安  庵  雑  感

2017.08.23


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 土佐の元老 「岡崎繁吉」さん 

 今まで土佐寒蘭界の元老と言われる何人かをご紹介してきましたが、今回は「土佐愛蘭会」創設の頃から先輩らと苦労を共にして、その発展に尽力された、もうお一人の元老、「岡崎繁吉」氏を紹介します。

 岡崎氏は、明治34年に高岡郡佐川町斗賀野で広大な山林と田畑を有する屈指の大農家に生まれ、孝行息子で良く父母を助けて農業に精を出す一方で、土地柄か近隣の山には寒蘭が潤沢に自生しており、十代の頃から山から引いて来た蘭を趣味で栽培をするようになり、家の裏庭に蘭棚を作って花を咲かせ楽しんだと言います。

 岡崎氏は名花「銀 鈴」を採取し登録とした人として有名ですが、18歳頃先祖の墓参で「尾川西山」た行った折に引いて来た蘭の中から、昭和7年に上品な青花が咲き昭和9年の命名陳列懇談会に出品しますが、席上で、「こんな並の蘭に命名するほどの事はないのでは...」との意見も出て、結論は翌日に持ち越されたそうです。

 命名は会長以下、「西内秀太郎」氏ら十余名の審査員で決められ、名前の由来は当時、舌の中央に一点だけ鈴のような点があったとか、花間が詰まり気味で巫女さんが持つ神楽鈴のような花容からだと言われ、名は体を表すと言うか良く似合った名前ですが、当時は「青々花」とは言われず、「白花系」として扱われていたそうです。

 一方、この時「香曾我部守成」氏出品の「桃 源」を見た岡崎氏は一見して魅了され、入手を希望しますが、所有者が少なく、蘭友の ”佐川の殿様” 「竹村寛一郎」氏も栽培していましたが、数年後に枯死させ、香曾我部氏の株も、九州の炭鉱王「岡本彦馬」氏に、通り値の六百円を二千円以上の金で買い占められてしまいます。

 わずか久礼町の開業医の島津氏が栽培しているものが残っていたので、分譲願いに日参しますが、島津氏は同町の洋服屋の「広瀬真次郎」氏から子供の病気治療代の見返りに受け取ったもので、二鉢に増えて大株立ちになっていましたが、岡崎氏がいくら頼んでも、「広瀬に返すものだから...」と言って分けてくれなかったと言う。

 それでも毎年秋になると久礼の八幡神社の例祭に行って、島津氏の「桃 源」を見るのが楽しみで、何時見ても素晴らしく、時間の経つのも忘れ、拝みながら鉢を抱かせて貰っていましたが、暫くして見せてくれなくなり不思議に思っていた頃、竹村氏から島津氏の「桃源」を植え替えてやってくれないかと連絡が入ります。

 岡崎氏は、土つくりをして島津氏を訪れますと、二鉢とも葉が中枯れしかかり、根も全部腐ってなく、バルブにも当たりがなく、何とか植え替えはしたものの、育つのは危ないと話していましたが、間もなく枯死してしまい、それを「高橋勝護氏に話すと、名品は多くの人が作らないといけないと戦後の「日 光」の教訓とされたのでした。

 また初めて「西谷山」に行ったのは昭和10年頃で、宿毛の「土居覚太郎」氏が、一度遊びに来ないかと言うので、佐川から西谷まで自転車で行ったそうで、夜明け前から出かけ難所と言われた急な「久礼坂」を超え、中村に着いた頃はもうクタクタで、目指す宿毛はまだ六里先、着いた頃はもう夕暮れで、当時そこは陸の孤島でした。

 その後も懲りずに、自転車で何回となく泊りがけで西谷を訪れ山採りを試みますが殆ど採れず、村のおばさん達4,5人が組を作って、山採りしている人達に連れて行ってもらう事もありましたが、それでも採れずに仕方なく
おばさん達が採ったものを売ってもらったり、炭焼き人が地植えにしたものを買って帰ったりしたそうです。

 戦後は、いち早く竹村氏を中心に「土佐愛蘭会」の復興に尽力され、昭和38年に「日 輪」で総合優勝されるなど活躍される一方、竹村・「秋沢子太郎」・「西森 栄」氏とは大の仲良しで、佐川ではこの四人が集まらないと話が進まないと言われ、昭和52年に「土佐愛蘭会」の常任顧問の五人の内この四人が揃って就任されています。

 岡崎氏は小柄な温厚篤実な性格で、人が良く人を疑えない人柄から、手八丁口八丁の蘭商には良く騙されたそうで、「西谷物」が大ブームの頃は、小苗を何十本も高額で買ったのが全て青花だった事もあり、そんな時でも、”やられた...” と苦笑いするだけで、商人を咎めず自分の恥を率直にさらけ出せる謙虚な人でした。

 昭和55年の土佐愛蘭会創立五十周年記念式典では、長年に渡る愛蘭会発展に寄与した貢献により、佐川の四人組が揃って特別功労者賞を受賞された四年後、岡崎氏は惜しまれつつ83歳で逝去されています。(合掌)

※:越智町で医院を営んでいた医師。 土佐寒蘭発展の基となった「日光」を昭和29年に隣町の佐川町の親しい蘭友の「戸梶伊織」氏と共に世に出した人物。
   この名花をかっての「
桃源」のように絶滅させてはならないと「日光会」を組織され、第五代目「土佐愛蘭会」会長も務められました。 昭和44年に逝去。
 
 参考文献:「寒蘭」 復原版 ・第60号・63号・65号・67号 土佐愛蘭会

 土佐の大元老 岡崎氏を忍ぶ
 
 


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