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説教日:2021年11月21日 |
神さまがこのような意味をもっている「主」(ヤハウェ)という御名の方であられるということには豊かな意味がありますが、基本的には、二つの意味があります。第一のことは、神さまの創造の御業と摂理の御業にかかわることです。第二のことは、神さまの特別摂理の御業としての、贖いの御業(救いの御業)にかかわることです。 第一に、神さまが、このような御名の方であることは、神さまが天地創造の御業を遂行された方、この世界のすべてのものを「無から」造り出された方であることによっています。 創世記1章1節には、 はじめに神が天と地を創造された。 と記されています。 この「天と地」ということばは、私たちが見ている空と私たちが住んでいる地のことではなく、「この世界に存在するすべてのもの」を表わす、ヘブル語の慣用表現(イディオム)です。それで、 はじめに神が天と地を創造された。 というみことばは、この世界とその中に存在しているすべてのものは、神さまが造り出されたものであるということを表わしています。また、それで、「はじめに」ということばは、神さまがお造りになったこの世界が時間的な世界であり、それは神さまの創造の御業とともに始まったということを意味しています。実際、時間と空間はこの世界の時間でありこの世界の空間です。それで、時間は神さまの創造の御業とともに始まっており、空間も神さまの創造の御業とともに広がり(膨張し)始めています。 今日の天文学では、観測できる宇宙の範囲は137億光年ですが、それは137億年まえにそこから発せられた光が137億年かかって地球に到達したもので、137億年前の姿です。その光が地球に到達するまでの137億年の間にも宇宙は膨張していて、現在、観測できているものは、一般的には、470億光年の彼方に広がっていると考えられています。この広大な宇宙とその中にあるすべてのものは、神さまの創造の御業にその起源をもっています。もちろん、これは観測できる宇宙ですので、物質的なものです。そのほか、人間が造り出した観測機器では観測できない、御使いたちや造り主である神さまに罪を犯して、堕落してしまった御使いであるサタンや悪霊たちも、神さまによって造られたものです。 このように、 はじめに神が天と地を創造された。 と言われている神さまは、時間や空間も含めて、この世界とその中のすべてのものを「無から」造り出された方ですから、この世界の時間や空間を超えた方です。神さまは永遠に存在しておられ、初めもなく終わりもありません。また、あらゆる点において無限の方で、この世界とその中のすべてのものを造り出されたからといって、ご自身から何かが失われたわけではありませんし、ご自身の何かが増えたわけでもありません。また、神さまはお造りになった一つ一つのものの性質を生かしつつ、すべてのものを支え続けてくださっていますが、それで、ご自身から何かが失われていくわけでもありませんし、何かが増えていくわけでもありません。その意味で、神さまは永遠に、無限の豊かさに満ちておられる方であり、不変の方です。 このことは、神さまが人の考える力や想像力を、それこそ「無限に」越えた方であるということを意味しています。 これまで神さまが永遠に存在しておられる方であり、あらゆる点において無限な方であると言ってきました。しかし、私たちは神さまに当てはまる「永遠」(そのもの)も、神さまに当てはまる「無限」(そのもの)も、それとして知ることができません。私たちが考える(ことができる)永遠は時間的にいつまでも続いているという意味での永遠であり、無限は空間的にどこまでも広がっているという意味での無限です。そのような意味で「限界がない」というものです。それで、私たちが考える永遠や無限は量的なものです。 これは、神さまがお造りになったこの世界が空間的に広がっている世界であり、時間的に経過していく(流れていく)世界であることによっています。それで、この世界に存在しているすべてのものが時間的に経過していくものとしての限界をもっています。今ここにいるものは、過去にも未来にもいません。また、この世界に存在しているすべてのものが空間的に一定の位置を占めているものとしての限界をもっています。今ここにいるものは、あそこにはいません。このように、私たちの存在そのものが時間と空間の枠の中にあって限界があるので、私たちの考える力や想像力もその限界があります。そのような限界がある私たちは、この世界をお造りになった神さまに当てはまる「永遠」や「無限」そのものを知ることはできません。 けれども、神さまが私たちが考える量的な無限や永遠を無限に超えた方、その意味での「無限」であられ「永遠」であられるということは私たちにとっても、とても大切なことです。 このこととの関連で一つのことを取り上げますと、聖書のみことばが記された古代オリエントの文化においても、古事記などが記されたこの国の文化においても、また、今日の私たちの社会においても、世界がずっとあり、神(神々)はこの世界の中にいて、この世界の素材を用いて、それぞれの国の国造りをしたと考えられています。今、神(神々)が天にいるといっても、その天もこの世界の一部です。それで、この世界のほうが神(神々)より大きいのです。そのような神(神々)はこの世界のどこかにいれば、他にはいません。そのような神(神々)の所に行くためには、そのような神(神々)がいるとされている所に行く必要があります。どうしてこのようなことになっているかと言いますと、それは、そのような神(神々)が、あらゆる点において限界がある人間が考え出した神(神々)でしかないことによっています。 しかし、聖書はこの世界とその中のすべてのものをお造りになった神さまは、そのような意味で(あらゆる点で限界があるのでということで)、ご自身がお造りになったこの世界の中に住んでおられる方ではないということを示しています。 詩篇139篇はダビデが記したものです。そのダビデの子がソロモンです。ソロモンは「主」のみこころにしたがって、壮大なエルサレム神殿を建設しました。その神殿を奉献するときに、ソロモンが「主」に祈った祈りが列王記第一・8章23節ー53節に記されています。その中の27節には、ソロモンが、 それにしても、神は、はたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの宮など、なおさらのことです。 と祈ったことが記されています。確かに、神である「主」はどこかに――それが「天の天」であっても、そこに――納まってしまう方ではありません。 この「主」は、永遠に、ご自身で存在しておられ、あらゆる点において、無限の豊かさに満ちておられます。「主」がこのような方であるので、今この時に、ここにいれば、あそこにはいないというような方ではありません。「主」は今この時に、ここにいる私たち一人一人とともにあって、一人一人を真実にお支えくださっていると同時に、470億光年の彼方にあるであろう星々の一つ一つとともにあって、一つ一つを真実に支えてくださっています。 この世界には「はじめ」があり、それは神さまの創造の御業によっています。そして、造られたすべてのものは、あらゆる点で、造り主である神さまによって支えられ、今日に至るまで存在しています。詩篇119篇89節ー91節には、 主よあなたのみことばは とこしえから 天において定まっています。 あなたの真実は代々に至ります。 あなたが地を据えられたので 地は堅く立っています。 それらは今日もあなたの定めにしたがって 堅く立っています。 万物はあなたのしもべだからです。 と記されています。 ここには、「天」と「地」の組み合せがあり、それが「万物」として表されています。そして、「主」がそのすべてをみこころ(「みことば」と「定め」)にしたがって、「とこしえ」に――創造の御業の初めから、また「今日も」――「代々に至る」真実をもって保ってくださっていることが示されています。 神である「主」のこのようなお働きは、創造の御業に続くもので「摂理の御業」と呼びます。 神さまの「主」(ヤハウェ)という御名が、神さまは何ものにも依存することなく、ご自身で永遠に存在される方であり、この世界のすべてのものを存在させておられる方――この世界のすべてのものを造り出された方であり、さらに、その一つ一つにお与えになっている特質を生かしてくださって、真実に、保ち続けてくださっている方――であることを意味しているということとのかかわりで考えられる第二のことは、神である「主」が歴史の主であられるということです。このことは、聖書の中では、特に、神である「主」が遂行してくださっている、特別な摂理の御業である、贖いの御業(救いの御業)にかかわっています。 創世記1章1節ー2章3節には神さまの天地創造の御業が記されていますが、続く2章4節以下には、神さまが人にどのようにかかわってくださったかという観点から見た、創造の御業のことが記されています。 そこでは、神さまのことが「神である主」(ヤハウェ・エローヒーム)という御名で表わされています。この2章4節以下に出てくる「神である主」という御名は、「主」(ヤハウェ)は、1章1節ー2章3節に記されている天地創造の御業を遂行された「神」(エローヒーム)であるということを意味しています。 このことも、「主」(ヤハウェ)がご自身は何ものにも依存することなく、ご自身で永遠に存在される方であり、この世界のすべてのものを存在させておられる方――この世界のすべてのものを造り出された方であり、さらに、その一つ一つにお与えになっている特質を生かしてくださって、真実に、保ち続けてくださっている方――であることを意味しているということと符合しています。 それとともに、先ほど言いましたように、2章4節以下では、神さまが人にどのようにかかわってくださったかということに焦点が合わされています。 2章7節には、 神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。 と記されています。ここでは「神である主」がこの「地」にご臨在されて、「大地のちり」(細かい粒子)で人を形造り、人と向き合うようにしてその鼻にいのちの息を吹き込まれたことが記されています。これは「神である主」を陶芸家にたとえて記しているもので、「神である主」が丹精を込めて人を形造られたことと、人と親しくかかわってくださっていることを示しています。 「神である主」は「天も、天の天も」入れることができない方、その意味で、この世界のどこかに住んでおられる方ではないのに、どうして、人と親しくかかわることができるのでしょうか。それは、人間になぞらえて言いますが、「主」が、その無限、永遠、不変の栄光を隠し、無限に身を低くしてご自身の民の間にご臨在してくださるからです。すでにお話ししたことからも分かりますが、「主」が存在において無限の方ですので、今この時、ここにいる私たち一人一人とともにいてくださって礼拝を受け入れてくださっているだけでなく、この世界のどこにいるご自身の民とも、ともにいてくださって礼拝を受け入れてくださっています。そればかりではありません。「主」は今この時、ご自身がお造りになったすべてのもの、それぞれに心を注いでくださり、それぞれの特質を生かしつつ支えてくださっています。 マタイの福音書10章29節には、 二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。 というイエス・キリストの教えが記されています。また、ルカの福音書12章6節には、 五羽の雀が、二アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でも、神の御前で忘れられてはいません。 と記されています。これは、4羽の雀を買えば1羽おまけがつく、ということだと考えられています。 「アサリオン」はローマの小さな銅貨で当時の1日分の労賃の16分の1でした。当時の労賃は、私たちの社会の労賃よりはるかに少ないものです。また、当時は農薬もありませんでしたから、雀はとても多くいたと考えられます。さらに、雀は貧しい人々の食料であったと言われています。神さまは「二羽」まとめてやっと売り物になる雀の1羽にさえ心を留めてくださっているというのです。それが、イエス・キリストが「あなたがたの父」と呼んでおられる父なる神さまの眼差しであり、ご配慮です。その父なる神さまが私たちを愛してくださり、私たちに心を注いでくださり、私たちを子としていつくしんでくださっています。 前回お話ししました詩篇139篇1節ー4節に、 主よ あなたは私を探り 知っておられます。 あなたは 私の座るのも立つのも知っておられ 遠くから私の思いを読み取られます。 あなたは私が歩くのも伏すのも見守り 私の道のすべてを知り抜いておられます。 ことばが私の舌にのぼる前に なんと主よ あなたはそのすべてを知っておられます。 と記されていることには、神である「主」がいつの時代においても、それで、今ここにいる私たち一人一人にも、どれほど心を注いでくださっているかを示しています。 そのことの根底には、神である「主」が私たちをご自身の子としてくださるために、ご自身の御子であるイエス・キリストを遣わしてくださったことがあります。また、御子イエス・キリストが私たちのために十字架におかかりになって、私たちの罪をすべて完全に贖ってくださったことがあります。 先ほどお話ししたように、出エジプト記3章では、「主」(ヤハウェ)が、強大な帝国であったエジプトの奴隷となっていたイスラエルを愛し、ご自身の民とするために、モーセを遣わしてくださり、イスラエルを奴隷の状態から贖い出してくださる方であることを示しています。実際に、「主」は歴史の主として、この世界のすべての国々も治めておられます。そして、イスラエルをエジプトの奴隷の状態から贖い出してくださり、ご自身の民としてくださいました。 この「主」の出エジプトの贖いの御業は、「主」の本当の救いの御業がどのようなものであるかを証しするものです。イスラエルの民がエジプトの奴隷の状態にあったことは、人が自分の造り主である神さまに罪を犯して、堕落してしまったために、罪と罪の結果である死の力に縛られてしまっていること、その意味で、罪と死の奴隷の状態にあることを指し示す歴史的な「ひな型」(視聴覚教材)でした。ちょうど、強大な帝国であるエジプトの奴隷となっていた弱小民族のイスラエルが自分の力で自分を解放することができないように、人は罪の奴隷の状態にあり、最後には、死と滅びに至ってしまうのに、自分の力では自分を救うことはできません。 神である「主」は、そのようにご自身に罪を犯した者を、なおも愛して、罪とその結果である死と滅びから贖い出してくださることを、単なることばだけでなく、出エジプトという、実際に、歴史の中で成し遂げてくださった御業によってあらかじめ示してくださったのです。 その際に、「主」はイスラエルの民を奴隷としていたエジプトを10のさばきをもっておさばきになりました。そのさばきはだんだんと厳しくなる形で積み上げられていきますが、その最後のさばきは、エジプトの地にいる、「人から家畜に至るまで、エジプトの地のすべての長子を打ち」、滅ぼされるというものでした。しかし、「主」はイスラエルの民には「家ごとに羊を用意し」それをさばきが執行される日の夕方に屠って、その血をそれぞれの家の「二本の門柱と鴨居に」塗るように命じられました。そして、「主」はモーセをとおして、 主はエジプトを打つために行き巡られる。しかし、鴨居と二本の門柱にある血を見たら、主はその戸口を過ぎ越して、滅ぼす者があなたがたの家に入って打つことのないようにされる。 と約束してくださり、実際にそのようにしてくださいました。過越の子羊がイスラエルの民の長子の身代わりとなって屠られ、その血はその家ではすでにさばきが執行されて、終わっているということのしるしとなったのです。 この、出エジプトの贖いの御業が指し示していた、真の意味での罪とその結果である死と滅びからの救いは、神さまが遣わしてくださった御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いによってもたらされました。コリント人への手紙第一・5章7節には、 私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。 と記されています。 御子イエス・キリストは十字架におかかりになって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、私たちに代わってすべて受けてくださいました。それによって、私たちが受けなければならない私たちの罪に対するさばきは、すでに、執行されて終わっているのです。 ヨハネの手紙第一・3章1節には、 私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。 と記されています。また、4章9節ー10節には、 神はそのひとり子を世に遣わし、 その方によって 私たちにいのちを得させてくださいました。 それによって 神の愛が私たちに示されたのです。 私たちが神を愛したのではなく、 神が私たちを愛し、 私たちの罪のために、 宥めのささげ物としての御子を遣わされました。 ここに愛があるのです。 と記されています。 |
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