’08.02.06(水) 赤花名人「榎本敏一」 @盆栽、万年青でも名人
今回は、今までにも何回かこの欄でも名前が出て来た人物で、昭和30年代後半からの春蘭色花全盛時代に「極紅」、「紅明」などの赤花栽
培で春蘭界がこぞって目標とした、画期的な紅赤系春蘭の発色技術を確立された方で、春蘭愛好者なら誰でもその名前を知っている、赤花
名人「榎本敏一」翁を取り上げました。
榎本翁は、明治33年愛知県に生まれ、古典園芸が昔から盛んな風土で育ったこともあり横浜で理髪店を営む頃から趣味で盆栽や万年青を
始めますが常に研究心が強く、その道を極められるまでは、トコトンまで奥義の追求をやめないと言う熱の入れ方で盆栽促成技術の開発でも
大いに名声を高められたと言います。
それは昭和初期、横浜に”マン”さんという盆栽を作らせては天下に冠たる人がいて、榎本翁は、盆栽の勉強のために先輩方の棚を見学した
り、苦心談などから、ある構想を思いつき、それを試みるべく小さなケヤキの苗木を購入し、わずか5〜6年で根元が5.5センチ樹の丈が30
センチの見事な盆栽に仕立てたのでした。
その仕立て方は持ち前の鋭い観察眼で、樹の特徴と成長のメカニズムを正確に把握した合理的な方法で、実に根気良く熱心に日夜研究に
励まれ、僅かな栽培期間で完成させた、その見事なまでの出来映えの美術品を前にして、さすがの”マン”さんも、「私にはとてもこれだけの
努力はできない」と、しばし感嘆したと言われます。
また三十年位かかったと思われる黒マツが、わずか八年生だったなど、その盆栽作りにまつわる名人技は盆栽界で語り草になるほどで、他
に万年青も手がけられますが、その方針は、どれもこれもと言うのではなく筋の通った銘柄を見極めた少数精鋭主義で、のち春蘭作りでも通
じる独自の園芸哲学を持っておられました。
普通の趣味者は、駄物でも数多く集めて自己満足したいものですが、翁はそれらの誘惑には微動だにせず、己の哲学を貫かれる姿勢は、若
い時から終生変わらず、その万年青でも最初から「根岸の松」や「地球宝」と言った堅実な物を手に入れ栽培、優れた技能を有する若き園芸
技術者として、人に知られるようになります。
盆栽や万年青と共に春蘭に興味を持って始められたのは昭和5年(30歳)頃からで、当時春蘭界は柄物全盛時代で、やがて「輪波ブーム」
が到来し、米沢の著名な蘭商「地主政吉」氏にも盛んに「輪波の花」を推奨されますが、万年青の経験から、将来性に疑問を感じて、むしろ格
安の「守門山」に主力を置き栽培されます。
しかし関東では、柄物の栽培は北陸地方とは、土地柄や気候にハンディがあって、虎斑の出も思うように行かず、不利だと限界を悟るや思い
切り良く三年程の栽培でやめてしまいますが、翁が目標を定めた「守門山」は、その後「輪波」を凌ぎ、長らくその人気を維持したことで、その
先見性の確かさは認められるところでしょう。
その後ご自身の高度な園芸技術力を生かして、この古典園芸植物に趣味と共に実益を兼ねるプロとして、これからの生活に可能性を見出し
昭和13年、藤沢市郊外に移転、生涯を園芸に専念することになります。
参考文献: 「日本シュンラン」
誠文堂新光社 青山 慶 他 昭和51年 ・「東洋ラン
お棚拝見」 誠文堂新光社 昭和56年

’08.02.13(水) 赤花名人「榎本敏一」 A赤花時代をつくる
時を経て、昭和30年代の一時期、万年青の沈滞期のあった頃、中国春蘭の「宋梅」、「大富貴」、「緑雲」などの代表銘柄を入棚されますが、
こでも方針として数年先の作を考えて、通常より二、三割高くても、上木ものがあれば躊躇なく上作ものを買うのが常で、多くの人が手を出し
たがる安いものには目もくれませんでした。
その後中国春蘭にはなかった色花春蘭の色彩の妙に魅せられ、いつしか関心を抱いていた昭和40年頃、古い付き合いの千葉の万年青商
人「磯貝民蔵」氏が、「山から出たばかりで色は悪いが、赤系の花があるからひとつ作ってみないか」と持ってきたのが「極紅」で、翁が栽培し
て数年後、今までにない赤い花を咲かせます。
それが昭和42年の日本橋三越展で文部大臣賞受賞、これが赤花の先駆けとなり、以来日本春蘭界は、従来の朱金色系とは独立した品種
分野として赤花系が位置づけられ、「極紅」が赤花の基準となった事は、翁が初めて手がけただけに、この受賞と蘭界関係者の賞賛には、大
いに気を良くしたのは容易に想像出来ます。
これが翁の赤花作りのきっかけになり、翌年に甲府の大物蘭商で、後に生涯のコンビとなる、故「八巻甲四郎」氏が千葉産の赤花だと持ち込
んだものは色は素晴らしいものの花弁が尖り今一で、ひとつ自分の手で上手く作ればと技術屋の勘が閃いたという花が、のちに赤花の女王
と崇められた「紅明」との初対面でした。
赤花に魅せられた研究心旺盛な翁は、如何にしたらもっと良い赤と良い花形を作り出せるか、毎年同じように咲かせるにはどうしたらよいか、
寝ても褪めても年中その事ばかり考えていたと言い、その試作途中での人目には良いと思えても、翁が不満と思うものは、書物への写真掲
載を拒否されるプライドを持った技術屋でした。
一方、「菊地明」氏が昭和46年、又もや「紅明」発見の目と鼻の先の場所から採取した言う「紅梅仙」を手がけてここに苦節十年、満足できる
赤花発色技術を確立させ、翁が春蘭全国大会に三花咲かせた赤花鉢を持参しただけで、もう総理大臣賞は決まったも同然と言われるほど、
当時としての技術力は卓越したものでした。
その色出し技術については奥深いものがありますが、基本となるところは、木勢をつけようと余り肥料は多く与えず、着蕾時には窒素養分が
なくなるように早めに切り上げて、葉緑素の生成を抑え、蕾に遮光用にキャップをかぶせて光合成作用を抑制する事で、より赤色を出すという
理にかなった今では定石ともいえる方法でした。
その方法が公表されるようになったのは、昭和50年代に入ってからで、遮光の概念などない”赤花、赤花”で騒然となっていた昭和40年代
当時に、いち早く大枚うん百万円で手に入れた好事家達は、翌年咲いた似ても似つかぬ青花を見て顔まで真っ青になったとか、そう言う笑い
話とも言えるエピソードも残っています。
参考文献:「日本シュンラン」
誠文堂新光社 昭和51年 青山 慶ほか ・「日本シュンラン」
誠文堂新光社 昭和54年
「らん」 池田書店 7号
昭和59年 ・「これからの春蘭」 八坂書房
平野 綏 平成18年
「自然と野生ラン」 平成20年 2月号

’08.02.20(水) 赤花名人「榎本敏一」 Bエピソード
「桃山錦」が発見された翌年の昭和49年、鮮明な赤縞花という口込みだけで、一千万円の値が付いた、どんな花が咲くかも分からない山物
の約百本の実生苗を当時銀行勤めだった川越市の「中村斉」氏と、二人で買占めて半分ずつに分ける際、交渉した中村氏には大きい苗を、
自分はひねたクズ苗ばかりを引き受けたそうです。
翁は万年青の体験から、作や評価の定まっていない未知のものは、人が選って捨てたようなものに往々にして良い花が見つかり、元気です
らすら育つようなものは面白くない上、余りずば抜けたものにはならない事が多いと感じていたので、小さい一枚葉とか二枚葉ばかりの小苗
を選んで、期待を掛けて大事に育てたそうです。
三年位からは咲くには咲いても余りぱっとせず、四年目に咲いたまずまずの花を雅叙園の展示会に出し、注目もされ登録もされましたが、よ
り高い作を目指す翁の目には余り気に入らなかったようで、花を咲かせてみては人に乞われるままに、棚から次々と放出してしまい、選別で
残ったのは二品種だけになってしまいました。
それは十年後に咲かせた翁が最高の赤縞花だと満足する「聖晃錦」と、もう一つは花形が良く舌もふっくらとした「虹姫」で、舌は咲き始めは
白くのちに桃色を帯びてとても可愛い花で、その上二つとも花だけでなく、葉に縞が出てそれが残る多芸品で、はじめて翁が観賞価値を認め
るに足りる花を咲かせたのでした。
榎本翁は小柄な上に、手はまるで子供のように小さく、いかにも器用そうで名人と言われたほどのたぐい稀な技術の持ち主でしたが、技術だ
けでなく度胸もあり、商売上手でもあったようで、菊地明氏が「紅梅仙」を採取した時は、花は二本立てで一本が丸弁の抱え咲き、もう一本が
細弁の水仙弁で咲いていたと言う話でした。
それを聞いた翁は、当時人気の中国春蘭「肅山蔡梅」(しゅくさんさいばい)にならい、「梅弁と水仙弁を咲き分ける赤花が出た」と言う架空の
伝説を作り上げ、最初の名前から「紅梅仙」と改名登録して忽ち人気品に仕立ててしまい、その現象が単なる「咲きむら」だと愛好家が気づく
のは、それから十年以上経ってからの事でした。
もう一つ、「光琳」が全盛で大変高価だった昭和40年代の頃、あろう事かこの名人に、葉性が「光琳」にとても良く似た偽物を売りつけた蘭商
がおり、葉は似ているものの花を咲かせれば直ぐに露見してしまうので、根に特殊な薬品を吸わせて処理し徐々に根傷みして遂には枯死に
に至るように小細工したものだったそうです。
しかし、この商人は翁の腕を甘く見たようで、通常なら花が咲くまでに数年かかり枯れてしまう所が、さすがの名人技で、奸商の思惑に反して
翌年に花を咲かせてしまいますが、翁は騙された事を知っても、少しも騒がず逆に「光琳に奇花が咲いた」とそ知らぬ顔で、これを大金にして
しまったと言うエピソードも残っています。
翁は最晩年に至るも、蘭から精気を貰ったような元気さで、5月から11月は露天栽培で、冬の間は蘭舎に移しますが、他の者にはランに手を
触れさせない事にしていることから、出し入れも自分でされていた翁でしたが、平成6年4月23日、日本春蘭界に偉大な足跡を残されて、94
歳のご生涯を閉じられています。 (合掌)
参考文献:「らん」 池田書店 7号
昭和59年 ・「これからの春蘭」 八坂書房
平野 綏 平成18年
「東洋ラン・お棚拝見」
誠文堂新光社 昭和56年

’08.02.27(水) 赤花名人「榎本敏一」 C翁を偲んでぶらぶらと...
今年の冬は何年か振りに関東でも積雪があったりした冬らしい冬となり、冷え込む日も多かったのですが、その合間に春を思わせるようなポ
カポカ陽気に見舞われた今月上旬の一日、古い書籍で知った藤沢市にある榎本翁の家を、厚木市からそう遠くない事もあって、散歩がてらに
ぶらぶら尋ねてみる事にしました。
四十年前の住所表示もそのままで、容易に辿りつけたその邸宅は、家の周りのツゲの垣根も、横の広い畑や古井戸なども、昔の写真で見た
そのままでしたが、時の移ろいで、当時は駅のホームからも見通せたという、野原の一軒屋だったのが周りに新しい家も建ち並び、家の前の
砂利の畑道も当然舗装されていました。
しかし、住人は変わったのか表札が”榎本”ではなかったので、折角来たのだからその辺の事情を聞こうと、失礼を承知でインターホンを押す
も不在らしく応答がないので、仕方なく帰ろうかと思っていた時、ちょうどご近所の住人と思われる男女の方が通りかかられたので、これ幸い
と声をかけさせてもらいました。
ラッキーにも、女性の方は道を挟んだお向かいの方で、男性は町内会の会長さんという事で、春蘭の事は詳しくはなかったのですが、翁が万
年青や春蘭の有名人であったらしい事はご存知だったようで、事情を話すと色々お話をして下さり、それによると今お住まいの方々は翁の娘
さんと孫夫婦、ひ孫さんだと言う事でした。
外からも見える翁自ら設計したという立派な蘭舎は、当時の姿のままでで残っており、今でも十分使えそうですが何でも翁が亡くなった後ごっ
そり蘭の盗難に遭われ、その後は誰も蘭の栽培はされておられないようで、万年青の「越冬部屋」は新しい住居に建て変えられ夏場の「野天
栽培場」も整理されているようでした。
翁が自慢していた、「野天栽培場」上部の雨避けのビニール天幕や遮光用ダイオネットを、一本のロープ操作で自由に開閉出来たり、一重二
重と遮光調整出来たという設備は、骨組み用の鉄骨と、ロープ掛けの滑車の残骸が、僅かにその面影を留めている状態で何かしら主のいな
くなった一抹の寂しさを感じたものでした。
翁が赤花の研究に没頭されていた昭和40年代から50年代、日本全国からその赤花の一鉢を求めに、大金を懐に、何人もの好事家達がま
た大棚に購入を委託された蘭商達が、幾度ともなく冬枯れの季節、燕麦の春、トウモロコシの夏から秋と景色が移り変わる畑の脇道を通って
この榎本邸に足を運んだことでしょう。
まったく翁とは一面識もない私ですが、榎本邸の前にたたずみ翁を偲んで目を閉じると、不思議に当時の光景が目に浮かぶような思いがして
来てよかったと満足すると共に、日本春蘭の歴史の一頁を作った赤花名人榎本翁に、「温故知新」の思いを込めて振り返り振り返り穏やかな
冬晴れの中、家路に着いたのでした。 (完)
参考文献: 「東洋ラン
お棚拝見」 誠文堂新光社 昭和56年

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