太宰治を訪ねた津軽紀行
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葛西善三の碑
 翌朝、早々に宿を出て碇ヶ関の街が一望できる小山に登った。朝露に濡れた山の上には太宰が尊敬した大正時代の作家で、ここ碇ヶ関で育った葛西善三の記念碑が建っていた。

 眼下には一直線に伸びるコンクリートの高架橋を猛スピードで流れ行く自動車の群れと、朝に光をアルミの車体に反射させ、軽快に走る無粋な都会型電車の姿が見えた。

 碇ヶ関の駅から弘前に向かった。田舎の朝の小混雑の中、約30分で弘前に到着。バスで弘前へ向かった。

 弘前城は津軽二代藩主、信牧が1611年に築城した津軽十万石の城で、高岡城とも呼ばれている。

 静寂な城内の公園の中を歩いていると、人の家の庭を歩いているような錯覚に陥る。それほど高くない天守閣に登ると、富士山に形がよく似た岩木山が見えた。津軽冨士と呼ばれるだけあって高く堂々としたものである。弘前については、太宰が名文を残している。

 ……あれは春の夕暮れだったと記憶しているが、弘前高等学校の文化生だった私は、ひとりで弘前城を訪れ、お城の広場の一隅に立って岩木山を眺望したとき、ふと脚下に、夢の町がひっそりと展開しているのに気づき、ぞっとしたことがある。見よ、お城のすぐ下に私の今まで見たこともないような古雅な町が、何百年も昔のままの姿で小さい軒を並べ、息をひそめてひっそりとうづくまっているだ。ああ、こんなところにも町があった。年少の私は夢を見るような気持ちで溜息を漏らしたのである。万葉集などによく出てくる「隠沼」というような感じである。私は、なぜだか、その時、弘前を、津軽を、理解したような気がした。この町の在る限り、弘前は決して凡庸のまちではないと思った……。
弘前城
 太宰は、弘前城からの町の眺めを「夢の町、古雅な町」と表現している。夢見るような気持ちで溜息を漏らした若き日の太宰が見た弘前の街を、私もこの目で見て本当の津軽が多少なりとも見えたような気がした。冬の日ならば、雪化粧した岩木山がさらに美しく見えるだろう。太宰の言葉を借りれば、ここは津軽人の魂の拠り所なのだ。

 弘前は1603年、慶長8年津軽初代の藩主、為信が計画し、弘前城を築城した二代目藩主、信牧によって築かれた城下町である。城の表門を守護するため、藩の重臣や子弟を配備した侍町の面影が今も残っている。

 その中の一部は伝統的建造物として保存され、一般に公開されていた。付近は立派な生垣が並び、重厚な門扉が残っている。

 公開されている武家屋敷に入ってみると、木と畳の独特の香りが漂い、古い木の戸棚の引き出しの裏には、嘉永五壬子年……などと墨で書かれてあり、ふとタイムスリップしたような気になる。かたくなに土地の文化を守りつづける、これこそが太宰のいう古雅な夢の町なのだろう。


写真(上から):碇ヶ関の山の上にある葛西善三の碑、弘前城
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