あわれみ深い者は幸いです

説教日:2011年10月16日
聖書箇所:マタイの福音書5章1節ー10節


 本主日は、秋の特別集会を開催しています。これまで特別集会の礼拝におきましては、マタイの福音書5章1節ー10節に記されています、イエス・キリストの教えについてお話ししてきました。この教えは、5章ー7章に記されています、、「山上の垂訓」あるいは「山上の説教」と呼ばれているイエス・キリストの教えの最初の部分に当たります。
 この5章1節ー10節においては、「幸いです」ということばが8回繰り返されています。ギリシャ語本文では、この「幸いな」ということば[形容詞マカリオイ(マカリオスの複数形)]がそれぞれの教えの冒頭に出てきまして強調されています。このことから分かりますように、ここには幸いな状態にある人たちについての教えが記されています。
 今日は、その5番目の教えである、

あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。

という教えについてお話しいたします。


 まず、これら8つの教えに当てはまる、基本的なことを、復習しておきたいと思います。このイエス・キリストの教えからのお話は、ほぼ年に一度、時に二度というペースでお話ししていますので、その都度、復習するようにしてきました。これまで、これら8つの教えに当てはまる、基本的なこととして、四つのことをお話ししてきました。
 第一に、それぞれの教えの最初に出てきて強調されている「幸いな」ということばは、聖書の中では、基本的に、生きておられる神さまとの関係における幸いを表しています。神さまとの生き生きとした交わりのうちに生きることの幸いのことです。かつて神さまに背を向けて歩んでいたときには、神さまとの関係を離れて、いろいろなことを幸いであると感じてきました。しかし、人にとっての真の幸いの中心は、造り主である神さまを知ることにあります。
 第二に、ここに記されている教えに出てくる「幸いな」状態は、この状態にある人たちの感じ方のことではありません。そのことがよりはっきりと現れてくるのは、二番目の、

 悲しむ者は幸いです。

という教えです。ここに出てくる悲しんでいる人たちは、自分が悲しむべき状態にあると、心の底から思っていますので、「幸いな」状態にあるとは感じてはいません。それで、悲しんでいる人たちが「幸いな」状態にあると言われているのは、すべてのことをご存知であられる神の御子イエス・キリストが、その人たちのことを「幸い」であるとご覧になっておられ、「幸い」であると宣言してくださっておられるということを意味しています。
 ちなみに、この、

 悲しむ者は幸いです。

という教えでは、自分自身のうちにある罪のように、本当に悲しむべきことを悲しんでいる人たちが「幸い」であると言われています。
 第三に、ここに記されているイエス・キリストの教えでは、「幸いです」という宣言とともに、その理由が示されています。それは次のようになっています。

心の貧しい者は幸いです。
   天の御国はその人たちのものだから。
悲しむ者は幸いです。
   その人たちは慰められるから。
柔和な者は幸いです。
   その人たちは地を受け継ぐから。
義に飢え渇く者は幸いです。
   その人たちは満ち足りるから。
あわれみ深い者は幸いです。
   その人たちはあわれみを受けるから。
心のきよい者は幸いです。
   その人たちは神を見るから。
平和をつくる者は幸いです。
   その人たちは神の子どもと呼ばれるから。
義のために迫害されている者は幸いです。
   天の御国はその人たちのものだから。

 これらの教えに出てくる8つの理由のうち、最初と最後の理由は同じで、

 天の御国はその人たちのものだから

となっています。この理由は、現在時制で表されていて、この「天の御国はその人たちのもの」であるということが、今すでに現実となっているし、この後も、また、永遠に変わることがない現実であるということを表しています。言うまでもなく、「天の御国はその人たちのもの」であるということは、その人たちが、すでに、「天の御国」に入っているということです。
 神さまのみことばである聖書は、人が「天の御国」に入るのは、その人の行いによらないで、神さまの一方的な愛と、御子イエス・キリストの恵みによることであると教えています。神さまは私たちを愛してくださって、私たちを私たちの罪の結果である死と滅びから救い出してくださるために、ご自身の御子を私たちのための贖い主として立ててくださいました。御子イエス・キリストは私たちのために十字架にかかって死んでくださり、私たちの罪を贖ってくださいました。そして、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださり、私たちをご自身の復活のいのちで生かしてくださっています。私たちは神さまのみことばである聖書にしたがって、神さまが遣わしてくださった御子イエス・キリストを信じることによって、イエス・キリストが私たちのために成し遂げてくださった贖いの御業にあずかり、罪を贖っていただき、「天の御国」に入っているのです。
 このことは、今日取り上げます、

あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。

という教えとかかわっていますので、後ほど改めてお話しします。
 これら二つの、

 天の御国はその人たちのものだから

という理由がついている教えに挟まれて、6つの教えがあります。これら6つの教えに示されている状態にある人たちが、「幸いです」と宣言されている理由は、すべて未来時制で表されていて、それらが将来において完全に実現することを強調しています。
 神さまのみことばである聖書は、世の終わりの日にイエス・キリストが再び来られて、私たちご自身の民の救いを完全な形で実現してくださることを示しています。ですから、これらの未来時制で記されている6つの理由は、神さまの約束でもあります。
 このように、これら6つの理由が示している祝福は、終わりの日に完全な形で実現するものではありますが、それらはまた、すでに実現していることでもあります。それは、最初と最後の教えに記されている理由が示していますように、これらの教えが当てはまる状態にある人たちは、すでに、神さまの一方的な愛と御子イエス・キリストの恵みによって、罪を贖われ、死と滅びから救われて「天の御国」に入れていただいているからです。そのように「天の御国」に入れていただいている人たちは、それに伴うさまざまな祝福にあずかっています。
 第四に、ここには、幸いな人たちについてのイエス・キリストの8つの教えが記されていますが、それは8人のあるいは8種類の幸いな人たちがいるという意味ではありません。すべて、最初と最後の理由が示しています、神さまの一方的な愛と御子イエス・キリストの恵みによって、罪を贖われ、救われて「天の御国」に入れていただいている人たちのことを記しています。この人たちが、神さまの一方的な愛と御子イエス・キリストの恵みによって救われて、「心の貧しい者」、「悲しむ者」、「柔和な者」、「義に飢え渇く者」、「あわれみ深い者」、「心のきよい者」、「平和をつくる者」としていただいているということです。ただし、最後の「義のために迫害されている者」は「義に飢え渇く者」が「」を追い求めて生きるときに結果として起こることを示しています。
 いずれにしましても、今日お話しします「あわれみ深い者」であることは、神さまの一方的な愛と御子イエス・キリストの恵みによって、罪を贖われ、「天の御国」に入れていただいている人たちのうちに、神さまが生み出してくださることです。

 今日取り上げます、

 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。

という教えに出てくる「あわれみ深い」と訳されたことば[形容詞エレエーモネス(エレエーモーンの複数形)]は新約聖書の中では、2回しか出てきません。
 ここのほかではヘブル人への手紙2章17節に出てきます。そこには、

そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。

と記されています。
 ここで「あわれみ深い、忠実な大祭司」と言われているときの「あわれみ深い」ということばが、マタイの福音書5章7節に出てくることばと同じです。
 新改訳で「」と訳されていることばは、ギリシャ語本文にはありません。ギリシャ語本文では、「なければなりませんでした」という動詞が3人称単数形であるだけで、直訳すれば「彼」です。これは、イエス・キリストのことです。[注]

[注]このことは11節、14節、16節、18節の「」にも当てはまります。これらはすべて、直訳では「彼」です。これらを「」と訳すことは、これに先立つ3節において御子イエス・キリストのことが「」と言われていることからの流れによっていると思われます。その後、9節において、イエス・キリストのことが「イエス」と呼ばれていますが、これは6節ー8節に引用されている詩篇8篇5節、6節に記されていることをイエス・キリストに当てはめたためのことです。しかし9節においては、それに続いて、イエス・キリストが「死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けに」なったと言われており、10節において、イエス・キリストのことが「救いの創始者」と言われています。また、後ほど触れますが、17節の「あわれみ深い、忠実な大祭司」ということば自体が、御子イエス・キリストが栄光の主であられることを明らかにしている1章3節に記されていることを反映しています。これらのことは、この部分の「彼」を「」と訳すことに沿っています。

 ここでは、イエス・キリストが「あわれみ深い、忠実な大祭司」となられたことが記されています。
 この「あわれみ深い」ということばによるつながりから、山上の説教において、

あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。

と教えられたイエス・キリストご自身が「あわれみ深い、忠実な大祭司」であられることには、意味があると考えられます。それで、このことに注目してみましょう。
 「大祭司」とは、このことばから推察できますが、祭司の代表的な立場にある人です。
 旧約聖書に記されています、イスラエルにおいては、モーセの兄であるアロンが最初の大祭司になりました。モーセとアロンはイスラエルの十二部族の中のレビ族に属しています。そして、原則的に、アロンの子孫の長子が大祭司となり、その他の子孫は祭司となりました。「原則的に」というのは、不適格な者も出たからです。[注]

[注]レビ記10章1節ー5節には、アロンの子である、ナダブとアビフが主の御前に「異なった火」をささげて、主の御前から出た火によって焼き尽くされたことが記されています。出エジプト記6章23節や28章1節を見ますと、アロンの子としてナダブとアビフが最初に記されています。さらに出エジプト記24章1節、9節には、ナダブとアビフがモーセとアロンとイスラエルの70人の長老たちとともに契約の食事に参加したことが記されています。このことは、ナダブがアロンの長子であり、アビフがその下の子であったことを示しています。そして、その下にエルアザルとイタマルがいたと考えられます。

 基本的に、祭司は契約の神である主の民を代表して、主の御前に立って、主に仕えました。その意味で、主の民と一つになって、主を仰ぐという方向性があります。これは預言者が主の御前から遣わされて主の契約の民に、主のみことばを伝えたことと対比されます。預言者は主の側に立ち、主の御名によって、主のみことばを主の民に伝えるという方向性があります。
 具体的には、祭司は主の幕屋や主の神殿の聖所において仕えました。
 聖所についてお話ししますと、広い意味での「聖所」は長方形で、主の栄光を表示するとともに、主の栄光を守護しているケルビムを織り出した垂れ幕で仕切られていました。罪ある者が罪のあるままで主の栄光の御臨在の御許に近づくなら、主の聖さを冒すものとして、主のさばきを受けることになります。ケルビムはそのような意味をもった主の栄光の御臨在を表示し、それを守っています。
 広い意味での「聖所」は、二つに分かれていました。正面である東側の3分の2が(狭い意味での)聖所であり、その奥すなわち西側の3分の1が至聖所となっていました。聖所と至聖所の間も、ケルビムを織り出した垂れ幕で仕切られていました。
 祭司たちは毎日、この聖所で主に仕えました。おもなことを挙げますと、聖所において絶えずともしびをともし(出エジプト記27章20節、21節)、朝と夕に、祈りを象徴的に表す香を焚きました(出エジプト記30章7節、8節)。また、毎日、朝と夕に、聖所の前にある祭壇において、若い雄羊を屠り、罪の贖いをしました(出エジプト記29章38節ー42節)。その他、イスラエルの民がささげるささげものに関するさまざまな務めをしました。
 その祭司の代表的な存在である大祭司の大切な任務は、レビ記16章に記されていますが、年に一度、大贖罪の日に、「聖所」のさらに奥にある「至聖所」にまで入っていって、イスラエルの民のために罪の贖いをすることでした。祭司たちは至聖所の前の聖所に入って奉仕をしましたが、その奥の至聖所とはケルビムを織り出した垂れ幕で仕切られていて、それを踏み越えて入ることはできませんでした。ただ年に一度、大祭司が至聖所に入って民のために罪の贖いをしました。そのために大祭司は、祭壇において、自分の罪のために若い雄牛を屠り、イスラエルの民の罪のためにやぎを屠って、それぞれの血を携えて至聖所に入っていきました。その血は至聖所にある契約の箱の上蓋である「贖いのふた」に振りかけました(レビ記16章11節ー16節)。

 これらのことは、「地上的なひな型」で、いわば視聴覚教材のようなものです。それは、やがて来たるべき「本体」を指し示していました。
 ヘブル人への手紙2章17節で、御子イエス・キリストが「あわれみ深い、忠実な大祭司」と言われているのは、イエス・キリストが、それらの「地上的なひな型」が指し示してた「本体」であられることを意味しています。
 イエス・キリストは大祭司の「本体」であるだけでなく、大祭司が自分自身と民の罪の贖いのために屠ったいけにえの動物の「本体」です。ヘブル人への手紙9章11節、12節には、

しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。

と記されています。さらに、これと同じことが同じ9章の24節、25節に、

キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現れてくださるのです。それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所に入る大祭司とは違って、キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません。

と記されています。
 この二つのみことばでは、「地上的なひな型」である幕屋や神殿の至聖所が指し示していたのは、神さまがご臨在しておられる「天そのもの」であると言われています。そして、大祭司が屠った罪の贖いのためのいけにえの「やぎと子牛」が指し示していたのは、イエス・キリストご自身であり、大祭司が至聖所にまで携えていった「やぎと子牛との血」はイエス・キリストご自身の血であったと言われています。この「子牛」は大祭司が、その血を至聖所に携えていった「若い雄牛」のことです。
 ヘブル人への手紙ではさらに、10章4節に、

 雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。

と記されています。「雄牛とやぎ」は人に代わって、人の罪のさばきを受けることはできません。ですから、「雄牛とやぎの血」が人の「罪を除くこと」はできません。
 これに先立つ1節ー3節には、年ごとに、つまり大贖罪の日のたびに「雄牛とやぎの血」が注ぎかけられたのは、それによって罪が取り除かれていなかったからであるということが示されています。もし罪が取り除かれていたのであれば、その時点で動物の血を流す必要はなかったはずです。3節には、

ところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。

と記されています。これに対して、14節には、

キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。

と記されています。

 大祭司をかしらとする祭司は、主の民を代表して主の御臨在の御前に立って、主を礼拝することにかかわる務めを果たしました。その意味で、祭司は契約の神である主と主の民との間に立っていました。
 ヘブル人への手紙2章17節において、

そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。

とあかしされている、御子イエス・キリストも「あわれみ深い、忠実な大祭司」として、神さまと神さまの民の間に立って、大祭司の務めを果たしておられます。イエス・キリストのことが「あわれみ深い、忠実な大祭司」と言われているときの「あわれみ深い」ということばは、私たち主の民との関係におけることで、私たちに対して大祭司であられるイエス・キリストが「あわれみ深い」ということを意味しています。また、「忠実な」ということばは、神さまとの関係におけることで、イエス・キリストが神さまに対して忠実であられるということを意味しています。この場合には、大祭司としての務めを果たすうえで、神さまに対して忠実であられることを意味しています。
 ここで、

神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため

と記されている部分はギリシャ語本文では、「あわれみ深い」ということばがいちばん前に出てきて強調されています。「神のことについて」ということばは最後に記されています。このことから、イエス・キリストが大祭司としての務めを果たす上で、神さまに対して忠実であられることが、私たちに対して「あわれみ深い」大祭司となられることに現れてきていることを汲み取ることができます。イエス・キリストは大祭司として父なる神さまのみこころに従われて、私たちのための「あわれみ深い」大祭司となられたということです。それは、とりもなおさず、ご自身の御子を私たちの大祭司として立ててくださった神さまが、私たちに対して「あわれみ深い」御方であられることをも意味しています。
 ここではさらに、イエス・キリストは、神さまのみこころに従って、私たちのために「あわれみ深い」大祭司となられるために、

すべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした

と言われています。ここに出てくる「兄弟たち」は、引用はいたしませんが、この前の11節に出てくる人々で、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって罪を赦され、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって、イエス・キリストの復活のいのちに生きる者とされている、主の民のことです。
 イエス・キリストが「すべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした」と言われていることは、基本的に14節、15節に、

そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。

と記されていることを指しています。
 イエス・キリストが「血と肉とを・・・お持ちに」なったということは、私たちと同じ、人としての性質をおもちになったということを意味しています。もちろん、イエス・キリストには罪の性質はありませんでしたし、罪を犯されませんでした。そのことは、少し後の4章15節において触れられていますが、ここでは、イエス・キリストが私たち主の民と一つになられたことだけを述べています。そのようにして、イエス・キリストは、私たちと一つとなられ、私たちの罪を負ってくださり、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わって受けてくださったのです。これまでお話ししてきたことに合わせて言いますと、イエス・キリストは私たちの大祭司として、ご自身を私たちの罪を贖うためのいけにえとしてささげられたということです。
 神さまのみことばである聖書の教えでは、肉体的な死は死のすべてではありません。肉体的な死は、いわば、死の第一歩でしかありません。「本当の死」は、私たち人間の罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきにあります。イエス・キリストが「「すべての点で兄弟たちと同じように」なられたのは、私たちを、この「本当の死」から救い出してくださるために、私たちに代わって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを受けてくださるためでした。
 17節で、

 それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。

と言われているときの「なだめをなす」ということば(ヒラスコマイ)は、神さまが私たち人間の罪を聖なる御怒りをもっておさばきになることを踏まえています。そして、イエス・キリストが私たちに代わって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを受けてくださって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りを取り除いてくださることを意味しています。
 同じヘブル人への手紙の1章3節には、イエス・キリストのことが、

御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

とあかしされています。ここで「神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れ」であるとあかしされている御子イエス・キリストが、限りなく貧しくなられて、私たちと一つになってくださいました。それも、本来私たちが受けなければならない、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わって受けてくださったほどに貧しくなってくださいました。そして、私たちを復活のいのちに生きる者としてくださるまでに、私たちと一つになられて、死者の中からよみがえってくださいました。そのようにして、御子イエス・キリストは、私たちのための「あわれみ深い、忠実な大祭司」となってくださいました。
 1章3節後半で、

罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

と言われていることは、イエス・キリストが私たちのために「あわれみ深い、忠実な大祭司」となってくださったことを意味しています。

 このように限りなく貧しくなられて、私たちと一つになってくださったイエス・キリストが、

あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。

と教えておられます。私たちは、イエス・キリストのあわれみにあずかっています。イエス・キリストの十字架の死にあずかって罪を赦され、死と滅びから救い出されているだけではありません。イエス・キリストのよみがえりにもあずかって、イエス・キリストの復活のいのちで生きる者としていただいています。このことが、ガラテヤ人への手紙2章20節に、

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

と記されています。
 そうであれば、イエス・キリストの復活のいのちで生かしていただいている私たちは、「あわれみ深い者」としていただいているはずです。
 そのことは今すでに私たちの現実となっています。私たちはみことばの教えを信じて、「あわれみ深い者」として、生きようとしています。けれども、私たちはなおも自らのうちに罪を宿しているものです。そのために、自分が「あわれみ深い者」であるとは、とても言えない現実があります。そのことで深い痛みと悲しみを覚えるときに、なおも、

 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。

というイエス・キリストの教えが、心に響いてまいります。

 その人たちは慰められるから。

とは、神さまの約束です。同じように、

あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。

と言われているときの、

 その人たちはあわれみを受ける

ということは、神さまの約束でもあります。終わりの日に、御子イエス・キリストが、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて、私たちをあわれんでくださいます。イエス・キリストは、さまざまなことにおいて、あわれみを示してくださることでしょう。それは、今なお「あわれみ深い者」とは言い難い自らの現実を嘆き悲しむほかはない私たちを、真の意味で「あわれみ深い者」としてくださるということを含んでいるはずです。神さまのみことばである聖書は、終わりの日には、私たちはイエス・キリストに似た者に造り変えられるということを約束しています。
 このように言いますと、何から何まで神さまがしてくださるという感じに聞こえます。でも、まさにそのとおりなのです。神さまが御子イエス・キリストによって、私たちを救ってくださり、私たちを生かしてくださるのです。私たちは、神さまが御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいて、私たちを造り変えてくださるにしたがって、「あわれみ深い者」としての歩みを続けます。


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