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説教日:2002年5月26日 |
けれども、もし、動いているものはみな止まり、生きているものはみな死に、永遠の静寂だけが残るというのであれば、この世界は永遠の静寂に向かって一方通行をしているということになります。まさに、それが「エントロピー増大の法則」です。そうしますと、一つの大きな疑問が出てきます。それでは、そもそもどうしてこの世界がこのようであるのかという疑問です。この世界を根本的に律しているのが、最後にはすべてのものの死滅に至る不可逆的な動きであるというのであれば、この世界にさまざまな形の秩序があり、そのもっとも複雑で不思議な秩序であるいのちのあるものが存在しているのはどうしてなのかという疑問です。 動いているものはみな止まり、生きているものはみな死んでしまい、永遠の静寂だけが残るということが、この世界の根本的で最終的な真相であるのであれば、この世界に秩序があり、いのちのあるものが存在しているということは、その「根本的で最終的な真相」に反することが、かつて起こったということをあかししています。そうしますと、動いているものはみな止まり、生きているものはみな死んでしまい、永遠の静寂だけが残るということは、この世界の根本的で最終的な真相ではないということになります。 ですから、動いているものはみな止まり、生きているものはみな死んでしまい、永遠の静寂だけが残るというのは、この世界の根本的で最終的な真相なのではなく、それは、この世界にいま起こっていることを突き詰めているだけのことです。しかし、この世界に秩序がありいのちのあるものが存在しているということは、そのようなことを越えるこの世界の真の真相があるということを物語っています。そのことについて聖書は、無限、永遠、不変の存在である神さまがこの世界をお造りになったとあかししています。 先ほどの「エントロピー増大の法則」も、この物質的な世界に当てはまる法則ですし、それには「閉じられた系においては」という条件、つまり、外からの働きかけがなければという条件がついています。これは、外からの働きかけがないのに、この物質的な世界(宇宙)が自然と秩序立てられていくというようなことはないということです。「エントロピー増大の法則」はこの物質的な宇宙全体に当てはまりますが、この物質的な世界を越える神さまが存在するかどうかについての判断をするものではありません。しかし、すでに、この世界にはさまざまな形の秩序があり、いのちのあるものが存在していることは、そこに外からの働きかけがあったという方向を示しています。 ですから、いま私たちが目にしている物事だけを見ていますと、動いているものはみな止まり、生きているものはみな死んでしまう。最後には永遠の静寂があるだけであるということがこの世界の「根本的で最終的な真相」であるかのような気がしてきます。そこには、ただ、「いのちから死へ」の道しかないように見えます。しかし、聖書は神さまがこの世界のすべてのものをお造りになったとあかししています。それは、無からこの世界をお造りになった御業です。いのちのなかったところにいのちを造り出された御業です。 この世界の根本的で最終的な真相が、この世界が無限、永遠、不変の神さまによって造り出されたということにあるのであれば、この世界にさまざまな形の秩序があり、いのちのあるものが存在していることもうなずけます。また、そうであれば、「死からいのちへ」という方向もあながち無理なことではないということになります。 ヨハネの福音書5章26節には、 それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。 というイエス・キリストの御言葉が記されています。 これは、ヨハネの福音書の序論の一部である1章1節〜4節に、 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。 と記されていることにつながっています。 この1章1節〜4節では、永遠の神の御子イエス・キリストが、この世界のすべてのものをお造りになった「ことば」として紹介されています。 イエス・キリストは、無限、永遠、不変の神であられる方です。そして、この世界の「すべてのもの」をお造りになった方として、「すべてのもの」を支えておられます。私たちは、神さまがお造りになったこの世界の本当に多くのものに支えられています。そして、その私たちを支えているものも含めて、この世界のすべてのものを支えておられるのは造り主である神さまです。具体的には、父なる神さまが、御子によってこの世界の「すべてのもの」をお造りになり、御子によって支えておられるのです。この世界をお造りになった御子は、この世界の「すべてのもの」を支えておられますが、ご自身は何ものによっても支えられてはいません。それが、 この方にいのちがあった。 という御言葉の意味するところです。 イエス・キリストは、「すべてのもの」をお造りになって、支えておられる永遠の神の御子として、ご自身のうちにいのちをもっておられます。そして、ご自身がお造りになったいのちあるもののいのちを支えておられます。イエス・キリストは、いのちあるものとして造られたもののいのちの源であり、そのいのちを支える土台です。 それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。 という御言葉は、そのように、無限、永遠、不変のいのちそのものであられるという点では、御子イエス・キリストは、御父と同じであるということを示しています。(難しい話になりますが、これは、御子の永遠のあり方を示すものであって、時間の中のある時から、御子がこのようになったということを示すものではありません。) このイエス・キリストの御言葉は「それは」という言葉から始まっています。これは、その前の24節、25節で言われている、 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。 ということの理由や根拠を述べるものです。 この世界にいのちを造り出すことができた方、そのいのちをいのちとして支えておられる方は、ご自身が無限、永遠、不変のいのちそのものであられる方です。また、もし、死んでいるものを生かすことができる方がおられるとしたら、それも、ご自身が無限、永遠、不変のいのちそのものであられる方です。イエス・キリストは、まさにそのような方であられるというのが、 それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。 という御言葉の意味するところです。 先ほどお話ししました、死についてご質問くださった方々のお一人は、「クリスチャンになれば死の恐怖を克服することができるのでしょうか。」と質問してくださいました。そのことについてお話ししたいと思いますが、そのことについてお話しするに当たって、分かり切ったことですが、死の恐怖を克服することと、死を克服することは別のことであるということをはっきりさせておきたいと思います。 死の恐怖を克服するということは、あくまでも私たちの感じ方の問題です。それは、何らかの方法によって、死をこわいと感じなくなるということであって、死そのものの克服ではありません。さまざまな宗教は、この意味での悟りや解脱を図ります。死は避けられないけれども、死についての考え方や感じ方は変えることができるということから、死についての考え方と感じ方を変える道を示しているのです。 このように、さまざまな宗教は、死についての考え方と感じ方を変えることによって、死を恐ろしいものと感じなくなるような道を示します。しかし、それは、死そのものの克服ではありません。これに対して、聖書が示している救いは、十字架にかかってご自身の民の罪の贖いを成し遂げられ、3日目に死者の中からよみがえられたイエス・キリストにあっては、死そのものが克服されているという、歴史的な事実をあかししています。確かに、聖書に示されている救いにも、死についての考え方や感じ方を変えるという一面がありますが、それは、イエス・キリストにあって死そのものが克服されているということに基づいて、死についての考え方や感じ方が変わるというということです。 「クリスチャンになれば死の恐怖を克服することができるのでしょうか。」ということについてですが、クリスチャンは死のことを何とも思わないということではありません。死を前にしても動じないということではありません。それは、さまざまな宗教が追い求めている道です。むしろ、クリスチャンは死の本当の恐ろしさを知っています。それで死を恐れます。しかし、そうであるにもかかわらず、安心しているのです。このことにはいくつかのことがかかわっています。 まず、人が死を恐れるのは、死が、ただ単に存在がなくなることではないということを、心の奥深くで感じ取っているからだと思われます。誰にでも分かることは、死は、愛する人々から切り離されてしまうことです。また、多くの人にとって、死んだ後のことは真っ暗やみのように分からないものです。愛する人々から切り離されてしまうことの悲しみや、真っ暗やみのような不気味さに対する不安の方が、肉体的に死ぬことそのものよりも恐ろしいということもあります。 さらに、死を恐れさせるものがあります。それは、ただ単に、死んだ後のことは真っ暗やみのように分からないという以上に、人間は、ヘブル人への手紙9章27節に、 人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている と言われていることを心の奥深くで感じ取っているということです。また、今日のテキストである、ヨハネの福音書5章27節〜29節には、より具体的に、 また、父はさばきを行なう権を子に与えられました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。 と記されています。 この、 人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている ということこそが、人が死を恐れる最大の理由です。それで、さまざまな宗教が死の恐怖をなくすように道を示すときには、二つの道を取ります。 一つは、そのようなさばきはないというように信じさせる道です。死ぬということは自然なことであり、ただ無に帰するだけである。だから何も恐れることはないのだ、と教えるのです。 しかし、もし死がそのように自然のものであるのであれば、どうして人間はこれほどまでに死ぬことを恐れるのでしょうか。どうして、その恐れを取り除くために、修業をしたりしなければならいのでしょうか。あるいは、仕事や娯楽に忙しく立ち回って、死を見つめないように務めているのでしょうか。 もう一つの道は、 善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。 というイエス・キリストの御言葉に示されている死後のさばきを、漠然とではありますが認めます。その上で、自分はこのように良いことをしてきたと言って、自分の良心を静めようとすることです。中には、功徳を積むために修業をしなさいと教えるものから、ひどいものになると、教団にお金を払いなさいと教えるものまであります。 しかし、イエス・キリストは「善を行なった者は」と言っておられますが、神さまに認められる「善」は、人間の考える基準に照らした「善」ではありません。神さまの絶対的に聖い御目から見た「善」のことです。その第一条件は、造り主である神さまの愛を受け止めるとともに、神さまを、完全な愛をもって愛することです。しかも、一時期のことではなく、生涯をとおして変わることなく愛することです。その愛の表現としてなされるさまざまな活動や働きが「善」を行なうことであるとされます。そのような「善」は、自らのうちに罪を宿している人間からは生まれてきません。 さらに、イエス・キリストは「悪を行なった者は」とも言っておられます。絶対的に聖い神さまの御前に、一つも悪を行なわなかったと、堂々と言える人はどこにもいません。それ以上に、罪に縛られている人間は、造り主である神さまを神として愛することもありません。残念ながら、すべての人は、「悪を行なった者」に入ってしまいます。 このような形で、死から目をそらすことや、神さまの御前に自分を飾り立てることには本当の解決はありません。そうであれば、死そのものを見つめてみたらどうでしょうか。しかも、人間の目をとおしてではなく、神さまの御言葉である聖書の光に照らして見てみたらどうでしょうか。 聖書は、人間のいのちには三つの面があることを教えています。 一つの面は、「肉体的ないのち」ですが、一般にはこれをいのちと呼んでいます。 実際には、これは、肉体と霊魂が結びついて、思いと言葉と行ないにおいて、さまざまな活動することに現われてくるいのちです。それで、これを「肉体的ないのち」と呼ぶことには語弊がありますが、話を分かりやすくするために、そのように呼んでおきたいと思います。 これとともに、聖書は、「神のかたち」に造られた人間は、神さまに向けて造られていて、神さまとの愛の交わりに生きるものであると教えています。このように、神さまとの交わりに生きるいのちを「霊的ないのち」と呼びます。それは、造り主である神さまとの結びつきによるいのち、より積極的には、造り主である神さまとの愛の交わりに生きるいのちです。人間は、初めから、このような「霊的ないのち」に生きるものとして、「神のかたち」に造られました。 「神のかたち」に造られている人間に「肉体的ないのち」と「霊的ないのち」の二つのいのち、あるいは、二種類のいのちがあるということではありません。人間のいのちは一つですが、それに二つの側面があるということです。本来の人間のいのちは、神さまとの愛の交わりの中にあって、肉体と霊魂の結びつきによって、さまざまな活動をするいのちです。それで、「神のかたち」に造られている人間の本来のあり方は、肉体と霊魂の結びつきによってさまざまな活動をするいのちが、神さまの愛を受け止め、神さまを愛することを根本的な動機として働くことにあります。 さらに、「神のかたち」に造られている人間は、その霊的ないのちの完成としての「永遠のいのち」をもつべきものに造られました。これは、天地創造の初めに人間が「神のかたち」に造られたときに与えられたものではなく、人間が地上の生涯において、神さまとの完全な愛の交わりの中に生きることをとおして、獲得していくべきものでした。 天地創造の初めに「神のかたち」に造られた人間は、このようないのちを与えられていました。しかし、人間は、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、このいのちを失ってしまいました。 人間が「肉体的に」死ぬものとなってしまったことは、改めて説明するまでもありません。 そればかりでなく、人間は、霊的ないのちをも失ってしまいました。それが「霊的な死」です。それは、造り主である神さまとの愛の交わりを失ってしまったということです。そればかりか、自らの罪の罪責を背負っているものとして、聖なる御怒りの下にあって、さばきを受けるばかりのものになってしまっているということです。 人間は、造り主である神さまに対して罪を犯して、霊的に死んでしまったことによって、「永遠のいのち」に至ることもできなくなってしまいした。人間は霊的に死んでも、肉体的にしばらく生きています。それは、たとえて言いますと、燃料の切れた飛行機が空中を滑空しているようなものです。その姿は、空を飛んでいるように見えます。しかし、その本当の姿は、地上に落ちて行く姿です。 罪によって霊的に死んでいる人間 聖書は、「神のかたち」に造られている人間の死は、造り主である神さまに対する罪の結果であると教えています。実は、そこに、神さまの一方的な恵みが働く余地がありました。もし人間がもともと死ぬものであったのであれば、人間が人間である以上、死ぬほかはありません。そこには、「いのちから死へ」の道しかないということになります。しかし、人間の死は、人間の罪に対するさばきによってもたらされたものです。そうであれば、その罪が赦されることがあるなら、人間は死の力から解放されることもあります。 事実、神さまは、人間が罪を犯して御前に堕落してしまった直後に、救い主を約束してくださいました。それは、決して人間の権利ではなく、神さまの一方的な恵みによることです。そして、今から2千年前に、その約束の救い主が来られて、ご自身の民の罪に対するさばきを、ご自身が身代わりとなって受けてくださいました。それが、イエス・キリストの十字架です。 イエス・キリストの十字架は、物語の世界の出来事ではなく、今私たちが生きている歴史の中で起こった出来事です。神さまは、贖い主がご自身の民のために身代わりの死を死なれるということと、それによって、ご自身を信じるものを死と滅びの中から贖い出してくださるということを旧約聖書をとおして預言していてくださいました。ですから、これは後からこじつけたものではありません。 今日のテキストであるヨハネの福音書5章24節に、 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。 と記されているのは、それがイエス・キリストにあって実現していることをあかししています。 イエス・キリストは、 この方にいのちがあった。 とあかしされている無限、永遠、不変のいのちそのものであられる方です。ですから、いのちのないところにいのちを造り出すことのおできになる方です。しかし、そのような力のある方であっても、造り主である神さまに対して罪を犯してしまい、そのさばきとしての死を刈り取るべき人間を、そのままでいのちに生かすことはおできになりません。それでは、神さまの義が立ちません。 この方にいのちがあった。 とあかしされている永遠の神の御子は、私たちを再びいのちに生かしてくださるために、私たちと同じ人の性質を取ってきてくださり、十字架にかかって死んでくださって、私たちの罪をまったく清算してくださいました。さらに、ご自身の十字架の死によって罪の力を打ち砕いてくださったイエス・キリストは、3日目に、死者の中からよみがえってくださいました。これによって、死の力も打ち砕かれて、まさに、「死からいのちへ」の道が開けたのです。 ヨハネの福音書11章25節、26節に記されていますように、イエス・キリストは、 わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。 とあかししておられます。 クリスチャンは、自分が罪あるものであり、罪を犯すものであることを知っていますし、罪が造り主である神さまの御怒りを引き出し永遠の死に値することを知っています。それで、本当の意味で死を恐れます。しかし、お母さんと一緒に道を歩いている子どもが、向こうから怖い犬が来ても、お母さんがそばにいるので安心するように、イエス・キリストが十字架にかかって自分の罪に対するさばきをみな受けてくださったことを、聖書の御言葉に基づいて信じているので、安心しているのです。 このように、クリスチャンは死に対して目をつぶって、死を忘れているので安心しているのではありません。死の事実と恐ろしさを知っているのですが、それ以上に、イエス・キリストの十字架の死による贖いの恵みを信じているので、安心しているのです。その安心には、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、神さまの救いの御業が歴史の中で実現しているという、確かな根拠があります。ですから、それは、さまざまな宗教のように、単に、死に対する考え方と心構えを変えるというようなことではありません。 クリスチャンは、死の恐ろしさから目をそらす必要はありません。死の恐ろしさによって脅迫されて生きることから自由にされています。ですから、死の恐ろしさから目をそらすために、忙しさで自分を追い立てたりするような必要はないのです。静まって、いのちをいのちとして見つめて生きることができます。何よりも、死の恐ろしさのために、神さまから目をそらす必要がありません。「死後のさばきなどはない、だから神もいない。」というようなことを自分に言い聞かせる必要はありません。それどころか、私たちの罪を贖うために御子イエス・キリストを遣わしてくださった神さまの愛を見つめます。それで、「神のかたち」に造られている人間の真のいのちが、造り主である神さまとの愛の交わりの中にあることを恐れなく受け止めることができます。クリスチャンは、生きていることの意味をまっすぐに見つめることができるのです。 最後に、ヨハネの手紙第一・4章9節、10節に記されている御言葉をお読みいたします。 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。 |
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