鉄道旅行百景

故郷目指し、奥羽路の長い夜を駆ける急行「津軽」
−鉄道旅行百景(第6回)−

青森駅に停車中の急行「津軽」
 14時間かけて青森駅に到着した急行「津軽」
 (1989年8月青森駅で)
 東京と青森を結ぶ急行列車のうち、八甲田と津軽のどちらが好きだったか、と聞かれたら、私は迷わず「津軽」と答える。青森へ直行する「八甲田」とは違い、「津軽」は奥羽路や津軽路の旅を楽しみながらも、遠回りして青森まで行ってくれる有難い夜汽車であったからだ。

 急行「津軽」は上野と青森の間、奥羽本線を経由して青森まで約750キロ、14時間近くもかけて結んでいた。


 今や「つがる」と親しみやすく平仮名に名を変え、高速特急列車として新しい道を歩もうとしているが、かって“出稼ぎ列車”と呼ばれていた急行「津軽」とは似ても似つかない感がする。
 本家「津軽」は、新幹線輸送の補助などに回ることもなく、最後まで無骨さと不器用さを貫き通した。空色の夜汽車は、幾多の夜を走り、多くの旅人と出稼ぎ労働者を北へ都へと導いた。

青い座席車を連結した急行「津軽」
 青い座席車だけを8両連結していた
 
(1989年8月秋田駅で)

 そんな列車に憧れ、北へ旅する時には幾度となくお世話になった。時間など関係ない、学生時代の頃、落ちていくように長く果てない夜を自由席で過ごした。

 22時半、青い座席車だけを8両連ねた急行「津軽」は上野駅を出発。東北本線を北上し、4時間強かかって福島へ着く。赤い電気機関車に牽かれ、難所の板谷峠に挑む。


 寝息がこだまする車内に、車輪の軋む音が鳴り響き、3時47分、米沢駅に到着。わずかな乗客を降ろし、列車は夜明け前の羽前路を駆ける。

「津軽」の機関車付け替え風景(1989年8月、奥羽本線内で)
 当時は新幹線などなかった赤湯、上ノ山に停車し、山形には朝の5時前に着く。天童、神町、東根、楯岡、大石田と山形県内の中都市をこまめに停車し、乗客を降ろしていく。
 料金の安さもあるが、特急には見逃されてしまう地元駅にも停まるのが急行列車の良さ。長年、庶民に愛された理由だろう。翌朝には「オラが町」の駅にたどり着ける。

 夏なら、新庄に着く頃には明るくなっていただろうか。真室川、横堀、湯沢、醍醐と一面穀倉地帯の中を走り続ける。停車する駅名を眺めながら、奥羽路の旅を実感できる瞬間だ。

昼間を走る時間も長く、奥羽本線の景色を楽しめた(1989年8月「津軽」の車窓から)
 7時37分の横手駅に着く頃から、奥羽本線朝一番の優等列車としての役割も担う。夜汽車と昼行客が混ざってくる。
 飯詰、大曲、刈和野に停車し、8時53分に秋田到着。夜行客の大半は降りてしまい、今度は昼間急行の「津軽」となって、秋田平野を北上。列車名の故郷・津軽地方へと向かう。

 終着の青森まではあと3時間。最後まで乗っているのは私のような物好きな旅人と、津軽へ戻る幾人かの出稼ぎ労働者だけだ。

廃止直前、特急電車を使った急行「津軽」の姿(1992年9月)
 廃止直前、特急電車を使った「津軽」の姿。
 (1992年9月奥羽本線内で)
 北へ向かう夜汽車の旅情とともに、奥羽本線の旅を存分に満喫できる列車だったが、山形新幹線開通(1992年6月)を前にした1990年9月から仙山線経由に追いやられてしまった。

 それでも「津軽」は故郷までの長い道のりを走り続け、その後、客車列車から電車化を経て、1993年12月、長年、東北路の盟友だった急行「八甲田」とともに、表舞台から去った。

 移動にも旅にもスピードと快適さが求められる世の中。時代遅れの不器用な夜汽車には、その役割を担えなくなった。

 昨今の懐古ブームに乗じ、時折「懐かしの列車」として、その名を聞くことがある。本気で復活させる気がないのなら、もう、そっとしてやってほしい気がする。悲しいけれど、時代が変わってしまったのだから。

(2002/12/1公開)


▼関連内容
年末、北へ向かう臨時夜行急行列車と「八甲田」(2002/8/11「執筆後記と感想」)


▲「鉄道旅行百景」トップへ戻る▲