![]() |
説教日:2001年6月17日 |
この言葉の意味についてお話しする前に、この言葉から始まる一連の祝福の言葉について、簡単な注釈をしておきたいと思います。 まず、1節、2節で、 この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。 と言われていますように、この「山上の垂訓」全体が、基本的に、イエス・キリストに従っている弟子たちに対して語られた教えです。 「山上の垂訓」の記事の最後の部分に当たる7章28節、29節には、 イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。 と記されていますから、そこには「群衆」がいたことが分かります。その中には、弟子としてイエス・キリストに従ってはいない人々もいて、イエス・キリストの教えを聞いていたことでしょう。しかし、イエス・キリストの意図としては、この教えは、ご自分に従っている弟子たちに向かって語られたものです。 そのことは、先ほど引用しました1節、2節の言葉から分かりますが、さらに、11節で、 わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。 と言われていることからも分かります。 わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりする というのは、イエス・キリストに従っている人々について言われていることです。 ついでに申しますと、 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。 と言いますと、一人の人のことを言っているように感じられますが、原文では、これも、また、その後に述べられていることもすべて複数形です。それを生かせば、これは、 心の貧しい者たちは幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。 となります。 また、ここには、八つの祝福された状態が記されていますが、これは、八種類の祝福された人々がいるという意味ではありません。具体的な状況や程度の違いはありますが、イエス・キリストに従っている弟子たちのそれぞれが、ここに記されている8つの祝福された状態のすべてにあずかっているということです。 これら八つの祝福された状態のことを述べる言葉は、すべて「幸いです」という言葉から始まっています。この言葉は、イエス・キリストが、その状態にある人々に向かって「幸いです」と宣言しておられるものです。けれども、必ずしも、そのように言われている人々が、自分のことを「幸いである」と感じているわけではありません。 たとえば、4節では、 悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。 と言われています。この「悲しむ者」は、本当に悲しくて仕方がないのであって、悲しみながら、自分のことを幸いだと思っているわけではありません。ですから、イエス・キリストが「幸いです」と言っておられるのは、いわば、神の御国の王として治めておられるイエス・キリストが、ご自身に従っている者たちに見られるこれらの状態をご覧になって、幸いであると宣言してくださるものです。 これは、神さまの御目でご覧になったときに、確かに祝福されている状態であると宣言してくださるものですから、確かなことです。私たちは、しばしば、思い込みや思い違いをして、幸いなことであると思っていたことが、状況の変化にともなって、色あせてしまったり、結果的には幻滅に終わったということを経験します。しかし、ここでイエス・キリストが宣言してくださっている祝福は、イエス・キリストの御言葉に基づいているものですから、決して色あせることのない確かな祝福です。 それでは、なぜ、これらの状態が幸いであるというのでしょうか。それは、いま言いましたように、必ずしも、その人々が幸いであると感じるからではありません。その幸いの理由は、イエス・キリストがそこで宣言してくださっている約束のうちにあります。 このイエス・キリストの言葉に示されている約束は二重のものです。 どういうことかと言いますと、今日取り上げています、 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。 ということにおいては、「心の貧しい者」の幸いは、「天の御国」がその人々のものであると約束されていることのうちにあります。このことは、すぐに分かります。それとともに、ここにはもう一つ、約束のようには見えない約束があります。それは、イエス・キリストに従う人々は、イエス・キリストの恵みによって、「心の貧しい者」に造り変えていただいているということです。 このことは、これと同じことを記しているルカの福音書6章20節を見ますと、よりはっきりとしてきます。そこでは、 貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。 と言われています。このルカの福音書では、後半の、 神の国はあなたがたのものですから。 が「あなたがた」と二人称で語られています。ということは、ここで「あなたがた」と言われている弟子たちが、「貧しい者」であるということを意味しています。 マタイの福音書の方に戻りますが、 天の御国はその人のものだからです。 というのは、現在形で表わされていますから、将来のことではなく、今すでにそうなっており、これからも変わらない事実を示しています。これからも変わらないというのは、天の御国がその人々のものであることは、決して取り消されることがないということです。その人が神の御国の豊かさ、すなわち、イエス・キリストの恵みにあずかって成長することには、深まりがありますし、完成の時があります。 ですから、 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。 というイエス・キリストの宣言においては、「心の貧しい者」となることも、「天の御国」が与えられることも、イエス・キリストの恵みによることです。その意味で、ここでは、初めから終わりまで、すべてイエス・キリストの恵みによることが宣言されています。そして、その恵みにあずかっていることを幸いであると宣言しているのです。 私たちに向かって、「『心の貧しい者』になりなさい、そうすれば、天の御国をあげます。」と約束してくださっているのではありません。そうではなく、私たちが何かをする前に、イエス・キリストが、ご自身の一方的な恵みによって、私たちを「心の貧しい者」に造り変えてくださるのです。そして、そのように造り変えていただいたときには、すでに、天の御国を与えられているのです。 このように、イエス・キリストは、私たちをご自身の恵みのうちに受け入れてくださいます。そのようにして、私たちとイエス・キリストの関係は始まります。私たちが何かをする前に、イエス・キリストが私たちを、ご自身の恵みのうちに抱き取ってくださるのです。そして、私たちを、ここに記されているような者に、新しく造り変えてくださいます。もし、私たちとイエス・キリストの関係がこのようにして始まっていないとしたら、私たちはイエス・キリストのものではありません。 このことは、イエス・キリストがユダヤ人の指導者であるニコデモにお語りになった、 まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。 ヨハネの福音書3章3節
という教えに通じることです。 私たちは、しばしば、自分を変えたいと願います。そして、さまざまな決心をしますが、元の木阿弥ということを繰り返します。私たちは自分の力で自分を造り変えることはできません。しかし、永遠の神の御子であり、私たちも含めてこの世界のすべてのものをお造りになったイエス・キリストは、私たちを新しいものとして造り変えることがおできになりますし、実際に、造り変えてくださいます。 コリント人への手紙第二・5章17節には、 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。 と記されています。 これも、将来のことではありません。すでに始まっている現実であると言われています。私たちがイエス・キリストを信じ、イエス・キリストが私たちを受け入れてくださった時には、私たちはイエス・キリストのうちにあるものとされており、新しく造り変えられています。それで、イエス・キリストにあって、新しい歩みをすることができるのです。 そして、その新しく造り変えられている人の特徴が、「山上の垂訓」の初めにおいて、イエス・キリストが述べておられる8つの祝福された状態に現われてくるのです。 これらのことを踏まえて、 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。 と言われているときの「心の貧しい者」が、どのような人々のことなのかを考えてみましょう。 「心の貧しい者」の「心」(プニューマ)は、「心」というより「霊」を表わしています。 同じイエス・キリストの祝福の言葉でも、8節で、 心のきよい者は幸いです。 と言われているときの「心」(カルディア)は、私たちが考えている「心」に近いものです。これに対して、 心の貧しい者は幸いです。 の「心」あるいは「霊」は、「心」と考えてもいいのですが、特に、神さまとかかわる面を示しています。 それで、「心の貧しい者」というのは、神さまの御前において、あるいは、神さまとの関係において、自分が「貧しい者」であることを自覚している人々のことです。 また、「心の貧しい者」の「貧しい」状態は、プトーコスという言葉で表わされています。 ギリシャ語には、これとは別に「貧しい」状態を表わすペネースという言葉があります。このペネースで表わされる貧しさは「大変だけれど、何とかやっていける貧しさ」を表わしています。今の日本に住んでいる私たちが「貧しい」という言葉で考えるのは、このペネースで表わされる貧しさでしよう。しかし、イエス・キリストが、 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。 と言われるときの「貧しい」状態を表わす言葉(プトーコス)は、もともと、施し物をもらうことによってしか生きられない状態にあることをあらわす言葉です。もはや、自分の力では生きられないほどの貧しさを示しています。もちろん、用例としては、それほどではない貧しさを表わすこともありますが、ここでは、そのような極度の貧しさを表わしていると考えられます。 ですから、イエス・キリストが、 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。 と言われるときの「心の貧しい者」は、神さまの御前に、あるいは神さまとの関係においては、自分の中には何も頼れるものはなく、ただただ、神さまの恵みとあわれみにおすがりする他はないと心底思っている人々のことです。 ジョージ・バーナという研究者か自らの世論調査に基づいて書いた『アメリカ人はどう考えているか』という本によりますと、アメリカ人の99パーセントは、自分は死んだ後に天国に行くと考えているそうです。 これは、私の推測ですが、ほとんどの日本人も、もし天国というところがあるのなら、自分は死んだ後に天国に行くと考えているのではないでしょうか。 人々が自分は死んだ後に天国に行くと考える根拠は、二つに大別されることでしょう。 一つは、自分がしてきたことや、今していることです。 クリスチャンの場合には(といっても、これは本来のクリスチャンの考え方ではありませんが)、自分は洗礼を受けているからとか、教会に通っているからとか、ずっと神さまにお仕えしてきたからというようなことです。クリスチャンではない人々も、まじめに生きているからということで、自分は天国に入ると考えていることでしょう。 もう一つの根拠は、自分がしていないことです。 自分は人を殺したことはないし、傷つけたこともない。泥棒のようなまねはしたことがない。そのように考えて、自分は天国に行くと考えているのではないでしょうか。 この二つの考え方を、 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。 というイエス・キリストの言葉に照らして見ると、どうなるでしょうか。 最初の、自分は洗礼を受けているとか、教会に通っているとか、ずっと神さまにお仕えしてきたということを頼みとしている人々や、まじめに生きているということを頼みとしている人々は、「心の貧しい者」ではなく、むしろ、「心の富んでいる人々」です。自分の中に神さまに差し出すことができる「よいもの」があると思っている人々です。 もう一つの、自分は、人を殺したことはないし、傷つけたこともない。泥棒のようなまねはしたことがないということを頼みとしている人々は、最初の人々よりは貧しいかもしれませんが、それは、むしろ、先ほどのペネースで表わされる「何とかやっていける貧しさ」でしょう。それほどひどくはないのだから、何とかなるはずだと考えているわけです。これは、イエス・キリストが、 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。 と言われるときの「心の貧しい者」ではありません。 イエス・キリストは、 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。 と言われました。これは、「天の御国」は「心の貧しい」人々だけのものであるということであって、「天の御国」は「心の貧しい」人々ではない人々のものでもある、ということではありません。まして、「天の御国」は、神さまの御前に自分のよさを差し出すことができる「心の富んでいる人々」のものであるけれども、そのようなものの何もない「心の貧しい」人々のものでもあるというのではありません。「天の御国」は「心の貧しい」人々だけのものです。 「心の貧しい者」とは、神さまの御前において、自分の中には何も頼むことができるものはなく、ただただ、神さまの恵みとあわれみにおすがりする他はないと心底感じている人々のことです。「天の御国」はそのような人々のものであると言われています。その意味で、「天の御国」は、神さまの一方的な恵みによって与えられる賜物です。私たちが自分の努力による修業を積んで「心の貧しい者」になると、神さまが、ご褒美に「天の御国」をくださるのではありません。 ここで、「心の貧しい者」のことを、具体的な例において考えるために、イエス・キリストの弟子であったペテロのことを見てみましょう。 イエス・キリストの地上の生涯の最後の夜のことを記す、マタイの福音書26章31節〜35節には、 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる。』と書いてあるからです。しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」すると、ペテロがイエスに答えて言った。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみなそう言った。 と記されています。 ペテロを初めとする弟子たちは、いのちがけでイエス・キリストに従って行きますという覚悟を述べました。この時の覚悟は本物でした。今日では、イスラム教の原理主義の人々が「聖戦」と考えることのために、自爆をしたりすることをよく耳にします。弟子たちも同じような思いを持っていたと考えられます。 実際、イエス・キリストを裏切ったユダに導かれて、ユダヤ当局から差し向けられた役人とローマの兵士たちが、イエス・キリストを捕らえにやって来たときに、弟子たちの一人は、もっていた剣を取って切りつけました。その時、イエス・キリストと弟子たちは十二人で、二振りの剣があっただけです。まさに、いのちをかけて「聖戦」を始めようとしたのです。この時の、ペテロを初めとする弟子たちは、本当に、イエス・キリストに従って死んでもいいと思っていました。その意味で、神さまの御前に差し出す「よいもの」をもっていました。 弟子たちとしては、イエス・キリストがメシヤとしての力を発揮して、敵を打ち破り、メシヤの支配を始められると期待していたに違いありません。もちろん、それは弟子たちが抱いているイメージに沿ったものです。しかし、52節に記されていますように、その時、イエス・キリストは、 剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。 と言われて、弟子たちが始めようとした「聖戦」を止めてしまわれました。「天の御国」は、この世の武力や暴力で打ち立てるものではないからです。そして、イエス・キリストは逮捕されてしまいました。 「聖戦」によって敵を打ち破って、メシヤを中心とした神の御国を打ち立てることを考えていた弟子たちは、わけが分からなくなって、逃げてしまいました。それでも、ペテロは捕らえられたイエス・キリストの後をつけて行って、大祭司の家の中庭に入り込みました。 その時の様子を記す、69節〜75節には、 ペテロが外の中庭にすわっていると、女中のひとりが来て言った。「あなたも、ガリラヤ人イエスといっしょにいましたね。」しかし、ペテロはみなの前でそれを打ち消して、「何を言っているのか、私にはわからない。」と言った。そして、ペテロが入口まで出て行くと、ほかの女中が、彼を見て、そこにいる人々に言った。「この人はナザレ人イエスといっしょでした。」それで、ペテロは、またもそれを打ち消し、誓って、「そんな人は知らない。」と言った。しばらくすると、そのあたりに立っている人々がペテロに近寄って来て、「確かに、あなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる。」と言った。すると彼は、「そんな人は知らない。」と言って、のろいをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いた。そこでペテロは、「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います。」とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。 と記されています。 たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。 と言って胸を張ったペテロが、三度も、しかも、二度目は誓いをもって、最後はのろいをかけて誓って、イエス・キリストを知らないと言い張りました。普通に言えば、この時、ペテロはイエス・キリストを裏切った者として、イエス・キリストを王とする「天の御国」から最も遠いものになってしまったはずです。 しかし、イエス・キリストが言われた、 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。 という言葉に照らして見ますと、どうなるでしょうか。すべては一変してしまいます。 そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。 と言われているペテロは、神さまと御子イエス・キリストの御前に差し出すことができる「よいもの」は何もなくなってしまっていました。 そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。 というのは、よいところを見せようというペテロのポーズではありません。ペテロにはそのような計算をする余裕はありません。この時、ペテロは、文字通り「心の貧しい者」になっていました。 ペテロがイエス・キリストからの招きに応えてイエス・キリストに従うようになったことは、ペテロの意志によることでしたが、その意志もイエス・キリストの恵みに支えられていました。その時以来、ペテロはイエス・キリストの恵みの中にありました。そのことを踏まえたうえで、実質的なことだけを考えますと、 たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。 と言って胸を張ったペテロは、「天の御国」の本質と核心から遠く離れておりました。しかし、 そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。 と言われている時のペテロは、「心の貧しい者」として「天の御国」の本質と核心に、それまでの歩みの中で最も近づいていました。「天の御国」は、自分のよさを示して勝ち取るものではなく、イエス・キリストの一方的な恵みによって与えられるものであるからです。 イエス・キリストを三度も知らないと言い張ってしまった自分の現実にがく然として、激しく泣いているペテロは、絶望的な思いに打ちのめされてしまっていたはずです。ペテロの人生において最も濃いやみに閉ざされてしまっていた時でしょう。しかし、 そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。 と言われているペテロに対しては、その時ペテロは気がついてはいなかったでしょうが、イエス・キリストの、 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。 という言葉が宣言されていたはずです。 初めにお話ししましたように、「山上の垂訓」の初めに記されている「幸いです」というイエス・キリストの言葉は、その人がどのように感じているかということより、イエス・キリストがその人の状態をご覧になって、「幸いです」と宣言して下さるものです。 それと同時に、 そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。 と言われているペテロに対しては、この、 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。 という宣言に続く、 悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。 という言葉も宣言されていたはずです。ペテロは、自分自身のうちに何もないということだけではなく、むしろ、自分自身のうちに「あるもの」、自分自身の絶望的な現実を心底悲しんでいたのですから。 そして、この時のペテロのように、自分自身のうちにある罪の絶望的な現実に打ちのめされて、それを心底悲しんでいることが、イエス・キリストが 悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。 と言われるときの「悲しむ者」の最初の姿です。 イエス・キリストは、このように「悲しむ者」を、ご自身の十字架の死によって成し遂げられた罪の贖いに基づく慰めをもって、慰めてくださいます。 |
![]() |