず、文学部の講義を傍聴したりする。モーツァルトに心酔」(自筆年譜)。同年7月、栃木県の鹿沼に地質調査実習。「私は虫に弱く、とくにブトに何十ヵ所も刺されると腕が腫れ上がり、熱を出すという有様で、落伍し、地質学科を断念する」(自筆年譜)。昭和23(1948)年4月、東大文学部の西洋史学科に入学。
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※6
昭和25(1950)年の暮れから翌年にかけて入社試験を受け、NHKと文藝春秋社は落ち、日本交通公社と中央公論社に合格。「交通公社で時刻表や旅行ガイドブックの編集をしたいと思ったが、営業部に配属されるらしいので辞退」(自筆年譜)。昭和26(1951)年2月卒業論文「モーツァルトから見た十八世紀の音楽家の社会的地位」提出。3月中央公論社に入社。10月、「婦人公論」に配属。荒木愛子氏(彫刻家:宮脇愛子氏)と結婚。
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※7
昭和27(1952)年10月、結核により休職。妻の実家の熱海で保養。翌28年2月、父長吉が脳溢血で急逝。昭和29(1954)年秋に休職期間が切れて中央公論社を退社、一時建築家を志すも断念。昭和31(1956)年9月中央公論社に復社。
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※8
復社後、出版部に配属され阿川弘之の鉄道随筆集『お早くご乗車願います』や「幸田文全集」、北杜夫『どくとるマンボウ航海記』などの出版に携わり、昭和35(1960)年4月、出版部次長に就任。この年から、画家を志すためイタリアへ留学した妻とは別居生活に。その後、「中公新書」『世界の歴史』『日本の歴史』などの発刊の仕事に取り組み、いずれも好評を得る。特に昭和40(1962)年2月に刊行した『日本の歴史』は空前のベストセラーに。「けれども私が活躍したのは、このあたりまでで、功成って出版編集に飽きてしまった」(自筆年譜)。同年8月には別居中の妻と協議離婚。同11月「突飛な人事だったが、私に気分転換させてやろうとの配慮だったらしい」(自筆年譜)と、「中央公論」編集長就任。翌年9月に同社社員の井田まち氏と再婚。しかし、部数減もあり昭和42(1967)年2月に編集長を解任され、「婦人公論」編集長に。翌年、連載中の小説の盗作疑惑の責任を取り編集長辞任、編集局次長に。以後、労働闘争の激化とともに、組合との交渉役として苦労。昭和44(1969)年6月、自ら開発室を新設し、室長就任。会社の業績不信、組合過激派社員との対立、解雇など、「これから数年の状況は説明しにくい。社業は振るわず、開発室も冴えない。社長や専務と私との関係にも水がさしてきた。が、造反分子の力も衰えてきた。暇をみつけては鉄道旅行をする。社業への情熱も薄らいできた」(自筆年譜)。
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※9
昭和52(1977)年4月国鉄完乗。翌年1月、常務取締役就任、「私を慰留してくれたのかと思うと有難かったが、すでに中央公論社を離れたいとの気持ちは固まっていた。辞退すべきであった」(自筆年譜)。同年6月に退社。
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※この補足は『宮脇俊三紀行文全集6』(1999年5月、角川書店)の「自筆年譜」などに拠った。

(2003/5/18、2004/4/4一部加筆修正)


▼関連記事
「あれから2年、宮脇俊三さんの話」(「作者雑記」2005/2/27)


▼前回2/23 「週末にぶらり海を旅する。都会の中の無人島『猿島』」 を見る▼


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