義のために迫害されている人は幸いです

説教日:2014年4月13日
聖書箇所:マタイの福音書5章1節〜12節


 マタイの福音書5章ー7章には、一般に「山上の説教」あるいは「山上の垂訓」と呼ばれるイエス・キリストの教えが記されています。これまで、春の特別集会の礼拝におきましては、その最初の部分である5章1節ー10節に記されています、八つの「幸い」についての教えを順次取り上げてお話ししてきました。今年はその最後の10節に記されています、

義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

というイエス・キリストの教えについてお話しします。この教えは、これを受けて、さらに発展させている、

わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。

という、11節ー12節に記されている教えにつながっていますので、この教えも視野に入れてお話ししたいと思います。
 まず、このお話は年に一度のお話ですので、いつものように、1節ー10節に記されています、八つの「幸い」についての教えに共通していることをいくつかお話しします。
 第一に、このイエス・キリストの教えでは、「幸いです」と言われている人たちが八つに分けられています。しかし、実際には、これは同じ人たちのことです。というのは、1節ー2節に記されていますように、この教えは、イエス・キリストの弟子たちに語られたもので、弟子たちのことを述べているからです。
 第二に、この八つの教えの順序には意味があり、いちばん最初の、

 心の貧しい者は幸いです。

という教えは基本的な教えです。
 この「心の貧しい者」の「心の」と訳されていることばは、字義通りには「霊において」ということで、特に、神さまとの関係のあり方を示しています。そして、「貧しい」と訳されていることばは、自力では生活していくこともできなくて、人の施しに頼らなければならないほどの貧しさを表すことばです。ですから、この「心の貧しい者」とは、神さまとの関係において、自分の中には何も頼れるものはなく、ただ、神さまの恵みとあわれみに頼るほかはない状態にある人たちです。実際は、すべての人が神さまとの関係ではこのような状態にありますが。自分の罪のために心が神さまから離れてしまっている人は、それに気づくことがありません。この「心の貧しい者」は、自分がそのような者であると心から思っている人たちのことです。それは、自分が神さまの御前に罪ある者であることを知っていて、ひたすら神さまの愛と恵みとあわれみに頼っている人たちです。イエス・キリストの弟子たちとは、基本的に、このような意味での「心の貧しい者」です。
 それで、次に出てくる「悲しむ者」、「柔和な者」、「義に飢え渇く者」、「あわれみ深い者」、「心のきよい者」、「平和をつくる者」、「義のために迫害されている者」は、その基本的な特質として、心の貧しい人たちです。それで、たとえば、次の「悲しむ者」たちが悲しんでいるのは、何よりもまず、自分自身の罪の深さのことです。そして、その罪から生じるさまざまな悲しみの原因によって悲しんでいます。そして、そのような自分の現実に対して、自分ではどうすることもできないこと、その点では、ただただ神さまの恵みとあわれみに頼るほかはないことを自覚して、実際にそれに頼っています。
 第三に、ここで「幸いです」と言われている人たち自身は、自分は神さまの御前に罪深い者であり、ただ神さまの恵みとあわれみに頼るほかはない者であることを知っていますし、自分の罪深さを悲しんでいます。特に、今日取り上げています、「義のために迫害されている」人たちは、それを直ちに「幸い」なことであると思えるわけではありません。それで、イエス・キリストは、10節の教えで終わらないで、それを受けて、11節ー12節に記されている教えで、さらに説明しておられます。
 ですから、ここで言われている「幸い」はその人たちの感じ方のことではありません。必ずしも、その人たちが、自分は「幸い」だと思っているわけではありません。けれども、イエス・キリストは、そのような人たちのことを「幸い」であるとご覧になっておられ、「幸い」であると宣言してくださっておられます。それで、これはその人の感じ方を越えた、真の幸いです。
 第四に、ここでは、それぞれの状態が「幸い」であることの理由も示されています。そのうちの最初の理由と最後の理由は同じで、

 天の御国はその人たちのものだから。

となっています。このように、最初と最後が対応している表現形式はインクルーシオーと呼ばれます。これによって、1節ー10節に記されている教えがひとまとまりになっていることが分かります。さらに、この表現形式では、その最初と最後に言われていることが特に大切なことであることを意味しています。それで、その間にあることも、これとの関連で理解しなければならないことになります。
 第五に、この、

 天の御国はその人たちのものだから。

という理由は現在時制で表されていて、常に変わることがない事実を示しています。
 最初の教えでイエス・キリストは、「心の貧しい者」すなわち、自分の中には何も頼るものはなく、ただ、神さまの恵みとあわれみによる他はないと心から思っている人たちを指して、

 天の御国はその人たちのものだから。

と教えておられます。ですから、天の御国は、ただ神さまの一方的な愛と恵みによってその人たちに与えられているのです。
 また、今日取り上げている最後の教えでは、「義のために迫害されている者」にとっては、今すでに、「天の御国」がその人たちのものであることが示されています。
 この、すでに、この人たちの現実となっている、

 天の御国はその人たちのものだから。

ということにはさまれて、ほかの六つの理由が示されています。そして、その六つの理由は、すべて未来時制で表されています。この場合は、その力点が将来に置かれているということを意味しています。その将来とは、みことばに約束されている終わりの日のことです。終わりの日にイエス・キリストが再び来てくださって、私たちご自身の民の救いを完全に実現してくださいます。たとえば、先ほどの、悲しんでいる人たちが慰められるということは、今はまだ実現していないという意味ではありません。

 天の御国はその人たちのものだから。

と言われていますように、その人たちは、すでに、神さまの一方的な愛と恵みによって、天の御国の民としていただいています。そして、神さまの愛に包んでいただいて、神さまと信仰の家族の兄弟姉妹たちとの親しい交わりのうちに生きていますし、その交わりによって深い慰めを与えられています。その意味で、この慰めは今すでに実現していますが、その完全な実現は将来のことであるということです。というのは、その慰めが完全に実現するのは、悲しみの原因が完全に取り除かれることによっていて、もはや悲しむことがなくなる時のことだからです。


 このようなことを踏まえて、改めて、10節に記されています、

 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

という教えを見てみましょう。
 3節ー10節に記されている八つの教えには、私たちには意外な教え、驚くべき教えがいくつかありますが、この教えは特に、驚くべき教えです。
 八つの教えの前半に出てくる「・・・な人たち」を表すことばのうち、最初の七つの教えにおいては、その人々の状態が[形容詞か現在分詞で表されていて]、いつもあることを示しています。これに対して、最後の「義のために迫害されている者」の「迫害されている」ということばは[完了時制の分詞で表されていて]、すでに迫害を受けてきていて、今も受けているという、この前の七つの教えにおいて取り上げられていることよりも強い意味合いをもっていて、それがより厳しい現実であることを示しています。このようなこともあって、11節ー12節では、弟子たちに「あなた方」と呼びかけて、より直接的に、また具体的に語りかけておられると思われます。また、このことからも、

 義のために迫害されている者は幸いです。

という教えが、より驚くべき教えとなっています。
 この、

 義のために迫害されている者は幸いです。

という教えには「」ということば(ディカイオシュネー)が出てきます。このことば自体は、いくつかのことを意味しますが、一般に、この教えとの関わりで考えられ、論じられているのは、二つの意味です。
 一つは、神さまのみこころにかなったあり方や生き方、神さまがお示しになっておられる義の基準にかなったあり方や生き方です。これは、世間一般で考えられている「正しいこと」に当たるもので、理解しやすいのではないかと思います。ただし、その正しさの基準が神さまのみこころであるという点が違っています。
 もう一つは、神さまが、その一方的な愛と恵みによってご自身の民に与えてくださる「義」です。これは、聖書があかししている福音の核心にある「義」ですが、私自身もこの「義」が分かって初めて、聖書が示している神さまの救いが理解できました。この「義」につきましては、後ほどお話しすることにします。
 このように、この、

 義のために迫害されている者は幸いです。

という教えに出てくる「」がどのような意味での義であるかが問題となっています。広く認められているのは、この場合の「」は神さまが、その一方的な愛と恵みによってご自身の民に与えてくださる「義」のことではなく、神さまがお示しになっておられる義の基準にかなったあり方や生き方のことであるということです。
 私が調べたかぎりでのことですが、その理由はあまりはっきりと述べられていません。それは明白なことで、改めて説明するまでもないということなのでしょう。確かに、人々が「義のために迫害されている」人たちを迫害するのは、人々がその人たちの具体的なあり方や行き方を見て、反発を感じてなすことであると考えられます。
 それはそうなのですが、それにはもう少し考えなければならないことがあります。というのは、このことには、神さまがお示しになっておられる義の基準にかなったあり方や生き方をすることができる人がいるのだろうかという疑問がつきまとうからです。

 ここでイエス・キリストは、

 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

と教えておられます。この「義のために迫害されている」人たちは、イエス・キリストによって、「天の御国はその人たちのものだ」と言われている人たちです。しかも、先ほどお話ししましたように、その人たちは「心の貧しい」人たちで、神さまとの関係において、自分の中には何も頼れるものはなく、ただ、神さまの恵みとあわれみに頼るほかはない状態にある人たちですし、自分が神さまの御前に罪ある者であることを知っていて、ひたすら神さまの愛と恵みとあわれみに頼っている人たちです。そして、天の御国がこの人たちのものとなっていのも、その人たちが頼っている、神さまの愛と恵みとあわれみによっています。
 このことは、聖書が一貫してあかししています、神さまが備えてくださっている救いに関わっていることです。というのは、イエス・キリストが、

 天の御国はその人たちのものだから。

と言っておられることは、その人たちが神さまが備えてくださっている救いにあずかって、「天の御国」に入れていただいているということだからです。
 今週は、キリスト教会の暦の上では受難週に当たります。受難週においては、神さまが旧約聖書をとおして約束してくださっていた救い主であられるイエス・キリストが十字架におかかりになって死んでくださったことを覚える時です。イエス・キリストの弟子とは、十字架にかかって死んだイエス・キリストを主として信じ、信頼し、イエス・キリストに従って生きる者たちのことです。今お話ししている、

 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

というイエス・キリストの教えを理解する鍵は、このことにあります。
 どういうことかと言いますと、この教えを受けて、さらにそれを説明している11節ー12節には、

わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。

と記されています。ここでは、人々が「あなたがた」すなわちイエス・キリストの弟子たちを「ののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせる」と言われています。実際に、イエス・キリストの弟子たちはユダヤ人からも異邦人たちからも、あざけり、ののしり、迫害を受けました。
 その理由はいろいろあるでしょうが、その根底にあるのは、弟子たちが十字架にかかって死んだイエス・キリストを主として信じ、信頼し、イエス・キリストに従って生きていることです。このこととのかかわりで、三つくらいの理由が考えられますが、今日は、そのうちの一つのことしかお話しできません。、この時、イエス・キリストの教えを聞いている弟子たちが経験している迫害は、ユダヤ人から受けていたと考えられます。それで、おもに、ユダヤ人からの迫害にかかわることをお話しします。
 人々は十字架につけられて殺されてしまった者、自分さえも救えなかった者が、他人を救うことができるわけがないと考えて、イエス・キリストとイエス・キリストに従う人たちをあざけるだけでなく、それが迫害を招くことになる事情があります。
 マタイの福音書27章40節には、イエス・キリストが十字架につけられた時に、その場を通りかかった人々が、

 もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。

と言って、イエス・キリストをののしったことが記されています。また、42節には、ユダヤ人の指導者たちである「祭司長たち」、「律法学者、長老たち」が、

彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。

と言ったことが記されています。
 特に、ユダヤ人が最も大切にしていたモーセ律法の中の申命記21章22節ー23節の戒めの中に、死刑になって、

 木につるされた者は、神にのろわれた者だ

という教えがありました。イエス・キリストはただ殺されたのではなく、「神にのろわれた者」として処刑されたのです。実際に、マタイの福音書27章45節ー46節には、

さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

と記されています。イエス・キリストは神に見捨てられ、のろわれて死にました。
 ユダヤ人たちからしますと、そのように神からのろわれて死んだ者を、神から遣わされたメシヤ、救い主として信じるということは、神を冒涜することに他なりませんでした。
 使徒パウロはそのような理由によって、イエス・キリストを信じている人々を迫害して、死にさえ追いやったことがありました。彼は後にイエス・キリストの十字架の死の意味を悟るようになりました。彼は、コリント人への手紙第一・1章23節で、

私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、

と述べています。確かに、十字架につけられたイエス・キリストは、「ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚か」です。

 けれども、神さまが約束してくださり遣わしてくださったメシヤがこのような死を遂げることは旧約聖書にいろいろな形で預言されていました。その代表的なものにイザヤ書52章13節ー53章12節に記されている一般に「主のしもべの第四の歌」と呼ばれる預言のみことばがあります。イザヤが預言活動をした年代ははっきりしないところがありますが、だいたい紀元前740から700年頃です。
 そのみことばは、52章13節に記されています、

 見よ。わたしのしもべは栄える。
 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。

ということばから始まります。これは、神である主の「しもべ」が栄光の主であることを示しています。そして、この方について53章3節ー5節には、

 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、
 悲しみの人で病を知っていた。
 人が顔をそむけるほどさげすまれ、
 私たちも彼を尊ばなかった。
 まことに、彼は私たちの病を負い、
 私たちの痛みをになった。
 だが、私たちは思った。
 彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
 しかし、彼は、
 私たちのそむきの罪のために刺し通され、
 私たちの咎のために砕かれた。
 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
 彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

と記されています。これが過去形で記されているのは、預言のみことばの確かさを示すためです。過去の出来事は確定していて変えることができません。それと同じように、主が与えてくださった預言のみことばは確かなものであるということです。

 だが、私たちは思った。
 彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

と記されていますように、約束の救い主は、人々から神からの刑罰を受けたのだと思われるような死に方をします。しかし、それは、この方が、

 私たちのそむきの罪のために刺し通され、
 私たちの咎のために砕かれた。

ということだというのです。そして、それが、

 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
 彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

という救いをもたらすと言われています。
 聖書は、人は造り主である神さまに対して罪を犯して、神さまから離れ去ってしまっているという現実を明らかにしています。そのために、すべての人が罪の力に捕らえられてしまっており、罪を犯しています。そして、神さまはご自身の義の尺度に従ってすべての罪をおさばきになります。この罪の結果が死であり、永遠の刑罰としての滅びです。
 これに対して、神さまはご自分の御子を救い主として立ててくださり、遣わしてくださいました。御子イエス・キリストは、旧約聖書の預言のみことばのとおり、ご自身の民のために十字架におかかりになって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わって受けてくださいました。このようにして、私たちの罪をすべて完全に清算してくださいました。これが、イエス・キリストが神からののろいを受けて死なれたことの意味です。コリント人への手紙第二・5章21節には、

神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

というパウロの教えが記されています。
 ここでは、イエス・キリストが私たちの代わりに罪とされて、十字架にかかって死なれたことの目的は、イエス・キリストを信じて、その十字架の死にあずかっている、

 私たちが、この方にあって、神の義となるためです

と言われています。神さまは十字架にかかって死んでくださったイエス・キリストを信じる人々を義と認めてくださいます。このようにして与えられる「義」が、先ほどの、神さまが、その一方的な愛と恵みによってご自身の民に与えてくださる「義」のことです。

 イエス・キリストは十字架にかかって死なれましたが、その3日後に、栄光を受けて死者の中からよみがえられました。そのことも、先ほどのイザヤの預言の中に預言されていたことでした。53章10節ー12節には、

 しかし、彼を砕いて、痛めることは
 のみこころであった。
 もし彼が、自分のいのちを
 罪過のためのいけにえとするなら、
 彼は末長く、子孫を見ることができ、
 のみこころは彼によって成し遂げられる。
 彼は、自分のいのちの
 激しい苦しみのあとを見て、満足する。
 わたしの正しいしもべは、
 その知識によって多くの人を義とし、
 彼らの咎を彼がになう。
 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、
 彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。
 彼が自分のいのちを死に明け渡し、
 そむいた人たちとともに数えられたからである。
 彼は多くの人の罪を負い、
 そむいた人たちのためにとりなしをする。

と記されています。

 しかし、彼を砕いて、痛めることは
 のみこころであった。
 もし彼が、自分のいのちを
 罪過のためのいけにえとするなら、
 彼は末長く、子孫を見ることができ、
 のみこころは彼によって成し遂げられる。

と記されていますように、イエス・キリストが神にのろわれて死んだことは、神さまのみこころによることでしたし、そのみこころを実現することでした。
 そして、ここには、約束の救い主の死が、私たちの罪を贖うための死であることとともに、その死の後に「多くの人々」をご自分の民とするようになることが記されています。
 神さまはイエス・キリストを信じる人を、その十字架の死による罪の贖いにあずからせてくださいます。その人はもはや罪のさばきを受けることはありません。そればかりでなく、神さまはその人をイエス・キリストの死者の中からのよみがえりにもあずからせてくださって、復活のいのちによって新しく生まれさせてくださいます。ローマ人への手紙6章3節ー5節には、

それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。

と記されています。
 マタイの福音書5章10節に記されています、

義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

というイエス・キリストの教えに出てくる「」は、神さまの「」の基準にかなったあり方と生き方のことです。けれども、それは罪によって堕落してしまっている人が、自分の力で実現できることではありません。「心の貧しい」人たちは、そのことを痛感して、ただ神さまの愛と恵みに頼っている人たちです。神さまの「」の基準にかなったあり方と生き方は、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって罪と死の力から解放され、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって、復活のいのちによって新しく生まれている人のあり方であり、生き方です。それは罪を犯すことがあっても、神さまが備えてくださっているイエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって、その罪を赦していただき、罪からきよめていただくことをも含んでいます。
 そのような生き方の根本にあることがヨハネの手紙第一・4章9節ー11節に、

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

と記されています。


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