名品の由来話
  
エビネ 神紫光・渡川の幻・日向の幻・端午・嵯峨・黒尊・茶坊主・紫天王・織姫・鳳凰・太陽・砧えびね・紫織・金閣宝・済州島
     ・富里
春 蘭  軍旗万寿 ・水心子 ・大雪嶺 ・南紀 ・富水春 ・大虹 ・寰球荷鼎 天心 ・琥珀殿 ・極紅 ・不動の松(花)・宋梅
     ・日新・光琳・輪波の花 ・桃山錦 ・天紫晃 ・紅明
寒 蘭 ・水月 ・光貴 ・紅鷲 ・みゆき ・丹鶴 ・三世冠 ・白鳳 ・銀鈴 ・西隆 ・神竜 ・不老白・桃源・日光・武陵・白妙・豊雪
 

’11.10.26(水)   土佐寒蘭 素心 「水月」 @楠山の出井で発見

高知県宿毛市水道町で、モーターバイクや自転車などの販売業をしていた「井関幸雄」氏は、蘭歴も長く、昭和30年代の若い頃から趣味で
寒蘭を愛培され、あの有名な赤花寒蘭、「
土佐の茜雲」(昭和41年)などの登録者でよく知られた愛蘭家ですが、今回ご紹介する素心寒蘭
の名花「
水月」も、井関氏が登録したものです。

この蘭の採取者は、井関氏の店に勤めていた橋上町楠山住人の、伊吹と言う人が楠山の出井の山林で採取したもので、昭和45年の初秋
の頃、兄と共に楠山の親戚の家の普請で、棟上祭りの後の
瓦伏せの手伝いに行きますが、作業が思ったより早く終わったので、蘭でも引き
に行くかと言う事になり、兄弟で出井の山に登ります。

楠山は坂本の「西谷山」の北方約六キロ、宿毛市を縦断して流れる「松田川」の上流、市の最北部にあり、この楠山は金鵄系の「西谷山」と
好対照的に、古くから白花系の産地で知られており、「白雲」、「白扇」、「残雪」の他、更紗無点の「
明鳳」や、素心の「聖雪」、名花の「」が
登録されるに及んで一躍有名になった土地です。

山に入り、人伝てに聞いていた蘭坪を探索、夕方近くまでに十数本の小苗が採れたので、今日はもう帰ろうかと出井橋の焼堤辺りの眺望が
開けた小高い所で、兄が一服つけて暮れかかる初秋の山々の景色を眺め、岩の上からいばりを放ちながら、浩然の気を味わっていると、ふ
と、いばりの行方に目についたのは...

それは蘭のような草が風にそよいでおり、急いで身繕いして降りて行って見ると、それは紛れもなく四、五本立ちの寒蘭で、30cmほどの緑
の花茎に青い蕾をつけて風にゆらいでおり、大声で弟を呼び二人で丁寧に掘り起こし、二人は思いがけない収穫を喜び、傍に生えていた小
苗も一緒に茅の葉で束ねて山を降りたのでした。

出井橋に降りて来ると、そこに車が停まっており、宇和島から蘭を採りに来たと言う数人連れが帰り支度をしている所で手にした蘭の束を目
にとめ、「ちょっと見せてくれ」と、兄が束を解いて見せると、その蕾の付いた株をしげしげと見て「譲ってくれないか」と、「譲らん事もないが幾
らで買う?」と聞くと、「十万でどうか」と言う。

兄は一瞬考えて ...十万と言うからには、これはかなり良いものに違いない。   それなら売る訳にいかん...と、そう思ったので「まあ、
やめておこう」と断って持ち帰りますが、この時の事を、後日、伊吹の兄は、「あの時もし一万でどうか?と言われていたら恐らく即座に売って
いただろう」と、述懐していたと言います。

それから暫く経ったある晩、伊吹の兄が井関氏を訪ねて来てその話をすると、興味を覚えた井関氏は、すぐさま彼に同行して、楠山の家に行
き見た蘭は、大きな素焼鉢に植えられ、葉が雄大で葉幅を引き、花茎も子房も薄緑で、三輪の蕾は固くて花弁や舌の様子は識別出来ない
が、悪くても青々花には間違いないだろうと見ます。

花付きは置いておくと言うので、その日は1本だけ分けてもらって帰りますが、翌日になって電話がかかり、花付きを売ると言うので、躊躇な
くかなりの大金で入手、暫くして井関氏の手許で開花した蘭は、何と純白の花弁の折鶴芸で、舌にも腮にも一点の染みもない、正真正銘の
素心花で、井関氏はその幸運に驚喜するのでした。

 参考文献:「蘭雪」 第7号 なにわ蘭友会 (昭和54年)

’11.11.09(水)   土佐寒蘭 素心 「水月」 A命名の由来

その後井関氏の株は順調に成育し、昭和47年春に狂い咲きの花芽が出て、本来切るところでしたが、そのまま残して6月末に開花したの
を、7月上旬の中村市と高知市の新芽会に仮称「
井関の白花」として参考出品した所、折鶴芸のある素心と言う事で大きな話題となり、この
時を契機に巷で「井関の白花」が噂されるようになります。

この時、この蘭に命名したらどうかという話も出て、名前をあれこれ考えるも、相応しい名前が浮かばぬ儘、その年は見合わせられ、その後
兄事している「
東條五郎」氏ら他、四、五人に分株したせいか、井関氏の株に花が上がりませんでしたが、昭和49年に分株した内の一人だ
った宇和島の「兵頭正雄」氏のものに初花が付きます。

井関氏は「岡村豊吉」、東條氏らと宇和島まで見に行くと、三輪の内二輪は虫に食われていましたが、残った真ん中の一輪の花は、二年前
の夏に狂い咲きした花とは数段に冴えた良い花で、一見した岡村、東條氏らは「これが本咲きしたら土佐寒蘭の素心の中では恐らく右に出
るものはないだろう」と、大きな感銘を受けます。

東條氏はその晩、大阪の「井上雄仁氏に電話で昼に見た「井関の白花」の強烈な印象を伝えると、直ぐにも欲しい意向だったので東條氏
の仲立で井上氏の棚にも入り、土佐でも急に騒がれ出しますが株数も少なく実際に花を見た人も少なかったので、この花は十月咲きだとか
花が弱いとか色々、巷で噂が立ったそうです。

その後東條氏は井関氏と相談し、この素質ある花を11月に本咲きさせて高知の展示会に出品し、その時にこれに相応しい名を付けようと、
命名は東條氏に一任され、翌年の昭和50年に東條、井上氏の株が花芽を上げたので、東條氏は育ての親の井関氏に登録して貰いたいと
その命名を井上氏に依頼したのでした。

さて、「井関の白花」に正式命名を依頼された井上氏は、昭和50年9月末、花の特徴と素質を聞き、送られて来た写真を見たり自分の手許
で青々と伸びつつある花芽を眺めたり思索を巡らせながら、ふと居間の床に掛けてある大叔父、菊僊禅師の「
掬水月在手」の墨蹟に目を留
め、豁然として「
水月」の名を得たと言います。

それは大叔父が岐阜、多治見市の名刹”虎渓山永保寺観音堂”(鎌倉時代に夢窓国師が開創)の老師だった昭和21年、近世陶芸の巨匠
「荒川豊三」氏が、虎渓山裏に窯を開くに当り窯名を依頼され、この観音堂が国師により禅の辞、「掬水月在手」から引いて別名、「水月場」
との謂われから、「水月窯」と命名したという。

井上氏は、その由来を奉書に認め東條氏に送り、その開花を待ちますが、まだ木勢が十分でなかったため、正常開花せず、結局、三輪中の
二輪が開花した東條氏の株が、何とか11月の「土佐愛蘭会」と「日本寒蘭会」の展示会に間に合い、ここに晴れて井関氏の名前で「水月」
が新花として二つの会に登録されたのでした。

この「水月」は、昭和52年秋の「日本寒蘭会」の展示会において、東條氏の五輪の大花を付けた株が、その優れた素質を遺憾なく発揮して
堂々の総合優勝の栄冠に輝き、その時の写真は翌年、東京で初の土佐寒蘭の銘品を紹介し、愛蘭家の絶賛を博した日本橋三越本店での
「東條五郎個人展」のポスターを飾っています。

 ※:大阪市で、若くから会計事務所を開業され、昭和48年に「なにわ蘭友会」の創立した中心人物。  土佐や紀州の多くの蘭人とも人脈を持ち、特に「上野 元」氏に
    私淑して、寒蘭はもとより茶碗や花器など陶芸にも造詣の深い愛蘭家でしたが、病に倒れ、平成5年、61歳の若さで急逝されました。

  参考文献:「蘭雪」 第7号 「なにわ蘭友会」 (昭和54年) ・「桃源」 第8号 「日本寒蘭会」 (昭和51年)

’11.01.19(水)   紀州寒蘭の名花 @「光 貴」

それは今から50年近く前の昭和38年11月初旬の頃、熊野市木本町で写真屋を営む「亀井楢好」氏は蘭友で小学校の先生、「糸川 浩」氏
の授業が終わるのを待って、かねてから「昔良い赤花が出た」と噂の「古座奥」の旧小川村の「
滝の拝」を目指して、ひどい悪路を迷いながら
も約100Kを走り、やっと小さな旅館に着きます。

田舎料理を食べながら宿の女将さんに、この辺で昔から蘭を作っている人の話を聞いたり、夜遅くまで地図を広げて明日のコースを相談、こ
れで良しと床に入るも何々寝付けず、瞼に白花や赤花がちらつき空想が空想を呼び、次々に夢の花を描く内に何時しか眠りに入り、雨だれ
のような音に目を覚ますと、まだ夜明け前でした。

亀井氏は、えっ雨か!と思って飛び起き窓を開けると川は一面に”もや”で霞んで何も見えず、雨は降っていないが何と、びっくりするほどの
夜露が屋根から滴り落ちて、その音が雨だれに聞こえただけで、夜明けと共に霧も晴れ上がって快晴になり、二人は朝食もそこそこに、宿を
出発、少し先の「
椎平」部落へ車を走らせます。

部落に入って車をゆっくり走らせているとプーンと蘭の香りが、糸川氏が鋭い鼻を利かせて「ここだ、ここだ」と、塀越しに覗き込むと数十鉢が
見事に花を付けており、家の人に声を掛けると愛想良く応対してくれ、これはお爺さんの蘭で、今ちょっと出てるがすぐ帰って来ると思うので、
それまでどうぞ見ながら待って下さいと...

目を奪ったのは、一番奥で見事な赤色で咲く十数本立の大株で、夢で見たような濃紅色で、近づくと益々びっくり、こんな花があるのかと言う
位の超大輪、定規で引いたような真一文字、日に透すとブドー酒の如き赤色、思わず嘘だろうと目をパチクリさせて何度見ても間違いない夢
の世界ではない、この世の見事な花でした。

二人とも頭の中が空っぽになり、他の花など眼に入らずウーンと唸るばかり、その内、ご当主の「堀切種一」氏(元郵便局長)が帰宅され話を
聞くと、採れたのは多分「
赤木」だとの事、徐に分譲を願った処、機嫌良く三鉢出された内の小株を種木に残し、大株二鉢を戴き嬉しくて荷造
りするのも二人で大騒ぎ、胸に抱えるように帰ったのでした。

ところで、この花と特徴が実に良く似た蘭が、昭和30年に新宮市の「瀧谷源太」氏が「光貴」と命名後、すでに絶種したと聞いていた糸川氏
が、瀧谷邸に伺い、「光貴」は絶種したと聞いていたが、これが「光貴」ではないかと尋ねた処、「光貴ではない。 光貴は古座奥の産ではな
く良く似ていても違うものだろう」との返事でした。

氏は上野氏の師匠で、紀州蘭界一と言う古老でもあり、言う事にまず間違いなかろうと、亀井氏は杉本会長に花形が真一文字で大輪、恰も
鳥が飛んでいるような趣があり、紀州に縁りの名として、「飛鳥」と命名したいと申出ますが、発音が同じの「明日香」があるので良くないとの
判断で、暫く名前のないまま過ごしていました。

昭和41年の、黒崎先生の「東洋ラン・花物」の資料を上野氏が執筆時に亀井氏と相談、この花に「光貴」の名を継がせる事に決定、薩摩の
西 隆」と同様に二代目「光貴」として登録されます。  因みに瀧谷氏は「光貴」命名に際し、「熊野速玉大社朱社殿の金色の菊紋の輝くば
かりの尊さ」からイメージしての命名と言われています。

 参考文献:「紀州寒蘭」 第5号 紀州愛蘭会(昭和42年) ・「総合種苗ガイド3」 誠文堂新光社(昭和42年) ・「蘭雪」 22号 (平成7年)

’11.01.26(水)   紀州寒蘭の名花 A「紅 鷲」

今週も紀州寒蘭の赤花の名花、「紅 鷲」の出所来歴の話です。  この花は、昭和24年に古座川町の西川部落に住んでいた、山仕事人の
「和平亥三郎」氏と、その弟の信男氏が西川地区の「
栃の谷」で採取されたもので、正確な坪までは判っていませんが、坪はともあれ「栃の
谷」である事は疑う余地のない事実と言われています。

和平氏が採取した株は、同じ西川の友「仲 友一」氏に分株、更に和平氏から古座川町下露の「田中誠也」氏へ、仲氏から古座川町高池の
井戸規雄」氏に夫々分株され、世に出る事になりますが、田中氏は最初「紅 鷲」と書いて(こうじゅ)と呼んでいましたが”尾鷲産」とみられ
る”とクレームがつき、「紅樹」(こうじゅ)と改名されます。

その後クレームをつけた人が、”やはり「紅鷲」(べにわし)が良い”と言うので、昭和41年に「井戸規雄」氏が正式に「紅鷲」(べにわし)で登
録、その後十年ほどの間に「栃の谷」で採れた蘭から、「紅鷲」も出たと言う話もあって、田畑の如く掘り返され、杉や桧の根が露出して見る
に耐えない惨状を晒したと言う経緯があります。

「紅鷲」は濃紅色の超大輪で、五弁同色の三角咲きで、舌は前面無点に咲くことが多く、共色の花軸は、葉上高く抜けて直立し、五、六輪を
花間良く散らす花容の見事さは正に雄大の極みで、目を引く名花と言うより心を奪われる名花と言え、「
光貴」の凛然たる姿に対し、「紅鷲」
の悠然たる姿は、紀州赤花の双璧と言われています。

昭和42年11月下旬、井戸氏が「早川源蔵」氏の懇望を受け、世田谷区民会館に出展した大株の「紅鷲」は、愛蘭家の注目の的となり、そ
の評判は爆発的な人気を呼び、居合わせた「土佐愛蘭会」の重鎮「
竹村寛一郎」氏が、”室戸錦がお辞儀をする”と言った有名な話もあって
分譲希望者が殺到し、呼び値も「室戸錦」の相場を凌駕するものでした。

この時の「紅鷲」は、やや遅咲き種のため、実に冴えた本咲きの花色で見応えがあり、「室戸錦」より赤が強く紫が薄い沈潜美に富む色で、
一文字咲きの硬さがなく、福弁の先が富士山の裾野のように、幾分下がる柔らかな味があり、不知火型の横綱の土俵入りを、彷彿とさせる
優美さは、名前の如く赤花の王者たるもので、長年マニアの語り草になったと言われてます。

ところでこの「紅鷲」と花型や花色は言うに及ばず、葉姿や花茎、花間の良さと言い、全体の花容が総て酷似している赤花寒蘭に「紅孔雀
があり、この二つは異名同種だと、愛好家の間で一時期争点になったそうですが、現在では一応別品種で定着し、これも出所は推定ながら
「栃の谷」産とされています。

この蘭は佐田の「千郷万吉」氏が昭和28年頃、同地の蘭狂と言われた雨郡氏から入手したと伝わっており、これが太地町の「庄司浩巳」氏
に渡り、昭和38年速玉大社の展示会で「杉本和夫」会長が「紅将軍」の名で、出品された蕾の寒蘭を入札会で「
亀井楢好」氏が入手し、翌
年「紅孔雀」と改名し正式に命名登録されています。

二つの寒蘭には偶然にも鳥の名前が使われ、それは言い得て妙なる命名で、鷲は鳥の王者で他の鳥のように群れをなさず、人里離れた所
で容易に人を近づけぬ孤高の品格が「紅鷲」に通じ、一方、孔雀が広い原野で飛翔する姿は見事で、降り立つ時の両翼の格好が、如何にも
優雅で、この「紅孔雀」の花の形に似ていると言う。

  参考文献:「紀州寒蘭」 第6・7・35号 紀州愛蘭会 (昭和43・44・63年) ・「蘭雪」 第6・7号 なにわ蘭友会 (昭和53・54年)

’11.10.12(水)   紀州寒蘭の名花 Bみゆき

紀州寒蘭と言えば、「光 貴」や「紅鷲」らに代表される赤花が有名ですが、青々花や準素心でも数々の名花を産んでおり、今回はその中の
代表
花「みゆき」をご紹介します。  この花の産地は”紀州の西谷”と言われるほど名花が多く出た三重県紀宝町の「大里」(おおざと)で、
高岡、湯之戸、永田、桐原部落一帯を含む文字通り大きく広い里です。

「大里」は、中央を北から南へ流れる「相野谷川」を挟み東西に分かれて、両岸には水田や竹薮が拡がり昔はよく川が氾濫し水田が水没し、
道路や人家が冠水したのを、高さ9m余の護岸完備で、その後は災害は出なかったのですが、先月の台風12号で想定外の大雨をもたらし
氾濫、大被害が出たのは記憶に新しいところです。

さて、戦前戦後を通してこの「大里」部落に住み、長年「紀州愛蘭会」の副会長を務められていた故、「尾宇江玄樹」氏が、まだ小学生だった
昭和5、6年頃、父親が家近くの「大里」や「湯之戸」の東向きの山の斜面に、よく自生していたと言う蘭を採って来ては、庭の石垣沿いの約
二坪くらいの場所に百株ほど地植えしていたそうです。

その寒蘭が毎年秋になると赤や青の美しい花を咲かせ、ほのかに庭の方から家の中に芳香が漂って来たという子供当時の記憶があったそ
うで、その頃は花の良し悪しよりも葉姿だけを観賞していた時代でした。

戦後になって尾宇江氏が家業の農業を継ぎ多忙な中でも、余り世話のかからない露地植えの寒蘭は、順調に育ち、何時しか大きな株立ち
となったのを、地元の愛蘭家の「杉本大二」氏に望まれ、庭植えの中から分譲した内の一つに良い花が咲き、それが「
上野 元」宮司の慧眼
に触れて、昭和31年に「
緑苑」と命名し登録されます。

「緑苑」の葉は厚肉の中垂れ、出芽は白黄で、花弁は薄緑で、主弁中央の基部に紅条が一本入る三角咲き、花茎も共軸の細幹で、良く伸
び葉上に高く抜け、花間、捧心の抱えも良く、舌は無点ですが、薄い黄緑の条がハケ跡のように入り、舌の基部の腮だけに桃色を残す所謂
準素心で、上品さと美しさを合わせ持つ格調高い花です。

当時紀州では、まだ素心や準素心が発見されていなかったので、蘭人達の間でも評価が高まる一方で、昭和37年の昭和天皇、皇后両陛
下が「熊野速玉大社」への御参拝時、上野宮司は拝殿奥の斎庭、幄舎横に紀州寒蘭の中から
「緑苑」を飾り、この日を記念してその喜びを
永く伝える目的で
みゆき」と改名されたのでした。

その後は、地元は無論の事、大阪、京都から東京など、多くの展示会で優勝するなど、作り易く花つきも良い事からも、全国的に高い評価を
受けますが、尾宇江氏は晩年大きな株立ちにして本咲きさせたいと思うものの、いつも蘭友にせがまれて分株させられるので、最近は自分
のものは開花しなくなったと嘆いておられたとか。

今なお、古典的名花として人気の高い花ながら、現存のものは登録時の準素心ではなく、殆どが舌が薄く滲む刺毛素に近い花になっている
ようで、私が昨年京都で見たものもその類でしょうが、その上品な色調と静寂美は素晴らしく私好みの花で、是非、棚に入れたいのですが、
株数が少なくて非常に困難な状況になっています。

  ※:「国香会」(朝倉文夫会長)会誌の「東洋蘭」にも掲載されました。 

  参考文献:「紀州寒蘭」 第1号・29号・36号・38号・41号 紀州愛蘭会 (昭和57年) ・「原色 東洋ラン」 誠文堂新光社 (昭和48年) 

’11.12.14(水)   紀州寒の名花 C「丹鶴」

今回の「紀州寒蘭展」には出展されていませんでしたが、最も古くから紀州の赤花寒蘭の名花として紀州の蘭人に親しまれて来た「丹鶴」に
ついて、その出所来歴を調べてみました。

この花は、終戦後直ぐの頃、三重県の紀和町下和気部落の渡場から、滝が多い谷川、”立間戸(たちまど)谷”を登って左に”カンカケ
に、”子の泊山”(907m)を望みながら左に廻って行くと、さながら屏風を立てたような断崖絶壁の難所、通称”蔵”の先にある広大な蘭坪、
橋の奥から採取されたものです。

時を経た昭和31年の秋、新宮市の先覚者「滝谷源太」氏から「上野 元」氏の下に、赤花の良い寒蘭を入手したから見て欲しいと、電話があ
り、上野氏が駆けつけると、そこに三本立てながら葉姿が堂々とした立葉で花色が血の滴るような鮮やかな赤花が咲いており、市内掘地に
住む紀和町和気出身の愛蘭家から入手したと言う。

命名を希望された上野氏は、熊野川を眼下に、詩情溢れる風情に包まれ今も石垣に名残りを留める名城、「丹鶴城」に因んで「丹鶴」と命名
間もなくこれは都会に分譲され、その後、また滝谷氏は、竹本という愛好家が同じ「橋の奥」から引いたと言う、数十本の大株を入手、これも
「丹鶴」として二本、三本と各方面に分譲されます。

しかし上野氏は、最初の「丹鶴」とその蘭は葉姿は全く同じだが、花色の冴え、花形、咲き方などに相当の違いあり、二つ並べて皆で見比べ
てみようと思いますが、肝心の最初の「丹鶴」が見当たらず、そんな昭和39年の熊野川町の寒蘭展で、一際濃赤色の美花が飾られており、
それこそ捜し求めていた命名「丹鶴」でした。

その時は和気の所有者、星山氏には会えませんでしたが、翌年の秋に蕾の上がった頃、上野氏は星山氏との交渉中、今一赤花にしては、
その蕾の色が悪く感じて、その事を言うと、「わしも和気の星山ぢゃ、嘘は言わぬ」と、機嫌を悪くされ交渉が難航しかけますが、上野氏は上
手くなだめて円満に解決、ようやく入手されます。

さて、この蘭を持ち帰り、蘭友達に見せますが、「こんな蘭をよく買ったものだ」と嘲笑気味に言われますが、これが「丹鶴」の特長で、蕾が傾
いてから色が出始め、次第に黒光りがして来てやがて鯨肉を切ったような濁りのない血赤の鮮やかな美しさで咲き上がり、くさしていた蘭友
も「是非、バック一本でも」と頭を下げて来たのでした。

この蘭と第二世の竹本氏の「丹鶴」を見比べると、やはり明らかな相違がありましたが、既に十年近く竹本氏が引いたものが、「丹鶴」として
世間に通用しており、今更これが本物の「丹鶴」だと言っても混乱を生じ、確かに第二世の蘭も立派なものだが、さりとて命名「丹鶴」はそれ
よりも良く、混同されるのも残念な事だと...

そこで上野氏は、昭和42年に「丹鶴」の名は第二世に譲り、命名「丹鶴」を改めて、「熊野錦」と命名登録しますが、その後も「橋の奥」へは
下和気の渡場から二時間もかかる険しい難所ながら、そこは赤花の大坪との評判が高く、多くの人が通い、土佐、西山の「
銀鈴」と同様、こ
この坪のものは、ことごとく「丹鶴」と称されていました。

一方、昭和50年代に入って、同じ「橋の奥」の蘭坪から、遂に望まれていた「丹鶴」系の舌無点の、「南紀の誉」(昭和54年)や、「司丹鶴」
(昭和58年)が発見され、特に「南紀の誉」は共軸の花茎に整然と冴えた濃赤色の三角咲きの花を付け、舌の色は濃黄色の無点で厚肉の
露受けを交えた立葉で、今も人気を維持しています。

 :何れも蘭坪の呼名で、蘭ブームの初期の頃、「橋の奥」をおいて他に名品は出ないとまでいわれるほど約数十町歩もの広大な蘭坪で、「橋の奥」は途中にある
    橋を起点として奥地にあるので、”橋の奥”と呼ばれ、カンカケは、昔、コ(かん)を岩の割れ目に打ち込んで番線を通して、これにぶら下がってやっと、この断崖
    絶壁の難所を通ったことからコ掛の名がついたと言われています。  
    「カンカケ」、「橋の奥」は大正末期に一度、その後一回と二度の大きな山火事で、総て焼き尽くされますが、何時しかまた蘭坪に蘭が芽吹いて来たという。

 参考文献:「紀州寒蘭」 第7号・27号 紀州愛蘭会(昭和42年・55年) ・「四国 紀州のカンラン」 誠文堂新光社(昭和59年)

’10.11.24(水)    「三世冠」のこと

昭和52年11月、上野の愛蘭家「鴨下千沙人」氏は、東京の「新宿大飯店」で、業者主催による、「東京寒蘭会」の第一回寒蘭展で、中野区
の愛蘭家、「江上 徹」
氏が参考出品されていた、あまり見かけないブルーがかったピンクが鮮やかに冴えた寒蘭の一鉢に一目惚れして、
さっそく分譲を願い出て二本立ちを入手したそうです。

数年後、八王子の全春連主催の春蘭柄物と寒蘭展会場に再び江上氏が大株物で出品、それを埼玉の商人「中村 斎」氏が鉢ごと買込み、
同所川越の「亀谷俊司」氏に分けただけで、他には譲らず棚で温めていたそうで、一方その頃、この特異なレンゲ色の花は、鴨下氏により、
ラベンダーピンク”と呼ばれるようになっていました。

さて、昭和56年頃、鴨下氏の株も作が上がり二鉢になり、その内の一鉢を蘭舎外で咲かせたところ、素晴らしい色が出て丁度三越の展示
会で鴨下氏のホテルに泊まっていた東條氏の目に留まり、その鉢を手から離さずにいる彼に、そんなに気に入ったのならと分譲、東條氏は
同時期に亀谷氏からも開花株を譲られています。

また宮崎県の商人が、北多摩の蘭商「大栄国雄」氏(大栄 浩氏の弟)に口添えを頼んで、はるばる鴨下氏のもとに分譲を乞いに来たのもこ
の頃で、分けてやった蘭が、その後宮崎の寒蘭展で無名で文部大臣賞を受賞するなど、九州でも大評判になったそうで、商人はその後も持
ち株を全て分譲してくれと訪れたという。

名声が高まる中、平成元年東條氏はこの無名の花に、三世冠」(さんぜかん)という一風変わった命名をしますが、普通は花から受ける雰
囲気、イメージや産地名、所縁のある人名、故事や謂れなどから命名されるのが普通なので、この名前を見た時、その由来が如何にも不明
で、私は以前から怪訝に思っていた事でした。

その事を先日の「蘭・神奈川」の展示会で「土屋晃一」会長に聞いたところ、氏も東條氏の生前にその命名の由来を聞かれていたそうで、そ
の時東條氏は、この花に、”過去・現在・未来の三世代に亘り冠する名花たれ”との思いを込めて命名したと言われたそうで、私もなるほどと
この日初めて納得したものでした。 

ところで命名後、東條氏はこの花を馴染みの大阪で金属加工業を営む「高田完治」氏に開花株を分譲しますが、その時に登録の権利を高田
氏に譲り、高田氏は平成元年に「土佐香南愛蘭会」に登録(第41号)、その後東條氏は、平成3年に「土佐愛蘭会」に改めてご自分の名前
で、それぞれ登録(第925号)されています。

もともとこの蘭の出所は、高知県幡多郡西土佐村(現在は四万十市)黒尊で、昭和初期の頃に「吉田 潔」氏により東京に持ち出され、以来
土佐では絶種となっていた寒蘭で、土佐寒蘭の優良品種保存と、その育成に努めていた東條氏だけに、提供して頂いた蘭友の鴨下、亀谷
両氏に対して大いに感謝したと言われています。

因みにこの品種の特徴で、舌が前面無点に咲くと言われていますが、鴨下氏の話では、早咲きのため関東では10月中に開花する事もあっ
て、無点に咲く事はなく、亀谷氏の所でも同様、東條氏が昼夜の寒暖差のとれる標高の高い、土佐山村(現在の高知市)に”山上げ”して、
無点に咲かせたのが最初だったと言われています。

 なお、本文を纏めるに当り、「鴨下千沙人」、「土屋晃一」両先生には多々情報を頂き、お礼申し上げます。

 ※中野区に在住、電子計測器製造関連の会社経営の傍ら、古くからの東洋蘭全般の愛好家で、多くの団体に加入する一方で蘭の売買も手がけられていた。

 参考文献:「月刊 東洋蘭」 第90号 東洋蘭朋友社 (平成4年)

’10.09.29(水)   土佐寒蘭 「白鳳」・「銀鈴」

昭和5年結成の土佐愛蘭会で、「西内秀太郎」氏らが命名登録制度を発足させた昭和8年、高知県の農会に出展されて命名した白花寒蘭
に「
白鳳」(昭和8年・登録番号第2号)、「玉麒麟」(昭和9年・同第6号)、「銀鈴」昭和9年・同7号)がありますが、「玉麒麟」(ぎょっきりん)
を除いては、今も存続し人気の高い貴重な名花です。

産地は何れも佐川町斗賀野村の「西山」で、「白鳳」の最初に発見されたのは明治頃と推測され、西内氏が県庁在職中の大正15年、高知
市蓮池町の名家、川崎邸で白花が咲いているのを初めて見せて貰ったのが、昭和8年に出展された「白鳳」で、川崎邸には植木係がいて、
二十條ほどの大株が二鉢もあったそうです。

白花がもてはやされ話題となったのは、すでに大正初期からで、尾川の西森系などがあった「白鳳」系統の中でも、特に、斗賀野の谷氏のも
のが花の冴えが良く、雪肌のように迫力満点で、白花の王と称され、昭和8年の命名品は斗加野の「西川喜太郎」氏が出品したもので、そ
の後西森系の「白鳳」は絶種したと言われています。

面白話として昭和38年頃、色花を好まず白花だけを、こよなく愛したちょっと変わった人物がおり、「白鳳」と「銀鈴」ばかりを作っていたという
佐川の魚屋の「田村光治」氏で、肥料として氏秘伝の魚の汁をかけていたと噂のあった「白鳳」に、新芽が三つも出たと言って、親しい蘭友を
集めて、お祝いの宴会を開いたそうです。

その宴会に来ていた「高橋勝護」氏は、当時「日光」全盛期で、高価な上に、”日光会”の会員でも順番待ちという、入手が極めて困難だった
「日光」との交換を頼みますが、私は白の方が良いと”いごっそう”らしく、頑として換えなかったという逸話も残っており、当時「日光」が百万
円以上もして、「白鳳」はせいぜい五万円くらいの頃でした。

一方現在も青々花として、これを超えるものがなく根強い人気のある「銀鈴」は、斗賀野の蘭キチと言われた、「岡崎繁吉」氏が大正8年頃、
墓参の折に、西山から一抱えもある蘭を引いて来たものの中から、昭和7年に初出品、昭和9年に命名されますが、席上で”こんな普通の蘭
に命名する必要はない」などの意見が出て、一致が見られず、結論は翌日に持ち越されたと言う話が残っています。

「銀鈴」の坪は大きな古墳のような坪で、何処で採っても「銀鈴」だと言うほど広く分布しており、岡崎氏が作っていた中から舌点の薄いもの
と、濃いものが出て来て、薄いのを「白鳳」、濃いのを「銀鈴」と言うようになり、最初に発見された「白鳳」も恐らく同じ坪からで「銀鈴」と祖先
は一緒だったのではないかと言われています。

寒蘭の名前ですが、昔は”佐川の白”とか”善吉蘭”、”野根の赤とんぼ”、”泰治蘭”とか地名や人名を適当につけていたのを、「命名は蘭へ
の入魂」だと西内氏らは会の重要審議として産地、謂れ、花の特徴や雰囲気から役員全員で慎重に検討し決定したそうで、「銀鈴」なども名
を態を現わす実に良く似合った名前と言えます。

「銀鈴」は、葉は表面にやや”ゆれ”が見られる中立ちの濃緑色、蕾の上がる頃の暗作りで、花弁の地合いは、濁りのない冴えた淡緑色とな
り、舌点の紅色も鮮やかに絹肌の娘さんが紅化粧をしたような魅力を呈し、冴えた花茎は細く葉上高く伸び、名前の由来の如くやや花間が
詰まった花容で中輪花5〜7輪を咲かせます。

私も昔、寒蘭展の雛壇で、この「銀鈴」を見て以来、清らかで落ち着いた花容が好きになって入手しましたが、その後何年間は、開花時期の
管理方法が分からず、色は出ないわ、花弁はそっくり返るわ、花茎はぐにゃぐにゃと暴れまくり難儀しましたが、現在は毎年整然と咲くように
なり、これからも大切に愛培して行きたい品種です。

  参考文献:「寒蘭」 第56・57・63・64・73号 土 佐愛蘭会(昭和49・55・56・平成2年) ・「蘭友」 第16号 土佐香南愛蘭会 (昭和63年)

’10.08.11(水)   薩摩寒蘭の名花 「西 隆」

昭和30年代初頭の晩秋、鹿児島県宮之城町(現さつま町)で開かれていた薩摩寒蘭展示会場での事です。 薩摩寒蘭の草分け「玉利 進
氏は一鉢の前で足を止めて、「おや、この花は、まさか...」と、一瞬自分の目を疑いますが、やがて、「ああ、これだ...」と不審が確信に
変わり、思わず感動に胸が熱くなったそうです。

それは、中垂れ濃紺地の広い照葉で、花茎細く花冠は葉上に抜け、花弁は桃味を含む鮮烈な濃紅の、特徴ある落肩咲きの大輪花で、玉利
氏が戦前の昭和12年、柊野産と噂された濃紅大輪花を入手した時、その余りの美しさから郷土の生んだ偉人、西郷隆盛にあやかり「
西隆
(せいりゅう)と命名した、まさにその蘭だったのです。

玉利氏が昭和15年に、「上宮山開香園」から出した薩摩寒蘭カタログには一本、”貮拾圓”で出ており、まもなく全株は満州の地に渡った後
は噂の柊野方面からも現れず、以来二十年近く、絶種だと思われていた幻の名花に、この時再び邂逅したのですが、その出品者は薩摩町
(現さつま町)中津川の「
中山錦吾」氏でありました。

中山氏が戦後いち早く、名蘭を求めて県内を東奔西走していた昭和25、6年頃、姶良郡横川町(現霧島市)の、「四元為也」氏宅で、艶やか
な紅は匂うばかりの、後に”
湯上りの濡れ肌”の色と賞賛された、一際美しい二鉢の寒蘭を見て、「もう、ひったまげて、あとずさいして飛び上
がったもん」と、その時の驚きを語る中山氏でした。

これは四元氏が昭和20年頃「安良岳」(604m)で採取したもので、それから中山氏の横川詣は頻繁となり、その執念がやっと実り四元氏
から「あんたに、やいもそ」と返事が聞けたのは、翌年の晩秋、寒蘭の花が咲き始めた頃で早速、弾む胸の高ぶりも心地良く、単車に奥さん
を乗せて四元氏宅に駆けつけたのでした。

と、すぐ後から同好会の仲間で、同じ薩摩町の隣村、永野から「久保田広信」氏もやって来たではないか。久保田氏は後から来たので形勢
不利と感じてか、「二万円で、どうな...」と、当時としては大変な高値でいきなり切り出され予期せぬ強敵に中山氏も気が気でなく、二人っ
きりで話をしたいと四元氏を手招きします。

四元氏は、気を揉む中山氏のところに一鉢持って来て、「男ん約束ごわんで」と一万円ほどで譲渡、久保田氏は、この年初めて蕾を見てから
は眠れぬほどに惚れ込み、三度目にして、やっと四元氏に会えた好機を逃して、「あたいが二万円と言うたが四元氏は耳が遠いもんで、たっ
た一万でやってしもうたがな」と悔しがったと言う。

剣道四段の四元氏は、75歳で亡くなるまで耳は達者だったと、遺族は語っており、この時中山氏との約束の手前、とっさに聞こえぬふりをし
たのでしょうか。  帰りは奥さんに鉢を抱かせてバスで帰ってもらい、その後玉利氏とも相談して昭和40年、改めて中山氏により二代目の
”西隆”として命名し、再誕生させたのでした。

一方、この「西隆」が発見された「安良岳」からは、ほかに「西隆」の採取は聞かれず、その後大量に採取され、広く世に流通している現在の
「西隆」は、「安良岳」に続く「国見岳」(649m)の坪からのもので、所謂、”もどき”もので、本当は「西隆系」と言うべきもので、桃花の銘品、
北薩の誉」、「北薩の晃」もその優品系とも言われています。

 参考文献:「ガーデンライフ」 13巻11号 誠文堂新光社 (昭和49年) ・「薩摩寒蘭 六十年のあゆみ」 薩摩寒蘭同好会 (昭和61年)

’09.09.23(水)   薩摩寒蘭 「神 竜」

鹿児島県薩摩郡鶴田町(現在・さつま町)の、当時大学生だった「有村隆志」氏が、大学の園芸同好会で、山野草の採集に県内各地を探索
していた昭和40年11月、地元の紫尾山系の神子(こうし)で、伐採後の雑木林を枯枝やウラジロを掻き分け入った所に、異様に暗い濃緑で
滑らかな葉の寒蘭らしき苗を五本発見しました。

当時、彼の蘭の知識は、牧野博士の植物図鑑で寒蘭と春蘭の見分け方を研究したと言う程度のものでしたが初採取だったので一応持ち帰
ろうと、寄り添うように生えていた内の一本は大きな四枚葉、他の三枚葉一本、二枚葉三本と一緒にヘゴ葉に包み、さして関心のないまま、
七寸の素焼き鉢に寄せ植えにしていたそうです。

彼が不幸にも病に伏せていた昭和43年、四枚葉だった株に花芽がつき、黒光りしながら開花したその花は、秋の寂光の射す縁側で三本立
ちながら氏に「生きよ..」と励ますように、艶然と燃え立つような鮮紅色の大輪花で、当時出版されていた「
東洋ラン・花物」に掲載の土佐の
名花、「
室戸錦」と飽きずに見比べるのでした。

その凛然と、ほぼ一文字咲きに近い三輪の大花を配ったその姿は、まさに力感漲り天翔ける竜の化身の如き気がして、その花が力をくれた
かのように病もやがて回復し、後年の昭和46年の登録時に、採取地の「神子」の神と竜とを結びつけ、「
神竜」(しんりゅう)と命名したのは、
この時の第一印象からだと言っておられます。

その「神竜」の登録を終えて、その当時、「薩摩寒蘭同好会」の初代会長だった「島伊右衛門」翁宅に、挨拶に立ち寄ったところ、柔らかい陽
の降る縁先に出て来られ、鉢を手に取って、しばらく黙ったまま、じっとこの花を見つめ、深い溜息と共に、バックを二本握り、「こいを二本ばっ
かい...」と言って暫し手を離されなかったと言う。

当時80歳近かった翁は、半世紀以上の寒蘭一筋の審美眼で、まだ評価が定まらぬ、この未知の花に、潜在する名花の素質を見抜かれた
のだろう。  事実、前年の昭和45年に初出展しますが、「この花は初花だから、後一年様子を見て...」と、当時薩摩では素心系に比較し
て、紅系の評価はかなり低いものでした。

この審査評の結果に、釈然としないものを感じた有村氏は、この事が大いに発奮させるきっかけとなり、この愛蘭を携えて、九州各地の展示
会への行脚を始め、やがて類まれなる鮮紅の花色が注目され出し、やっと薩摩でも昭和48年に新たなジャンルとして
紅花の部が設置され
その年四度目の出品で初優勝したのでした。

「神竜」を最初に分譲したのは、紫尾温泉で旅館業を営む、”蘭キチ中の蘭キチと言われた”「山之口守」氏と宮之城町虎居の製茶業の傍ら
有名な収集家であった「南原守」氏で、何れも薩摩寒蘭では屈指の精通者で、「この花は必ず良い花になるから、誰にもやらずに大事に育て
なさい」と口癖のように言っていた人達でした。

その後は評価も定まり花形、花色で、西郷隆盛にあやかって名付けられたと言う「西隆」を凌ぐ、薩摩を代表する紅花寒蘭の名花となったの
でした。   瞼を閉じると病床にあった昔、初花の感動に胸を熱くし、この花から力を貰い病を回復させてくれた、この花を愛する人達の幸福
を象徴する「竜」であれよと祈る有村氏でした。

  参考文献:「薩摩寒蘭」 薩摩寒蘭同好会 (昭和61年) 

’08.12.24(水) 肥前寒蘭「不老白」 @絶種から蘇った名花

今回のテーマは、その昔、肥前寒蘭の名を高からしめた不出世の名花と言われる「不老白」の話です。 この蘭に関する限り、全ての事情を
知悉していると言う、佐賀県嬉野市「嬉野肥前愛蘭会」の役員や顧問として活躍された重鎮、故「
外尾拾蔵」氏の調査資料などから、主とし
て引用させていただきました。

佐賀県藤津郡塩田町上久間河内(今の嬉野市)で発見(採取者不明)されたこの花は、昭和8年に開花して、純素心と言えるほど清純で底
冴えのする、仄かに薄く緑を感じる白花の桃腮素心で、白花の中でも第一級の名花と讃えられて、後に、「肥前寒蘭協会」の初代会長となら
れた「横澤古心」氏
※1によりその名を「不老白」と命名されます。

産地の河内は、四面を山又山に囲まれ、鄙びた農家が点在する小集落ですが、この辺りの山々からは大正の昔から優れた白花を産出して
いる肥前屈指の産地で、この蘭の培養者は、当時、鹿島市在住の著名な蘭商「小池幸吉」氏
※2で、戦前戦後を通じて全国各地から多くの
人が取引に「
小池葉隠庵」に出入りしていました。

昭和10年11月、「小池葉隠庵」を会場にした「肥前寒蘭協会」主催の第一回肥前寒蘭陳列大会には、地元の佐賀は勿論、佐世保の好事
家「林茂」氏他、福岡、鹿児島、土佐、遠くは東京から小原京華堂「
小原栄次郎」氏ら当時のそうそうたる蘭商や愛蘭家が参集、その広大な
蘭室一杯に並んだ寒蘭の偉観に、観る者は皆、驚嘆したと言います。

以来小池氏の生存中は「不老白」も相当株に繁殖していたと思われ、これらの蘭商たちにも幾度か分譲された経緯がありますが、戦時をは
さみ何時しかその消息は絶たれ、小池氏所有の株は氏の晩年に一時、鹿島市内の「小野原三郎」氏が預かり愛培するも、小池氏没後の翌
年の昭和26年に、全て枯死絶種してしまいます。

しかし、偶然か必然か、その二年後の昭和28年に、外尾氏と同じ旧久間村出身で幼馴染の蘭友、宮崎稔氏が絶種したと言う昭和初期の、
「不老白」を産した同じ上久間河内の蘭坪で、その子孫と思われる、そっくりな白花を採取し、昔の花を良く知る横澤古心氏が鑑定して、再び
「不老白」と命名、この二代目が現在に至っているのです。

宮崎氏は病に倒れ、昭和47年に不帰の人となりますが、その入院生活が七年の長期間だったため、当時の本人宅には「不老白」は、一本
もなく、生前、氏の最後の秘蔵品だった二篠立てを、昭和41年に外尾氏が斡旋し、県内の小城町の愛蘭家の棚に納めるも、その後の栽培
成績芳しからず、やがて手元を離れたと言われます。

「不老白」はその名に似ず薄命と言うべきか、昭和41年発刊の黒崎先生の「東洋ラン・花物」にも”絶種したのでは”と、記載されているよう
に、ひところ肥前地区でも所持している蘭人は僅かに一人か二人に過ぎず、次第に花信も途絶えるようになり、巷では再び二代目も絶種し、
実在しない幻の花の如く伝えられたそうですが、実際は遥か海を隔てた紀州の地で、「不老白」はその名を馳せていたのです。 (続く)

 ※1 本名は常雄、鹿島市本町にある幸徳寺の住職で、「古心」と号し俳句を良くし、大正の初期より寒蘭を培養、鹿島地区における最も古い蘭の先覚者。
      昭和10年肥前寒蘭協会設立時の理事長、戦後も引き続き協会会長として多くの寒蘭に命名されるなど貢献、昭和42年82歳で他界されました。

  ※2
  昭和5年頃から寒蘭の培養を始め、協会設立時は理事として、戦前戦後を通じて肥前の蘭商として広く名を馳せ、蘭室は五間に十間ある広大なもので、
      所有の寒蘭は総数三千鉢もあったと言います。 戦後数年ならずして病を得て、昭和25年65歳で他界されました。
 

  参考文献: 「蘭雪」 3号 ・7号・8号 なにわ蘭友会会誌 ・「嬉野肥前寒蘭 えびね」 第31号 嬉野肥前愛蘭会会誌 (平成6年)
       
          「蘭華譜」 下巻 小原栄次郎 小原京華堂(昭和13年)

’08.12.31(水) 肥前寒蘭「不老白」 A命が繋がり里帰り

さて、よく聞く話に過去に地元で、絶種と取り沙汰された名蘭が、実は他の土地で生き長らえていて、再び世に出て来たと言う話があり、土
佐の「武陵」や「日章」がその好例で、昭和54年の「日本寒蘭会」の会誌「桃源」第11号記載の随筆「花と人」に、「
不老白」が現在岡山と和
歌山で愛培されていると言う記事がありました。

その記事によると、その命を繋いでいた人は、岡山県井原市に居住する、当時高校の先生を退職されていた愛蘭家「高橋 勝」氏で、すでに
二十年前から寒蘭に熱を上げられており、当時出版されていた専門書「寒蘭譜」(笹山三次・永野芳夫共著・加島書店・昭和37年)は勿論、
いち早く購入して、熟読されていました。

その中に、「湯下誠一郎」氏(嬉野肥前愛蘭会の初代会長)が肥前寒蘭の紹介や寒蘭の栽培方法についての記述があり、それを見た高橋
氏は湯下氏に肥前寒蘭が欲しい、育てたい、ご指導願いたい旨の手紙を出したところ早速に湯下氏から返事があり、今すぐ取りに来るなら
ら東京に出すのを譲っても良いとの事でした。

高橋氏はすぐさま、大金を懐に期待に胸を膨らませ、すし詰めの汽車に飛び乗り湯下氏の元へ馳せ参じて、氏ご推薦の名蘭を入手、大いに
満足されて、帰路は蘭のために、わざわざ特急寝台列車で、大事に抱えるようにして帰られたと言われる蘭が、「不老白」であり、青々花の
名花「梅渓」であり、それは昭和37年の事でした。

その後、「不老白」は高橋氏の元で良く増殖し、これが当時「紀州愛蘭会」の会長だった「杉本和夫」氏の知るところとなり分株を懇望、かくし
て紀州の地に渡り、当代紀州寒蘭の大御所「
上野 元」氏(昨年ご逝去・90歳)や、古座町の同じ会員の故「荒木十起夫」氏らに愛培され、
白花のない紀州で絶大な人気と名声を博したのです。

上野氏は、この「不老白」を大層好まれ、新芽が白緑色で発芽し、葉は光沢のある濃緑色、五弁共に淡緑色の花が緑白色の直立した細茎
に、抜け良く花間良く整然と付き、舌は汚点なく純白、深奥部の腮にのみ、微かな桃を残す
桃腮素心で、その性質も強健で、花付きも頗る良
く、「不老白」は最高位の白花と讃えられています。

そして開花の時期ともなると、職務の合い間を見ては、床の間に飾られた「不老白」を眺め、その度に一度も訪れた事がないと言うのに何故
か、この蘭の故郷である肥前の山々が、目に浮かんで来たと言い、その名前のごとく、花の白さが日に日に冴えて来る素晴らしい花容に、う
っとりと見惚れ、至福の時を過ごす上野氏でした。

その一方で、「外尾拾蔵」氏は記憶を辿り、まだ宮崎稔氏が健在だった昭和35年頃、大阪府高槻市の蘭商、小野寺員一氏へ二篠を分譲、
その後昭和37年、広島の展示会で更に二篠を分譲された事があり、上野氏の蘭は小野寺氏からのものではと推測されていますが上野氏
の記述
からも高橋経由説が正しいようです。

何はともあれ、一時は肥前から消え去ったと思われた名花「不老白」は、実は海を隔てた岡山に渡り、更に遥か遠い紀州へと嫁いで幾十年
多くの愛蘭家たちに愛され、彼らの手で脈々と命が繋がれ、その子孫が増やされ、再び不死鳥の如く、生まれ故郷の肥前に里帰りを果たし
たと言う「不老白」物語でした。

さて、今年も今日が最後の日になりました。    今世の中は、世界同時不況という未曾有の状況にありますが、それでも何とか年が越せる
のはありがたい事です。  耳を澄ませば新しい平成21年の足音が聞えて来ます。  それでは皆さん、どうぞ良いお年を....
そして来年も、どうぞ宜しくお願い致します。

 :「カンラン」 上野 元 他 誠文堂新光社 (昭和45年)

 参考文献: 「蘭雪」 3号・5号・15号 なにわ蘭友会会誌 ・「嬉野 肥前寒蘭 えびね」 第33号 嬉野肥前愛蘭会会誌 (平成8年)

’07.01.10(水)   幻の名花「桃源」 @発見、公開、命名

昔から名花と言うものは、人の心の歴史であると言われ、それは、その花を最初に発見した人、その花を作り出した人、その花の美しさを見
出した人、その花を多くの人に知らしめた人、そして、その花を伝えて来た人と、連続されてこそ歴史であり、そこに、その花を介しての人間
の一期一会がある言われています。
   

私は、名花と言われる蘭の出所来歴や、それと人が関わる話が大好きで、色々調べて、この欄でも紹介して来ましたが、今回は出現以来、
僅か十年足らずで、色々な謎や逸話を残して絶種してしまいますが今でも尚、寒蘭界の「
幻の名花」と仰慕され語り継がれて来た桃色寒蘭
の原点と言われた「
桃源」についての紹介です。

尚、本内容については、現在松山市の道後にお住まいの寒蘭愛好家「石崎 保」氏が、昭和58年に四年間に渡り、現在はその殆どの方が
故人となられている「桃源」の栽培者や、実際に花を見た当時の経緯を良く知る長老の回顧談や、現地で調査、見聞された貴重な資料を縁
あって頂き、主としてそれに基づいたものです。

この花が、初めて世に出たのは昭和8年で、高知県農業会館で「第一回土佐寒蘭命名陳列懇談会」が開催された時、優秀花に命名する事
となり「
西内秀太郎」氏らが中心となって、山採り直後の初花や葉芸の固定していないものは翌年以降に繰越され「白鳳」、「桃源」、「武陵」
「金鵄」の四種だけが命名されました。

当時、寒蘭鑑賞は揺籃期の葉姿と香りだけが対象となる「葉香時代」で、優秀品の条件は濃紺広葉の肉厚で、露受け葉の堂々の風姿が尊
ばれていましたが、この「桃源」は、その条件を全く異にし、雪白の蹴込み縞の葉に加え、花は鮮桃色平肩の大輪の美花で、一目見た人す
べてが顔色を失い、讃嘆を久しうしたと言います。

「桃源」と言う名は、中国東普時代の詩人、陶渕明の詩文の中で最高傑作として有名な、「桃花源記」から撰名したもので、中国で神仙的な
仙木、仙花とされている桃によせ、所は洞庭湖の西、現在の桃源県地方で、昔から中国、日本の文人墨客達に愛誦され、南画にもよく描か
れている夢幻的理想郷から由来したものです。

その「桃源」の発見した人と場所については諸説紛々、こうだと断定するに足るだけの正確な裏付け資料がなく、一つの謎にもなっています
が、昭和3年頃、高知県高岡郡久礼町(現、中土佐町久礼)の猟師、谷某氏が久礼の山野を歩き回っている際に、偶然に発見したものと伝
えられているのが一応定説化しているようです。

しかし、谷氏本人はその貴品たる価値をまったく知らず、これを同町で洋服店を営む蘭好きの広瀬眞次郎氏に贈り、それが何年か後に桃色
の初花を咲かせますが、その頃は先述したように、寒蘭の花色については何ら話題にも論議にも登らなかったので広瀬氏もまた同様、それ
ほど貴重とは思わなかったのでした。 (続く)

 参考文献: 「寒蘭」 名花「桃源」と岡本彦馬翁 石崎 保 昭和58年 ・「東洋ラン・花物」 誠文堂 新光社 黒崎陽人 昭和41年

’07.01.17(水)   幻の名花「桃源」 A桃源御三家

「桃源」の命名後幾人かの人が、愛培していた記録はありますが、その内自らこの花を培養開花させ、その素晴らしさを後世に伝えた人は、
高知市の
香宗我部(こうそかべ)守成氏、高知県佐川町の竹村寛一郎氏と、福岡市の岡本彦馬氏で、中でも特に熱心だった岡本氏の事を、
土佐の蘭界では「
桃源男」と呼んでいました。

最初にその価値を見出したのは、香宗我部守成氏で、昭和6年、趣味の小鳥、十姉妹を買いに久礼に行った時、知り合いの洋服屋の広瀬
氏の所にあった桃花、縞葉の寒蘭を見て分株を要望、これを翌年に二本立ちで入手、翌昭和8年に開花させて第一回県農会に出展「桃源」
と命名登録されて、初めて世に出した人です。


香宗我部氏は、由緒ある武家の名前にふさわしく、痩躯で背筋がぴんと伸び、古武士を偲ばせるような、怖面の風貌で、昭和15年から26
年まで、「土佐愛蘭会」の会長もされた人物で、腐葉土を用いた、独特の優れた栽培技術を持ち、毎年よく花を咲かせ、他にも、青々花の名
花「折鶴」や紅花、「紫雲」を命名登録されています。

竹村氏は昭和9年、秘蔵の名花「玉麒麟」他と同じ広瀬氏から「桃源」を交換入手、昭和11年に開花させるも、その後肥料と加温の失敗で
枯死させますが、氏は毎日、寒蘭を見ないと食事も進まぬと言った「蘭キチ」で、郷里の佐川と、高知市鷹匠町に大邸宅を持つ、代々土佐酒
の老舗「司牡丹酒造」を営む資産家でした。

氏は、酒造りの実業に携わる傍ら多趣味で、寒蘭の他、富貴蘭、恵蘭のそれも最高稀貴品ばかりを蒐集、愛培、他にも茶道、書画骨董など
多方面にわたり造詣が深い風流人で、かつ人望家で、いかにも旦那衆と言った風格を持ち合わせており、特に石州流の茶人として有名で、
宗寛と号し多くの門下人を育成しています。

鷹匠町の邸宅に昭和10年ごろに完成した蘭舎は、十坪もあり、総ガラス張りで屋根も移動出来、夜露が受けられるようになっており、加温
設備も完備するなど立派なもので邸宅には西内氏ら多くの蘭仲間が、よく訪れては蘭を囲んで時間を忘れて話し込むのが常で、秋の「寒蘭
品評会」の会場にもなる事もしばしばでした。

その頃の日記には10月から12月までは、殆ど毎日のように、仕事そっちのけで県内外に渡り、寒蘭の展示会の準備や観賞、懇談会に東
奔西走している様子が詳しく記録されており、その他にも土佐に来航した明治の元勲、田中光顕翁との面会や牧野富太郎博士と共に植物
採集に行ったりと、その忙しい事忙しいこと事...

その頃幼かったご子息、脩氏は父から桃源、桃源という言葉をよく聞いたと言う事から、氏の桃源への思いは深く、その一端は生前に「桃源
院宗寛居士
」の居士号を貰っている事からも窺い知れ、戦後は香宗我部氏の後、昭和26年から35年まで「土佐愛蘭会」の会長を歴任され
昭和63年90歳で、ご逝去されています。 
                                                   (続く) 
                                                            
 
参考文献: 「寒蘭」 名花「桃源」と岡本彦馬翁 石崎 保 昭和58年 ・「東洋ラン・花物」 誠文堂 新光社 黒崎陽人 昭和41年
          「寒蘭」 土佐愛蘭会 第71号(昭和63年)、72号(平成元年)
 

’07.01.24(水)   幻の名花「桃源」 B「桃源男」岡本彦馬

さて三人目の福岡市の「岡本彦馬」氏は、この「桃源」には異常なまでの執着心を示し九州の馴染みの蘭商に依頼する一方、自らも土佐中
駆け巡り、その殆どを買占めますが、決して投機目的などではなく、全てを我が子の如く、大切に愛培していたところに、当時の寒蘭界の誰
もが、氏を「
桃源男」として認めたのでしよう。

ちなみに「桃源」の一本当たりの価格は、昭和10年に数百円、その後数千円、更には一万円(今の数千万円)にまでなったと言い、昭和12
年当時、岡本氏のところには「桃源」が五、六鉢で十数本あったので、並みの金額ではなく、そんなところから一体「岡本彦馬」氏とは如何な
る人物か非常に興味あるところです。


岡本氏は明治3年、高知市唐人町に生まれ、今の東工大を出て、九州の明治炭鉱に技師として入社、大正初期に世知原の、松浦炭鉱に移
り、昭和7年この炭鉱を買取り個人で経営、鉄道省へ納炭する中、満州、上海事変の準戦時景気で好況を迎えた、昭和11年、鉱区及び付
帯施設一切を百万円で売却、巨額の富を得ます。

岡本氏と寒蘭との出会いは松浦炭鉱のあった世知原には国見山等、寒蘭の自生地が多くある事から、このの地で出会いがあったと想像さ
れ、また出炭を中国、上海方面へ販売していた関係からしばしば上海と往来その時持ち帰った中国蘭を栽培されており、福岡の西油山から
の単身赴任の寂しさを癒していたのでしょう。

昭和の初めには、佐世保の蘭商と知り合い、その人を介して近隣の愛蘭家との交流が始まり、当時は寒蘭の花物を作る人が少なかった中
、その一人が栽培していた「飛燕」の紅花を見てから花物に目覚め、自家用車で九州一円はもとより土佐方面まで足を伸ばし、意欲的に寒
蘭の名品良花を蒐集するようになります。

そして昭和8年、高知での第一回の展示会の直後に訪高、まだ香宗我部宅で咲いていた、「桃源」を見た岡本氏が熱烈にその分譲を懇望、
香宗我部氏が「来年もう一度花を見てからにしたい」という事で、翌年の秋に成木四本立ち六百円、昭和11年には更に、香宗我部氏から、
残り一本を二千五百円で入手しています。


これを契機に土佐には、しばしば往来し、香宗我部、竹村、西内氏ら多くの蘭人と交流を深め、昭和11年の秋に西内、竹村両氏を福岡の鳥
飼に新築した広壮な邸宅に迎えて二夜を共にし蘭を語り、高級料亭で遠来の友をねぎらい、自家用車で九州の蘭友を歴訪、鹿児島の寒蘭
大会に案内するなど大いに歓待したのです。

その邸宅の庭には、当時東洋蘭では日本一と言われた蘭舎があり、「桃源」始め名品約百鉢、その他六、七十鉢が整然と並べられており、
中央にはテーブルがあって蘭を中に主客相対して観賞蘭談が出来、蘭棚の所々に蘭の葉を見るのに使うサイ箸が置いてあり決して素手で
葉には触れるような事はしなかったと言います。


また、小原栄次郎氏とも親交を深め昭和12年、東京の小原京華堂で開かれた、寒蘭鑑賞会に出席したり、この年日本画家、井上寿一氏に
依頼して描いた「桃源」、「武陵」、「金鵄」他の原色写生図を、小原氏を通じて展覧に供し、その時集まった東京の寒蘭愛好者達は、それら
の花色の華麗さに等しく賛嘆するのでした。 (続く)
  
 
参考文献: 「寒蘭」 名花「桃源」と岡本彦馬翁 石崎 保 昭和58年

’07.01.31(水)   幻の名花「桃源」 Cその終焉

「桃源」は、昭和8年の命名の時と、翌年の高知営林局で開催された、第二回寒蘭命名陳列懇談会に出展されて以来、公的な展示会に出
品された記録は無く、開花の記録についても命名前の広瀬氏の他、香宗我部氏、竹村氏と岡本氏の「
桃源御三家」にあるのみで他の栽培
者が開花させたと言う記録は残っていません。

「桃源」を実際に見た西内秀太郎氏は、「花は鮮桃色地に、濃い紅色の線が入り、唇弁は淡黄地に紅の斑点が入り、洋蘭の様に華美で、新
葉は殆ど白に出、次第に葉緑素が出来て緑となるが、緑色が入り切らないで縞となり、新芽の袴はやや紫味を帯びた鮮紅色である」と昭和
9年の会誌「寒蘭」で解説されています。


その後「桃源」は、香宗我部氏が昭和8年、9年と咲かせた後は岡本氏に全て分譲、竹村氏は昭和11年に一度咲かせますが、加温栽培で
枯死、岡本氏の所有株以外、土佐に残る「桃源」は全て枯死、最後の一株、広瀬氏の分も隣の医師が預かり、命より大切にして懸命に培養
を続けるも、これもとうとう枯らしてしまいます。

岡本氏は昭和12年頃は「桃源」を五、六鉢も所有し、昭和9年の入手以来毎年開花させ、その栽培技術は長けていたようで、完璧な条件を
具備した蘭舎もさることながら初夏からは屋外の葦簀を張った作場に出し、朝の十時頃までは上の葦簀を巻いて日光を採り、その後は日陰
にして愛培していたと言われています。


こうすると、寒蘭の花付きが極めて良いと言う、現在に通用する栽培法を既に確立され、またこの頃から既に培養土に、鹿沼土を使用して、
好成績をあげる一方、肥料についても鰹節を煎じ出して、その表面に浮き出た脂肪分を除去して使用していましたが、蘭の出来は栄えは実
に素晴らしいものであったそうです。

岡本氏が、寒蘭の世界で最も楽しい人生を送ったのは、昭和7年頃から東京の別宅で脳梗塞で倒れるまでの昭和15年、つまり62歳頃か
ら70歳頃までの八年間位で、その後は身体が不自由になった上に、戦争勃発から終戦の世情の中、人間一人が生きるのに困難な時代で
蘭の栽培どころではなかった事でしょう。


特に終戦後は無収入で税金も払えず、鳥飼の本邸を売り払い、西油山の別荘に移り、趣味で集めた刀剣や書画骨董を換金して、生活を繋
いでいたようで、人の手が届かなくなった蘭の運命は推して知るべしで、一々万金を投じて蒐集した「桃源」を始め幾多の名品は、氏の他界
に先立って枯死してしまったと推測されています。

特に「桃源」は他の名品と違い、岡本氏が誰にも譲らず独占していたため、絶滅に至ったと言え、昭和23年の他界後「桃源」も一緒に、納棺
埋没されたと流布されますが、ご遺族の話では、そのような事実は無かったようで昭和21年に西油山の家に移った時には既に蘭とか盆栽
のようなものは何もなかったと言う事です。


「桃源」は、土佐寒蘭の銘鑑で見る限り、昭和16年までは何れも最高花にランクされていますが、戦後に発行された昭和27年の土佐愛蘭
会第一号の銘鑑からは、昭和5年から26年までの命名登録品の内から、「桃源」の名前は消えており、これらの事から岡本氏が病に倒れら
れて間もなく絶種したものと思われます。  (続く)
   
 
参考文献: 「寒蘭」 名花「桃源」と岡本彦馬翁 石崎 保 昭和58年

’07.02.07(水)   幻の名花「桃源」 Dエピソ−ド

東京の有名な寒蘭愛好家の、諸富鉄雄氏が昭和8年末に、当時高知県庁農務課に勤め、土佐愛蘭会の幹事をしていた知人「村上亀男」氏
から、この秋の第一回の寒蘭展示会で「金鵄」、「桃源」、「武陵」などの花物寒蘭の出現を知らされ、昭和11年に旧知の「竹村寛一郎」氏を
高知に訪ね、立派な株立ちだった「桃源」の分株を懇望します。

竹村氏は、”せめてイモでも”と願う遠来の友を労らいながらも、「折角だがこの蘭は香宗我部、岡本、竹村の三人だけで持とうと言う約束が
あるので譲れない。  岡本氏所有の株が大分増えているから、或いは....」と断られるも、諦めきれない諸富氏は、その一、二年後、更に
遠方の福岡の岡本氏を訪ね、同家に一泊して再度分譲を懇請します。

しかし、多くの同株を持っている岡本氏も、「この蘭は日本で三人位で持っておればよく、誰も彼もが持つものでない。  しかし折角だから他
の蘭であれば...」と決して蘭を人に売ったり、あげたりしない岡本氏としては精一杯の心使いだったかも知れませんが、徒労に終わって、
肩を落として帰る諸富氏の気持ちのほども分かります。

後日談として、昭和15年に岡本氏が東京滞在中に病に倒れた時、折りしも寒蘭の咲く時期だったので、福岡から「桃源」を一鉢取り寄せた
時、諸富氏の事を思い出し、四、五輪咲いたのを使いの人に託し、「これを預けておくから、よく見てやって頂きたい」と言って、諸富宅に持参
させ、約一週間ほど観賞用に預けたのでした。

この蘭を求めて、かって諸富氏は東京から高知へ、そして又、東京から福岡まで行きながら、遂に手中に出来なかった憧れの名花だけに、
例え一週間でもこれを朝な夕なに観察したイメージは、取材を石崎氏から受けた四十数年後でも、その時の事が鮮烈に瞼に焼き付いて、忘
れる事は出来ないと述懐されていたと言います。

他の逸話としては、岡本氏と蘭を通じて親交のあった「岡部重幸」と言う軍人さんが、日華事変が勃発した昭和12年に、上海の陸軍特務機
関にいた頃、岡本氏から「桃源」が咲いたから見に来ないかと連絡を受け、その戦時下、わざわざ公用を作って上海から軍用機で朝鮮経由
で見に来たと言う、嘘のような本当の話もあります。

また、「桃源」を枯死させた竹村氏も、岡本氏の死後、その「桃源」が東京の何処かに残っているとの噂を聞いて、又してもこの名花への思慕
が募り今一度わが手にと数回に渡り東京に出かけ、初恋の蘭を探し回りますが手がかりは得られず、多分戦災に遭って、焼失したのに違い
ないと言い聞かせて、遂に諦めたそうです。

この度、資料と共に石崎氏から頂いた手紙には、絶種したとされる「桃源」が一時期、実は現存していると、地元で評判となり「桃源会」なる
ものが出来て話題になりましたが、石崎氏のこの調査報告以来「桃源」の再出現の話は出なくなり、愛蘭家の一部からは寒蘭界の夢、ドラ
マを壊したとの批判も受けたと書かれていました。

いずれにしても、「桃源」の花信が途絶えて茫々六十余年、その「幻の名花」を見た人が、もはや実在しない現在、寒蘭愛好者がその心の中
だけで、その歴史を懐古し、全貌を想像してみるのも楽しいものです。 (完) 
   
 
参考文献: 「寒蘭」 名花「桃源」と岡本彦馬翁 石崎 保 昭和58年 

’04.12.22(水)    寒蘭「日光」のこと

昭和8年、高知の第一回寒蘭展で「肝を引き抜かれた」と言わしめた桃花の逸品「武陵」が、その後長く天下の桃花として君臨しますが、昭
和10年代初頭、同じ西谷山の「
鳥越」から佐川町の戸梶伊織氏が花色不明の苗を採取したのが桃花の歴史を塗り変える事になります。

その内の1本を越知町の医師、「高橋勝護」(後の土佐愛蘭会会長)氏に分譲、氏が愛倍に勤める事、幾余年、遂に開花した花は今までに
ない素晴らしく原色に近い桃色花で、昭和29年11月6日「
日光」と命名、高橋、戸梶の共同名で登録、本部展に出品、公表しました。

花は、赤みの強い鮮桃色で格調高く、優しさと気品溢れる三角咲きの大輪で、弁に数条の濃紫紅色線が天弁に折り鶴芸が入り、子房も花
茎も同色に染まる無類の絶品で、新聞種にもなり、その人気はたちまち「武陵」に取って代わり桃花の王者に君臨、現在に至ります。

昭和30年〜50年代は西谷物全盛期で、中でも「日光」は色の冴え、花形、全体の姿ともに人を魅了し寒蘭を始める動機になったと言われ
とりわけ開花前の端麗さは何とも言えず美しく、愛蘭家でこの花を見て心躍らぬ者はおらず、後の寒蘭美の基準を作った名花です。

昭和40年代は、桃や黄色でないと寒蘭にあらずの風潮で、桃と言えば誰でも飛びつき、中でも当時「日光」は、一條100万円の相場が長く
続き、大会では優勝花の常連で、蕾だけで優勝したのも「日光」が最初で、天皇陛下も拝謁されたと言われています。 
 
芽当たりがあるかどうか分からない物や、芽が出ても長刀か2枚葉の小さい物で、上手に作っても、10年で花が咲くかどうか分からないもの
に人は列を成し、大枚をはたいて買った物をあえなく枯死させる例も多く、やっと咲いたら実は贋物だったと言うのもこの頃からでした。

それでも、「日光」人気は高まるばかりで、「
日光会」と呼ばれた会の会員以外には入手が困難で、買った後には予約待ちが後へ後へと4、
5年先まで予約があり、いくら高値で買っても損が無く、楽しむと言うより「蘭転がし」で金儲けを主目的に走る者も出て来た程です。

更に、花だけが美しいのでなく、土切り時の袴も桃紅で、更には新葉が真黄か乳黄で時として紅線まで入り、その艶麗ともいえるコントラスト
は「
西谷芸」と称され、花がなくても楽しめ、昭和36年「新芽会」の誕生以来その王座を確保、その地位は今でも揺るぎないものです。

 参考文献:「寒蘭」 土佐愛蘭会50年誌復刻版 ・「ガーデンライフ」 誠文堂 新光社 ’83年11月

’03.11.12(水)     我が家の開花第一号 武陵

立冬を控えた6日、我が家での今年の寒蘭開花第一号は、やはり8月初旬に花芽の上がった「武陵」でした。  暦の上では冬とは言うもの
の、まだまだ秋の色濃く、菊や紅葉が一段と鮮やかに人々を楽しませてくれる中、色とりどりの寒蘭が咲き出して来ました。

「武陵」は、かの名高い西谷産の古典的名花で、中国の地名「武陵源」から土佐寒蘭の先覚者、故「西内秀太郎」さんが昭和8年に命名した
と言う逸品で、後に「
日光」が発見されるまでは桃花寒蘭の最高貴品と持て囃されたそうです。

しかし、この名花もあの薩摩寒蘭の名花「白妙」などと同じように、非常に混乱を極め、一時期、西谷から出る桃花はすべてみな「武陵」と呼
ばれ、中には品格の劣るひどい花を咲かす品も混じり、真の「武陵」を汚す事、ひと方ではなかったと言われます。

「武陵」は、土佐寒蘭命名第四号と古く、残っている木にも本物が少ないと言われており、同時期の桃花「桃源」も既に絶種しており、元祖の
命名品「武陵」は広葉系の半垂れ葉だと言う事から、私の木は細葉で中立ち葉の「
細葉系武陵」と呼ばれるものでしょうか。

「黒崎陽人」氏の東洋蘭譜」に記載の「細葉系武陵」の解説によると、「五弁淡桃紅色に濃筋をかけ、弁先と内弁は淡色。舌には紅点があ
り、子房は紅色、花茎は細く、黄みを帯びた緑紅色で個体差がある。葉は淡緑色で細幅の中立ち性。」とあります。

先日、友人から西谷産の「慕情」が咲いたと写真を送ってくれたのをじっくり見ると、私の花と発色に若干違いが有るものの特徴が黒崎氏の
上記の解説と良く合致しています。 元々この二つの花は同じ物だと言う説も多いですが、真意の程は私には分りません。 

「蘭香る小春日和に誘われて」 (拙作)

’02.11.6(水)     寒蘭・薩摩の名花 「白妙」

「豊雪」よりも古く昭和の初期に、鹿児島県、紫尾山系の犬山で、山採り名人と言われた今村氏により発見、後年政治家で東洋蘭の趣味家
でもあった
松村謙三氏により、「田子の浦にうち出て見れば白妙の富士の高嶺にに雪は降りつつ」の古歌より「白妙」と命名されたそうです。

その出会い、命名の経緯については氏の「養蘭記」に記載されていますので紹介しましょう。  それによると昭和31年11月15日、薩摩宮之
城町の二人の愛蘭家が蘭を持参して、東京の知り合いの「上原政兵衛」氏を訪ねます。 上原氏は早速二人を伴い愛蘭家の松村氏の下を
訪れ、彼らが薩摩寒蘭の白花を始め、優秀な品種の寒蘭を持参し売却を希望しているとの事を伝えるのでした。

松村氏は早速、ちょうど来合わせていた、「小原秀次郎」氏ら蘭友3人と蘭を見に、上原邸を訪問され、そこで目にしたものは白花他、紅花、
青花など12種の何れも見事な逸品揃いで、良くこれだけ揃えたものだと感心され、特にその内、白花は当時の著名な白花「
汀露)」に優ると
も劣らぬ花2幹、11芽の立派な大株物でした。

12種全てを、総額38万円との先方の希望を交渉の結果、27万円で折り合いを付けて三人で買い受け、その内、氏の負担額は新芽1、古芽3
の白花と合わせ、5種で7万円也とあります。その購入費用はご自分の所蔵する中国蘭を処分してこれに当てると記されています。

無名だったこの白花を三人で相談して、上記のように「白妙」と命名したのですが、この11月8日に、「南極第一次観測隊」を乗せた「宗谷」が
晴海を出港したこと、又薩摩産という事で
「南極」も如何なものかと思案されたそうですが結局、「白妙」に決められた由来があります。

その後有名品種になり、高値で売れ出した頃から素心であれば、「犬山」以外から出たものもなんでもかんでも「白妙」の同名で売られた結
果、現在その類似品は20種類近くあるそうで、どれが松村氏命名品の正統派か良くわからない状況になってしまっています。

 参考文献:「カンラン」誠文堂 新光社

’09.10.21(水)   「白妙」 @出所来歴

薩摩寒蘭の不朽の名花と言われる、”白花の王”「白妙」については、一度前に、「松村謙三」先生の「養蘭記」から紹介しましたが、その後
得られた情報から、もう少し掘り下げた話を紹介しましょう。  この「白妙」の出た所は、紫尾山系の出水市犬山吊戸の迫(ついとんさこ)とい
う所で、その発見は昭和十年代と推定されています。

採取したのは、宮之城の柊野に住む「今村今義」氏で、当時この犬山の全域は、旧肥後の殿様・細川候の領土で、人夫頭だった今村氏は、
「吊戸の迫」で地ごしらえの作業中に、立派な蘭四株を採取しますが、偶々そこに細川家から派遣されて現場監督に来ていた「谷川清」氏が
その蘭を見て非常に欲しがったそうです。

何も知らない今村氏は、昨年の枯れた花茎のついた、4,5本立ての一番良い大株を進呈、その秋にはその株に花が咲き、近くに住む蘭に
詳しい歯科医の楠元某に鑑定を依頼したところ、白花の名花だと折り紙を付けられ蘭に関心のある者の間で忽ち人気となり、今村氏も招か
れて出水の宿舎まで見に出向いたのでした。

その花は、ゆったりとうつむき加減に咲く薄緑一色の透き通った花で、蘭にもこんな美しい神秘的で気品のある花があるのかと感心、この花
を見た多くの人から分譲を望まれますが、谷川氏は頑固に手放そうとはしませんでしたが、それから何年か後に件の楠元某に強く乞われて
全て売却したと今村氏は人に語っています。

その時の売値は、「びっくりするような値で売れたそうだ」という事を噂に聞いた今村氏は、息子達を連れて、時には狩のついでに一人で、何
度かその採取地を探すも見つからず、それでも根気良く毎年一回づつ訪ねた終戦後、やっとの事で同じ坪から新子の小苗二本を採取、一本
は人に売り、残りの一本は長男に預けます。

長男は人に気づかれないように谷川の畔の藪の中に、こっそり植えて培養していましたが、ある大雨の時、谷川が溢れて流失してしまいま
す。   また最初に採取した四株中の残りは、「
玉利 進」翁の従弟「玉木寿巳」氏の蘭好きの弟に譲ったと言われていますが、その間戦争
もあって花信も途絶え、その消息は不明となります。

然るに、時を経た昭和31年に「松村謙三」先生の棚に納まり、「白妙」と命名されたその株は、その折に薩摩から持参した宮之城町虎居の
橋口喜一」氏所有の蘭ですが、その経路は何時頃、誰から誰を通じて橋口氏に渡って来たものかは、正確にはわかっていませんが、次の
二つの説があると言われています。

その一つは、戦前に今村〜谷川〜楠元〜橋口氏に渡ったという説と、他の一説は昭和25年頃、大分県生まれの”山師の石田”という人が
橋口氏に山採り小苗を数本売ったもので、これが開花して昭和31年に13本立ちとなり、その内の11本の株を東京に持参したと言う説があ
りますが、この後者の説が通説のようです。

そんな経緯を経て橋口氏は、玉利翁と共に鳥鍋をつついた蘭仲間で、一緒に戦前から寒蘭の普及に努めた「榊 栄太郎」氏が、毛皮商として
交友関係が広く、従って東京方面にも知人も多かった事から、売却に東京への同行に協力をお願いし、榊氏が懇意の「上原政兵衛」氏を通
じて松村先生を紹介してもらったと言うことでした。

 参考文献::「薩摩寒蘭」 薩摩寒蘭同好会 (昭和61年)  

’09.10.21(水)   「白妙」 A選別優良品の出現

さて橋口氏は、松村謙三氏に売却の「白妙」残り二本の一本は、東京へ同行してくれた榊氏にお礼に差しあげ、後の一本は自分で培養し、
昭和36年に花芽が出る良株に育ち、人伝に「
早川源蔵」氏が欲しがっていると聞き、ご希望なら分譲する旨の手紙を送るや、早川氏は取る
ものも取り合えず、東京から飛んで来て、大喜びで鉢を抱えるように帰って行ったと言われてます。

この「白妙」は、犬山山麓のわずか五アールほどの小坪から出たと言われ、「白妙」命名後、そこは「本坪」と呼ばれますが、既に昭和29年
頃、この土地の所有者だった十条製紙八代工場の手で、パルプ材料として伐採され、その後に松の植林をしたので坪は荒廃し、一時蘭は、
自生しなくなり、蘭の再生は危ぶまれていました。

しかし自然の復元力は強く、昭和33、4年にかけて数本採取されたそうで、これが「本坪」からの最後の採取だと言われており、時のブーム
に煽られた人間のエネルギーは凄まじく、宿毛市の「
西谷山」と同様に立ち木、岩盤は掘り起こされ蘭玉まで篩い取られ、あっと言う間に山
容が一変、あたら名蘭も命脈が絶たれたのです。

しかし、その後「白妙」が全国的に名が通り、蘭界屈指の名花であると認知された事から、商魂逞しき商人達の中には、犬山の他の坪でも、
白花素心が見つかれば勿論の事、一時は、犬山以外から出た素心でさえ識別が容易でない事もあって、みんな「白妙」として扱い売る者も
出て来て、一時は20種類近くにもなったそうです。

その結果、展示会に「白妙」として出展し、雛壇に飾られると、見るたびに、「白妙」が常に同じものではなく、必ずその前で、「これも白妙か、
白妙だ、いや白妙でない」と言う声も良く聞かれたそうで、当時「薩摩寒蘭同好会」の会長「
島伊右衛門」氏は、本坪外のものは「白妙」とは
言わないと、常々主張されていたと言います。

しかし、一般に出回っている「白妙」の殆どは、本坪外のものだと言われており、完全な巻舌素心は共通なるも、本坪ものの新葉の展開は非
常に遅く、展開と共に鮮やかな
刷毛縞を現わし、葉は俗に女葉と称する光沢のある肉薄の溝の浅い大垂れ葉で、鉢の縁まで垂れるのが特
徴で、本坪外のものと識別されていました。

ところが皮肉にも、本坪産の”松村系白妙”の後に出た、所謂「白妙選別品」と言われて流通するものの方が優れたものも出現し、薩摩地方
では通称「
ドンジ葉系白妙」と呼ばれた白花で、特に葉と花の態様が明らかに異なって、葉は肉厚のやや幅の広いずんぐりとした、中垂れの
男葉で、花はやや広弁の三角咲きのものでした。

更に最大の特徴は舌が大舌で巻き返ることなく、従来の「白妙」を柔と呼ぶなら、「ドンジ葉系白妙」は剛と呼ぶべき違いがあり、気品と幽艶
を漂わせた大輪花は絶妙な美を保ち、悠然と咲く姿は素晴らしく、昭和50年代後半から、展示会では賞を独占するようになり県内外の愛蘭
家から分譲の引き合いが増えて来たのです。

この花の所有者は、大口市山野の愛蘭家「早水健治」氏で、薩摩地方では「白妙」の中でも一ランク上に見られ、その売買価格も高く取引さ
れて、やがて正式な別名を付けざるを得なくなり、早水氏は評価が安定して来た昭和60年、新規に命名登録したその花こそ今でも一際高
い人気を博している白花素心「
大雄」なのです。

 参考文献:「薩摩寒蘭」 薩摩寒蘭同好会 (昭和61年) ・「カンラン」 誠文堂新光社 (昭和45年) ・「蘭雪」 第11号 なにわ蘭友会

’09.11.04(水)   「白妙」 B薩摩の誇りとして

昭和34年の秋、懸案だった日中関係改善のため初訪中した「松村謙三」氏は、時の外交部長で中国革命の元勲、中国人民共和国の初代
元帥の朱徳元帥(1886〜1976)が大の愛蘭家と知り意気投合、元帥の家に招かれて、お土産に頂いたのが「
雲南雪素」で、これが日本
では初めて目にする「中国奥地の蘭」でした。

松村氏は、その返礼として寄贈したのが、自らの命名品「白妙」であった事は良く知られたところで、この事が中国との民間貿易交渉を順調
に進める糸口となり、後の日中国交正常化の礎を築いたと言われ、そんな意味でも「白妙」が日本の外交に一役果たした意義は大きく、まさ
に薩摩の名花、薩摩の誇りとなるのでした。

時を経て、昭和48年2月には、何としてもこの郷土が生んだ稀世の名花、「白妙」の保存を図ろうと、発起人のお一人だった、熊本県津奈木
の病院長、「松本央」氏が会長となり、「
玉利進」、「橋口喜一」、「新一人」氏らを始め東京からも「小原秀次郎」氏が理事として加わり、総勢
十五名で「
白妙保存会」が結成されます。

その結成の思いとして、「今や紫尾山、犬山の「白妙」の古里は既に人間の手で破壊しつくされ、その幽邃の住み家を追われ、自然発生の
可能性もあらかた失われ、名花「白妙」は自らの運命を人間に委ねてしまった。   かって人を魅了し尽くしたと言う「桃源」、「宮之城錦」も
ただ空しく、その名を聞くのみで今や絶滅している。

我々は、この稀代の名花「白妙」の運命を握ってしまった以上、それを絶えしむるような事があってはならず、その責任は我々にあり、我々の
手で積極的に保存し繁殖させて、後世に至るまで存続を図らねばならず、これは、いわずもなが、我々蘭を愛する者の義務であり、願いでも
ある」と松本会長は述べておられます。  

そして昭和50年、薩摩寒蘭鹿児島県連合会で機関紙を発行する事が決まり、その誌名を「白妙」とし、その表紙の題字を、当年故人になら
れた橋口氏が、松村氏揮毫の「白妙」の扁額を有されていた事が判り、機関誌の題字はこれに限ると、ご遺族の了解を得て、その格調高い
優雅な揮毫が採用されて花を添えたのでした。

その後更に昭和61年には、会結成60周年を迎えた「薩摩寒蘭同好会」が、その記念行事の一環として盛大に開催された「、全国寒蘭名花
展示会」では、この行事を契機に、誇りある先人の偉業を称えると共に、偉大なる薩摩の自然の恩恵に感謝するために薩摩寒蘭を象徴して
白妙記念碑」の除幕式展も組み込まれたのでした。

 白花と言えば「白妙」、「白妙」と言えば薩摩寒蘭の代名詞のように伝えられ、今も揺るぎない人気を有しているのは早くから中央に紹介さ
れ、何と言っても松村氏から命名された事が大きかったのではないでしょうか。  今回は、心に迫る美しさで人を引き付け、”素心の薩摩”を
築き上げた代表的名花「白妙」に纏わる話でした。

  参考文献:「薩摩寒蘭」 薩摩寒蘭同好会 (昭和61年) ・「自然と野生ラン」2月号(昭和62年) ・「ラン」11号(平成元年)

’02.10.23(水)   寒蘭・土佐の名花 「豊雪」

西谷産の白花の名花豊雪を最初に展示出展し世に知らしめたのは、愛媛県宇和島在住の「田村 豊」氏で、「雪のような白さ」とご自分の
の名前、「豊」をとって夫人により命名されました。

氏と豊雪との出会いは、昭和20年代、暇を見つけては方々の愛培家の棚を訪ねておられた頃、西谷近くの神有村の好き者小松斧太郎氏の
棚で、15cm程度の新芽に一際、乳白色をした見事な苗を見かけ、子細を尋ねたところ、知人に白花を引いたと言う人がいて、その坪と自分
が知っていた桃花の坪と交換で教えあって、その坪から引いてきたので白花に間違いないと言う事だった。

しかし、これは高知に持って行くのだと交渉に乗って来ない小松氏に、まだ数年は咲きそうもないので、焦らず根気良く毎年訪れては、交渉
を続け3年がかりでやっと手に入れたそうです。

昭和33年に初花を咲かせ、土佐愛蘭会に出展された時は葉と袴に白班をかけて白花だったので話題になったものの、木も貧弱で花も一輪
咲きだったので、批評は見合わされました。

その後、蕾を虫に食われたり、薬害とかで中々花が見られずその間、「あれは暗室で咲かせた花」とか花に汚れが出たとか、諸説紛々、妬
みと悪意に満ちた色んな噂が流れたそうです。

時を経てその4年後、昭和37年再出品されたものは、初印象をはるかに凌ぎ、健康な株で花茎を高く伸ばし、端正な純白八輪咲きの堂々た
る花容を誇り、総合優勝を奪い今までのあらゆる疑惑、憶測、汚名はいっぺんに返上されたのです。 

これを期に、寒蘭白花の頂点に君臨する王者の位置は、不動のものとなり、ブーム最盛期には一芽500万円とも、開花株で1000万円とも、
その価格は天井知らずの高騰が続いたものです。

 参考文献:「カンラン」 誠文堂 新光社 ・「東洋ラン・花物」誠文堂 新光社 黒崎陽人