introduction
1992年・函館本線で
時刻表、プラレール、京阪電車から−


 
わたしはこれまで、日本全国様々な所を鉄道で旅してきました。
 この世に生まれてから30年近くが経ちましたが、物心ついた時からすでに鉄道への思慕があったと思います。

 幼稚園の頃にはすでに時刻表を読み、プラレールのおもちゃの電車に囲まれて育っていました。

 小学生の高学年になって、友達と近くの京阪電車に乗り、京都府八幡市の男山へ行ったのが、わたしにとって最初の鉄道の旅でした。
 それからは暇にあるごとに地元の京阪電車へ乗っていたことを覚えています。電車を眺めたり、乗ったりしているだけで嬉ししくてたまらなかったのでしょう。小遣いのほとんどは電車賃に消えていたような気がします。


国鉄時代の思い出、青春18きっぷから始めた小さな旅−

 中学生になると、それなりに自由がきくようになり、少しずつ遠くへと行くようになりました。
 そうすることができたのも、青春18きっぷという存在があったお陰だともいえます。1日2千円で国鉄全線の鈍行列車に乗れる、というこの切符を考え出した当時の国鉄のおおらかさには、今でも感謝の気持ちを忘れていません。
 
 初めて18きっぷを使って旅したのは、京都の北部を走る宮津線でした。
 大阪から朝一番発の出雲市行鈍行列車に乗り、今ではトンネルになってしまいましたが、福知山線の武田尾付近を流れる武庫川の渓谷美を、朝もやの中で眺めた風景が頭から離れません。
 宮津線も現在は、国鉄の手を離れてしまいましたが、古びたディーゼルカーに乗り、ひと駅、ひと駅、記念スタンプを集めたことを覚えています。私たちがまだまだ幼かったこともあり、スタンプを押し終わるまで車掌さんが発車を待っていてくれたのです。当時のスタンプ帖は今も良き思い出となっています。

 それからも友達同士で18きっぷを買い、しょっちゅう日帰りで近くの国鉄路線に乗っていましたが、ついにはそれも満足できなくなり、夜行列車を使って泊まりがけの旅をすることになったのです。
 今では途中の紀伊田辺までになっていますが、天王寺発、新宮行の紀勢本線の鈍行夜行列車に乗り、紀勢本線を一周し、名古屋から鈍行で東京へ行きました。初めて東京のネオンを見たとき、何か異空間にいるような不思議な気分になったことを覚えています。


高知行夜行列車、宇高連絡線、大隅線、四国と九州への旅−

 中学2年生の夏休みに友達と四国と九州に1週間ほどの旅をしました。岡山までは鈍行列車で行き、宇野線に乗り換え、宇野駅から夕暮れ時の宇高連絡線に乗り込みました。連絡線の記憶はほとんどないのですが、甲板デッキで食べた讃岐うどんの味がなぜか今でも頭から離れません。

 高松からは、今はもうなくなってしまった高知行の鈍行夜行列車に乗りました。クーラーのない暑い客車の窓を開け、お遍路巡りの老人たちと眠れぬ夜を過ごしました。そのためか、四国というところは暑いという印象が残っています。

 愛媛県の八幡浜から夜行フェリーを使って九州に渡り、ワイド周遊券で色々なローカル線に乗りました。その中でも印象深いのが、鹿児島県大隅半島を走っていた国鉄大隈線です。たった1両のディーゼルカーは、地元の人や学生で満員で、蒸しかえるような暑さの中、トンネルに入ると涼しくなり、トンネルを出ると蒼い海が見える、そしてまたトンネル……という繰り返しで、どうして鹿児島の海はこんなに青いんだろう、と不思議と感動したのを覚えています。

 そのほかにも雨の中、乳白色の山の中を走った熊本県水俣と鹿児島県粟野を結んでいた山野線や宮之城線は私の中では良き思い出です。


国鉄解体と鉄道旅行スタイル転換、北海道へ−
1992年稚内で
 その年の終わりに、国鉄が解体されました。中学生の私にとっては、名称が変わるくらいだろう……という認識しかなく、一般的な人たちと同じように国鉄さよなら記念の全国乗り放題フリー切符で、大変な混雑の中、どこかへ行ったように記憶しています。

 国鉄が民営化して、駅のトイレがきれいになったり、駅員の愛想が良くなったり、中学生の私にはすべて良いことばかりのように見えていました。

 しかし、それは、会社企業としての戦略であり、長年、国鉄で働いていた鉄道員の誇りや、日本全国津々浦々に張り巡らされた鉄道網が瓦解する一歩だと気づいたのは、それから数年経ってからのことでした。

 これ以後、多少大げさに言えば、国鉄の解体はわたしの鉄道への想いをも解体されてしまったともいえます。

 中学3年の受験が終わり、その春にあるきっかけで単身、はじめて北海道へ渡ることになったのですが、私の旅はこれ以降、大きく転換することになりました。
 鈍行列車でひたすら北上し、野辺地から函館へ渡る深夜フェリーに乗りました。本当は青函連絡線に乗りたかったのですが、私が旅に出る2週間ほど前に廃止されていたのです。
 野辺地からのフェリーは乗客が3人しかおらず、吹雪の中、お互いに重い荷物を持って黙り込んでいました。歌に唄われた「北へ帰る人の群れは誰も無口で……」という一節を思い出すかのようでした。

 薄暗い中、大きな北海道の島影が近づくにつれ、身体の中に鼓動を打つような緊張が走りました。生まれてからこれまでに見たこともない大地が刻一刻と近づいて来ているのです。ゆっくりと船のデッキを降り、朝の光に照らされた大地を踏みしめると、冷たく爽やかな朝の風が吹き、一面果てしなく真っ白な世界が広がっているのです。もう何も言葉が出ないような感動と衝撃を受けました。わたしは旅をする最大のよろこびをこの地で感じ取ったと思いました。


北海道の風土への思慕、移住。鉄道旅行の原風景−

1990年釧網本線北浜駅
 これまではただ鉄道に乗っていさえすれば、満足だったのですが、この北海道への旅を機に、鉄道への思慕はやがて北海道やその土地、風土への思慕へと移り変わっていったのです。高校の3年間は、まるで熱病にでもかかったかのように北海道へのめり込んでゆきました。そうして、後には住むまでに至りました。

 大学生になると、旅の形態や目的も次第に変わり、車や船、飛行機での旅行であったり、目的も温泉や旧跡、名所めぐりであったりしました。働くようになってからは海外にも足が伸びました。

 それでも鉄道というものを忘れた訳ではありませんでした。

 常に私の旅の原点は鉄道とともにあったような気がします。
 たった1両のディーゼルカーから眺めた蒼い海、同席した地元の人々とのつたない会話、果てなく続く細いレールを走るローカル線、寝苦しい夜を過ごした夜行列車、これらのものがあったから、あるからこそ、日々のわずらわしさを忘れ、今でも旅に出たいという気になるのです。

 学生時代からこれまでに発表してきた国内外の鉄道紀行文、その他関係文章、仕事で書いた鉄道、北海道の観光関係の記事を含め、すべてまとめ「鉄道紀行への誘い」との題名で、インターネット上にホームページを開設することになりました。

 若さゆえか未熟な文章や画一的な内容なども多いのですが、あえてそれらをそのまま収録しました。データ等は変更点もあるかと存じますが、随時、あとがき等で直してゆければと考えています。

 この広いインターネット上で、たまたまこのページにたどり着き、そして少しでも興味をお持ち頂き、お役に立てたなら、それほど嬉しいものはありません。

(2001年12月1日、2002年10月5日一部改)


写真(上から):1991年函館本線で、1992年稚内市内で天北線跡、1990年釧網本線北浜駅
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