安  庵  雑  感

2017.10.18


      バックナンバー         
 
 蘭商の裏の顔 

 昔の蘭商には色んな顔を持った人がおられ、蘭界発展に貢献された立派な人であっても、裏の顔にとかくの話のある人も多く、そんな蘭商の逸話を一つ、二つご紹介しましょう。

 「高坂鳳仙」と言えば、著名な愛蘭家や蘭商から ”先生・先生”と呼ばれた、立派な人格者で知られた日本一の大蘭商でしたが、昭和10年頃の話で、九州産の虎物を彼の春蘭道に啓発されていた山梨県甲府市の愛蘭家、「雨宮才一」氏(医師)に五百円で売りますが、雨宮氏はこれは九州産のものと分かり交換を頼んだそうです。

 当時、九州産春蘭は、葉丈が長く大型になる傾向があり、詰まった葉姿を理想とする観賞基準からずれる嫌いがあり、九州物に ”クズ物” の音をあてて蔑む者もおり、鳳仙も産地を隠して商いをしていて、雨宮氏のクレームに対して、またまた更に大きい九州虎を押し付けて、二百円を追加で巻き上げる事も平気で出来た人でした。

 次の愛媛県大洲町の「尾崎繁年」氏(尾崎肱水園)も、戦前・戦後にかけて全国的に名の知られた蘭商でしたが、昭和25年「土佐愛蘭会」の再興時に竹村・「泉 正亀」氏らが「土佐寒蘭銘鑑」を作った時、尾崎氏は「土佐寒蘭の名称は私が登録済みで勝手に使用出来ない。 無断使用は権利の侵害だ。 賠償金三千円を請求する」。

 との葉書が届き、人の好い竹村氏はすぐ送金しますが、今度は泉氏が会誌の表題に「土佐寒蘭」の文字を使った所、すっかり味を占めた尾崎氏は同じ理由で、今度は三万円を吹っ掛けて来たが放っておくと、再三請求が来たので地裁に相談し、泉氏が「訴えるなら、訴えろ」との返事を出したら、その後何も言って来なかったという。

 比較的新しいところでは、平成8,9年頃に他界された香川県琴平町横瀬の蘭商、「野田虎太郎」氏(琴虎園)の話ですが、この人はあの縞物の名花「大雪嶺」を昭和40年に東京に持ち込んで、世に出した大功労者でありますが、その裏では何回もその持主を来訪し、持主の意思に反した執拗な交渉で無理やり買出したものでした。

 そのやり方は、最初こそ礼節をわきまえた対応で、信用させた後は手八丁口八丁の強引な交渉で、一度目を付けたものは決して諦めない執念は、蘭商に必要な能力かも知れませんが、彼の場合は度が過ぎたやり口で、商談成立までは夜を徹して帰らず、強奪に近い態度で持ち帰る、今で言う ”押し買い” 的な強引な商人でした。

 あの「西内秀太郎」翁も彼の人並外れた交渉の執拗さには辟易した一人で、昭和50年頃、翁が珍しい寒蘭を咲かせたとの話を聞いた彼が何回もやって来て、ぜひ売らせてくれと、しつこく迫られ、その場凌に、後一,二回花を見てからと約束した数日後、証人まで連れて来て、この人の前で約束してくれと迫られた事もあったと言う。

 私も野田氏の情報を得ようと、古い琴平の同業者にも聞きましたが、みなさん一様に厳しい見方で、良い事を言う人はおらず、彼の話をするのも嫌だと言う人すらおり、親しい友人もおらず、セリなどで顔を出しても近寄る人はおらず、近寄って来るとみんな逃げ出した言われ、とにかく面倒な人で随分と嫌われた人だったようです。 

 一方、ドスの利いた強面で、常に着物をびしっと着て、背中一面に入れ墨を入れた任侠肌で、大男の暴れん坊を子分に従え”客には損をさせない” を身上に信用の厚かった「八巻甲四郎」氏もおられ、一流蘭商にも目をかけられ、面倒見も良く、若手の蘭商からは慕われ、大棚にも可愛がられたと言う、蘭商にも色んな人がいました。

 ※:元教員で戦後の「土佐愛蘭会」復興時、「竹村寛一郎」会長のもと副会長として、昭和26年~34年まで会の運営(会誌の編集など)に寄与された。 昭和37年80歳で死去。

 参考文献:「日本シュンラン」 誠文堂新光社 (昭和54年) ・「土佐の蘭」 第6号 高知蘭科植物同窓会 (昭和58年)
        「日本寒蘭」 第10号 日本寒蘭愛好会 (昭和52年

 開花が近づいた我が家の寒蘭(10月17日現在)
 


      バックナンバー