小笠原航海記〜南の島の航路・路線バス紀行 [東京から小笠原へ]
page 1 "無国籍"の孤島、小笠原へ
小笠原の位置図

 太平洋の波に一昼夜揺られ続けて上陸した小笠原の父島は、日本の風土とは明らかに異なる無国籍感を漂わせていた。船を降りる時、一瞬どこの国にたどり着いたのかが分からなくなった。

 海続きのグアムやサイパンといったマリアナの島々、遠くハワイ諸島のように、さりげなく歴史の重さをかいま見せることもなく、リゾート観光地独特の人工的な華々しさとも縁遠い。南の島独特の甘ったるい気候でもなかった。移動線上にある伊豆諸島との共通点も見出しづらい。小笠原はどこからも断絶した新天地の孤島に思えた。

 日本本土から1000キロ先、北マリアナ諸島からも遠く離れた洋上に突如現れる30以上の島嶼(とうしょ)は、我が国では小笠原諸島と呼ばれ、小笠原村という東京都の一自治体ということになっている。

 群島ではあるが、現在人間が生活を営んでいるのは父島と母島の二島だけ。合わせて2500弱の日本国籍を持つ人々が居を構える。

 両島から南に270キロ離れた火山列島の硫黄(いおう)島も、800キロ先の東端にぽつりと浮かぶ南鳥島も"村内"であり、かつて村民がいた。
 今も完全な無人島ではないが、国家的な使命を帯びた公務員が特殊業務を遂行するべく交代で駐留しているに過ぎない。小笠原と言えば、有人島の父島と母島を指す共通地名のようになっている。

郵送で届いたおがさわら丸の乗船券
 小笠原と本土をつなぐ道は、週に一度か二度、東京港から太平洋上を25時間半かけてやってくる定期船「おがさわら丸」と、月に何度か訪れる小さな貨物船「共勝(きょうしょう)丸」だけ。
 日本列島と父島・母島の間を往復するには、少なくとも6日間の時間が必要である。国内で人が往来できる地としては、最も遠方の場所であるように思える。

 本土からの際だった遠さに加え、欧米からの入植者が開拓し、明治初期の日本領化後に太平洋戦争の敗北で長期の占領を受けてしまったという特異な歴史が、国内ではあるが日本でも海外でもない、小笠原独自の風土を生み出した。

 私は、そんな最遠の未知の島をいつかは訪れたいと願い続けていたが、日常に一週間近い時間を捻出するのは案外難しく、機会に恵まれなかった。


 思いを抱いてから10年以上が経ち、2011年の大型連休にようやくその機が訪れた。浜松町の竹芝桟橋から、船の定員ほぼいっぱいとなる950名とともに、おがさわら丸へ乗り込んだ。

 総トン数6700の大型船は伊豆大島付近に差し掛かる前に揺れ始めてしまい、以後22時間、波に持ち上げられ、落とされて、打ち付けられるという単調ながら人間の神経に変調を与える動きを続けた。
翌朝、太平洋の色が変わる

 前後左右に人が詰まり、寝返りさえ打てない地下二等船室で、妻は酔い止め薬を飲んだ後は寝たきりで過ごし、2歳半の我が子は船酔いの意味さえ分からずに三度嘔吐した。

 私も次第に船酔いから逃れるための飲酒さえ辛くなり、普段は決して乗る機会のない外洋長距離航路の過酷さを体で知った。


 八丈島の先の青ヶ島を過ぎると、海鳥一羽すら姿を見せない三六〇度の海原が、気が遠くなるほどに続いている。船は陸地を求めて高い波間をさまよい続けた。
東京から25時間、父島の島影が見えてきた

 翌朝、ケーターという洋名を持つ岩礁のごとき聟島(むこじま)列島が現れた時は、言いようがないほどに安堵した。茫洋とした孤独な太平洋上では、岩のような小島でさえ心が救われるらしい。

 まるで大陸でも現れたかのごとく感じられた父島が近づき、地面に降り立った時には、船旅の苦行も忘れて嬉しさと達成感につつまれた。

 日本国の果ての小笠原を訪れるという積年の願いが成就し、他には何をせずとも良い気分になった。

 だが、本土への便は4日後までない。大型連休中ゆえに、船は島へ着いた3時間後に、東京の客を迎えに舞い戻ってしまっている。

 復路便が来るまでの間、少しは小笠原諸島を見て回ろうと腰を上げた。


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