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説教日:2013年4月21日 |
このような全体的なことを踏まえて、 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。 という教えを見てみましょう。 「平和をつくる者」と訳されていることばは、ギリシャ語では一つのことばで、新約聖書の中ではここに出てくるだけです。このことから、この福音書を記したマタイは、イエス・キリストの教えの主旨を表すために、よく考えて、このことばを選んだと考えられます。 この「平和をつくる者」ということばから、私たちはどういう人を連想するでしょうか。人と争うことをしない人を考えるかも知れません。もちろん、そういう人でしょう。けれども、それでは不十分です。あるいは、平和運動などをして平和を維持することに務めている人を考えるかも知れません。これには、私たちこの国のクリスチャンが、かつて日本がアジアの国々を侵略したときに、それに抵抗することができないままに、むしろ、わずかの例外を除いて、それに加担してしまったことを悔い改めて、平和を守ろうとしている姿勢が重なります。このことの大切さは強調してもしすぎることはありません。このことを心に刻みながらのことですが、この「平和をつくる者」ということばが意味している「平和をつくる」ということは、さらにそれ以上のことです。実際に争いのあるところに平和を造り出すことです。そして、みことばは、それが私たちそれぞれのあり方の根本、すなわち、私たちそれぞれの本性のあり方から始められるものであることを示しています。 私たちがこの意味での「平和をつくる」ことには、大きな問題があります。先ほどお話ししましたように、このイエス・キリストの八つの教えはすべて、イエス・キリストの弟子たちに当てはまることであり、その最も基本的なことは、最初の、 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。 という教えに示されている「心の貧しい者」であることにあるということです。ですから、「平和をつくる者」も「心の貧しい者」です。その「心の貧しい者」とは、神さまとの関係において、自分自身の中には頼みとすることができるものは何もなく、むしろ自分は罪のある者であって、ただただ神さまの恵みとあわれみに頼るほかはないことを自覚している人たちです。そのような人たちは、自分たち自身の中に争いの原因があることを認めます。言うまでもなく、それは自分たちの中にある罪の自己中心性です。私たちはそれは他人のことではなく、私たち自身のことでもあることを知っています。問題は、そのような者が「平和をつくる」ことができるのかということです。 ヤコブの手紙4章1節ー2節前半には、 何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。 と記されています。ここで「人殺しをする」と言われていますが、これは必ずしも犯罪としての人殺しのことではありません。同じ「山上の説教」の中にあるイエス・キリストの教えですが、5章21節ー22節には、 昔の人々に、「人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない」と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって「能なし」と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、「ばか者」と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。 と記されています。イエス・キリストは人を殺すことは、犯罪としての殺人だけでなく、神さまの御前においては、自らの罪の自己中心性によって、隣人の人としての尊厳性を傷つける怒りやそれを表すことばも、人を殺すことであると教えておられます。 「埴生の宿」という歌があります。ご存知のように、埴生の宿というのは、「埴」というきめの細かい粘土質の土に関連するもので、土を塗っただけの家、みすぼらしい家のことです。私は「埴生の宿」を聞くと、いつも決まって思い出すことがあります。それは私が小学生の低学年のときのことです。私は3歳年上の姉に届け物をするために姉の教室に行ったことがありました。そこでひとりの男子の生徒が親切にしてくださいましたので、私は物珍しさもあって、しばらく、その教室にいました。その時、その「お兄さん」がとても印象深い歌を口ずさんでいました。私はその歌が「埴生の宿」であることを教えてもらいました。それで私は、そのお兄さんに「埴生の宿」がなにかと聞きました。すると、そのお兄さんは、習ったばかりの知識だったのでしょうか、「宿」が家のことであることを教えてくれました。それなら「埴生の宿」って何の家のことかと、私が聞きましたら、そのお兄さんは、教室でみんなが飼っていた、大きなどじょうが何匹か入っている水槽を指さして、それが埴生の宿だと言いました。それ以来、私は「埴生の宿」とはどじょうの棲みかのことだと思い続けておりました。ずっと後になって、「埴生の宿」とは粗末な家のことであることを知ったときから、私はそのお兄さんがとんでもないことを教えくれたたもんだと思い続けておりました。もし誰かに「埴生の宿」ってなんのことかと聞かれたときに、うっかり、どじょうの棲みかのことだと答えていたら、大恥をかくところだったとさえ思ったものでした。私はそのお兄さんの名前も知りませんでしたし、その後会ったこともありません。でも、「埴生の宿」を聞くたびに、ちょっと非難めいた思いで、そのことを思い出していましたし、人にその話をしたこともあります。その度に、私は下級生の私におつきあいをしてくださった親切なお兄さんを心の中で殺していたわけです。これには続きがあるのですが、後ほどお話しします。 実は、新約聖書には、やはり1回だけですが、「平和をつくる者」ということばの動詞の形(「平和をつくる」)が、コロサイ人への手紙1章20節に出てきます。その意味するところを考えるために、その前の19節から、その後の22節までを見てみましょう。そこには、 なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行いの中にあったのですが、今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。 と記されています。 ここには、イエス・キリストが無限の豊かさに満ちたまことの神であられることと、その栄光の主であられる御子イエス・キリストが十字架にかかって、そこで流された「血によって平和をつく」られたことが記されています。そして、それによって、神さまは万物をご自身と和解させてくださったと言われています。詳しいお話はできませんが、これは、神さまがお造りになったこの世界が、人間の罪のためにのろわれてしまっていることを踏まえています。私たちは最近とみにその猛威を振るっている自然の災害に、こののろいを身近に覚えさせられています。ここに記されている教えでは、御子イエス・キリストの十字架の死が、この世界のすべてのものが本来の姿に回復されるためのものであったことを教えるものです。 ここではさらに、御子イエス・キリストの十字架の死が、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わって受けてくださったものであることを踏まえて、私たちが神さまと和解させていただいていることが記されています。これも、御子イエス・キリストがその十字架の死によって平和を造ってくださったことの現れです。 このことから、二つのことを汲み取りたいと思います。 一つは、神さまこそが「平和をつくる者」、平和をおつくりになられる方であるということです。そうであるからこそ、イエス・キリストの教えでは、 平和をつくる者は幸いです。 と宣言された後に、その理由として、 その人たちは神の子どもと呼ばれるから。 と教えられているのです。 もう一つは、「平和をつくる」ことには、犠牲がともなうということです。先ほど引用しました、コロサイ人への手紙1章21節には、 あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行いの中にあったのです と記されていました。聖書は、私たち人間が、本来、愛を本質的な特性とする神さまのかたちに造られていると教えています。それは、私たちが造り主である神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるようになるためでした。実際に、神のかたちに造られた人は、造り主である神さまとの愛の交わりのうちに生きていました。そのように造られて、豊かな祝福を受けていた人が、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。それによって、人は造り主である神さまを神としないで、自らを神の位置に据えようとするほどの罪の自己中心性にとらえられてしまいました。 人が大きな権力や能力を獲得すると、その罪の自己中心性が形となって現れてきやすいものです。しかし、それほどの権力や能力がなくても、心の中で、ほかの人を殺してしまうことはいくらでもあります。たとえば、自分より能力のある人をねたんだりするときには、あたかもその人がいるから自分が不幸であるかのように感じないでしょうか。それは、その人がいないほうがよいというような思いの裏返しではないでしょうか。また、私があの親切な「お兄さん」を心の中で殺していたことも、神さまの身までは紛れもない現実です。 私たちは私たちをご自身のかたちにお造りくださった神さまのみこころを踏みにじってしまっていました。そればかりか、私たちをお造りになっただけでなく、お造りになったものを常に真実にお支えくださっている、神さまに背を向けて歩んでいました。それが、 あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行いの中にあったのです と言われていることの中心にあることです。神さまはそのような私たちを、なおも、真実に支え続けてくださっていましたが、私たちはその神さまに敵対して歩んでいました。そのような歩みの行き着くところは、罪の結果である死であり滅びです。その死と滅びは私たちの罪に対するさばきとしてやってきます。けれども、神さまはご自身に敵対して歩んでいた私たちのために、ご自身の御子を贖い主として与えてくださいました。そして、実際に、今から2千年前に、御子イエス・キリストを十字架におかけになって、私たちの罪に対する聖なる御怒りによるさばきを御子イエス・キリストに下されました。それによって、私たちの罪を完全に贖ってくださり、私たちを死と滅びの中から贖い出してくださいました。そして、再び、神さまとの愛の交わりのうちに生きる、まことのいのちに生きる者としてくださいました。ヨハネの手紙第一・4章9節ー10節には、 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。 と記されています。 先ほど、「平和をつくる」ことには犠牲がともなうということをお話ししましたが、そのために犠牲を払うことは愛によっています。 先ほどの問題に戻りましょう。「心の貧しい者」は自分が罪ある者であり、神さまの御前に頼りとするものは何もなく、ただただ神さまの恵みとあわれみにすがるほかはない者であり、そのことを知っています。そのような者が、天の御国、神の国に入れていただいているのは、神さまがその一方的な愛によって、御子イエス・キリストを「私たちの罪のために、なだめの供え物として」遣わしてくださり、その十字架の死によって私たちの罪を完全に贖ってくださったからです。神さまがその愛によって必要なすべての犠牲を払ってくださり、私たちとの間に平和をつくってくださったからです。 私たちは御子イエス・キリストの十字架の死によって罪を贖っていただいているだけでなく、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって、復活のいのちによって新しく生まれています。神さまが私たちを新しく生まれさせてくださったのです。それによって、私たちが神さまとの愛の交わりのうちに生きることができるようにしてくださいました。そして、この神さまとの愛の交わりに生きることこそが、聖書の言う、永遠のいのちです。これによって、私たちも「平和をつくる者」としていただいています。先ほど、ヨハネの手紙第一・4章9節ー10節を引用しましたが、続く11節には、 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。 と記されています。私たちは自分の力で神さまのまねをするという無理なことをするのではなく、神さまが私たちのうちに愛を回復してくださったので、私たちは愛をもって「平和をつくる者」としていただいているのです。 私はこれまでの牧師としての歩みの中で、いろいろな方々との出会いを通して、いろいろなことを学ばせていただいてきました。多くの方々との出会いの中の一端ですが、人からの暴力やいじめを受けて苦しんでこられた兄弟姉妹たちとの出会いがありました。ご存知の方もおられますが、私自身が小さなころにいじめにあって苦しみました。すべてが私たちの教会の会員の兄弟姉妹たちではありませんが、その兄弟姉妹たちは、そのようなつらい経験の中でも主を信じて、主の恵みに支えられて歩んでおられました。 それ自体が大きなことです。しかし、その兄弟姉妹たちと、それぞれ別の機会にですが、神さまのみことばを分かち合ううちに、その兄弟姉妹たちが、形は違いますが、根本においては同じ経験をされました。ご自分に対してひどいことをした人たちを、ずっとそのようなことをした人として見続けること、思い続けることによって、その人々を心の中で抹殺してしまっていることに気がつかれたのです。その人々は自分を苦しめた悪者であるけれど、主が自分を支えてくださっているとして主に感謝することが、どこかおかしいと気づかれたのです。それは、罪を贖われているはずの私たちに、なおも罪の自己中心性が残っており、神さまが私たちのうちに生み出してくださった愛を窒息させてしまっているという現実に気づくことでした。そこから、過去に受けた傷のトラウマから解放されて、神の子どもの自由の中に歩み始められた兄弟姉妹たちがおられます。ある方は、神の子どもの自由に気づかれたときに、「私って、なんて愛がなかったのだろう」と言われました。また、自分をひどく苦しめた人を心からの愛をもって受け入れて、まさに「平和をつくる」経験をされた方々もおられます。 私はそのような兄弟姉妹たちとのお交わりによって、支えられてきました。あるとき、その兄弟姉妹たちのことを思いながら、先ほどお話ししました「埴生の宿」をめぐることを思い出して、自分の愛のなさを思い知らされました。私はあの「お兄さん」が埴生の宿とはどじょうの棲みかのことだというような、とんでもないことを自分に教えたとばかり思っておりました。でも、そうではなかったのではないかと思うようになりました。そのお兄さんの先生が授業か何かで「埴生の宿」の歌を教えたときに、埴生の宿が粗末な家であると説明したのではないだろうか。けれども、相手は小学生です。先生はことばによる説明だけでは分かりにくいので、粗末な家の例として、「このどじょうの水槽も、埴生の宿だね」というような説明をしたのではないだろうか。そしてあのお兄さんには、その説明が分かりやすかったので、ずっと年下の私に埴生の宿を説明してくれたときに、どじょうの水槽を指して、これが埴生の宿だと教えてくれたのではないだろうかということに思い至ったのです。きっと、それがあの親切なお兄さんの本当の姿であったのに、私はとんでもないことを教え込まれたと思い続けて、そのお兄さんを心の中で抹殺していたのだと。どうして、もっと早く、そのようなことに気がつかなかったのだろうと思ったときに、私自身が「私はなんて愛がなかったのだろう」と言わなければならない者であることに気づかされました。 そんなつまらないことを、と言われかねませんが、そのようなちいさなことにこそ、人前では気をつけようという警戒心や計算が働くことがないために、正体が現れるものです。私はこのことに気がついて、やっと、自分の心の中でのことですが、あの親切な「お兄さん」との「平和をつくる」ことができたのかも知れません。それ以来、「埴生の宿」を聞くことは、自らの愛のなさを思い起こして、自らを戒める機会となりました。 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。 これは、神さまが御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いと死者の中からのよみがえりを通して、私たちの現実としてくださる幸いです。 |
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