小笠原旅行術〜世界遺産の島旅案内
page 4  5分で理解する小笠原の文化と歴史
▼独自の歴史を歩んできた小笠原諸島
戦前の母島・北村
 ▲現在は廃村となった母島・北村にも戦前は
  600余の人口がいて定期船も就航していた
  (母島・ロース記念館の展示より)

 小笠原(父島・母島)の歴史を筆者(西村)なりの解釈で述べると、人間が関わってから180年ほどの間、日本本土とはまったく異なる独自の時間を経てきたということがいえます。日本では明治期に本格開拓されたという意味で若干北海道に似ているかもしれません。

 17世紀半ば、海外探検船や日本の難破船によって小笠原の島々が相次いで「発見」されます。これきっかけに、幕府が上陸調査を実施し、18世紀になると島の存在が国内や欧米に知られるようになりました。

 ただ、その後も幕府は無人島のまま何ら手をつけられずにいたために、19世紀になると英国船がやってきて勝手に領有宣言したり、父島をピール島、母島をフィッシャー島と名付けたり、難破した船員がそのまま短期間住み着いたり、ロシア船がやってきて貴重な鳥を持ち帰ったり……。欧米各国から入れ替わり立ち替わり、船がやってくる時期が続きます。

 そして1830年、現在まで続く島民の元祖として、マテオ・マザロ、ナザニエル・セボレー(現在、その子孫は日本名では「瀬堀」と名乗る)ら欧米人5名と20名のハワイ人が父島に入植。幕府が知らぬうちに、小笠原は捕鯨の際に最適な太平洋上の補給基地として欧米から熱視線を浴びていたのです。

 末期を迎えつつあった徳川幕府は、こうした状況を知ってか知らずか、それからも30年間放置を続けた末に、ようやく重い腰を上げて回収に乗り出したのは、「明治」が迫りつつあった1862年でした。

 小笠原を米国にだけは明け渡したくない英国、一方の米国も英国には渡したくない。領有を主張する両国の思惑から、両国とも日本の動きを事実上黙認。現地のセボレーら欧州系住民も納得したために、幕府は大きな混乱もなく自国の領土として「取り戻す」ことができたのです。

 幕府による領有後、八丈島から早速30人が移り住んだものの、本土では生麦事件が起こるなど、英国との関係が悪化。同国を刺激したくないとの思いもあったようで、移民30人はわずか9カ月で「撤退」することになりました。

▼明治に入り、再度「日本」に

 幕末の混乱期に入り、またしても日本では小笠原のことを忘れられていました。
 「回収」から13年後の1875(明治8)年、明治新政府は「再回収」に動きます。翌年からは日本人の入植が始まり、名実ともに小笠原は日本国の島々となりました。

昭和10年ごろの父島・大村
 ▲昭和10年の父島・大村の様子
 小笠原村役場サイトより転載
 明治から大正にかけては、国の奨励もあって本土からの移民が増え続けます。大正10年に北マリアナ諸島が日本の統治領となり、小笠原は船舶の中継基地として人口増が加速。大正15(1926)年には父島と母島だけでなく、弟島、妹島、火山列島の硫黄島なども含め全体で5818人が住んでいました。

 この時代は諸島始まって以来の最盛期。冬場に本土にない野菜や果物、島のサンゴを出荷するなど、この頃の小笠原島民の生活水準は本土よりも高かったそうです。

 しかし、そんな豊かな島の暮らしは太平洋戦争によって、壊れてしまいます。

 小笠原は防衛の前線として要塞化され、戦況の悪化とともに、7000名弱の人々が本土へ強制疎開させられてしまいます。その後の空襲を経て、敗戦後は残された住民らも米軍によって島を離れることを命じられ、小笠原は再び"無人島"になりました。

▼敗戦で米国が占領、母島は無人島化

 敗戦の翌年、島民の元祖である欧米系住民とその家族34世帯129人だけが帰島を許されましたが、父島は200人足らずだけが住む「米国」として、母島など他島は無人島として、戦前の島民の多くが帰れぬ故郷となってしまいました。
昭和43年の返還式典の様子
 ▲昭和43年6月の返還式典の様子
 小笠原村役場サイトより転載

 その間、米軍は父島に核兵器を持ち込んでいたとも言われ、軍事的に重要な位置を占める小笠原は、沖縄や奄美大島と同様に占領状態が続きます。

 旧島民らの地道な返還運動が実り、日本に返還されたのは昭和43年6月。終戦から23年が過ぎ、父島は英語の国に、母島はジャングルと化していたそうです。

 日本国東京都小笠原村としての第二幕は、国と都によるインフラ整備から始まります。
 都営住宅の建設や定期航路の開設が行われ、旧島民の帰島が行われる一方で、新天地を求めて移住する新住民も多く、今でも人口は少しづつ増えつつあります。
 一方で硫黄島の旧島民は帰島が認められていないという課題も残されています。

 観光地としての整備や世界自然遺産への登録、幾度目かとなる飛行場建設の検討など、さらに多くの観光客や新しい移民を受け入れながら、近い将来には人口3000名規模の島になることを目指しているそうです。


■小笠原諸島に関係する主な出来事
1543年 スペインの探検船が硫黄島などを発見か。上陸はせず。
1593年 徳川家家臣の小笠原貞頼が発見したと伝えられているが、史実として否定される傾向にある。
1639年 オランダ船が母島・父島を発見か。上陸はせず。
1670年 阿波(徳島)のミカン船が母島に漂着。その後、父島や聟(むこ)島にも上陸。
1675年 徳川幕府が調査のために探検船を派遣し、父島、母島に上陸。
1727年 長崎のオランダ商館の医師が無人島発見の事実をヨーロッパに紹介。
1785年 政経論者・林子平の地理書『三国通覧図説』で「小笠原島」と紹介。
1817年 フランスの東洋学者が『三国通覧図説』を元に「BO-NIN諸島」などと紹介。
1823年 英国の捕鯨船が母島沖港に停泊、「フィッシャー島」と名付ける。
1825年 英国船が父島に入港し、木に上陸の旨の板を打ち付けて帰る。
1826年 英国の捕鯨船「ウィリアム」号が難破し、乗組員2人が父島にとどまる。
1827年 英国海軍の探検船が父島に上陸。領有を宣言し「ピールアイランド」と名付ける。
1828年 ロシアの探検船が父島に上陸、領有宣言するとともに、現在は絶滅した固有鳥類の剥製などを持ち帰る。
1830年 ハワイのサンドウィッチ諸島から、マテオ・マザロ、ナザニエル・セーボレーら欧米人5名と20名のハワイ人が父島に入植
1840年 陸奥国気仙郡(陸前高田)の船が父島に漂着、船頭など6名がセーボレーら島民に助けられる。
1851年 ペリー艦隊が父島に上陸、セーボレーを訪ねて清瀬付近の土地を50ドルで買収。自治政府をつくるよう進言。その後、セーボレーを長官とするピール島植民政府が成立。同年、ペリーの命で軍艦プリマスを父島と母島に派遣。母島をヒルスボロー、母島群島をコフィン群島などと名付け、米国領であることを宣言。
1853年 英国政府が米国に対し、英国領土に対する不法行為であると抗議。ペリーはセボレーが米国人であることなどを理由に英国の先占権を否定して反論。
1862年(文久元) 幕府は小笠原の回収を企て、水野忠徳を長とする威臨丸を派遣。セーボレーらと会見。英米とも日本の領有を受け入れ、セーボレーらとも合意。この頃の父島の人口は38人。母島は英国人のトーマス・マッツレーら14名だった。同年、八丈島からの移民30名もはじめて父島に入植したが、国内情勢の悪化で9カ月で撤退。
1870年(明治3) 民間の有志が開発を志して小笠原を調査。
1875年(明治8) 明治政府は再度小笠原の回収に乗り出し「明治丸」を父島、母島に派遣。セーボレー(二世)らと会見し、再回収に成功。この頃の父島の人口は13戸68名。母島はドイツ生まれのフレデリック・ロフルス(ロース石の由来)の一家3人のみが住んでいた。
1876年(明治9) 明治政府は小笠原を内務省の所管と定め、諸外国に通告。同年小笠原出張所を父島・扇浦(明治15年に大村へ移転)に開設。日本本土からの入植が始まる。移民一家族につき80円を給付。
1880年(明治13) 小笠原が東京府に移管される。当時の人口は117戸380人。横浜との定期船が年4回運航されていた。
1921年(大正10) グアムを除くマリアナ諸島などが日本の委任統治領になったことで、小笠原が中継基地としてにぎわう。小笠原の全盛時代へ。
1926年(大正15) この頃、小笠原の人口は5818人。内訳は父島2727人(弟島など67人含む)、母島1860人(妹島5人含む)、硫黄島1231人(北硫黄島87人含む)。
1937年(昭和12) 父島・洲崎に飛行場が完成、海軍飛行隊が駐屯。
1944年(昭和19) 太平洋戦争の戦況悪化で父島・母島・硫黄島の6886人が4月に本土へ強制疎開、800人が軍属として残留。同年6月には父島と母島が初の空襲を受ける。この頃、父島には陸海軍1万5000余名、母島は6000余名の兵士が駐屯。
1945年(昭和20) 3月に硫黄島が陥落、8月に終戦。
1946年(昭和21) 1月に米軍の軍政下に置かれる。同年10月、欧米系住民34世帯129人の父島帰島が許される。母島は無人島に。
1967年(昭和42) 12月現在の人口は欧米系住民44世帯185人。
1968年(昭和43) 6月26日に小笠原が日本へ返還され、小笠原村が発足する。東京都は帰島民に対し、復興を理由に3年間の暫定措置を設ける。また返還時、欧米系住民には国籍選択権が与えられる。>>参考:国の小笠原振興策
1969年(昭和44) 9月に近海郵船(現日本郵船)と東海汽船が同額出資し小笠原海運株式会社を設立。同年、政府が小笠原復興計画を打ち出す。
1972年(昭和47) 4月に小笠原海運が東海汽船の「椿丸」(1000トン超、定員263人)で定期航路を運航、片道44時間で結ぶ。
8月、飛行場建設予定地として兄島などを調査するが、現在まで建設に至らず。
10月、国立公園に指定。この年、短期滞在者も含め小笠原村の人口が1000人を突破。
1988年(昭和63) 短期滞在者も含め村の人口が2000人を突破。
2000年(平成12) 12月末に村営バスの運転開始。
2005年(平成17) 国と東京都などは小笠原航路に投入を計画していた超高速船「テクノスーパーライナー(TSL)」の就航を事実上断念。>>筆者の関連記事
2008年(平成20) 東京都などが小笠原の航空路開設に向け「小笠原航空路協議会」を設置し、本格的な議論を開始。2010年11月までに5回の協議会を開く。>>参考リンク:東京都
2011年(平成23) 6月にユネスコの世界自然遺産に登録が決定へ。

※この頁は、『幕末の小笠原〜欧米の捕鯨船で栄えた緑の島』(1997年、中公新書、田中弘之著)と『小笠原クロニクル〜国境の揺れた島』(2005年、中公新書ラクレ、山口遼子著)を大いに参考にしています。このほか、財団法人小笠原協会発行の『小笠原』特集第56号「小笠原の生活と保健・医療―小笠原開拓から今日まで」(2011年3月)も参照しました。
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