あの海に抱かれたい〜北海道まほろば紀行
page-7 深名線の想いは消えぬ
1994年冬・朱鞠内駅で 旭川の街外れにMという安旅館がある。1泊素泊まり2000円という安さだ。毎年正月ここに気の合う友人たちと集まることになっている。もう今年で6年にもなる。今年のメンバーはB君とC君。B君は激務の大手旅行社に就職したが、合間を縫って来てくれた。彼もまた北海道が好きでたまらない一人である。

 やはりここでも街に繰り出し、飲む。そして酔えない。お互いに気を使っているのか、飲んでも将来の話だけは出なかった。
 翌朝、1月2日、旭川護国神社に今年2回目の初詣に行く。昨夜、極寒の中、訪れたのだが、遅かったため閉鎖されていたのだ。
 今日はさらに北上して名寄まで行き、昨年9月に廃止となった日本一の赤字ローカル線、深名線の跡をバスでたどる。深名線のバスがJR北海道バスの運行で、周遊券でも乗れることから、B君とC君も付き合ってくれることになった。

 旭川13時18分発、宗谷本線経由札幌発・稚内行急行「宗谷」に乗り込む。お座敷列車や古びたディーゼルカーまで増結したカラフルな編成で、薄青い改造新型ディーゼルカーは単線非電化の細いレールの上をゆっくり走る。

 ゆっくりとは言え、旭川までの特急列車のスピードから比べると遅いだけであり、時速80キロはゆうに出ている。特急列車のない宗谷本線ではこの急行列車がもっとも俊足なのだ。

 旭川市内を抜けると、相変わらずポツリとしか家の見えない原野を行く。途中の小駅で反対列車との行き違いを繰り返しながら、北へと走る。

 7両もある車内はすべて満席。窓は水蒸気で曇り、心地好い気温の車内で友人たちは眠っている。私は眠気を誘う車内からデッキへ移り、景色を眺める。やはり居心地が良い。

 列車はエンジンを唸らせながら、塩狩峠に挑む。真っ白な針葉樹だけが立ち並ぶその地は、昔、読んで涙が止まらなかった三浦綾子さんの小説「塩狩峠」の舞台となった場所である。何もなかったように列車は汽笛を打ち鳴らし、塩狩駅を通りすぎた。

 沿線中心駅の士別を過ぎ、20分ほどで名寄に着く。このまま最北の稚内まで乗っていたいところだが、今日は友人もいることだし、予定通り素直に名寄で降りた。今回の旅の北上はここまでである。
 名寄市は人口3万、この北部地方ではもっとも大きな街である。
朱鞠内で ここ名寄から、湖で有名な朱鞠内を経由し、沿線唯一の町、幌加内を通り、深川までの120キロあまりを結んでいた鉄道路線が深名線である。国鉄時代に早くから廃止対象路線にあげられながらも、豪雪地帯で冬期間は道路が封鎖され、バスの運行が困難なことから、ずっと廃止が見送られてきた。

 しかし、最近になって沿線道路の除雪が行われることになった。冬にもバスの運行ができるようになり、昨年9月、鉄道は廃止された。翌日よりJR北海道バスによる運行が始まっている。

 そのバスに今から乗ろうと思う。
 名寄駅前14時41分発、JR北海道バス幌加内行は、鉄道時代と同じく、その乗客のほとんどが周遊券を持つ旅行者であった。
 高速バスか貸切バスと見間違うような豪華バスでの運行に驚く。鉄道が廃止された後のバスはどこも豪華だ。国からの補助金が出るのだろう。こんなバスに乗っていると、あの古びたディーゼルカーが1両で走っていた深名線とはとても思えない。

 バスは名寄の市街地を走る。病院やスーパーの前で2、3人の地元客を拾ったほかは、1人も乗降がない。白い荒野の中の名もない道路を走り、道路から離れた西名寄、天塩弥生とかっての駅近くにも立ち寄る。その他のバス停は、停留所前の家から名を取った「OO前」といったものが多い。

 天塩弥生から北母子里までの20キロ足らずの区間はもっとも難所である。鉄道時代は何ヶ所ものトンネルで深い峠を越えた。バスは線路からは大きく離れ、新しくできた道路をクネクネ曲がりながら、峠へと挑む。

 峠の頂上付近に差しかかると、恐ろしいまでに広く白い山並が見えた。遠くに朱鞠内湖が見える。鉄道時代には味わえなかった壮大な風景である。

 北母子里は、昭和53年に氷点下41度を記録した日本最寒の地として有名である。人口は55人。近くに北海道大学の演習林があるほか、旅人向けの宿が1軒ある。母子里バス停で旅人が一人下車。バスは朱鞠内湖をはさんで、鉄道沿いと反対側を走る国道275号線を行く。
湖畔駅跡
 湖にもっとも近い駅だった湖畔駅に立ち寄る。鉄路も1両分しかないホームも深い雪の中に埋もれている。数分で鉄道時代の中心駅だった朱鞠内に到着。駅舎は待合室として残っており、新たにバスの車庫が出来ていた。世話好きの運転手はトイレの時間と称して、旅行者たちに下車を認めてくれた。

 そこから1時間ほど走って終点・幌加内駅前に着く。沿線で唯一の町である幌加内町の中心部だ。深名線のほとんどがこの幌加内町内を走る。人口3000人余りのこの町の中を走っていても乗る客などいないのは当たり前なのである。

 深名線は末期ガン患者のようであった。
 近い将来、その命が尽きるのは目に見えていた。
 それでも豪雪と闘いながら、誰も乗っていないディーゼルカーを走らせた。100円の利益を上げるのに何千円もかかったが、毎日、決まった時間にレールの音が鳴った。

 私たち旅人はそんな深名線を愛してやまなかった。
 このまま時が止まってくれることさえ祈った。
 草ぼうぼうで錆びついたレールの上をがたがた揺れながら、赤い気動車が走る。誰も乗降のない古びた茶色い駅舎には静寂だけがあった。
 木造校舎の小学校の運動場には、子どもたちの遊び声だけが聞こえた。
 旅人の私に子どもたちは「あれ誰かな?」と疑問の顔を覗かせる。私が微笑むと、微笑み返して鬼ごっこを続けた。流れる雨竜川が美しかった。

 朱鞠内湖もまた静寂だった。乗った列車には私一人。車掌がやってきて「君のためだけにこの列車を走らせているんだよ」と照れ笑いを浮かべながら言った。列車は1日5本もなかった。
 昼下がり、木でできたベンチで眠る。短い夏を懸命に生きる虫の音がこだまする。

 冬、それはすさましい豪雪。赤いラッセル車が雪を蹴散らし、鉄路を守る。それを横目に雪合戦。黙り込んだ集落にはしめ縄だけが下げられている。人の気配はない。

 思い出は尽きない。何度訪れたかも忘れてしまったが、その度に違った風景を見せてくれた。鉄道は消えてしまったが、私たちの思い出は消えることはない。

 バスはそのまま「快速・深川行」となり、陽が落ち、真っ暗になった国道を走り続けた。旅行者以外の乗客は全線通して数名。それでも、明日もこのバスは走り続けるだろう。
 また、これからも深名線と思い出を作りに来ようと思った。
(1996,1)


写真(上から):1994年冬・朱鞠内駅で、旧朱鞠内駅で、雪に埋もれた湖畔駅跡
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