鉄道旅行百景

果てなく広い荒野に伸びるレール、標津線の風景
−鉄道旅行百景(第1回)−

標津線の路線図
 標津(しべつ)線が廃止されてからもう10年以上が経つ。北海道の東部、標茶(しべちゃ)から根室標津、厚床(あっとこ)から中標津まで、逆Yの字のような形で走っていた。1989(平成元年)年4月29日で廃止となったローカル線だ。

 私がこの最果ての鉄道路線に初めて乗ったのは1988年の春、青函トンネル開業ブームで北海道に多くの鉄道ファンや観光客が押しかけた年だった。
一直線に伸びるレール(標津線)
原野を一直線に突き進む線路
(1989年3月・標津線内で)

 この路線の上武佐(かみむさ)という駅は、山田洋次監督の映画「遥かなる山の呼び声」(1980年松竹)の舞台になっている。話の内容はもちろんだが、主演の高倉健が、果てなく一直線に伸びる標津線のレールを歩くシーンが胸に焼き付いており、特別深い思い入れがあった。北海道に行ったからには是が非でも行ってみたいと思っていた。

 初めて乗る路線というのはたいていそうなのだが、乗ってしまったことだけで満足してしまったのか、車窓に関してはあまり覚えていない。
標津線のディーゼルカー(1989年3月西春別駅)
 たった1両だけのディーゼルカーが走る
 (1989年3月・標津線西春別駅で)

 ただ1両きりの赤いディーゼルカーは、地元客でえらく混雑していたことと、終着駅の根室標津で北方領土を眺めた記憶しか残っていない。

 翌年の1989年は、北海道では最後のローカル線廃止の嵐が吹き荒れた年だった。
 名寄本線(名寄〜紋別〜遠軽)、天北線(音威子府〜浜頓別〜南稚内)とともに、標津線も廃止リストの中にあった。
1987年8月交通公社「時刻表」より
 1987年8月発行・交通公社「時刻表」より

 これを逃せば一生乗られなくなる、そう思って出かけたのは私だけではなく、北海道には全国から鉄道ファンが押しかけており、その年の春休みは何やら廃線イベントのような雰囲気さえあった。

 札幌からの夜汽車で道東へ向かい、釧路で普通列車に乗り継いで約2時間、厚床駅に着く。近年、青春18きっぷのポスターにも使われたが、原野の中にある小さな駅。当時は標津線が分岐していることもあって、駅員が数人いた。

 標津線の中標津行列車は、2面あるホームの隅にひっそりとやってきた。わずか1日4本しかない貴重な列車である。

 厚岸を出た列車は何もない根釧原野の中を走る。果てなく続く広大な大地。とても日本とは思えないような風景が続き、30分程で別海に着く。その間、奥行臼という駅くらいしか建物は見えなかったが、別海は人口2万人弱の町である。そもそも、厚床〜中標津間の標津線は大半が別海町内を走っている。
標津線の車窓から見た中標津の街並
 標津線の車窓から見た中標津の街並
 (1989年3月)
 別海を出て、今度は酪農地帯の中を突き進み、30分ほど走ると、ようやく家並みが見えてきた。遠くには雪を抱いた標津岳が連なる。終点の中標津に到着。

 厚床発の列車はほとんどが中標津止めになっており、厚床〜中標津間は標津線の中でも「支線」のような雰囲気もあるが、車窓はこちら側のほうが壮大で良い。
中標津駅駅舎
 標津線の分岐点だった中標津駅
 (1989年3月)

 根室管内の真ん中にある中標津町は人口約2万5000くらいだったか、それほど大きな町でもないが、この沿線では随一の街。鉄道の分岐点として賑わっていた印象がある。

 中標津で標津線“本線”の根室標津行列車に乗り換え、10分かけて次の駅・上武佐に到着。念願の駅に降り立つ。
上武佐駅のホームと駅名板(1989年3月)
 かって映画の舞台にもなった上武佐駅
 (1989年3月)

 映画の中の風景そのままに線路が果てなく伸びている。今日の天気は雪。少々、寂しささえ漂うが満足だった。

 古い木造駅舎の中には、地元中学生による標津線廃止に至る歴史を書いた大きな紙が貼られており、その片隅に北海道ではお馴染みの「旅人ノート」があった。

 私と同じく、「遥かなる山の呼び声」を見て感動してこの駅で降りた人々も多いようだ。映画の感想やら、駅の感想やらが長々と綴られていた。少し嬉しくなった。

ほぼ満員の標津線列車内(1989年3月)
 1両だけの列車はお別れ乗車客で熱気
 (1989年3月)

 翌日は標茶から標津線の“本線”に通して乗ることにした。“本線”と勝手に言ってはいるが、廃止前夜のこの時期、急行列車も廃され、1日6〜7本の列車が走るだけの赤字ローカル路線である。

 消える直前の蝋燭ではないが、最後の別れを告げにきた鉄道ファンや地元客で1両だけの列車は熱気に溢れている。


 「普段からこれ位乗っておけば…」などとありきたりの言葉も虚しく、列車は最後の時をただ淡々と走る。
列車を待つ乗客(中標津駅で)
 列車を待つ乗客の半分は鉄道ファン
 (1989年3月中標津駅で)
 北海道だけのシステム“仮乗降所”の多和を過ぎ、泉川、光進と過ぎる。延々と伸びるレールがアップダウンを繰り返す。この付近が最も標津線らしい風景の広がる所だ。

 途中、西春別駅で列車交換を行い、標茶から1時間強で中標津に到着。さらに多くの乗客が乗って来た。

 昨日下車した上武佐駅を過ぎ、再びアップダウンを繰り返すと、終着駅の根室標津に着いた。

根室標津駅駅舎(1988年3月)
 それなりに大きかった終着駅の根室標津
 (1988年3月)
 北海道最東部に位置する標津町は人口が約7000名。平べったい特徴のない駅舎だったが、決して小さくはなく、終着駅としての威厳のようなものが感じられた。駅の前はすぐオホーツク海が広がっている。

 去年と同じように、あてもなく海を眺めると、手が届きそうな所に国後の姿が浮かんでいた。

西春別駅駅舎と古いディーゼルカー
 西春別駅駅舎と古いディーゼルカー
 
(1988年3月)

 この何週間か後、標津線は大正14年以来の歴史に幕を閉じた。
 これほど壮大なスケールの風景を見させてくれるローカル線は、きっとここが最後であっただろう。そう思うと、一段と廃止が惜しいような気がする。今となっては、映画の中でその風景を思い出すほかはない。




 廃止から4年が経とうとしていた1993年の冬、再び懐かしい風景に逢いたいと代行バスに乗って標津線跡を訪ねた。

 かっての中標津駅跡には真新しいバスターミナルが完成していた。航空会社のチケット販売所まで併設されており「空港整備・東京直行便とを引き換えに標津線の廃止に同意した」という説もまんざら嘘ではない気がした。

旧根室標津駅舎(1993年12月)
 根室標津駅は、かって鉄道の駅であったことを忘れさせたいかの如く、すべてを剥ぎ取られた駅舎の周りには木々が打ちつけられ、取り壊されるのをただ待っているようであった。

 そして、駅前には2両のディーゼルカーが取り残され、無残な姿をさらしていた。

 かっての賑やかな姿に接し、良い思い出があっただけに無性に悲しくなり、すぐにその場を立ち去った。

根室標津駅に放置された旧標津線のディーゼルカー(1993年12月)

 その後、北海道に住んでから、幾度も標津方面へは出かけたが、いつも標津線の跡だけは避けていた。

 その後、どうなったのかは分からない。
 廃線跡巡りは、自分は乗ったことがなく、思い出のない路線だけにしようと思った。


(2002/12/1公開)

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