太宰治を訪ねた津軽紀行
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 列車は早朝4時45分、東京に到着した。
 早速、中央本線の通勤列車で高尾へ行き、高尾から「大月行」の列車で大月へと向かった。

 大月というと山梨県東部の小さな街で、どちらかというとローカルなイメージが強かったのだが、現在は東京方面への通勤圏内と化しているようで、大月行の列車は、あの都会で走っているオレンジ色で愛想のない通勤型電車をを10両も連結していた。

 大月から富士山の街、富士吉田市の「河口湖」へと通じているローカル私鉄「冨士急行」へと乗り換える。4両編成の古い電車に乗り込むと、窓に背を向けて座るロングシートで、少しがっかりする。やはりここも東京の影響を受けているのだろうか。

 終点の河口湖までは26キロ。沿線の各駅で通学の中高生が乗り降りする中、富士吉田駅でスウィッチバックをして列車の進行方向を変え、大月から50分ほどで終点、河口湖駅に到着した。

 私はこれから富士山へと向かおうとしている。太宰治の余りにも有名な作品「富嶽百景」の舞台となった「御坂峠」の天下茶屋へ、どうしても行きたかったということもあるし、太宰が見た富士の風景をこの目で見てみたいというのが大きな理由だ。そのため津軽へ向かう前に少々寄り道することになってしまった。

 河口湖駅からバスに乗り、約30分で御坂峠のバス停に着く。海抜1300メートル、この峰の頂上に天下茶屋という茶屋がある。現在はその下をトンネルで抜ける道路ができたため、バスはトンネルを抜けて甲府の街へ向かう。そのため、頂上にある天下茶屋までは自分の足で登らなければならない。

 夏の終わりを告げるような弱弱しい太陽に照らされながら、アスファルトの道路を登る。山々の切れ目から時折見せる冨士の美しい風景に見守られながら、なんとか約1時間で頂上の天下茶屋へとたどり着いた。

 ここは北面冨士の代表的な展望台と言われ、ここから見た富士は富士三景の一つだという。その日、峠の展望台からは、眼下に小さく河口湖が見え、山の中腹が雲に覆われた、青く高くそびえ立つ冨士の姿を望むことができた。

 今から50年以上も昔、昭和13年に太宰が「富嶽百景」を執筆した茶屋が「天下茶屋」なのだが、当時の建物はもちろんなく、今は太宰関係の記念品を売るただの土産物屋になっていた。そしてそこには観光客がたむろしている、という日本の典型的な有名観光地の風景が繰り広げられていた。
御坂峠からの富士山
 太宰はここから見た冨士を好まなかった。それはあまりにもおあつらえ向きの風景なのだという。好まないばかりか軽蔑さえしていた。「風呂屋のペンキ画のようだ」とさえ書いている。太宰はこの風景を恥ずかしく思えてならなかったようだ。

 私もそのように感じた。ここから見た冨士より、峠を登っている途中に山に切れ目から見えた富士の方が美しく思ったし、感動さえした。ここの景色はあまりにも整っていて優等生的でさえある。あたりまえの美しさしか感じない。

 「冨士には月見草がよく似合ふ」。
 太宰が残した名文句の刻まれた記念碑の言葉を胸に秘めながら、私もそっとその言葉を口に出してみて、そそくさと峠を下った。

 峠の下の国道から再びバスに乗り込み、甲府駅へと向かった。

 甲府の街も太宰と関係の深い土地である。
 戦争で東京の家が焼かれたため、疎開で甲府に住んでいたこともあり、作品「新樹の言葉」の舞台にもなっている。その中で太宰は、四辺みな山に囲まれた盆地で、派手に小さく活気のあるハイカラな街、と甲府の街を描いている。

 また、甲府市内にある湯村温泉にもよく出かけていたようで、この温泉で出会った美しい少女の裸をめぐる物語を鮮やかに描いた「美少女」という作品の舞台にもなった。

 太宰が住んでいた旧居や湯村温泉にも行ってみたく思ったのだが、時間がなく断念せざるを得なかった。

 甲府からは身延線の急行「富士川8号」静岡行に乗車する。東海道本線乗り換え「冨士」までの切符と急行券を自動券売機で買おうと思ったら、甲府駅はJR東日本の管轄で、身延線はJR東海の路線だからか窓口でしか買えなかった。

 発着ホームも「はみご」のように駅構内の最端に位置している。利用者にとってはどこの会社であろうが、知ったことではなく、民営時に「一本のレールで結ぶ鉄道網」と銘打った以上、不便なことはしてほしくない。国鉄時代が良かったとは思わないが民営になってから徹底した合理化によって、多数の不便が生じては何のための民営化か、と疑いたくもなる。


写真:御坂峠からの富士山
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