安  庵  雑  感

2017.06.21


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蕙蘭盛衰史 ②第一次蕙蘭ブーム

 さて、我国の蕙蘭栽培の歴史ですが、古くは奈良時代に遣唐使が、鎌倉時代には僧侶が持ち帰り、足利時代には中国から僧侶や商人の手で「大明蘭」や「報歳蘭」が輸入され、寺院や大名の間で栽培されたと言う話がありますが、一般に栽培し出したのは、葉変わり物が出て来た江戸時代中頃からと言うのが通説になっています。

 今から凡そ二百数十年前の天明年間に、紀州の鍛冶屋の職人が栽培していた地蘭の中から雪白縞が出て、
「鍛冶屋の出嶋」(現在の「加治谷」)と呼ばれてもてはやされるようになり、その栽培熱も高まり余りにも高値で
取引されたので、幕府から売買禁止令が布告されたと言われ、これが我国蕙蘭柄物の元祖と言われています。

 その後、幕末から明治にかけて黄爪の「金華山」や白黄縞の「桑原晃」などを筆頭に多くの品種が出て、色ん
なエピソードを生み、当時これらを見るのに紋付き袴で手に末広を持ち、白布がかけられた祭壇から三尺下が
って拝見したとも伝わっており、次第に愛好者の幅も広がり、同好会や個人で銘鑑を発行するようになります。

 また有名な話に明治30年頃、京都の蘭商「泉月堂」の「泉 藤三郎」氏の絶頂期に発行された銘鑑の告示に、それは「金華山」に縞が出たらその作者に金盃を、それを知らせてくれた人には銀盃を贈り、譲ってくれた人に
は万金を厭わず買上げると記載(下参照)し、毎年正月には金銀盃を床の間に飾り待っていると言うものでした。

 さて、その後「金華山」等から多くの変化種が昭和の初期にかけて出始め進化する中、この蕙蘭と言う名称が
が使われ出したのは、昭和3年に大阪の耳鼻咽喉科の医師で愛蘭家の、「乾 保」氏が著した「蕙蘭の手引」が
最初と言われ、同年近畿の愛蘭家団体、「大阪不老会」発行の第三号の銘鑑は「蕙蘭銘鑑」となっています。

 この頃から、培養法の進歩と共に蕙蘭界は一大発展し、各地に愛蘭会が発足、第一次蕙蘭ブームが勃発し、昭和7年に満州国が建国、蘭花が国花と定められ事で、更に栽培熱が高まり「魁」・「朝陽」・「日進」や「明玉」に代表される ”細葉系蕙蘭” が全盛時代を迎え、一芽が千円~数千円と高ければ高いほど売れた時代でした。

  「日進」や金五十両  欲深き心の鬼に追われけり  いずれは墓所の塵とならん  浮かぶ瀬もなく桃川の淵

 この句は、奈良の蕙蘭の大家「吉田安正」翁が、「日進」が高値を呼んでいた当時、久留米市の「古川蘭堂」と
いう坊さんが吉田氏を訪れ、「枯らすから持帰るな」と断るも聞かず、五十円を置いて帰った時に呟いた句です。

 この黄金期の蕙蘭界には、多くの人材が自然と集まり、蘭界の元締めと言われた大阪の「村田吉之助」始め、
「江川量三」・「岸田亀次郎」・奈良の「吉田安正」・岡山の「柳井辰二」、三十代の「住田幸四郎」・「小野寺員一」
兄弟・九州の「浦 鶴一」・高松の「平見修平」氏ら多士済々の顔ぶれで、活気に溢れた一時代を築いたのです。

 蕙蘭を投機の対象にした人達にとっては、この頃の人気品種の新芽が伸びるのを金の延べ棒が毎日伸びる
ようなものだったと表現されたほどでしたが、昭和12年頃から時代の寵児として一世を風靡した「明玉」や「魁」
などが増殖過剰となり、消化しきれず暴落し、加熱した人気も低迷、太平洋戦争がさらに衰退させて行きます。

   参考文献:「東洋蘭と西洋蘭」 金正堂 (昭和10年) ・「東洋ラン・柄物」 誠文堂新光社 (昭和42年)
          「蕙蘭・寒蘭」 立風書房 鈴木助三・愛国共著 (昭和50年) ・「ガーデンライフ」 誠文堂新光社 (昭和60年10月)          


 戦前の蕙蘭の一例と人気にした人
 

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