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説教日:2010年5月9日 |
次に、もう一つの鍵となることばである「柔和な」と訳されていることば(プラユス)についてお話ししたいと思います。 このことばと、最初の、 心の貧しい者は幸いです。 という教えに出てくる「心の貧しい」ということばは、ほぼ同じことを表していると考えられています。「心の貧しい」人々とは、もともとは、社会的、経済的に貧しくて、そのために神さまを頼みとしている人々のことを表しています。そのような人々は、そこからさらに進んで、自分自身のうちにある罪の自己中心性のために、愛すらも自己中心的に歪んでおり、しばしば人を傷つけててしまうばかりでなく、その罪あるままでは神さまの御前に立つことはできない自分の現実を認めるようになります。そのようにして、「心の貧しい」人々とは、神さまの御前に、自らを頼みとすることができないことを認めて、ひたすら神さまの恵みに信頼している人々のことを表しています。 これに続いている、 悲しむ者は幸いです。 という教えに出てくる「悲しむ」人々は、そのような自分の現実を認めて悲しんでいる人々のことです。これは、その人々が神さまの御前に、自らを頼みとすることができないということを心の底から認めていることの現れです。 もちろん、その悲しみは自分のことだけで終わらず、実際に、罪のためにさまざまな形で苦しみ、痛む人々がおられることへの悲しみ、さらには、そのような人の罪の現実のために神さまのみこころが踏みにじられていることへの悲しみとなっていきます。 その意味で、 心の貧しい者は幸いです。 という教えに出てくる「心の貧しい」状態は、基本的に、神さまとの関係のことです。当然のことですが、神さまとの関係において、自分自身が何ものでもないことを心から認めて、ひたすら神さまの恵みを頼みとしている人は、他の人に対しても高ぶることはありません。そのように、「心の貧しい」ということは神さまの関係を基本としていながら、他の人々との関係を含んでいます。 この、「心の貧しい」人々が他の人に対して取る姿勢が、 柔和な者は幸いです。 という教えに出てくる「柔和な」姿勢です。それで、「柔和な」ということは、基本的に、他の人々に対する姿勢です。しかし、それは、その人が自らのよさや力を頼みとしないで、ひたすら神さまの恵みを頼みとしていることの現れです。ですから、「柔和な」ことの根本には、神さまとの関係があります。 「柔和な」人々は、他の人に対して優しく、穏やかに接します。しかし、それだけであれば、社会的、経済的に富んでいるための余裕の現れであるだけかもしれません。ひとたびその余裕がなくなれば、柔和ではなくなってしまうかもしれません。イエス・キリストの教えに出てくる「柔和な」人々は、どのようなときにも、人に対して悪意や復讐心を抱きません。むしろ、人を傷つけるくらいなら、自分の権利さえも引っ込めてしまいます。 そうではあっても、柔和であることは、卑屈になって人の言いなりになるということではありません。むしろ、柔和であることは、人として真に成熟していることに伴う力を意味しています。 古い実話ですが、ずいぶん前に読んだものですので、細かいところは正確でないかもしれません。アメリカのある町に自費で孤児院を経営している女性がいました。その経営は厳しくその日の食べ物にも窮するような状態でした。彼女はその年のクリスマスに子どもたちのために何かをしてあげようとして、町に行って寄付を募ることにしました。そして、ある盛り場の酒場に入っていってテーブルを回って施しを願っていたのですが、突然、虫の居所が悪かったのでしょうか、ある男が「うるさい。これでも食らえ。」というようなことを言って、そこにあったグラスを彼女に投げつけました。それは彼女の顔に当たって、割れてしまいました。彼女の顔からも血が出ました。ほろ酔い加減の人々も静まり返っている中で、彼女はその割れたグラスを拾い集めて、「これは私への贈り物としていただきますが、子どもたちにも何かいただけるでしょうか。」と言ったそうです。それを聞いた人々は、こぞってお金を差し出しました。グラスを投げつけた男も、メモをそえたお金を残して行きました。 これは柔和であることの例ですが、貧しさという現実の中で卑屈になることなく、受けた仕打ちに復讐心をもって返すこともしない姿勢には、成熟した人の力が根底にあることを感じさせます。 このように、「柔和な」ということは、基本的に、他の人々に対する姿勢ですが、それは、神さまとの関係において「柔和な」ことを含んでいます。 神さまに対して「柔和」であるということは、想像することが難しい気がします。というのは、神さまに対して柔和でない人がいるのだろうかという疑問がわき上がってくるからです。しかし、実際には、人は神をも自分の思うように動かそうとします。その場合には、祈りも神を動かそうとするための手段となっています。お供えもそうです。 「柔和な」人は神さまを自分の思いや願いに従わせようとはしません。その根本には、どのようなことにおいても、神さまと神さまの愛と恵みを信じる信仰の姿勢があります。そして、その「柔和な」ことは、私たちが経験する喜ばしいことを神さまの愛と恵みの現れとして受け止めて感謝することに現れてきますし、何よりも、この世に生きているがために経験する苦しみや痛みをも、神さまの計り知れないみこころのうちにあることとして受け止め、いっさいを神さまにお委ねすることに現れてきます。 これは私たちのあかしでもあります。私たちは小さな群れですが、この小さな群れの中にも、重い病を初めとして、さまざまな困難に直面しておられる方々がおられます。そのおひとりびとりが神さまの愛と恵みを信じておられます。それはあきらめということとはまったく違います。あきらめからは喜びは生まれてきません。しかし、神さまの愛と恵みを信じることからは喜びが生まれてきます。そのような厳しい状況の中にあっても、神さまの一方的な愛と恵みによって、神さまのものとしていただいていることへの確信だけは揺るぐことがなく、そのことへの喜びを、日々に新しくしていただいているということです。 また、神さまを自分の思いや願いに従わせようとはしないといっても、神さまに祈らないということではありません。私たちはそれぞれが自分と信仰の家族のために祈ります。その時には、私たちの願いを率直に神さまに申し上げます。そして、神さまがその祈りに耳を傾けてお聞きくださっていると信じて祈ります。 私たちにとっていちばん大切なことは、この神さまとの交わりです。 私たちにとって、愛する人とのかかわりにおいていちばん大切なのは、その人自身です。それで、その人ともにあることが喜びであり、その人と語り合ってともに時を過ごすことが喜びです。それと同じように、私たちにとっては、神さまの愛と恵みを信じて、神さまと語り合って、ともに時を過ごすことがいちばん大事なことなのです。そして、神さまの愛と恵みを信じていますので、すべてのことを神さまにお委ねすることができます。それで、神さまを自分の思いに従わせようとすることはしないのです。 もちろん、神さまとの関係を初めからこのように受け止めることができるわけではありません。神さまとの交わりを続ける中で、少しずつ分かるようになっていくものです。 イエス・キリストの、 柔和な者は幸いです。 という教えの「柔和」であることにおいては、人に対する姿勢と神さまに対する姿勢は深くつながっています。なぜ、どのようなときにも、人に対して悪意や復讐心を抱かず、人を傷つけるくらいなら、自分の権利さえも差し控えてしまうかと言いますと、神さまと神さまの愛と恵みを信じているからです。そして、神さまがすべてのことを治めておられることを信じているからです。 それにしても、どうして神さまの愛と恵みを信じることができるのでしょうか。また、人間がそのように安易に、神さまの愛と恵みを信じていると言い切ってもいいのでしょうか。 私たちが神さまの愛と恵みを信じているのには、確かな理由あるいは根拠があるのです。ただし、その理由あるいは根拠は私たち自身のうちにはありません。もし、私たちによいところがあるので、それを神さまが認めて私たちを愛してくださり、私たちに対して恵み深くあられるというのであれば、私たちは神さまの愛と恵みを信じることはできなくなります。なぜなら、神さまは私たちのうちにある醜い思いや、私たちがなしたさまざまな恥ずべきこともすべてお見通しであるからです。人には隠すことができても、神さまには何も隠すことはできません。ヘブル人への手紙4章13節に、 造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。 と記されているとおりです。 もし、神さまの愛と恵みが私たちのよさを条件として与えられるとしたら、私たちには神さまの愛と恵みを受ける資格はありません。しかし、神さまは私たちのよさに基づいて私たちを愛してくださっているのではありません。ローマ人への手紙5章6節ー8節には、 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 と記されています。 ここでは、神さまが私たちを愛してくださったこと、また、今も愛してくださっていることが示されています。その神さまの愛は「キリストが私たちのために死んでくださったことにより」示されていると言われています。これは、言うまでもなく、イエス・キリストが十字架にかかって死なれたことを指しています。そして、その十字架の死は「私たちのため」であったというのです。一体どういうことでしょうか。 聖書は、神さまが私たち人間を含めてこの世界のすべてのものをお造りになったとあかししています。それとともに、すべての人が神さまに対して罪を犯したことを明らかにしています。そして、そのために、すべての人は罪に対するさばきを受けて死ぬべき者となったことを明らかにしています。神さまは聖なる方であり、義であられます。それで、神さまはすべての罪をおさばきになって完全に清算されます。これが神さまのみことばが明らかにしている、人間の現実です。これは、いわば、「専門家による診断」に当たるものです。 これに対して神さまは、ご自身の御子を私たちのための贖い主として備えてくださいました。その約束は、旧約聖書の示すところでは、人が造り主である神さまに対し罪を犯した直後に与えられています。そのことは、歴史が進んでいくにしたがって、より詳しく説明されていきました。そして、今から2千年前に、神さまはご自身の御子を贖い主としてお遣わしになりました。御子イエス・キリストは地上の生涯の最後に十字架におかかりになりました。そのとき、神さまは私たちの罪に対するさばきをすべて御子に対して執行されました。それによって、私たちの罪は完全に清算されたのです。これが、 私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 というみことばが意味していることです。 ここで、 キリストが私たちのために死んでくださった と言われていることは、過去のことで、今から2千年前に起こったことを指しています。しかし、 神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 と言われていることは、現在のことを示しています。神さまは私たちを愛してくださって、私たちのためにご自身の御子をお遣わしになりました。そして、十字架において、私たちの罪に対するさばきを御子に執行されました。そのことによって、神さまの私たちに対する無上の愛が示されましたが、今も、そのことに表された愛とまったく同じ愛によって、私たちに対する愛を示しておられるというのです。 神さまが私たちを愛して、御子を遣わしてくださったときの私たちの状態は、「私たちがまだ弱かったとき」とか「私たちがまだ罪人であったとき」と言われています。神さまがご覧になったとき、私たちにはよいところはなかったのです。その愛は、愛するに値しないものに対する一方的な愛です。 これと同じことは聖書のそこかしこに記されていますが、もう一つヨハネの手紙第一・4章9節、10節を見てみましょう。そこには、 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。 と記されています。 このような神さまの一方的な愛に基づいて、神さまが御子イエス・キリストの十字架の死によって成し遂げてくださった罪の贖いに私たちをあずからせてくださり、私たちを死と滅びから救い出してくださったことが、神さまの恵みです。 このように、神さまの私たちに対する愛と恵みは御子イエス・キリストの十字架の死によってこの上なく豊かに示されています。イエス・キリストの十字架の死は、決して、人間の想像の産物ではありません。旧約聖書をとおして一貫して預言され、約束されてきたことであり、今から2千年前に、実際に、歴史の事実として起こったことです。私たちはこのことに基づいて、神さまの愛と恵みを信じています。そして、この神さまの愛と恵みを信じているので、あらゆることを神さまの愛と恵みの御手にお委ねすることができるのです。 イエス・キリストは私たちのために十字架にかかって死んでくださっただけではありません。十字架にかかって死んでくださって、私たちの罪をすべて完全に清算してくださった後、死者の中からよみがえってくださいました。それは、単なる蘇生ではありません。復活のいのちによみがえられたのです。この復活のいのちを「永遠のいのち」と呼びます。 イエス・キリストが死者の中からよみがえってくださったのも、私たちのためでした。私たちをご自身の復活のいのちで生かしてくださるためであったのです。ローマ人への手紙6章4節、5節には、 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマ[洗礼のことです]によって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。 と記されています。 今日の「聖書朗読」のみことばはコリント人への手紙第二・5章17節ー21節でした。その17節には、 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。 と記されていました。これは天地創造の御業を遂行された神さまが同じ全能の御力を働かせて私たちを新しく造り直してくださっていることを示しています。 いくら神さまが全能であっても、罪を清算しないままに、人を新しくすることはできません。それは、そのようにする力がないという意味ではなく、そのようなことをしてはならないという意味です。殺人者を罪を償わせないままに社会復帰させてはならないのと同じです。ここでは、 だれでもキリストのうちにあるなら、 と言われています。神さまは御子イエス・キリストの十字架の死によって私たちの罪をすべて完全に清算されたので、その全能の御力によって、私たちを新しくお造りになったという意味です。その際に、私たちはイエス・キリストの復活のいのちによって生かされるようにしていただいているということが、先ほど引用しました、ローマ人への手紙6章4節、5節のみことばに示されていました。 実は、このイエス・キリストのいのちの特質の一つが「柔和」であるのです。 新約聖書では、この「柔和な」と訳されていることば(プラユス)は、この個所を入れて、4回しか出てきません。そのうちの3回は同じマタイの福音書に出てきます。今取り上げている5章5節以外には、11章29節(新改訳では、「心優しい」と訳されています)と21章5節です。この二つとも、イエス・キリストが「柔和な」方であられることを示しています。 使徒ペテロは、ペテロの手紙第一・2章22節ー24節において、イエス・キリストの生涯を要約して、 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。 と述べています。 イエス・キリストは地上の生涯において、人々から排斥され、ついには十字架につけられて殺されました。そうであるからと言って、その人々に悪意と復讐心をもって臨まれたのではなく、神さまにすべてをお委ねし、むしろ、その人々の敵意をもお用いになって、十字架にかかって、私たちの罪を贖うための御業をなしてくださいました。イエス・キリストの十字架においては、イエス・キリストを排除しようとしている人々の思惑だけでなく、それを越えた神さまのみこころが働いていたのです。このようにして、永遠の神の御子であられ、ご自身全能の神であられる方が、私たち人間の思いを越えた仕方で、私たちのために贖いの御業を成し遂げてくださいました。このことに、イエス・キリストが「柔和な」方であられることが、この上なく鮮明に示されています。 このイエス・キリストの復活のいのちが、キリストにあって新しく造られた私たちを生かすようになります。そのようにしてイエス・キリストの復活のいのちに生きるようになる人は、イエス・キリストが「柔和な」方であられるように「柔和な者」になります。それは、自分の力で自分を変えることではなく、神さまがその全能の御力によって私たちを新しく造り変えてくださることによっています。 イエス・キリストは、 柔和な者は幸いです。 と教えておられますが、これは「柔和な者」になりなさいという命令ではありません。むしろ、イエス・キリストがご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、私たちを「柔和な者」に造り変えてくださいます。これは「柔和な者」に限りません。イエス・キリストの八つの教えに示されている「幸い」な人のすべてに当てはまります。イエス・キリストはご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて、私たちを神の国の尺度で見た「幸い」な人、真に「幸い」な人としてくださるのです。 |
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