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説教日:2012年5月20日 |
第三に、今お話ししましたように、ここに記されているイエス・キリストの教えでは、「幸いです」という宣言とともに、その理由が示されています。 これら八つの教えに出てくる八つの理由のうち、最初と最後の理由は同じで、 天の御国はその人たちのものだから となっています。この理由は、現在時制で表されています。これによって、「天の御国はその人たちのもの」であるということが、今すでに現実となっているし、この後も、また、永遠に変わることがない現実であるということを表しています。このような意味で、「天の御国はその人たちのもの」であるということは、その人たちが、すでに、「天の御国」に入っているということです。 しかも、ここでは、「その人たちのもの」(直訳「彼らの」)ということばが、理由を表わすことばの最初に置かれていて強調されています。これによって、「天の御国はその人たちだけのもの」というような意味合いが伝えられていると考えられます。 「天の御国」と言いますと、私たちの文化の中では、「天国」ということで、人が死んだら行く所というような意味で用いられています。けれども、聖書の中では、それとは少し違った意味合いがあります。私たちは「国」というと、領土を考えます。しかし、旧約聖書の言語であるヘブル語でも、新約聖書のギリシャ語でも、「国」に相当することば[ヘブル語・マルクート、ギリシャ語・バシレイア]は、基本的には、領土を指すというより、主権者すなわち王が支配すること、統治することを意味しています。 それでも「天の御国」といえば、天にある御国のことではないかという疑問がわいてきます。これについては、その当時のユダヤ人が「神」ということばを使うことを避けて、その代わりに「天」ということばを用いたということを反映していると考えられています。「天の御国」という言い方はマタイの福音書に出てくるのですが、このマタイの福音書はユダヤ人を対象にして記されていると考えられます。[マタイの福音書にも、「神の国」という言い方は出てきます。]そして、マルコの福音書やルカの福音書でマタイの福音書に記されていることと同じことを記している個所では、「天の御国」が「神の国」となっています。ですから、「天の御国」あるいは「神の国」は、基本的に、神さまが統治されること、神さまが治められることを意味しています。 神さまはこの世界のすべてのものをお造りになりましたし、お造りになったすべてのものを支え、導いておられます。つまり、神さまがお造りになったすべてのものを治めておられるのです。その意味では、それが「神の国」であると言うことができます。けれども、このマタイの福音書5章3節と10節で、 天の御国はその人たちのものだから と言われているときの「天の御国」すなわち「神の国」は神さまが約束の贖い主である御子イエス・キリストをとおして、ご自身の民を死と滅びの中から贖い出し、永遠のいのちに生きる者としてくださるために治めてくださることを指しています。 聖書の教えによりますと、人は愛を本質的な特性とする神さまのかたちに造られていて、初めから神さまとの愛の交わりのうちに生きる者として造られています。この造り主である神さまとの愛の交わりに生きることが神のかたちに造られているひとのいのちの本質です。 そのように造られて、造り主である神さまの愛を受け取り、神さまを愛し、神として礼拝していた人間が、神さまに対して罪を犯して、造り主である神さまを愛することも、神として礼拝することもなくなってしまいました。これによって、人の本性は罪によって汚れてしまいました。そのことが、実際に生活において、神さまの愛を退け、造り主である神さまを神とすることもなく、礼拝することもなくなってしまったことに現れてきています。 聖なる神さまは、そのような人の罪をすべておさばきになります。人は自分の罪によって、造り主である神さまとの愛の交わりを失い、死の力に捕らえられてしまっています。それで、人は肉体的に死ぬものとなっただけでなく、その罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを受けて滅びるものとなってしまいました。 これに対して、神さまは、人類の罪による堕落の直後から、私たちを死と滅びから救い出して、再びご自身との愛にある交わりのうちに生きる者としてくださるために、贖い主を約束してくださいました。そして、実際に、今から2千年前に、ご自身のひとり子を私たちのための贖い主としてお遣わしになり、この方すなわち御子イエス・キリストを十字架につけ、私たちの罪に対する聖なる御怒りによるさばきを、すべて、イエス・キリストに注がれました。 イエス・キリストは私たちの身代わりとなってくださって、進んで十字架におかかりになり、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきをお受けになられました。そして、私たちを復活のいのちによって生かしてくださるために、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださいました。このようにして、私たちのための罪の贖いを成し遂げてくださいました。 イエス・キリストが私たちの贖い主として十字架にかかって死んでくださったこと、また、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったことに、神の国は最も豊かに、また鮮明に現れています。イエス・キリストは神の国の王として、私たちのためにいのちを捨ててくださり、私たちを永遠のいのちに生きる者としてくださったのです。 イエス・キリストが、 天の御国はその人たちのものだから と言われるのは、「その人たち」が、父なる神さまの愛と、御子イエス・キリストの恵みによって、イエス・キリストが成し遂げてくださった罪の贖いにあずかって、罪を赦され、神さまとの愛の交わりのうちに生きる、本来のいのちをもつようにしていただいていることを意味しています。 このように、イエス・キリストの八つの教えの最初と最後の教えにおいて示されている「幸いである」ことの理由は、 天の御国はその人たちのものだから ということです。そして、このことはすでに私たちの現実となっていることを示しています。これに対して、これら二つの教えに挟まれている、六つの教えに示されている「幸いである」ことの理由は、すべて未来時制で表されていて、それらが将来において完全に実現することを強調しています。 神さまのみことばである聖書は、世の終わりの日にイエス・キリストが再び来られて、私たちご自身の民の救いを完全な形で実現してくださることを示しています。もちろん、それはすでにイエス・キリストがご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった罪の贖いに基づくものです。ですから、これらの未来時制で記されている六つの理由は、神さまの約束でもあります。 このように、これら六つの理由が示している祝福は、終わりの日に完全な形で実現するものではありますが、それらはまた、すでに実現していることでもあります。それは、最初と最後の教えに記されている理由が示していますように、これらの教えが当てはまる状態にある人たちは、すでに、神さまの一方的な愛と御子イエス・キリストの恵みによって、罪を贖われ、死と滅びから救われて「天の御国」に入れていただいているからです。そのように「天の御国」に入れていただいている人たちは、すでに、造り主である神さまとの愛の交わりのうちに生きる者とされています。造り主である神さまを神として愛し、あがめ、礼拝する本来のいのちに生きる者としていただいています。 ですから、八つの教えに示されている「幸いである」ことの八つの理由のそれぞれに、そこに示されいることがすでに実現しているという面と、終わりの日に完全に実現するという面があります。そのうちの、最初の教えと最後の教えにかかわる理由では、すでにそれが実現していることが前面に出てきており、それに挟まれている教えにおいては、それが終わりの日に完全に実現することが前面に出てきています。 第四に、ここには、イエス・キリストの八つの教えが記されていますが、それは八人のあるいは八種類の幸いな人たちがいるという意味ではありません。このすべてのことが、神さまの一方的な愛と御子イエス・キリストの恵みによって、イエス・キリストが成し遂げてくださった罪の贖いにあずかって、死と滅びの中から救い出されて「天の御国」に入れていただいている人たちの一人一人に当てはまることです。この人たちのそれぞれが、神さまの一方的な愛と御子イエス・キリストの恵みによって救われて、「心の貧しい者」、「悲しむ者」、「柔和な者」、「義に飢え渇く者」、「あわれみ深い者」、「心のきよい者」、「平和をつくる者」としていただいているということです。ただし、最後の「義のために迫害されている者」は「義に飢え渇く者」が「義」を追い求めて生きるときに結果として起こることを示しています。 これらのことが、きょう取り上げています、 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。 というイエス・キリストの教えとかかわっています。すでにお話ししたこととのかかわりで、注意したいことは、人はもともと、神のかたちに造られており、実際に、造り主である神さまとの愛の交わりのうちに生きていたということです。言い換えますと、人は「心のきよい者」として造られていますし、神さまとの愛の交わりの中で神さまを親しく知っていました。その意味で、神のかたちに造られた人は「神を見」ていたのです。 それにしても、人は「神を見る」ことができるのでしょうか。もちろん、神さまを目で見ることはできません。私たちの目に見えるものは、光を反射して、私たちの目の網膜に像を結ぶものだけです。それは、物質的なものです。しかし、神さまがお造りになったこの世界は物質的なものですが、この世界をお造りになった神さまは物質的な方ではありません。それで、神さまを目で見ることはできません。 それなら、神さまは私たちの心の目で見ることができるのでしょうか。イエス・キリストが、 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。 と教えておられるときの「見る」と訳されていることばは、英語のseeという動詞のように、目で見ることばかりでなく、「知る」、「理解すると」、「(人)会う」ということなどをも意味しています。 このことについても、慎重に考えなければなりません。テモテへの手紙第一・6章15節後半ー16節には、 神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。 と記されています。神さまは存在においても栄光においても無限の主です。それで、神さまは、限界ある私たちの想像をはるかに越えた方です。ですから、私たちはたとえ罪がなかったとしても、神さまを直接的に知ることはできません。神さまを直接的に知るということは、神さまと同じところに立って、神さまのありのままを知るということです。そのようなことは、私たちにも御使いたちにもできません。 たとえて言いますと、私たちの住んでいる地球は太陽から約1億5千万キロメートルほど離れているそうです。これほどの距離から、見上げるようにして見ても、私たちは太陽を直接、裸眼で見ることはできません。まして、太陽に近づいていって、同じところに立って見るというようなことはできません。私たち神さまによって造られたものが、無限の栄光の神さまを直接的に見ることができないということは、それ以上のことです。 私たちが神さまを知ることができるためには、ただ一つの道しかありません。それは、神さまが無限に身を低くして、私たちに合わせてご自身を示してくださるということです。先ほどお話ししましたように、神さまは神のかたちに造られた人にご自身を示してくださり、人が神さまの愛を受け止め、神さまとの愛にある交わりに生きることができるようにしてくださいました。それは、神さまが無限に身を低くされて、私たちにご自身を示してくださっているということです。 このような聖書の教えに照らして見ますと、 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。 と言われているときの、心が「きよい」ということは、造り主である神さまとの関係のあり方を指していることが分かります。神さまとの関係を離れて「きよい」ということを考えることはできません。人の心が造り主である神さまに向き、その人が神さまとの愛の交わりのうちに生きている状態にあることを、真の意味で「きよい」状態にあると言うことができます。また、私たちの罪は、私たちの心を神さまに背かせ、私たちと神さまとの愛の交わりを損なうものですので、「汚れている」と言うことができます。 実際に、神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯したとき、人の本性は罪によって腐敗し、その心は汚れてしまいました。そのために、人はそのように無限に身を低くされて、ご自身を示してくださった神さまの愛を退け、神さまを神とすることもなく、礼拝することもなくなってしまいました。その意味で、人は造り主である神さまを「見る」ことはできなくなってしまいました。神さまとの愛の交わりのうちに生きることによって、神さまを親しく知ることができなくなってしまったのです。 聖書は、神さまはそのような人のために、さらに御子イエス・キリストをとおしてご自身を私たちにお示しになっていると教えています。ヨハネの福音書1章18節には、 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。 と記されています。また、ヨハネの福音書14章9節には、 わたしを見た者は、父を見たのです。 というイエス・キリストの教えが記されています。 このように、聖書は、イエス・キリストが、神さまがどのような方であるかを私たちに示してくださったと教えています。それは、何よりも、イエス・キリストが私たちの罪を贖ってくださるために十字架にかかってくださり、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わってすべて受けてくださったことに現れています。そのことのうちに、神さまがどのような方であるかが、最も豊かに、また鮮明に示されているということです。 ヨハネの手紙第一・4章7節半ー8節には、 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。 と記されています。 皆さんが愛しておられる方のことを考えてみてください。私たちはその人を愛しているとき、その人のことを知りたいと願いますし、その人のことが分かったと感じるのも、その人を愛しているときであり、その人の愛を受け止めているときです。その人を利用しようとしているときには、その人の肩書きや財産などに関心があっても、決してその人自身のことが分かりません。同じように、私たちが神さまのことを分かることがあるとすれば、それは私たちが神さまの愛を受け止めているときであり、私たちが神さまを愛しているときです。その意味でも、 愛のない者に、神はわかりません。 その神さまの愛は、神さまがご自身の御子を私たちの罪の贖いのために死に渡されたことに最も豊かに現れています。ヨハネの手紙第一・4章8節に続く、9節ー10節には、 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。 と記されています。また、ローマ人への手紙5章8節には、 私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 と記されています。 父なる神さまが遣わしてくださった御子イエス・キリストが、十字架にかかって私たちの罪を贖ってくださったことによって、私たちの罪はきよめられました。それによって、私たちは神さまの愛を知り、神さまとの愛の交わりに生きる者としていただきました。そのようにして、私たちの心は神さまに向き、私たちは神さまご自身を喜ぶものとなりました。先ほど引用しましたローマ人への手紙5章8節に続く9節ー11節には、 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。 と記されています。 それは、私たちの心が罪をきよめられているということでもあります。すべて、神さまが御子イエス・キリストをとおして私たちに対してなしてくださったことです。 ただ、私たちのうちには、なおも罪の性質が残っています。そのために私たちは罪を犯してしまいます。けれども、神さまはその罪のための贖いをも備えてくださっています。ヨハネの手紙第一・1章8節には、 もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。 と記されています。神さまが私たちの罪を赦してくださり、「すべての悪から私たちをきよめてくださ」るのは、イエス・キリストがその十字架の死によって成し遂げてくださった罪の贖いに基づいています。 これが今の私たちの現実です。しかし、イエス・キリストは、 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。 と教えておられます。これは、すでに私たちの間に実現しています。それと同時に、これは、終わりの日に、イエス・キリストが私たちの罪を完全にきよめてくださって、神さまとの愛の交わりを完成してくださることを約束してくださっているものです。すべて、神さまが御子イエス・キリストをとおして私たちに対してなしてくださいます。 |
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