![]() |
説教日:2008年11月16日 |
この、 悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。 という教えについてさらに考えるために、少し回り道になりますが、8つの祝福を全体として見たときに考えられることに注目したいと思います。 この8つの祝福は、 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。 という教えで始まって、 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。 という教えで終っています。 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。 という教えは10節に記されています。その後に11節、12節に記されている教えがありますが、それは、 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。 という教えを言い換えたものですので、10節〜12節に記されていること全体で1つの教えとなっていると考えられます。 この8つの祝福の最初と最後のどちらにおいても、 天の御国はその人のものだからです。 という約束が示されています。しかも、これ以外の約束は、きょう取り上げています、 その人は慰められるからです。 という約束も含めて、すべて未来時制で示されていますが、この、 天の御国はその人のものだからです。 という約束は現在時制で示されています。英語の時制でもそうですが、現在時制は、基本的に、常にある事実を表しています。 このように、この8つの祝福は、同じ約束で始まり、同じ約束で終っています。これは「インクルーシオ」と呼ばれるその当時の表現の仕方で、8つの祝福の理由として示されている約束の全体が、 天の御国はその人のものだからです。 という約束に集約され、その枠の中にあるということを伝えています。 悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。 という教えについて言いますと、 その人は慰められるからです。 という約束は、 天の御国はその人のものだからです。 という約束の枠の中にあるのです。その人は「天の御国」のうちにあるので、また、「天の御国」のうちにあって「慰められる」ようになるということです。 このことに関して大切なことは、繰り返しになりますが、 天の御国はその人のものだからです。 という約束が現在時制で表されているということです。ここでイエス・キリストが「幸いです」と宣言しておられる人々は、すでに、「天の御国」のうちにあるということを意味しています。5章1節、2節には、 この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。 と記されています。ここに示されていますように、イエス・キリストはご自身に従って来ている「弟子たち」に語られています。イエス・キリストが一方的な愛と恵みによってこの「弟子たち」を「天の御国」のうちに入れてくださっているのです。 「天の御国」といいますと、いわゆる死んだ人が行くと言われている「天国」を思い出すでしょうが、聖書の伝えている「天の御国」は少し意味合いが違っています。何よりも、ここでイエス・キリストから「幸いです」と言われている人々は生きているのですが、すでに「天の御国」の中にあると言われています。ですから、「天の御国」は、必ずしも、死んだ人が行く所ではないのです。 「天の御国」という言い方はマタイの福音書がユダヤ人を対象にして記されたことによっています。ユダヤ人ではない読者を想定しているルカの福音書においては「神の国」となっています。ユダヤ人は神さまへの崇敬から、直接的に「神」と言わないで、それを「天」などに置き換えて表すことがあったようです。ですから、ユダヤ人は、「天の御国」は「神の国」のことだと理解しましたが、私たちには「神の国」と言うほうが分かりやすいのです。 また、「天の御国」あるいは「神の国」の「国」という言葉(バスィレイア)は、基本的には、「領土」というよりは、「王の支配権」、「王が支配すること」を意味しています。ですから、「天の御国」とは、場所的に「天国」ということよりは、神さまが治めておられることを意味しています。神さまが治めておられるところに「天の御国」、「神の国」があるのです。 ところで、聖書の最初の書物である創世記1章1節には、 初めに、神が天と地を創造した。 と記されています。これは、今日の言葉で言いますと、神さまが宇宙とその中のすべてのものをお造りになったことを伝えています。ヘブル語には「宇宙」に当たる言葉がなく「天」と「地」の組み合わせてそれを表しました。この世界のすべてのものをお造りになった神さまは、当然、この世界のすべてのものを支え、導き、治めておられます。その意味では、この神さまによって造られた世界全体が「神の国」であるということになります。これは、広い意味での「神の国」です。 しかし、イエス・キリストが、 天の御国はその人のものだからです。 と言われているときの「神の国」は、それよりは狭い意味の「神の国」です。それは、ご自身の民を死と滅びの中から救い出してくださるメシヤとして来てくださったイエス・キリストが、私たちの救いを完成してくださるために、すべてを治めてくださっていることを指しています。その意味で、この「神の国」は救い主であられるイエス・キリストが治めておられる国です。 聖書は、神さまは天地創造の御業において、人を愛を本質的な特性とする神のかたちにお造りになったと教えています。人は造り主である神さまとの愛の交わりのうちに生きるもの、神さまの愛を受け止め、自分も神さまを愛して生きるものとして造られているということです。神さまはこの大宇宙のすべてをお造りになった方であり、この大宇宙を無限に越えたお方です。その神さまが、擬人化した言い方ですが、無限に身を低くして、人にご自身を表してくださり、ご自身の愛を注いでくださったということです。聖書は、神のかたちに造られた人のいのちの本質は、この神さまとの愛にある交わりにあると教えています。 聖書の中には、さまざまな「たとえ」が出てきます。その中の1つに「ぶどうの木」とその「枝」のたとえがあります。「枝」は「ぶどうの木」につながっていて初めて生きることができます。造り主である神さまと神のかたちに造られた人の関係もそれと同じように考えられます。人は自分で自分のいのちを支えているのではなく、造り主である神さまによって支えられ、生かされて生きています。 人のいのちを支えているのは食べ物だと言われるかもしれません。しかし、それは人のいのちのごく一面を述べただけのことです。食べ物によって支えられるのは肉体的ないのちだけです。また、食べ物があり余っている状態の中でも、人は死んでしまいます。その人自身が生きていて初めて、食べることが意味をもっています。食べ物は肉体的ないのちを支えるために用いられる手段ではありますが、その人のいのちを根本的に支えているものではありません。人のいのちを根本的に支えているのは、造り主である神さまです。 聖書は、決して、肉体的ないのちを軽視してはいません。そうではありますが、神のかたちに造られた人のいのちは肉体的ないのち以上のものであると教えています。そして、先ほどお話ししましたように、人のいのちの本質は、造り主である神さまの愛を受け止め、造り主である神さまと、同じく神のかたちに造られている隣人を愛する、愛のうちに生きることにあると教えています。人のいのちはただ呼吸をして動いているというだけのものではなく、神のかたちとしての質があるのです。そして、そのいのちの質は愛にあります。 聖書は、また、人は造り主である神さまに対して罪を犯して、このような愛を本質的な特性とするいのちを失ってしまったと教えています。神さまに対して罪を犯した人は、自分と自分が住んでいるこの世界をお造りになった神さまを神とすることがなくなってしまいました。まして、神さまを愛することはなくなってしまいました。そのようにして、人のいのちの本質である神さまとの愛の交わりは、人の罪によって断ち切られてしまいました。それによって、人は死の力に捕えられてしまいました。 もちろん、人は肉体的には生き続けます。しかし、神さまとの関係においては死んでいると聖書は教えています。新約聖書のエペソ人への手紙2章1節には、 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であった。 と記されています。これは、肉体的には生きているけれども、死の力に捕らえられてしまっているということを意味しています。先ほどの「ぶどうの木」とその「枝」のたとえで言いますと、「枝」が「ぶどうの木」から切り離されてしまうと、しばらくは生きているように見えますが、実際には、それは枯れてしまうようになるプロセスの始まりです。それが、罪によって神さまとの愛にある交わりを絶たれてしまった状態にある人間の姿です。 それは人から愛がまったく失われてしまったという意味ではなく、愛が罪の自己中心性によって根本的に歪められてしまったということです。このことは、今日さまざまな形で噴出してきています。 誰もが、今日ほど文明が発達した時代はないと感じています。けれども、経済的なことでは、市場原理主義、グローバリゼーションという名目の下で、社会的な格差は地球大の規模で進んでいます。少し前までは「欲望資本主義」と言われていたものが人の欲望に訴えて、人の幸せは物の豊かさにあるというような思いを受け付け、欲望を肥大化させていました。いまでは、それを越えて「ギャンブル資本主義」とまで言われるような、文明の利器を操って、人の一生分の労働の対価に相当するような富を瞬時に得るようなこともあります。その一方で、弱い立場に置かれている人々が「使い捨て」のもののように利用されています。そのような不利な立場の人々の不安を煽って、さらに自分の利益を追求しようとしている人々も後を絶ちません。かろうじて生活している人々が、いったんことがあれば見捨てられていきます。またその一方で、物があふれる中で空虚感にさいなまれている人の数は計り知れません。 宗教的なことでも、状況は悲しむべき事態が進行しています。今も、中国や北朝鮮など東アジア、東南アジア、インドやスリランカなどの南アジア、中央アジア、中東、スーダン、ソマリア、エジプトなどアフリカ、東欧圏の諸国において、クリスチャンであるという理由によって、投獄され、拷問を受け、いのちを落とし、傷を負い、家族を失い、住み処を失い、故郷を追われ、野山をさまよっている人々が、数十万人単位でいます。その数を合わせればどれくらいになるでしょうか。残念なことに、そのような人々の存在はほとんど知られていません。 このようなことに対して、私たちは一方的に相手を糾弾して終ることはできません。というのは、それらの「迫害」には、私たち富める国々のぜいたくの陰で、貧しさにあえいできた人々の怒りがそのような事態へと人々を駆り立てたという一面があるからです。その富める国々の中には、いわゆるキリスト教国と呼ばれる国々も含まれます。そして、そのような富の蓄積を神の祝福の結果であるとして、富の飽くなき追求を正当化してしまうような現実もあるからです。 そのような、社会的な問題だけではありません。人間の欲望の追求のために、どれほどの生き物たちが絶滅に追いやられてきたことでしょうか。今も絶滅の危機に瀕している生き物がたくさんあります。 さらに、私たちそれぞれのうちに罪が宿っていて、私たちを縛りつけているという現実があります。大使徒と呼ばれるパウロでさえも、ローマ人への手紙7章15節〜19節で、 私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。 と告白し、24節では、 私は、ほんとうにみじめな人間です。 と告白しています。それは、そのまま、私自身を含めて、すべてのクリスチャンのうめきであり告白です。 さらには、ローマ人への手紙6章23節に、 罪から来る報酬は死です。 と記されていますように、すべての人は造り主である神さまに対して罪を犯したために死の力に捕らえられてしまっています。病や死や、愛する者との離別など、それにかかわるさまざまな悲惨が生じてきてしまっています。 これらすべての悲しむべきことの根底に、人が造り主である神さまに対して罪を犯したし、今も罪を犯しているという現実があります。これが、人間の悲惨な状態に対する聖書の「診断」です。そして、このようなことこそが、真に嘆き悲しむべきことなのです。 イエス・キリストが、 悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。 と教えておられるときの「悲しむ者」は、このような人間の罪とその罪の結果であるさまざまな悲惨を、自分自身のこととして嘆き悲しんでいる人々のことです。深い嘆きと悲しみをもって、 私は、ほんとうにみじめな人間です。 と告白している人々です。そのような人々に向かって、イエス・キリストは、 悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。 と語りかけてくださいます。 マタイの福音書8章16節、17節には、 夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」 と記されています。神の御子イエス・キリストは全能の主であられます。ですから、悪霊を追い出し、病をおいやしになることがおできになりました。イエス・キリストにとって、そのこと自体はいとも易しいことでした。けれども、ここでマタイが伝えているのはそのようなことではありません。イエス・キリストがいとも簡単に悪霊を追い出し病をいやされたということではありません。その時、イエス・キリストは神の御子としての御力において、人の罪がもたらしたさまざまな悲惨に苦しむ人々の痛みや苦しみをご自身の身に負われたということを伝えているのです。イエス・キリストご自身が人々の痛みをご自身の痛みとし、人々の悲しみをご自身の悲しみとされたのです。 彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。 という言葉は、旧約聖書のイザヤ書53章4節前半からの引用です。イザヤ書53章ではこれに続く4節後半〜6節に、 だが、私たちは思った。 彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。 しかし、彼は、 私たちのそむきの罪のために刺し通され、 私たちの咎のために砕かれた。 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、 彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 私たちはみな、羊のようにさまよい、 おのおの、自分かってな道に向かって行った。 しかし、主は、私たちのすべての咎を 彼に負わせた。 と記されています。 これは、イエス・キリストが私たちの罪を負って十字架にかかってくださり、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを私たちに代わって受けてくださったことを、預言的に語っているものです。イエス・キリストは、ただ、罪がもたらした私たちの悲惨をご自身のことのように知ってくださっているだけではありません。その根本原因である私たちの罪を贖ってくださいました。 イエス・キリストはその十字架の死によって私たちのために罪の贖いを成し遂げてくださいましたが、死者の中からよみがえってくださいました。そして、ご自身が成し遂げられた罪の贖いに基づいて、実際に、私たちを罪の結果である死と滅びの中から救い出し、再び、造り主である神さまとの愛にある交わりのうちに生きるものとして回復してくださいました。さらに、今も、私たちをその贖いの御業に基づく恵みによって、私たちを支え、導いてくださっています。 そのようにして、御子イエス・キリストが贖いの御業に基づいてご自身の民を治めてくださっているところに、 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。 と言われているときの「神の国」があります。 そして、これに続いて語られている、 悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。 という祝福は、御子イエス・キリストが贖いの御業に基づいて私たちのために実現してくださるものです。 私たちが自らの罪の現実にうめき、その罪がもたらしているさまざまな悲惨に対して心を痛めつつ嘆き悲しむ時に、イエス・キリストは、 悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。 と語りかけてくださいます。その慰めは、イエス・キリストがご自身の十字架の死によって私たちのすべての罪を贖ってくださったことに基づく慰めです。私たちの罪の贖いは、2千年前にイエス・キリストが十字架にかかってくださったことによって成し遂げられています。それで、私たちには、すでに、確かな慰めが与えられています。そうではあっても、 その人は慰められるからです。 という約束は未来時制で示されています。その慰めは、終りの日にイエス・キリストが再び来てくださって、私たちを栄光あるものによみがえらせてくださることによって完全なものとなります。 |
![]() |