キリストの平安

説教日:2007年4月29日
聖書箇所:ヨハネの福音書14章25節〜31節


 ヨハネの福音書14章27節には、

わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。

というイエス・キリストの教えが記されています。これはイエス・キリストが十字架につけられて殺される前の日の夜に弟子たちとともに過越の食事をさた時に、弟子たちに対して語られた教えです。
 続く28節で、

「わたしは去って行き、また、あなたがたのところに来る。」とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。

と言われていますように、イエス・キリストは、すでにご自身が間もなくこの世を去ることになることを弟子たちに告げておられました。そして、残されることになる弟子たちに、

わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。

と言われたのです。
 イエス・キリストは私たちご自身の民の罪を贖ってくださるために、十字架にかかって、私たちの罪に対する刑罰を私たちに代わって受けてくださいました。それによって私たちの罪は完全に贖われています。私たちの罪に対する刑罰は、イエス・キリストの十字架において執行されて終っています。それで、私たちはこの後、決して罪の刑罰としてのさばきを受けることはありません。このように、イエス・キリストの十字架において、私たちの罪に対する最終的なさばきが執行されています。そして、イエス・キリストは私たちの罪がもたらす地獄の刑罰を私たちに代わって受けてくださいました。ですから、イエス・キリストにとって、この世を去ることは、私たちすべてに代わって、無限の苦しみを伴う地獄の刑罰をお受けになることを意味していました。
 ここには、ある種の対比があります。イエス・キリストは弟子たちを残して去って行かれます。ここには、去って行く者と残される者があります。去って行かれるイエス・キリストは十字架の上で弟子たちに代わって無限の苦しみをお受けになります。その一方で、残される弟子たちにはイエス・キリストが言われる「わたしの平安」が与えられるのです。


 このイエス・キリストの教えはイエス・キリストが十字架につけられる前の日の夜の過越の食事の席で語られたものです。過越の祭りは、その昔、モーセの時代に主が力強い御手をもって、イスラエルの民をエジプトの奴隷の身分から解放してくださったことを記念し、記憶するためのものです。主はイスラエルの民を奴隷として苦役に就かせていたエジプトに、順次、十のさばきを下されました。さばきが積み上げられていってもエジプトの王パロはイスラエルの民を去らせることはありませんでした。そして、最後に十番目のさばきとして、主はエジプトの地にいるすべての初子を撃たれました。それに先だって主は、イスラエルの民にそのための備えを示されました。出エジプト記12章2節〜7節には、

この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。イスラエルの全会衆に告げて言え。この月の十日に、おのおのその父祖の家ごとに、羊一頭を、すなわち、家族ごとに羊一頭を用意しなさい。もし家族が羊一頭の分より少ないなら、その人はその家のすぐ隣の人と、人数に応じて一頭を取り、めいめいが食べる分量に応じて、その羊を分けなければならない。あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。そしてイスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり、その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。

と記されています。さらに12節〜14節には、

その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは主である。あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。この日は、あなたがたにとって記念すべき日となる。あなたがたはこれを主への祭りとして祝い、代々守るべき永遠のおきてとしてこれを祝わなければならない。

と記されています。
 エジプトの地にあるすべての初子が撃たれたとき、過越の子羊の血が門柱と鴨居に塗ってある家のうちにある初子は撃たれることがなかったのです。それは、その家ではすでにさばきが執行されていると見なされたからです。つまり、過越の子羊がその家の初子の身代わりとなっていのちを血を流したということです。この過越の子羊はイエス・キリストを指し示していました。イエス・キリストはこの過越の子羊の成就として来られ、十字架にかかって、私たちの罪に対するさばきを私たちに代わって受けてくださいました。イエス・キリストが過越の食事の席で弟子たちに、

わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。

と言われたのは、過越の子羊の本体として、私たちの罪に対するさばきを、私たちに代わって受けてくださることと深く関わっています。
 イエス・キリストは、

わたしは、あなたがたに平安を残します。

と言われました。この「平安」という言葉は、ギリシャ語では、エイレーネであり、ヘブル語では、シャロームです。この言葉は、私たちの内側にある「平安」だけではなく、私たちの外側の状態である「平和」をも意味しています。
 言葉としましては、エイレーネも、シャロームも、「平安」と「平和」の両方の意味を持っていますが、この二つの言葉を使う人々の文化的な背景による発想の違いによって、そこにはニュアンスの違いがあります。ギリシャ的な発想によるエイレーネは、波風の立っていない状態にあることによる平和、平安です。争いがないから平和であり、心配事がないから平安であるということです。私たち日本人も、これと同じような発想を持っています。
 これに対して、ヘブル的な発想によるシャロームは、波風が立っている、立っていないに関わりなくある、平和であり平安です。それは、神さまが私たちとともにいてくださることによってもたらされる平和、平安です。たとえ嵐のような人生を歩むとしても、主がともにいてくださるなら、そこにはシャロームとしての平和、平安があるのです。たとえ憂いのない人生を歩んでも、主がともにおられないのであれば、そこには、シャロームとしての平和、平安はありません。聖書が示している「平和」や「平安」は、この意味におけるシャロームです。ここでイエス・キリストも、この意味での「平安」のことを語っておられます。
 イエス・キリストは、

わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。

と言われました。
 ここでは、イエス・キリストが与えてくださる「平安」について、二つのことが言われています。
 一つは、イエス・キリストは、単なる「平安」を与えてくださるのではなく、ご自身の「平安」を与えてくださるということです。もう一つは、その「平安」は、この世が与えるものとは違うものであるということです。

わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。

という言葉では、「わたしの」という言葉が強調されています。まさに、それがイエス・キリストの「平安」であるからこそ、この世が与える平安とは違うのです。ですから、イエス・キリストが与えてくださる「平安」の特質は、それが、イエス・キリストが「わたしの平安」と呼ばれる、イエス・キリストの「平安」であることにあります。
 この「わたしの平安」とは、メシヤであるイエス・キリストによって生み出され、与えられる「平安」のことです。先ほどお話ししたことに合わせて言いますと、過越の子羊の本体として来られて、十字架にかかって私たちの罪の贖いを成し遂げてくださったイエス・キリストによってもたらされる、「平安」のことであり「平和」のことです。
 これにはいくつかの面があります。それが永遠に続「平安」、「平和」であること、さらには、全被造物に及ぶ「平和」であることなどが考えられるのですが、ここでは、その中心にあることだけに焦点を当ててお話しします。
 この世には、不信、憎しみ、分裂、争いがあります。一般には、このようなものが私たちに不安をもたらすのであると考えられています。確かにそのような面があります。しかし、これらの不信、憎しみ、分裂、争いは、私たち人間自身のうちにある罪が生み出しているものです。罪の本質的な特質である自己中心性が不信、憎しみ、分裂、争い生み出します。不安の根本原因は私たち自身のうちにあるのです。
 また、この不安の反対である「平安」、「平和」もこの世では、しばしば、他の人々の犠牲の上に成り立っています。はなはだしくは、とはいえ決して珍しいことではありませんが、他の人々の不幸を見て、自分は幸せであると感じることさえあります。美食飽食を満喫して、幸せであると感じている人々の陰で、多くの人々が飢えに苦しみ、毎日多くのいのちが失われています。富を豊かに蓄えているからということで安心している人々の陰で、極貧の生活にあえいでいる人々のうめきが天に届いています。イエス・キリストの時代の、パックス・ロマーナ(ローマの平和)は、武力蓄積の上に成り立っていました。その支配の下で、多くの民族が犠牲となりました。
これに対して、イエス・キリストが与えてくださる平和は、あくまでも、ご自身の十字架の死による罪の贖いに基づくものです。それは、他の人々の犠牲の上に成り立つものではなく、栄光の主であられるイエス・キリストご自身が貧しくなられて、ご自身のいのちを捨ててくださったことによってもたらされた「平安」、「平和」です。イエス・キリストは誰かを犠牲にして私たちに「平安」、「平和」を与えてくださるのではありません。
イエス・キリストが来られる700年ほど前の預言者であるイザヤは、イザヤ書53章5節で、イエス・キリストのことを預言して、

 しかし、彼は、
 私たちのそむきの罪のために刺し通され、
 私たちの咎のために砕かれた。
 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
 彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

と述べています。これは完了時制で過去のことのように表されています。これは「預言的完了時制」と呼ばれるもので、神さまの預言がすでに起ったことと同じように確かなことであることによっています。

 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
 彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

と言われていますが、イエス・キリストは、「平安」、「平和」のためという名目で他の人を犠牲にすることはありませんでした。それは、イエス・キリストのうちに自己中心性を本質とする罪がなかったからです。イエス・キリストは、栄光の主でありながら、すべての人より低く下られて、すべての人のために「平安」、「平和」を生み出してくださいました。
 このように、私たちの間の不信、憎しみ、分裂、争いは、私たち自身の罪から生まれます。イエス・キリストは、その罪を贖って、不信、憎しみ、分裂、争いの素を断ち切ってくださいました。
さらに、私たちの不安には、私たちの間にある不信、憎しみ、分裂、争いよりもはるかに深い根があります。最も深い不安は、人の罪によって造り主である神さまとの関係が損なわれていることから生まれてきます。そこから死と滅びへの恐怖が生み出され、それが不安を生み出しています。聖書は、死は人間が造り主である神さまに対して罪を犯したために、罪への刑罰として人間に入ってきたものであると教えています。つまり、人間は死ぬべきものとして造られてはいないし、死は人間にとって自然なものではないということです。
 もし人間が死ぬべきものとして造られているとしたら、人間が死ぬことは自然なことであり、避けられないことです。けれども、神さまの御言葉である聖書は、人は造り主である神さまに対して罪を犯して、神さまの御前に堕落したことによって、死の力に捕えられたと教えています。ローマ人への手紙6章23節には、

 罪から来る報酬は死です。

と記されています。
 それで、もし私たちの罪が完全に清算されることがあるなら、私たちは死の力から解き放たれることになります。神さまはまさにこのことを私たちのために実現してくださいました。そのために、ご自身の御子を私たちの贖い主として立ててくださり、実際に、今から2千年前に遣わしてくださいました。先ほど引用しましたローマ人への手紙6章23節には、

 罪から来る報酬は死です。

と記されていました。これは前半の引用です。全体としては、

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

と記されています。死は人間が造り主である神さまに対して罪を犯してその「報酬」として受けるものです。しかし、神さまはそのように罪のために死すべき者であった私たちのために「永遠のいのち」を与えてくださいました。それは、私たちが働いて獲得するものではなく、「神の下さる賜物」として、信仰によって受け取るものです。
 過越の子羊の本体として来てくださったイエス・キリストは、私たちの身代わりとなって十字架にかかって死んでくださいました。それはただの死ではありません。イエス・キリストは私たちの罪に対する聖なる神さまの御怒りによる刑罰をその身に負って死んでくださったのです。イエス・キリストはこのことによって、私たちの罪をまったく贖ってくださり、私たちを死と滅びの道から贖い出してくださいました。ローマ人への手紙4章25節、5章1節には、

主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

と記されています。また、5章8節〜11節には、

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。

と記されています。
         *
聖書が言う「平安」、「平和」は、突き詰めていくと「神との平和」です。なぜなら、私たちの不安の根本原因は私たち自身の罪であり、その罪に対する神さまの聖なる御怒りによる刑罰としての死であるからです。そのような私たちのために神さまは贖い主として御子を遣わしてくださり、御子の十字架の死によって私たちを死と滅びの道から贖い出してくださいました。そのようにして、御子イエス・キリストが私たちの不安の根本原因を取り除いてくださいました。イエス・キリストが、

わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。

と言われたのは、このことによっています。
 この世における「平安」は気持ちの持ち方次第というような面があります。しかし、イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださったことは、今から2千年前に起った歴史の事実です。ですから、私たちのための罪の贖いも歴史的な事実として成し遂げられています。このことに基づく「平安」、「平和」は、気持ちの持ち方次第というようなものではありません。
 さらに、このことから派生して考えられることがあります。私たちがイエス・キリストの十字架の死による罪の贖いのうちにあるということは、私たちがこの世において経験するさまざまな苦しみや痛みは、さらには肉体的な死さえも、もはや罪に対するさばきとしての意味を持ってはいないということを意味しています。私たちは自分が経験する痛みや苦しみの中に、さばきとしての死の影を感じ取って不安に駆られる必要はありません。
 イエス・キリストの十字架の死によって罪を贖われている者は、死と滅びの恐怖から解放されているだけではありません。マタイの福音書10章28節には、

からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

というイエス・キリストの教えが記されています。言うまでもなく、「たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方」とは、神さまのことです。ちなみに、「ゲヘナ」とは地獄のことです。神さまは人間のすべての罪を、ご自身の義と聖さの尺度にしたがって、きっちりとおさばきになります。聖なる神さまこそが真に恐るべき方であるのです。
 けれども、先ほど引用しましたローマ人への手紙5章11節には、

そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。

と記されています。イエス・キリストの十字架の死によって私たちの罪は完全に贖われています。それは、8節で、

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

と言われている通り、神さまの一方的な愛によっています。その神さまの愛を受けて、

私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。

と告白されています。
 イエス・キリストが与えてくださる「平安」、「平和」は、罪へのさばきとしての死と滅びという不安の種が取り除かれたところに成り立つのですが、それだけのものではありません。より積極的に、神さまの愛に包まれて神さまご自身を喜ぶところにある「平安」、「平和」です。それで、これは永遠のいのちにある「平安」、「平和」です。
 私たちのための「過越の子羊」となられたイエス・キリストは、私たちにこのように確かな「平安」、「平和」を与えてくださいます。


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