韓国 鉄道紀行 2005
page-8 木浦からKTXで百済の古都・扶余へ
フェリーターミナルの案内板
 ▲木浦近海には島が無数に浮かんでいる

■朝の港街・木浦と船着場の風景


 昨夜は遅くにホテルへ入ってしまったので、木浦(モッポ)の街をまだ見ていない。
 ガイドブックによると、人口は24万、日本統治時代の建物や街並みも残り、多島海海上国立公園への基点となる港街だという。

 港町は大好きなので、早起きをして散策することにした。海の香りに包まれ、朝の静かな町を歩くのは気持ちがいい。

 紅島や済州島へ行く真新しいフェリーターミナルを冷やかした後、すぐ近くにある渡船乗り場に行く。何処へ行く船かは分からないが、黄海には羅州群島を中心に大小無数の島が浮かんでいる。後のことなど考えず、ふらりと船に乗って見知らぬ島へたどり着いてみたい。
木浦〜西大田〜ソウル KTX路線図
 ▲KTX湖南線の路線図

 港へ行く度にそんなことを考えているのだが、私の旅は鉄道最優先である。小島航路の誘惑に負けることなく、木浦駅へと向かった。

■KTX湖南線、貸切状態の自由席は快適

 今日は途中、百済の都・扶余(プヨ)に立ち寄りながら、ソウルまで移動する比較的楽なスケジュールとなっている。

 木浦からソウルの龍山(ロンサン)までは、KTX湖南線(ホナムソン)が通じていて、1日6本のKTXが最速2時間58分で結んでいる。

 8時40分発の「KTX」206号・幸信(ヘンシン)行に乗車。この幸信というのは、ソウルの15キロ先にある京義線の駅で、ここにはKTXの車両基地がある。
木浦駅ホームで
 ▲ホームではKTX乗務員が出迎える

 木浦駅で列車の指定券を出してもらったのだが、車内は非常に空いており、最後尾の自由席に行くと乗客はわずか2人。

 韓国では優等列車で自由席を使うという概念がまだないのかもしれないが、閑散とし過ぎている。
 迷わずその車両に乗り込んだ。

 そもそも、客がそれほどいるとは思えない木浦にKTXを乗り入れたのは、全羅道政策の一環なのかとも思う。

KTXの車内
 ▲KTXの自由席は非常に空いていた

 前の大統領・金大中氏は、木浦の西に浮かぶ羅州群島の荷衣島(ハイド)で生まれ、高校は木浦で学んだ。
 先ほどの渡船場やフェリーターミナルがやけに真新しかったのは、その影響なのかどうかは分からないが、木浦に深い縁があったことは間違いない。なにせ、これまで差別と苦難が続いた全羅道人が初めて政権をとったのだから、高速鉄道を走らせる位のことはするかもしれない。

 列車は定刻通りに木浦を出発。一般室は飛行機のエコノミーシートのような狭苦しい座席だが、2席分を使えば多少は楽である。
KTX湖南線からの車窓
 ▲湖南平野の穀倉地帯が続く

■車窓には湖南平野の穀倉地帯が延々と

 松汀里(ソンジョンリ)までは昨夜と同じ所を走る。穀倉地帯の田園風景が延々と続く車窓は退屈だが、外は快晴。車内は貸切状態なので気持ちがいい。

 時折、真新しい高架橋が見えるので、ここも将来は専用線化するのかもしれないが、今は在来線上を走っている。時速は130キロ程度とちょうど良い按配だ。
 新幹線でもそうだが200キロ以上で走る高速列車に乗っていると、知らないうちに疲労が蓄積されるような気がする。
KTX新線建設の風景
 ▲新線の建設も進んでいる

 ハングルばかりの車内誌を眺めたり、天井に付けられたテレビで、昨夜の韓国プロ野球結果を観るなどしているうちに、列車は松汀里に停車。この先は未乗区間なので真面目に景色を眺めることにする。

 とはいえ、車窓は先ほどと特に変わらず、のどかなで坦々とした湖南平野を走る。長城(Jangseong)を高速で通過すると、内蔵山系の山々が迫ってきた。

 全羅南北道を隔てるサミットをトンネルで軽々と越え、9時39分、井邑(Jeongeup)に停車。再び、緑の中を高速で走り抜けること22分、列車は益山(イクサン)に到着した。

 このKTXは論山には停車しないので、ここで下車し、「在来線」に乗り換える。
益山(イクサン)駅舎
 ▲真新しい益山(イクサン)駅

 とりあえずは一旦駅を出て、巨大なガラス張りの宮殿風駅舎を一瞥し、再びホームへ。

■セマウルの「特室」にタダ乗りしてしまい…

 次の「ムグンファ」号の指定券を取っていたのだが、臨時列車なのか、その前に「セマウル号」がやってきた。時刻表には載っていない列車だ。

 「KRパス」でも全車指定席の列車は、事前に指定券を取ることになっているが、どうせ空いているし、何とかなるだろうとセマウルに飛び乗ってみる。
特室車内
 ▲セマウル号の特室車内

 早速、検札に来た女性車掌にパスを提示し「論山(ノンサン)」などと発したら、苦い顔をして去っていった。

 後で気が付いたのだが、たまたま我々が乗った車両は「特室」であった。ここは「KRパス」でも追加料金が必要。ゆえに、車掌は苦い顔をしていた訳である。申し訳ないことをした。言い訳になるが、セマウル号の場合、特室と一般室の外見上の違いがまるで分からない。強いて言えば、座席の色が赤い位だろうか。飲み物サービスが来ない限り、気付かなかったかもしれない。
論山(ノンサン)駅
 ▲扶余に最も近い論山(ノンサン)駅

 列車はいつの間にか忠清南道(チュンチョンナムド)に入り、25分ほどで論山(ノンサン)に到着。ただ乗りした格好のセマウル号「特室」の旅はあっという間に終了した。


■扶余へは論山駅が最も近いけれど

 これから百済の古都・扶余(プヨ=扶餘)に行く。
 扶余へは、鉄道駅では論山が一番近いことになっている。ただ、ソウルや大田、釜山など各地から高速バスが通じているので、無理にこの駅から行く必要もない。なにせ、都市間高速バスのほうが本数も多く、速いし廉価である。
論山バスターミナル入口
 ▲これがバスターミナル入口!?

 さて、何となく論山駅で降りてはみたものの、バス乗場が分からない。狭い駅前ロータリーにはタクシー運転手がたむろしており、「獲物」を狙って声を掛けてくる。一般的に韓国の鉄道駅は街外れにあり、バスターミナルは街中にあることが多い。バスを駅前に乗り入れようという発想はあまりないらしい。

 結論を先に言うと、駅を降りてすぐ左手の歩道橋で線路を越え、大通りに出ると約10分でバスターミナルまで行かれる。(詳細はこちらを参照されたい)

 そうしたことはつゆ知らず、20分ほど迷って論山バスターミナルに着いた。たまたまバスを見つけ、走って追いかけたので分かったのだが、ターミナルは雑居ビルの1階にある。大通りからは見えず、入口が非常に分かりづらい。
論山バスターミナル

 70年代の市場のような雰囲気がある薄暗い乗場。切符売場で「扶余(プヨ)!」と叫ぶと、出てきた切符は藁半紙をちぎったかのような粗末なものであった。料金は1800ウォン(180円)。

■庶民生活感が一杯の路線バス

 ローマ字や漢字の併記といった気の効いたものはなく、扶余行がどのバスなのかが分からない。
 止まっているバスに乗り込んだらこれが大間違いで、危うく大田まで連れて行かれるところであった。急遽、「扶余」のハングル文字を覚え、バス前面の小さな行先板を凝視し確認。ようやく乗車。
扶余行バスの車窓から
 ▲途中までは自動車専用道を走る

 旧型の観光タイプといった雰囲気のバスに乗り込み座ると、近くの席にいた中年女性がチラシを配り始めて宗教勧誘。さらには、足の悪い爺さんが乗ってきて車内で大演説した挙句、内容不明の商品販売。
 不案内のバスターミナルといい、この路線バスといい、韓国の庶民生活感が充満しているように感じる。そういう意味で比較すると、近代化しすぎた鉄道よりも、路線バスの旅は案外楽しいかもしれぬ。

 論山を出たバスは、高架の自動車専用道を気持ちよく走っていたが、途中で途切れ、一般道に入る。
 車窓からは建設中の築堤がチラチラ見えており、次に来た時はスムーズに扶余まで行けるようになっているかもしれない。
扶余(プヨ)バスターミナル
 ▲扶余(プヨ)バスターミナル
 よく曲がる2車線の道路を飛ばして35分、扶余バスターミナルへ着いた。ここもまた、外側から見ると古い公設市場のような雰囲気があった。

 扶余について教科書的な説明をすると、高句麗・新羅・百済の三国時代、538年から660年まで百済王国の都が置かれた地である。
 日本史で習う「白村江(はくすきのえ)の戦い」では、我が邦が百済を支援したが、その甲斐なく唐・新羅連合軍に敗北。国は滅亡。以後、我が国は百済の遺民や文化を受け入れた、ということになる。

 
百済に関係する地名といえば、個人的には関西本線にある「百済貨物駅」を一番に思い出してしまうが、これもその一つなのだろう。
定林寺跡(チョンリムサジ)の石塔
 ▲定林寺跡(チョンリムサジ)の石塔


■すべてが夢の跡のような史跡を眺める

 扶余には日本文化の源流がある、とまでいえば大袈裟かもしれぬが、そういう場所のように思う。
 ただ、現在の扶余は人口8万5千の中都市。街にはロッテリアやコンビニもある。なにせ、唐と新羅に滅ぼされてから1300年余が経っている。もはや、古都という趣がそれほどあるとは思えない。

 時間はまもなく正午。腹が減っては戦はできぬ。海外旅行者必携の「黄色い本」に載っていた店で昼食。本の効果は絶大と見え、何の変哲もない大衆食堂だったが、店主が日本語を理解し喋っていた。

 まずは白馬江(ペンマガン)へ行く。諸説あるのだろうが、白村江(はくすきのえ)とはこの河のことだという。
白馬江(ペンマガン)付近の公園
 ▲団体バスでやってきた小学生

 付近は公園として整備されており、小学生たちがバスを連ねて大挙してやって来た。我々が幼少の頃、何も分からずに遠足で飛鳥や奈良へ連れて行かれたのと同じようなものか。子どもたちは、歴史よりも露天で売っているおもちゃの刀やアイスクリームを買うのに夢中だ。

 土手に上り、サッカーのゴールポストが置いてある広い河川敷と、悠然と流れる白馬江を一瞥。次は街中にある定林寺跡(チョンリムサジ)へ向かう。扶余の象徴的な史跡として度々登場する百済後期の寺院跡である。
白馬江(ペンマガン)
 ▲白馬江(ペンマガン)の流れ

 石の壁が続く道を歩き、広大な寺院跡に入ると、整備された庭園の真ん中に五層の石塔だけがポツリとある。石には「大唐平百済国碑名」と彫られ、唐・新羅軍が戦勝記念に残したとされるもの。
 それだけが唯一残っている。

 蒼い空に溶けてしまいそうな、すべてが夢の跡のような史跡をぼんやり眺める。何も残っていないからこそ、訴えかけてくるものがある。
 昔、まだ整備されていなかった頃の浪速宮跡や平城京跡に行った時にように、心の中に壮大な風景が広がったような気がした。


>>page-9 ソウルまでKTXの「特車」で300km/h区間を体験
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