あの海に抱かれたい〜北海道まほろば紀行
page-5 最北の城下町・松前へ
松前城 北海道は現在でこそ、この国の一部となって日本人が在住してはいるが、先住民はアイヌである。言葉も生活様式も違うアイヌの側から見ると、本土の人間、つまり我々は和人と称される。

 和人は蝦夷地支配の拠点として本土の最も近いこの松前の地を選んだ。いわば北海道の和人文化の原点がここにある。

 木古内駅から松前半島を南下することバスで1時間半、日本最北の城下町、松前に着く。
 以前は国鉄松前線が通じていたが、昭和63年に廃止されてしまった。現在はバスで行くしか方法がないのである。

 街はずれにあるバスの終点で降り、国道を歩く。右手には松前湾が見える。津軽海峡からの強い風に吹き付けられる。雪はあまりないが、寒い。

 現在の松前町は人口1万3000あまりの小さな漁業の町だが、かっては北海道本島、南千島や樺太の一部をも含んだ広大な領地を持つ、松前藩の城下町だった。

 さすがに街の中心部に近づくと、至る所に史跡がある。藩政時代の役所跡や奉行所跡、古寺、古社、そしてそれらの中心を成すのが、松前城である。

 松前(福山=のちに広島の福山と混同するので松前に改称)城は、ロシアの南下を恐れた幕府の命令により幕末の1854年に造られた。唯一の近代城郭であるだけでなく、わが国最後にして最北の日本式築城だったという。

 かって、松前5代藩主・松前(旧名は蛎崎)慶広が1606年に築城した福山城がその原型となっている。明治8年に城は壊されたものの、天守閣は残っていた。しかし同年の火災により焼失し、昭和33年に再建されたものが今、ここに残っている。

 少し高台にある城へ向かう。小さな天守閣がちょこんと立っている。眼下に津軽海峡を見下ろし、海岸線に伸びる松前の細長い小さな街も一望できる。天気が良ければ本土まで見えるだろう。

 蝦夷地支配の拠点としながらも、いつもその目は、その心は本土を、つまり江戸の方向を向いていたのだろうか。未開の地、蝦夷での生活は苛酷だったのだろうか。アイヌ文化への侵略に良心の呵責があったのだろうか。
 城が見つめているのは北海道の大地ではなく、津軽海峡だったことが、少し、気になった。

 積もった雪に埋もれながら、一人散策するが、見学者が誰一人いるはずもなく、城の入口には重そうな門扉が閉じられていた。うら寂しさだけが漂う。

 城をあとにし、小さな古寺をひとつひとつ散策する。参拝客など誰一人いない。波が遠くでうねり、木々が風に揺れる。そんな音だけがここを支配している。
 ひっそりとした杉の木立の中にうずくまるようにして立つ古寺たち。内地とは違う極寒のこの地で生活する人々の、心のより所だったのだろう。

 腰まで雪に埋もれながら、松前藩主・松前家の墓所に詣でる。小さな神社の神殿のような形をした墓がいくつも並んでいた。
 墓の前にあまりにも高く伸びるイチョウの木がある。樹齢700年とも言われる。
 激動の時代を生きた人たちはもう、この世にはいない。アイヌとシャクシャインの乱も、松前家の興亡も、幕末の戦乱もすべてこのイチョウの木は見てきたはずである。
 今の松前はどんな風に写っているのだろうか。そっと聞いてみたい気がした。

 帰りのバスの時間までは2時間近くあった。海岸線に沿う国道を函館方面に歩いた。目標は北海道最南端の地、白金岬。
 歩道には溶け残った雪が積み上げられている。海からは容赦なく凍るような潮風が吹きつける。
 1時間も歩くと、そろそろ意識がもうろうとしてきた。

 歩道を歩いている私の横に、非常点滅灯を出し、白いライトバンが横付けされた。
 おじさんが手招きして呼んでいる。
 車なら5分で目的地に着いた。
 「少し寒いよ」と微笑んで送り出してくれた。
 白神岬はさらに風が強かった。横なぐりの雨も降ってきた。でも私の心は不思議と温かかった。
(1996,1)


写真:静まり返った松前城