泣いてはいけません

説教日:2005年5月29日
聖書箇所:ルカの福音書7章11節〜17節


 ルカの福音書7章11節〜17節には、イエス・キリストがナインのやもめのひとり息子をよみがえらせてくださったことが記されています。
 ナインは、ガリラヤの町で、ナザレの南南東約10キロメールほどの所にあります。
 11節には、

それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちと大ぜいの人の群れがいっしょに行った。

と記されています。
 イエス・キリストがナインの町に行かれた理由は記されていません。しかし、他にどのような理由があったにせよ、イエス・キリストがナインの町のやもめのことをみこころに留めてくださってそこに行かれたことは確かなことです。
 12節には、

イエスが町の門に近づかれると、やもめとなった母のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところであった。町の人たちが大ぜいその母親につき添っていた。

と記されています。
 「町の門」と言われていますが、当時の町は防衛のために城壁で囲まれていて、人々はその門から出入りしました。ただナインの町は小さな町でしたし、その町があったとされる場所からは城壁の跡は発見されていません。それで、この場合には、ただ町の入口に門があっただけのことであると考えられています。死体は汚れたものと考えられていて、町の外に埋葬されたからです。
 原文では、「イエスが町の門に近づかれると」の後に、「見よ。」ということばが置かれています。これは、形としては、思いがけないことに遭遇したことへの驚きを示しています。それは、イエス・キリストと一緒に行った「弟子たちと大ぜいの人の群れ」の驚きです。イエス・キリストはすべてをご存じであられて、まさに「やもめとなった母のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところ」に行かれたのです。その意味で、この「見よ。」ということばは、後になって信仰の目で振り返って見たとき、「あれはまさに、主であられるイエス・キリストが、ちょうどよい時を捕えてそこに行かれたことであったのだ。」と納得するようになったことを伝えることばに変わります。
 その行列は、「やもめとなった母のひとり息子」を、当時の習慣に従って、町の外に埋葬するために、町の門を出て行くところでした。死体は汚れたものと考えられていて、町の外に埋葬されたからです。「やもめ」は、夫に先立たれた女性のことです。この女性がやもめであることは、その服装や、その行列に夫がいないことに現れていました。また、14節に出てくる「棺」と訳されている言葉(ソロス)は私たちが考える、ふたのある棺ではなく、遺体を載せる大きな板の棺を表しています。それで、その青年は、イエス・キリストの語りかけに応じて、すぐに起き上がることができたのです。
 彼女は夫をなくした後、「ひとり息子」と一緒に生活しておりました。しかし、いま、その「ひとり息子」にも先立たれてしまいました。その「ひとり息子」が社会的にどのような立場にあったかは、はっきりしません。14節には、イエス・キリストが、すでに死んでいる「ひとり息子」に向って、「青年よ。」と呼びかけておられます。この「青年」と訳された言葉(ネアニスコス)は、青年ではありますが、およそ40歳くらいまでの人を指すものです。実際、この言葉は、マタイの福音書19章20節では、一般に「富める青年」として知られている人物を表すのに用いられています。そして、この「富める青年」は、ルカの福音書18章18節では、「役人」であったと言われています。この「役人」は、会堂の管理者か、最高法廷にして最高議会であるサンヘドリンの議員であることを示すものです。
 もし、このナインの町の「青年」がまだ若くて、これからという段階にある人であれば、この人の将来に向けての夢も、やもめである母親の夢も、この死によって奪い取られてしまったということになります。また、もし、この「青年」が、すでに成熟して社会で活躍していた人であれば、このやもめである母は老年になっていたでしょうから、自分の支えであった者を失ってしまったということになります。いずれにしましても、やもめとして生きてゆくことは、今日においても大変なことですが、当時の社会においては、より一層大変な面がありました。そのような中での、心の支えであったひとり息子が、取り去られてしまったのです。


 13節には、

主はその母親を見てかわいそうに思い、泣かなくてもよい。と言われた。

と記されています。
 ここでルカは、イエス・キリストのことを「」と記しています。これは、この記事を理解するうえでとても大切なことです。実は、イエス・キリストの地上の生涯を記している福音書の著者が、このように、イエス・キリストのことを「」と呼ぶことはめずらしいのです。記事の中に出てくる人がイエス・キリストのことを「」と呼んだことはしばしば見られますが、この場合は、福音書の著者自身がイエス・キリストのことを「」と呼んでいるのです。
 これに先立つ部分では、このナインのやもめの記事の前の記事を記している9節で「イエス」と言われていて、その後は(動詞の3人称単数形で)それを受けていますので、新改訳では、「イエス」と訳されています。そして、この13節で「」と言われて、14節、15節ではこれを(動詞の3人称単数形で)受けています。新改訳では15節の後半は、

イエスは彼を母親に返された。

と訳されていますが、この場合の「イエス」は「」と訳すべきです。
 つまり、ここでは、イエス・キリストが「」であられ、「」として働いておられることが、特に強調されているのです。これは、イエス・キリストが旧約聖書にあかしされている、イスラエルの民のために贖いの御業を遂行された「」であられるとともに、ご自身の十字架の死によって私たちの贖いの御業を成し遂げられ、栄光を受けてよみがえられた「」であられることを意味しています。
 ここでは、

主はその母親を見てかわいそうに思い

と言われていますが、この「かわいそうに思い」と訳されている言葉(スプランクニゾマイ)の意味合いは、日本語では十分に表すことができません。この言葉の名詞(スプランクナ)は人や動物の内臓を表す言葉です。私たちは「はらわたが煮えくり返る」と言って激しい怒りを表すのに用います。この「かわいそうに思い」と訳された言葉も、そのようにはらわたが揺さぶられるような強い感情をもつことを表しますが、憤りではなく、深いあわれみや同情に満たされることを表します。
 さらに、この部分(13節)を直訳しますと、

そして、主は、彼女をご覧になって、彼女のことを深くあわれまれた。そして、彼女に「泣いてはいけない。」と言われた。

となります。つまり、「」がこの母親をご覧になって、彼女のことをはらわたを揺さぶられるほどに深く憐れまれたことは、彼女に「泣いてはいけない。」と言われたことと同じように大切なこととして示されているのです。
 このように、ここでは、「」であられる方が、「ひとり息子」をなくした「やもめ」に、ご自身のはらわたを揺さぶられるほどの深いあわれみを抱かれたことが記されています。
 このことは、旧約聖書のいくつかの言葉を思い起こさせます。その代表的なものはエレミヤ書31章20節に記されている主の御言葉です。そこには、

  エフライムは、わたしの大事な子なのだろうか。
  それとも、喜びの子なのだろうか。
  わたしは彼のことを語るたびに、
  いつも必ず彼のことを思い出す。
  それゆえ、わたしのはらわたは
  彼のためにわななき、
  わたしは彼をあわれまずにはいられない。
     主の御告げ。  

と記されています。
 ここに「エフライム」という言葉が出てきますが、これはイスラエルの民を代表的に表しています。イスラエルの民は神さまの救いを諸国の民にあかしするために選ばれました。その意味でイスラエルの民は「選民」です。けれども、そのイスラエルの民は、その歴史の初めから神さまに対して罪を犯し続けました。後にダビデ王の時代に王国として確立され、その子ソロモンの時代に繁栄するのですが、その王国もソロモンの死語、南北に分裂しました。そして、まず、ひどい罪を犯し続けた北王国イスラエルが神さまのさばきを招き、アッシリヤによって滅ぼされました。南王国ユダはそれを知っていたのですが、自らを省みるどころか、罪を深めていって神さまのさばきを招き、バビロンによって滅ぼされてしまいました。
 それでは、このようなイスラエルの民が、どうして「選民」なのかと言われることでしょう。実は、イスラエルの民は、神さまの御前における人間の現実を示すために選ばれた民であるのです。私たちは旧約聖書に記されているイスラエルの民の歴史を読みますと、それが不信仰と背教の歴史であることに驚くだけでなく、あきれてしまうほどになります。けれども、それで終ってはならないのです。それこそが、自分の現実であることを知って、身を低くしなければならないのです。イスラエルの民の歴史全体が、人は神さまの御前に罪あるものであり、罪を犯し続けているということ、そして、それは神さまの聖なる御怒りによるさばきを招くほかはないものであるということをあかししているわけです。
 しかし、それだけですと、そこには何の希望もありません。聖書があかししているのは「」の救いです。イスラエルの民は、自分の力やよさによって自分を救うことができないこと、むしろ罪を犯し続けて神さまの聖なる御怒りを招くだけのものであることを露呈しています。そのような罪を犯し続けるイスラエルの民を「」が愛とあわれみと恵みによって救ってくださるといのです。「」はこのことを、このようなイスラエルの民の不信仰と背教の歴史をとおしてあかししてくださっています。
 エレミヤは、この南王国ユダに対して警告を与えるために「」によって召された預言者です。エレミヤ自身も泣きながら預言をしたのです。けれども、エレミヤは自分が愛した同胞から迫害を受けて苦しめられます。
 「」は、この預言者エレミヤを通して、ご自身に対して罪を犯し続けている南王国ユダの滅亡を預言的に警告されただけではありません。やがてユダ王国は滅亡するけれども、主の深いあわれみと恵みによって回復されるようになることを預言してくださっているのです。そのことがこのエレミヤ書31章全体にわたって記されています。その中に、

  エフライムは、わたしの大事な子なのだろうか。
  それとも、喜びの子なのだろうか。
  わたしは彼のことを語るたびに、
  いつも必ず彼のことを思い出す。
  それゆえ、わたしのはらわたは
  彼のためにわななき、
  わたしは彼をあわれまずにはいられない。
     主の御告げ。  

という御言葉が記されています。
 ここで主は、

  それゆえ、わたしのはらわたは
  彼のためにわななき、
  わたしは彼をあわれまずにはいられない。

と述べておられます。この、

  それゆえ、わたしのはらわたは
  彼のためにわななき、

という主の御言葉は、この部分の文字通りの訳です。これは、まさに、イエス・キリストがナインのやもめの「ひとり息子」の死に際して、

彼女のことを深くあわれまれた。

と言われているときの、「深くあわれまれた」という言葉が表していることです。
 また、エレミヤ書31章20節では、さらに、

  わたしは彼をあわれまずにはいられない。

と言われています。実は、これも同じようなことを表しています。ここで用いられている「あわれむ」という言葉(ラーハム)の名詞は、女性の「子宮」を表す言葉です。それで、この「あわれむ」という言葉も、はらわたが揺さぶられるような強いあわれみを示しています。特に、母親が自分の子どもに対して示す強い思いを思わせます。しかも、ここで、

  あわれまずにはいられない

と訳されているのは、「あわれむ」という言葉(の不定詞と定動詞)を重ねて強調する言い方です。ですから、これは、

  必ずあわれむ

と訳すことができます。聖書を通してご自身を示しておられる主は、ご自身に対して罪を犯し続け、ご自身がお遣わしになった預言者たちを逆に迫害して、滅亡への道をかたくなに歩み続けるイスラエルの民を、このような思いをもってご覧になっておられるというのです。
 ルカの福音書に戻りますが、ここで特に「主」と呼ばれているイエス・キリストがナインの町に行かれて、「ひとり息子」をなくした「やもめ」をご覧になって、彼女のことを深く憐れまれたことは、イエス・キリストが、まさにこのような「主」であられることの現れです。「主」はイスラエルという民族全体に、そして、それがひな型として表しているご自身の民全体を深くあわれんでくださるだけではなく、ご自身の民の一人一人を、ご自身の内側が揺さぶられるほどの深いあわれみをもってあわれんでくださるのです。
 イエス・キリストは、ナインの町のやもめに対して

泣かなくてもよい。

と言われました。この

泣かなくてもよい。

と訳されていることばは、

泣いてはいけない。

という命令形のことばです。
 夫をなくし、今また、ひとり息子をなくして、大変な悲しみの中にいる婦人に向って、

泣いてはいけない。

というようなことを言うことのできる人はいません。むしろ、その悲しみを察して、ともに泣くことが、私たち人間にできる精一杯のことです。しかし、イエス・キリストは、そのような悲しみの中にいる婦人に向って、

泣いてはいけない。

と言われました。
 イエス・キリストがこのように言われたのは、この婦人の悲しみが分からなかったからではありません。むしろ、イエス・キリストは、ご自身のはらわたが痛むような深いあわれみと同情をもってこの婦人をご覧になっておられます。
 先程お話ししましたように、このイエス・キリストの深いあわれみは、イエス・キリストが「」であられることから出てきたものです。神である「」のあわれみは、私たち人間のあわれみとは違います。
 私たちは、人生の本当に悲しいことに対しては、しばしば、無力さを感じるだけです。その痛みや苦しみや悲しみが深ければ深いほど、私たちは、自分の無力さを知らされるものです。
 私たちは、お互いの悲しさを想像するだけであって、そのすべてを分かることができません。ですから、どんなに優しい人であっても、私たちの同情には限界があります。お互いに悲しみを理解して、それを互いに負い合うことが私たちにできることですが、私たちの理解には限界があります。また、たとえ、これ以上ないと思えるほどの同情を示しても、それは、時の経過とともに褪せていってしまいます。
 また、たとえ、私たちがお互いの悲しみを分かったとしても、私たちはその悲しみを根本から取り除くことはできません。その悲しみの原因が深ければ深いほど、それを取り除く力は私たちにありません。この、ひとり息子をなくしたナインの町のやもめの悲しみを根本から取り除くことは、人間にはできません。
 「主」であられるイエス・キリストのああれみは、このような人間の同情やあわれみとは違います。イエス・キリストは、永遠しにて全知全能の神の御子であられます。ですから、私たちの心の奥底を知っておられます。私たち自身が気付くことのできない、私たちの心の状態さえも、よく知っておられます。
 しかし、それだけではありません。そのように全知全能の神としてすべてのことをわきまえ知っておられる主が、私たちの痛みや苦しみや悲しみを、ご自分の経験として知ってくださるために、人の性質を取って来てくださいました。私たちが痛み苦しみ悲しんでいる事実を、いわば客観的に、すべて知ってくださるだけではなく、私たちと同じ立場に立たれて、この罪の世に満ちている痛みと苦しみと悲しみを味わってくださるために来てくださったのです。
 また、イエス・キリストは人となって来られたときも永遠の神の御子であられます。その神としての御力を、私たちの痛みや苦しみや悲しみを知ってくださるために働かせてくださいます。そうであるので、このナインの町のひとり息子をなくしたやもめの婦人の悲しみと痛みに、ご自身が痛まれるほどに同感されたのです。
 イエス・キリストは、このように、私たちの痛みや苦しみや悲しみをご自身のこととして感じ取ってくださるだけではありません。私たちの悲しみや痛みを、根本的に取り除くことがおできになる主です。
 ルカの福音書7章14節、15節には、主が、

「青年よ。あなたに言う、起きなさい。と言われた。すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めた

と記されています。
 この、

あなたに言う

という御言葉は、語っておられる方の権威を示しています。イエス・キリストは「主」としての権威をもって語っておられます。しかも、この、

青年よ。あなたに言う、起きなさい。

というイエス・キリストの御言葉は、死んでいる者に向かって語りかける言葉です。そして、その御言葉によって死んでいた青年は起き上がったのです。これは、生きている者と死んでいる者を等しく治めておられる主の御言葉です。それで、これに続いて、

すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めた

と記されています。そして、さらに、

イエス(主)は彼を母親に返された。

と記されています。このすべてのことが、イエス・キリストが「主」として働いておられることをあかししています。
 この主は、私たちの痛みと苦しみと悲しみの根本的な原因を取り除いてくださる主です。
 私たち人間の痛みと苦しみと悲しみの原因はいろいろあることでしょう。それらの原因を突き詰めていきますと一つの原因に至ります。世間一般の考えでは、それは、死ぬことであるということになるでしょう。それは、それとして当たっています。けれども、神さまの御言葉である聖書の教えによりますと、その死にも原因があるのです。その「原因」は、私たちの罪です。ローマ人への手紙6章23節には、

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

と記されています。しかも、罪がもたらす死は単なる肉体的な死ではありません。からだの死は罪がもたらす死のほんの一部でしかありません。本当に恐れるべきことは罪に対する刑罰としての永遠の死、永遠の滅亡、一般に言われている地獄のさばきです。この永遠の死と滅びが取り除かれない限り、私たちの痛みと苦しみと悲しみは、真の意味で終ったとは言えません。
 よく、この世でただ一つ平等なことは死ぬことであると言われます。確かに、すべての人が死んでいきます。そのことを見ている私たちの目には、人が死ぬことは自然なことであると写ります。けれども、聖書の教えによりますと、私たち人間が死ぬことは決して自然なことではないのです。それは、人間の死の原因は人間の罪にあり、罪は人間にとって自然なものではないからです。
 もし、死ぬことが人間にとって自然なことであるのであれば、それは、神さまが人間を死ぬものとしてお造りになったということを意味していて、人間は死ぬほかのない者であるということになります。けれども、人間は死ぬものとして造られたのではありません。造り主である神さまに対して罪を犯したので、そして、いのちの源であり、いのちを支えてくださっている神さまから離れてしまったので、死ぬべきものとなってしまったのです。そうであれば、私たちには救われる可能性があります。もし、神さまが私たちの罪を贖ってくだされば、私たちは死ぬべきものではなくなります。
 イエス・キリストは、私たちの痛みと苦しみと悲しみの根本にある、死と滅びを取り除いてくださるために人の性質を取って来てくださり、私たちの身代わりとなって十字架にかかられ、私たちの罪に対する刑罰を受けてくださいました。
これによって私たちの罪はすべて贖われ、私たちは罪と死の力から解放され、新しいいのちに生きる者とされます。先ほど引用しましたローマ人への手紙6章23節には、

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

と記されていました。また、同じローマ人への手紙の4章25節には、

主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。

と記されています。また、コリント人への手紙第二・5章21節には、

神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

と記されています。
 先ほど、イエス・キリストは私たちの痛みと苦しみと悲しみをご自身のこととして知ってくださるだけでなく、私たちの痛みと苦しみと悲しみの最終的な形である死と滅びから私たちを救いだしてくださるために、その根本原因となっている罪の贖いを成し遂げてくださったと言いました。このナインの町のひとり息子をなくしたやもめの婦人の記事を読みますと、このことのもう一つの面が見えてきます。私たちの主は、地上におられたときに、私たちの痛みと苦しみと悲しみを、ご自身のはらわたが痛むほどに深く知ってくださいました。そうであるからこそ、このような痛みと苦しみと悲しみを何としてでも取り除かなければならないとの思いをいっそう強くされたのだということです。そして、地上の歩みの中で、そのような思いをさらに深められながら十字架に向かって進んで行かれ、実際に、十字架の上で、私たちの罪を負って死んでくださったのだと考えられます。
 イエス・キリストが、ひとり息子をなくしたやもめの婦人に言われた、

泣いてはいけません。

という御言葉には、ご自身を十字架へと駆り立てるような深い御思いが込められていたと考えられます。


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