山採り名人
  

  ・采沢喜八郎 ・菱木喜運 ・菊地 明 ・山採り名人

 

’09.01.14(水) 山採り人「采沢喜八郎」

栃木県足利市に「蘭喜園」という、主として羅紗系の葉変りや奇花などの珍品春蘭を専門に商うお店があり、園主は、「全国日本春蘭連合
会」理事長でもある「
采沢 修」氏で、上野の展示会や「弥生九日会」などで、ご存知の方も多いと思いますが、今回は氏のお父さんで、有
名な春蘭山採り人だった故「
采沢喜八郎」氏の話です。

喜八郎氏は大正4年に、室町幕府を開祖した「足利尊氏」の生誕の地と伝えられ、織物の町としても知られる足利旧市内のお寺で生まれ
この地は関東平野の北端にあって、三方を山で囲まれている、自然色豊かな土地柄でもあって、自ずと子供の頃から遊び場は山野で、自
然に親しむ花好きの少年に育ったと言います。

昭和5年の15歳ごろの事、自宅の裏山で、偶然に美しい虎班の春蘭を発見、当時町内に春蘭好きのお年寄りがおられ、「見せてごらん」
と喜八郎少年の採取した春蘭に、いくらかの小遣い銭を貰った事が縁となり、いろいろと、春蘭について教わっている内に、新潟を中心に、
輪波の花」が契機となって第一次春蘭ブームが到来します。

やがて、足利の村にも水戸から有名な蘭商や、新潟の石油王、「中野忠太郎」氏の御用人らがやって来て、人気のある虎班は言うに及ば
ず、春蘭なら何でも買って行くようになり、この虎班の発見により、何時しか春蘭の山採りが病みつきとなって、喜八郎氏の生涯唯一の趣
味として、山採り人生60年がスタートするのでした。

山採り名人菊地翁もそうであったように会社勤めも山に行き易い守衛業務を選び、朝の9時から翌朝の9時まで勤務、翌日は代休で帰る
とすぐ”おむすび”を持って山に入り、5時間ほど探索して帰って食事をして就寝、花時には有給も取って、月の半分は山に入るのが常で、
全てを忘れて春蘭の採取に没頭したと言われます。

その熱の入れようは、昭和30年頃に家族の反対を押し切り、旧市内からわざわざ山登りに便利な足尾山地に続く山塊の麓に引っ越して
来たほどで、また花ものは採取期間が短いので、その期間中一杯は山に入り切って探したいと、野宿用のテントまで用意しましたが、これ
ばかりは奥さんの許可が下りず実現できなかったとか。

「猟師山を見ず」の言葉とは反対に山採り人はまず山を選ぶと言い、その条件を口で言うのは難しいが、経験的に言えるのは、「立木が伐
採された坊主山、よく乾燥したポコポコ土の所、牛の背のような尾根筋、山ツツジの生えているような所、日当たりの良い5〜600mの山
の7号目から頂上にかけて、運とねばりが勝負」だと言う。

生涯に亘り年間八ヶ月60回は山に入り、戦争中のブランクを差し引いても三千回は入山した勘定になり、その間、採取した優良品種は数
知れず、その殆どは人にやって枯らせてしまい絶種、中でも縞物の「ひるこ姫」や「幸迎殿」、蛇皮物の「足利の図」、虎物の「足利之華」、
「尊氏宝」等々は逸品の誉れ高き名蘭だったそうです。

昭和43年の冬期のある日、喜八郎氏が会社の上役加藤氏を案内して、足尾山地へ柄物を採取に行った際、その加藤氏が初めて採取し
た株に蕾が付いており、やがて春になって咲いた花は、何と、赤・黄・緑の鮮明な縞の入った雄大な大輪花で「
大虹」の再来と騒がれ、昭
和50年に登録されたのが、今も健在な「
紅孔雀」です。

また昭和58年、益子の故「濱田篤哉」氏が凄い赤花を咲かせ、「陽明門」と命名したのは、むかし喜八郎氏が佐野市赤見の松林で採取、
濱田氏にあげたもので、喜八郎氏は”消防車の赤色”と表現、川越の赤花権威者、故「
亀谷俊司」氏はそれ以上で、今まで見た事のない
艶々と照り輝く程の、素晴らしい赤花と絶賛したと言う。

氏の春蘭への深い愛と思いは、すでに中学生の頃から山行きなどを通じて、指導して来られた長男の修氏に、しっかり引き継がれて他界
されたのは、今から15年ほど前のことでした。   (合掌)

  参考文献:「ガーデンライフ」 第22号 誠文堂新光社(昭和42年) ・「日本シュンラン」 誠文堂新光社 (昭和54年) ・「らん」 7号 池田書店(昭和59年)

’07.02.28(水)   山採り名人の二人 A「菱木喜運」

もう一人の山採り名人「菱木喜運」氏は、明治36年千葉県に生まれ、本職の時計職人の傍ら、昭和7年頃から近くに住んでいた蘭好きの
老人の影響を受け、山採りに親しみ、世情が安定し出した昭和30年頃からは、仕事の行き帰りに頻繁に入山するようになり、多くの変わ
り花の八重咲き系(牡丹咲き・菊咲き・三段咲き)を発見されました。

何と言っても、菱木氏の特筆すべき山採りの目標は、「色花もの」などは眼中にはなく、ひたすら、「変わり花」を探索し続けた事で、中でも
特に名品と言われ、今に存続している、「姫菊」(昭和30年)、「東菊」(昭和31年)「常陸牡丹」(昭和33年)、「群胡蝶」(昭和38年)など
立て続けに一人で発見したと言うから驚くところです。

氏は誰もが認める「山採りのプロ中のプロ」であり、他にも黄花系の名品、「月光」を昭和28年に、又当時、東京の名高い蘭商「梶山一直」
氏から「千葉から赤花は出ない」との話に大いに発奮し、今までは見向きもしなかった色花を目標に入山、現在でも尚、人気の高い朱金花
の絶品「
光琳」を昭和31年に発見されておられます。

もし菱木氏が、もっと色花に興味を持ち、それに的を絞って探索されていたら、もっと多くの色花の名品が世に出ていた事でしょう。
一方、山採りは名人ではあったものの培養技術は今一で、枯らしでも名人だったようで山採りして育てるより、もっぱら右から左にさばき、
そのお陰で現在まで名品として残ったとも言えます。


さて、氏の山採り名人と言われた所以は、持って生まれた口では表現出来ない神がかり的な勘で、あの山に有りそうだとか、有りそうな山
の傍を通っただけでビビッと勘が働き、探すと必ずと言ってよいほど良い蘭が見つかり、有りそうもないと感じたら、そこがまるで植え付けた
ように、べたべたに蘭が繁茂している所でも、何も取れなかったと言います。
 
一般的に山採り人は、名品の採取した場所は他人には教えないもので、その極意を聞いても曖昧に、”勘”とごまかしますが実際はちゃん
とした根拠があり、南向きの松山で年代のある程度古い、25年から50年生位の木が、それほど込んでいなくて明るい光が地面に差して
て、下草が繁茂している所に多く産したそうです。

また素心は、一度採った場所からは必ず毎年のように採れると、先述の菊地氏と同じ意見で、半径50m位の割合狭い範囲にかたまって
おり、ここはと思った山の場合は、家族を一列に並ばせて、「この山は柄物に注意しろ、この山は素心に気をつけろ」と指示を出し、徹底的
に「
膝にわらじ」の例えで探させると誰かが必ず採ったと言う。

菱木氏は生来、山採り人としての資質の”勘”と共に、その眼力も抜群で、大体蕾の先が一寸でも見えていれば、かなり離れた場所からで
も赤花を見逃さない自信があったと言い、あっ、あそこにあるなと思ったら、子供達の経験のために、「この辺に赤花があっから探してみろ」
と言って探させる事もあったそうです。

また、誰かが名蘭を採った山を良く調べるのも早道で、茸と同じように、後から行った人が又見つけるもので、茸は千人の股をくぐると言うよ
うに蘭も同じで、これはという山は一年だけででなく、来年も再来年も諦めずに、執念を持って探し続ける”
運・鈍・根”が必要で、その年は
駄目でも何時か必ず採れると断言されています。

  参考文献:「日本春蘭」 池田書店 平野綏 昭和62年

07.02.21(水)   山採り名人の二人 @「菊地 明」

蘭の山採り名人と言うのは、春蘭の世界だけの言葉のようで、その理由はエビネなどとは違って、色、形、変異の数が、圧倒的に少なく、
春蘭の名蘭が世に出るチャンスは、万に一つどころか億に一つもどうかと言われる位、人が生涯かけて探しても出会えないほど確率が低
い事から言われて来たのではないでしょうか。

今回は、その代表的な春蘭山採り名人の二人についてご紹介しましょう。  その方は主として千葉県近郊で活躍された赤花の「菊地明
氏と変わり花の「
菱木喜運」氏で、共に明治36年の同い年生まれで、既に故人になられて久しいですが、何れも現在に存続する多くの名
花中の名花を発見されておられます。

菊地氏は福島県から千葉に移り、この道に入られたのは、戦前の昭和10年初頭からの第一次春蘭のブームの頃で、家のすぐ前に住む、
千葉では山採りの第一人者と称された、「伊坂栄蔵」と言う、春蘭の変り物を近郊の山から採って、培養されている人に影響され、次第に
興味を持つようになり入門、指導を受ける事になります。

昭和11年2月、初めての山行きで、はからずも覆輪の大株を発見、この事が病み付きとなり、菊地氏をして終生山採りに熱中させる動機
となり、勤務も千葉大学の事務系から、一日おきに明け番があり、山に行き易い守衛に配置換えを希望し退職までに「虎」と「縞」と「赤花」
の優品を必ず探して見せると山採りに励むのでした。


戦後の昭和30年代から、菊地氏の名蘭探しも最高潮を迎え、蛇皮斑「錦波」を昭和35年、昭和40年には、生涯を通じて、これほどの興
奮はなかったと言う、希代の赤花
紅明を発見、その花を一目見た当時の有名な目利きの蘭商「八巻甲四郎」氏が、「おおー」と言ったき
り、帰るまで口もきかず鉢から手を離さなかったという。

その「紅明」が八巻氏から”赤花名人”「榎本敏一」氏に渡り、その手により赤色の発色が飛躍的な進歩を見せた事は周知の通りで、その
後も、素心の「白翠」を昭和43年、又も赤花の名品「
紅梅仙」、「紅雄」を、昭和46年に「紅明」と同じ千葉県椎名崎町の山林で、二度まで
も発見するなど、幸運にも恵まれた山採り人生でした。

菊地氏の名品探索には経験則に基く根拠があり、北向の山、杉や檜の山にはまず少なく、柄物なら地肌が見えるくらいの良くしまった所、
花物なら落ち葉の溜まった柔らかな所、特に素心などは茸と同じように、ひと山の内で出る所は限られており、一度採った場所には数年間
は、必ずと言っていいほど毎年見つかったそうです。

氏への山採りの極意とはの問いに、第一に、名蘭を産した山の状況を見極める力を養う事、次に、この山にありそうだと思ったら、丁寧に、
隅から隅までくまなく探し、歩き方は直線的でなく、ジグザグに行きつ戻りつ上がって行く事、そして最後に「
常に楽しみながら探す事」。
これが山採りの最高の秘伝なりとおっしゃっています。
 

 
参考文献:「日本春蘭」 池田書店 平野綏 昭和62年

03.02.26(水)    「膝にわらじ」をつけて

日本春蘭(以下春蘭)の名品の大半は、昭和初期から終戦までに発見されていますが、今もその数は少なくなったものの、まだまだ新しい
名品が発見され続けています。

今、私達の心を楽しませてくれている、数多くの春蘭・名品の陰には、これらを世に送り出してくれた、先達の山採り人の方々の、ひたむき
な執念と努力、苦労に感謝すべきでしょう。

人の新花に対する際限なき欲望に、先人達は長野の山、筑波の山麓と人の侵入を拒絶するような雑木林の中を毎日のように探索し、その
様は
「膝にわらじをつけて」と形容されたように地面を這うように探し回る為、顔や体は常に擦り傷だらけだったと言います。

春蘭の場合は、寒蘭のように名品の出る「坪」のような場所は一部を除き殆ど見られないので、これらの名品は、万に一つ、いや、億に一
つの夢の中から見つけられた貴重なものと言え、その在り処は正に神のみぞ知る「宝捜し」のようだったのでしょうね。

その山採り名人と言われる人達は、長年に渡る経験によって、鋭く研ぎ澄まされた特有の「勘」を持っていたと言われ、名品の出そうな場
所はそれなりにピンと来るものがあり、其処を通る際の空気でわかり、無いと感じる場所では、まず何も採れなかったそうです。

彼らは山に入ると、当たり一面に春蘭が絨毯のように繁茂していても見向きもせず、たいして生えていない場所でもピンと来るのか、猟犬
が獲物を見つけたように目付きまで鋭くなり、ここらで探そうと例の「膝にわらじをつけて」で、一本一本丁寧に探し始めるのです。
そして不思議と思えるぐらい、かなりの確率でその辺りから赤花を採って見せたものでした。

山採り人の中には、意識的に公表を嫌い中央との交流も求めず、又展示会のような賑わいにも溶け込まず、一人黙々と蘭作りを楽しむ人
も居り、そんな人の「かくれ棚」で今まで見たことの無い、数寄者が目を剥くような名品が潜んでいる事もあり得ると言われています。