太宰治を訪ねた津軽紀行
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 翌朝、早朝に宿を出て金木駅に行くと、すでに駅舎は高校生で一杯だった。中には昨日、列車の中で見た顔もある。

 高校生らの乗る五所川原行は4両という長い編成だが、こちらが乗る津軽中里行はたった1両きりで、運転手だけのワンマン列車だった。

 列車は約15分ほどかかり、ほとんどガラガラの状態で終点・津軽中里に到着した。かっての木造駅舎は、スーパーと同居する無味乾燥なコンクリートの駅舎になっていた。

 近くのバス停から津軽半島最北端の街・小泊行のバスに乗り込む。小さな集落に立ち寄っては中学生や高校生を乗せ、国道をひた走る。途中で学生を全員下ろした後、無人状態が続いたが、車窓に日本海が見えた頃、山越えの道を下ると、下前という小さな漁港が現れ、老人の集団が大量に乗り込んできた。

 バスはさらに山を越え、小泊の村に入ると村の診療所の前で止まり、老人たちは全員下車してしまった。診療券を見せるとバス代はいらないようで、診療所通いは老人の日課らしい。

 津軽中里は約1時間で小泊村の中心部に着いた。半島最北の街らしく、台風のような北からの強い風で出迎えられた。
小泊の碑
 ……このたび私が津軽へ来て、ぜひとも、逢ってみたいひとがいた。私はその人を、自分の母だと思っていたのだ。三十年近くも逢わないでいるのだが、私は、その人の顔を忘れない。私の一生は、その人に依って確定されたといっていいかもしれない。小泊の越野たけ。ただそれだけをたよりに、私はたずねて行くのである……。

 太宰は「津軽」の中で、自らが小泊に来た理由をこのように書いている。
 太宰には母がいたが病身だったため、3歳から8歳まで子守りのたけに育てられた。しかし、太宰が8歳の時、たけは小泊へ嫁いでゆく。太宰は何日も泣き続け、幼心にたけと別れた苦しさはずっと忘れなかったという。
 そんな太宰はこの旅の最後にここ小泊へやってきた。

 「越野たけ、という人を知りませんか」。
 「『こしの、たけ、ですか。この村には越野という苗字がたくさんあるので』村の人は答える」
 「私は教えられた通りに歩いていくと、たけの家を見つけた。間口三間くらいの小じんまりした金物屋である」。

 現在でも小泊の村には越野という苗字の家が数多く見受けられ、越野金物店も健在していた。

 「家にたけはいなかった。運動会に行っているのだという」。

 太宰はそこでたけと30年ぶりに再会した。

 「たけは子供たちの走るのを熱心に見ている。けれども、私にはもう何の不安もない。まるで安心してしまっている。足を投げ出して、ぼんやりと運動会を見て、胸中に一つも思う事がなかった。もう、何がどうなってもいいんだ、というような全く無憂無風の状態である。平和とは、こんな気持ちのことをいうのであろうか」。

 なんたる偶然であろうか、今日、私が訪ねた時、村の幼稚園から運動会が始まったのだ。太宰とたけが出会ったシーンとほとんど同じ設定が、今、私の目の前で行われているのである。
 私は小高い丘の上で太宰とたけが出会ったシーンを見た。ブロンズ像となって再現されている。
 太宰の像の眼の先には、小さな子供たちが走っている運動会が見える。太宰は、平和な無憂無風な顔でそれを見ている。50年近い時を越えて、小説と同じ場面が再現されようとしているのだ。

 偶然が重なっただけなのだが、小説の一場面がここに再現されているかのような錯覚さえ覚え、私はこの時、この北の小さな村で言い様も得ない感動を覚えた。強風の中で荒くれる日本海さえ、涙で遠く霞んで見えた。

写真:小泊にある太宰とたけの像
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