我が幻の山陰本線紀行
page-1
福知山駅で 私にとって山陰に行くということは、旅をするというよりも、故郷へ帰っていくような気がするのである。

 私の記憶の底に眠る、古き良き時代の鉄道の原風景は、山陰の日本海を望みながら走る旧型客車であったり、煤に汚れたディーゼル急行であったりする。幼少の頃から、長距離にわたって鉄道に乗るといえば、山陰本線であったためだ。

 島根県西部の山深いある村落に、祖父の故郷があった。今は誰もいなくなったが、祖父や祖母に連れられ、数え切れないほど、その地を訪れた。
 私はその度に時刻表をめくり、どんな列車で行けば良いか、この列車に乗ってみたい・・・などと思いを巡らし、幼稚園の頃から時刻表を愛読していた。そうして今の私が出来上がったのだと思う。

 あれから15年近くが経過し、私は大学も卒業し、社会へ出るべき年齢になってしまったのだが、未だに臆病風が吹いていて、同じ場所に留まったままでいる。未来への不安ばかりが募る一方なのである。不安になると、どこかに逃避したくなるものである。黄昏の頃、かばんひとつさげて私は、山陰へ向かう夜汽車に飛び乗った。

 1995年6月25日、月曜日の夜、勤め帰りのビジネスマンばかりが目立つ、大阪駅福知山線ホームに私は立っていた。

 黄色やステンレスの美しい電車がひっきりなしにホームへ入ってきては、客を吸い込んで行く。

 かって、不器用そうなディーゼルカーや、こげ茶や空色の時代遅れの客車のためのホームも今は、山陰への玄関口ではなく、通勤、通学、生活のために人々が往来する場所なのだ。「まつかぜ」「だいせん」「丹波」「みささ・みまさか」「但馬」などの名は、昔話の中だけに生きようとしているのだろうか。

 たった一つだけ生き残った空色の客車、急行「だいせん」は夜汽車である。寝台車三両、座席車ニ両の計五両をディーゼル機関車が牽引する寂しい編成であるが、ドッドッ、と鈍いレール音を立てながらホームに進入するところは貫禄がある。島根方面と大阪を結ぶ唯一の直通列車なのである。

 しかし何のことはない、たった一両しかない自由席は、勤め帰りサラリーマンのための「ホームライナー」のようになり、島根へ帰る女友達を見送る若い女性たちを、顔の赤いサラリーマンらがビール片手に冷やかしていた。不思議な風景のようにも思えるが、お互いに共通しているのは「家へ帰る」ということ。様々な人が乗り合う、これもまた鉄道の良さだということにしておきたい。

 22時55分、出雲市行急行列車「だいせん」は、大阪駅の雑踏を後にして、島根県・出雲市までの四百キロの道程を走り出した。揺れもなく客車列車とは思えぬ静かなスタートだった。

 急行「だいせん」は、大阪と山陰を結ぶ、かってのエース急行である。上下8本を運転し、季節運転1本を含め、うち3本は夜行列車で大阪−鳥取・出雲市・浜田・益田間を走り、「だいせん1号」に至っては、浜田から急行「ながと」を併結し、大阪から長門市までの600キロを走破していた。そんなエース急行も今では、ホームライナーと兼用のような形で、一往復が残るのみである。それでも残っているだけ良いほうであろう。しかも急行夜行列車であるから、有用性は高い。

 しかし、オルゴールも鳴らさず、ボソボソと停車駅の案内をし、ホームライナー客の急行券発行に忙しい、ストライプ半袖シャツの車掌には、いささか興ざめである。かって、夏でも白いスーツ姿で、優等列車の威厳を保っていた車掌の姿も今では昔話だろうか。大地震で青いシートの屋根が目立つ沿線の風景を見ながらそんなことを考える。

 宝塚、三田、篠山口で「ホームライナー客」は全員下車。空いた車内には旅人の寝息だけが聞こえる。深夜の福知山で駅弁売りの声を聞いた後、眠りについた。

 目を開けると、列車は米子を過ぎ、どんよりとした灰色の空の下を快走している。煙草に火をつけたが「この列車は倉吉から快速列車のため、禁煙です」とのアナウンスに灰皿で火をもみ消す。「だいせん」は全区間の四分の一を快速列車として運転する。そのためか、車内には出雲市へ向かうサラリーマンや女学生の姿も見える。昨日のホームライナー客が残した大阪の夕刊紙を、島根の通勤客が眠そうな顔で読んでいた。


写真:深夜の福知山駅で急行「だいせん」
次のページ又はTOPへ