安  庵  雑  感

2018.05.23


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 大阪の蘭人 「木村邦夫」先生 ②人蘭一如 

 さて、昭和50年代当初からの寒蘭界は、空前の大ブームを迎えた時期ですが、木村先生は自身の専門分野だった東洋美学面から観賞した時、雛段に並ぶ上位入賞花にも、今一つ寒蘭美の捉え方に不自然さが目立ち、物足らなく感じるものがあり、中には作者や出品者の美的センスを疑うような作品もあったと言われています。

 丁度そんな頃、「土佐愛蘭会」の創立五十周年記念の本部展で、全国の愛蘭会に参考出品を依頼された事があり、「紀州愛蘭会」の大御所「上野 元」氏は、紀州の青々花の銘品「朝 露」と紅花の「紀の赤鶴」を出展する事にしますが開催日が紀州展と重なり、当時の尾宇江副会長に紀州代表として参加する事を頼んだ時の話です。

 上野氏は遠路の長旅で、蘭が痛まないように丁寧に添え木をして運搬、展示時には取り外すように頼んでいたのを会場は多くの展示品でごった返し、ついつい添え木をつけたまま展示してしまったのを、先生の目に留まり、その感想を後日の某会誌上で、出品者の審美眼を疑うような思いがしたと、手厳しく批判した事がありました。

 上野氏と言えば蘭界では知らぬ人がいない大物で、片や「寒蘭の美学」を説くポッと出の学者趣味人に、如何に正論だったとは言え多くの愛蘭家が目にする会誌での一刀両断に、大いにプライドを傷つけられ、翌年に先生が「関西寒蘭会」の会長に就任されるや、上野氏は創設以来の顧問を辞退されると言う因縁話も残っています。

 その後も先生は、機会ある毎に地方の愛蘭会に出向いたり、東京ドームの蘭の祭典などでは長年教壇に立たれ、常々「ワシは舌先三寸で、四十年メシを食って来た」と言われていただけに、極めて雄弁に東洋蘭の美術論と言う難しい話を、巧みな話術で分かり易く講演され、愛蘭家の間でも鑑賞の指針として評価されてはいました。

 反面、寒蘭を美術品の一つと位置付けて、花の咲かせ方について、花の向きがどうの、花茎や花間がどうの、
余白美がどうの、葉の垂れ具合がどうとか、その外観的な造形美を論じる小難しい話に、地方の名もない蘭好きの老人から、「如何に上手に咲かせても、蘭には花の命が出ていないと駄目じゃ」と言われた事がありました。

 その老人の蘭に対する深い洞察力や思い入れの源は、長年にわたって蘭を慈しんで来た日常の愛培生活の中から生まれ、その豊かな感性や美意識が磨かれて来たもので、寒蘭本来の持ち味、うまみと言った内面美を尊ぶそんな長老にかかると、学者の常としての理論の先走りに躓き、さすがの先生も一瞬影を失ったものです。

 ところで、先生は元来体が弱く、大学を退官する時、主治医から「先生の身体ではそう長生きは出来ませんよ」と言われていましたが、当時の井上会長から健康のためハイキングを勧められたのが功を奏し、夫人と八十歳を過ぎても週に一度は関西近郊の山歩きをして、森林浴や四季折々に咲く山野草を楽しんでおられました。

 先生の生涯にわたっての蘭作は、当初から単なる植物栽培、趣味道楽に終わりたくないと言う、学者ならではの美的創造を貫き、日々無我の境地に立って、人か蘭か、蘭か人か、蘭と人の区別なく、同心一帯感を持った
人蘭一如」の境地にまで止揚する作を愉しまれつつ、平成22年九十六歳のご長寿を全うされました。(合掌)
 
  参考文献:「月刊 東洋蘭」 第4号・27号・59号 寿楽園 ・「素心」 第20号・23号・39号 「関西寒蘭会」 
 

終生、寒蘭の美学を追及された
 


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