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説教日:2010年12月19日 |
マタイの福音書1章24節、25節に記されていることに戻ります。そこでは、 ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。 と言われていていました。 まず、 ヨセフは眠りからさめ、 と言われています。これは、20節、21節に、 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」 と記されていることを受けています。ここで、 彼がこのことを思い巡らしていたとき と言われているときの「このこと」とは、さらに、その前の18節、19節に、 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。 と記されていることを指しています。 ここでは、 その母マリヤはヨセフの妻と決まっていた と言われていますが、これは今日の婚約中であるということよりも深い結びつきを意味しています。これは当時の習慣として、結婚の第一段階と言うべきもので、ヨセフとマリヤは夫と妻と見なされるけれども、いまだ生活をともにしてはいない段階にあるということです。実際、18節ー25節の中ではヨセフは「夫」と呼ばれており、マリヤも「妻」と呼ばれています。 そのような状態にあって、マリヤは、 聖霊によって身重になったことがわかった。 と言われています。この場合、誰がわかったのかということが問題になることがあります。ここで、「わかった」と訳されていることばは(「見出す」ことを表すヘウリスコーの不定過去時制、受動態、3人称、単数で)、今日のことばで言えば「発覚した」というようなことに当たります。それで、これは特定の誰かにわかったということではなく、いわば、ヨセフを初めとする関係者にわかるようになったということであると考えられます。とはいえ、ヨセフを初めとする関係者にわかったのは、マリヤが「身重になったこと」であって、それが聖霊によることであるということまではわかりませんでした。 ルカの福音書1章26節ー38節に記されている記事から、マリヤには御使いガブリエルを通して、それが聖霊によることであるということが知らされていたこと、そして、マリヤがそのことを信じて、受け入れるとともに、このことから生じるであろう問題も含めて、すべてを主にお委ねしていたことがわかります。35節ー37節には、 御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは一つもありません。」 と記されており、38節には、 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。 と記されています。 しかし、ヨセフにはこのことは知らされていませんでした。それでヨセフは、マリヤが自分以外の男の子どもを宿したと考えました。ここで私たちは、どうしてマリヤは御使いガブリエルから伝えられたことをヨセフに伝えなかったのだろうかという疑問をもってしまいます。けれども、その当時の結婚の習慣からしますと、マリヤはせいぜい十代の後半の乙女であると考えられます。その乙女が、夢のようなことを言って、自分の罪の言い逃れをしているということで、とてもそのことを信じてはもらえなかったことでしょう。マリヤはそのようなことをわきまえていたのでしょう。それで、マリヤは文字通り、すべてのことを主にお委ねして、ひたすら主を待ち望んでいたのだと考えられます。 とはいえ、マリヤはまったく孤立していたのではありません。御使いガブリエルによって、同じく主の恵みにあずかっていたバプテスマのヨハネの母であるエリサベツのことを思い起こさせられました。そして、エリサベツのもとに行き、エリサベツとの交わりによって、ともに主の恵みを讚えるようになりました。信仰において孤立無援の状態にあると思われる状況において出会う、信仰の友による慰めの深さを思わせられます。やがて、マリヤにとって、次にお話ししますが、夫ヨセフが主の恵みによる信仰と人となりをもって、そのような信仰による支えを与えてくれる信仰の伴侶になります。しかし、今は、まだそのときではありませんでした。 マタイの福音書1章19節では、 夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた と言われています。ここでヨセフは「正しい人」であったと言われています。このことは、ヨセフが神を恐れる人であり、主を愛して、その律法にしたがって歩んでいた人であるということとともに、あわれみ深い人であったということを意味していると考えられます。というのは、主の律法は、主がその一方的な愛とあわれみによって、エジプトの奴隷の状態にあったイスラエルの民を、その奴隷の状態から贖い出してくださったことに基づいて与えられており、その主の愛とあわれみをイスラエルの社会生活において映し出すことを求めているからです。主の律法は、特に、孤児ややもめのように、社会的な立場の弱い人々に対するあわれみを繰り返し強調しています。 そのような意味で「正しい人」であったヨセフは、このままマリヤと結婚することはできないと考える一方で、マリヤの罪を公にして衆人の目にさらすことを避けようと考えたと思われます。その当時のユダヤ社会においてどのように扱われていたは、はっきりしないところがあるのですが、どうやら二つの方法があったようです。一つは、公的な裁判に訴えて真相を明らかにする方法です。もう一つは、二人または三人の証人による署名を伴う離縁状よって、内密に去らせる方法です。ヨセフは後者の方法を選択したのです。自分を裏切ったとその時は考えるほかはなかったマリヤのことを、なおも思いやっていました。このことにおいて、ヨセフの人となりが明らかになりました。 主は、このようにして、ヨセフの人となりが明らかになるまで、ことの真相をヨセフに告げることを控えておられました。もちろん、主は初めからヨセフの人となりをご存知であられます。しかし、ヨセフはこの試練に直面したので、主への恐れとともに、マリヤへの深い思いやりを現すことができたのです。 20節には、 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」 と記されています。 彼がこのことを思い巡らしていたとき、 と言われているのは、ヨセフがこれらのことを、なおも「思い巡らしていた」状態にあったときのこととも取れますが、これが不定過去時制で表されていることと、この前の19節で、 内密に去らせようと決めた。 と言われていることからしますと、思い巡らした結果その決心をしたときのことと理解したほうがいいと思われます。 そのとき「主の使いが夢に現われて」ヨセフに、ことの真相を明らかにしました。 御使いは、ヨセフのことを「ダビデの子ヨセフ」と呼んでいます。1節ー17節に記されている「イエス・キリストの系図」に示されていますように、ヨセフは「ダビデの子」、今日の私たちのことばで言いますと「ダビデの子孫」でした。ユダヤ人は自分がどの家系に属しているかを大切にしていました。そして、ルカの福音書2章1節ー7節に記されていますように、ヨセフは皇帝アウグストの勅令による人口調査の時に、身重のマリヤとともに自分の父祖の町であるベツレヘムに行き、そこで住民登録をしています。ですから、ヨセフは、自分がダビデ家の家系に属する者であることを知っていました。 ヨセフは、この時、中央のユダではなく、地方であるガリラヤの小さな町であるナザレの大工でした。しかし、世が世であれば、王家の子として生まれ、王位継承者である可能性もあった人物です。しかし、ヨセフは「世が世であれば、自分も王家の子であったのに」というように不平をかこつことをしなかったようです。それは、ヨセフが神を恐れ、主を愛してそのみこころを求め、人に対してあわれみ深い人物であったことからわかります。そのような不平を言うことは、ヨセフにとって、すべてのことを治め、導いておられる主が自分をこのようなみじめな状態に陥れたとすることです。もしヨセフにそのような思いがあったとすれば、ヨセフは神を恐れ、主を愛してそのみこころを求め、人に対してあわれみ深い人物となることはなかったはずです。 ヨセフはただ血のつながりだけで「ダビデの子」であったのではありません。主を恐れ、主を愛してそのみこころを求め、人に対してはあわれみ深い人物として「ダビデの子」でもあったのです。旧約聖書においては、ダビデの子孫である王は「牧者」、すなわち羊飼いと呼ばれています。そして、「牧者」は羊のお世話をし、羊を養います。時には、羊を襲う獣と戦って、いのちを落とす牧者もいたと言われています。マタイの福音書に記されているヨセフには、その片りんが見て取れます。もちろん、ヨセフのこのような主への信仰と、それに基づく人となりは、血肉の力によるものではなく、主の一方的な愛と恵みによることでした。 このこととの関連で注目すべきことですが、新約聖書では「ダビデの子」という呼び名は、私が調べたかぎりでは、ここ以外では、イエス・キリストに当てはめられています。 20節、21節に記されていますように、御使いは、 ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。 と告げました。先ほどお話ししましたように、マリヤは自分にかかわるすべてのことを主にお委ねしました。主が御使いを通してヨセフに語ってくださったことは、そのマリヤの信仰に対する答えでもあります。 そして、24節、25節には、 ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。 と記されています。 これは、ヨセフが御使いを通して語られた主のみことばを信じたことを意味しています。 ここには、ヨセフの迷いの影は見られません。それで、何となく、ヨセフが機械的に事を進めているかのような感じさえしてしまいます。しかしこれは、むしろ、創世記22章に記されている、信仰の父アブラハムが、その愛する子イサクを「全焼のいけにえ」としてささげるようにと主から命じられたときの記述に比べられるものでしょう。22章3節には、その命令を受けたアブラハムのことが、 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。 と記されています。ここには、アブラハムの内にあった葛藤は記されてはいません。アブラハムにそのような葛藤がなかったということではなく、それ以上に大切なことがアブラハムのうちに起こっていたということでしょう。新約聖書は、この試練の中で、アブラハムは主の約束の上に立ち、主への信仰を飛躍的に高めていったとあかししています。ヘブル人への手紙11章18節、19節には、 神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。 と記されています。アブラハムはイサクが誕生して後、与えられた、 イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。 という主の約束を信じていました。その約束を与えてくださった主が、イサクを全焼のいけにえとしてささげるように求められたのであれば、主はイサクを死者の中からよみがえらせてくださると信じたというのです。アブラハムの従順はそのようにして高められた信仰から出ています。 これと同じようなことが、ヨセフにおいても起こっていたのであると考えられます。 マタイの福音書1章24節には、ヨセフが、 主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく と記されています。ここで、 子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく と言われていることは、「子どもが生まれるまで」マリヤとの性的な関係を持たなかったということを意味しています。それは、ヨセフが御使いが彼に告げた、 その胎に宿っているものは聖霊によるのです。 ということを信じたことを意味しています。とはいえ、それは、性的な関係が汚れているという意味ではなく、その子どもの誕生が聖霊によることであり、それに自分はまったくかかわっていないことをあかしするためであったと考えられます。ヨセフはこのすべてのことを主が成し遂げてくださることを信じて受け入れているのです。 このように、ヨセフはすべては父祖ダビデに対する主の契約に基づくお働きによることであることを信じて、それを受け入れています。そのように信じたので、マリヤを迎え入れたのです。 とはいえ、主は関係者すべてに、ことの真相を明らかにしてくださったのではありません。いくら回りの人々にことの真相を話しても、それを信じてくれる人がいるわけではありません。そのような中で、ヨセフがマリヤと生まれてくる子を守る立場に立つようになりました。それが、先ほど触れました人口調査の時に、身重のマリヤを連れて、はるばるガリラヤのナザレから、ユダヤのベツレヘムまで行ったことに現れています。もし、自分がいない間にマリヤが子どもを出産するとすれば、マリヤは改めて人々の厳しい目にさらされることになると考えたからでしょう。それが、奇しくも、ミカ書5章2節に記されている、救い主がベツレヘムでお生まれになるという預言のみことばが成就することにつながっていきます。 ヨセフがマリヤを迎え入れたことには、このような、ヨセフとマリヤの信仰がかかわっているだけではありません。ヨセフがマリヤを迎え入れたことは、イエス・キリストが法的にヨセフの子として受け入れられたことを意味しています。そのことは、マタイの福音書1章25節に、 その子どもの名をイエスとつけた。 と記されていることに、より明確に現れています。 ちなみに、「イエス」という名は、ヘブル語の「ヨシュア」に当たります。それは「主は救い」という意味です。それで、御使いはその子に「イエス」という名をつけるように告げるとともに、 この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。 と告げたのです。 誰が生まれた子どもに「イエス」という名をつけたのかが問題になりますが、これは、御使いがヨセフに、 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。 と告げたことを受けています。それで、その子に「イエス」という名をつけたのはヨセフであったと考えられます。それは、ヨセフが生まれた子どもを自分の子として受け入れたことを意味しています。これによって、イエス・キリストは法的に、「ダビデの子」としてお生まれになったことになります。 これについて、私はかつて、これではイエス・キリストは本当の「ダビデの子」ではないのではないかと考えたことがあります。しかし、これは、私がイエス・キリストがお生まれになった時代の考え方も、聖書のみことばの示すことの意味もよく知らなかったことによっています。 その当時の法的な考え方では、ユダヤの法でもローマの法でも、養子として迎え入れられた子は、実子と同じ権利をもっていました。ですから、イエス・キリストがヨセフの「養子」であったとしても、法的にはヨセフの血肉の子と同じ権利をもっていたのです。とはいえ、イエス・キリストはマリヤから生まれていますので、「養子」というのとは少し違います。 もう一つのことはより大切なことです。 「ダビデの子」が大切なのは、神さまがダビデへの契約によって、約束の救い主を「ダビデの子」として遣わしてくださり、その王国の王座を永遠に堅く立ててくださると約束してくださっているからです。そのことは、サムエル記第二・7章12節、13節に記されています。 ヨセフはダビデの血肉の子孫でした。もし、ダビデの血肉の子孫がなおも王として治めていたとしたらどうでしょうか。ヨセフは王となったかもしれません。けれども、その場合は、その王座は地上ユダ王国の王座ですので、その首都であるエルサレムにあったはずです。それは、地上の国家の一つとして、軍事力や経済力などの血肉の力を背景として成り立っていたはずです。しかし、それでは、御使いが、 ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。 と告げたことは実現しません。もし、神さまがダビデに約束してくださった永遠の王座が軍事力や経済力などの血肉の力に支えられているものであれば、その王座に着く王は、自分の民をその罪から救うことはできませんし、罪の結果である死と滅びから救うこともできません。世界中の富を結集したとしても、ひとりの人のいのちを一瞬たりとも長引かせることはできません。世界中の兵器を結集したとしても、最大の敵である死と滅びを無効にすることはできません。むしろ、兵器を結集すればするほど、死が増加します。 この時、ヨセフがそのすべてを理解していたわけではありませんが、生まれてくる子どもが聖霊によってマリヤの胎に宿っていることには、大切な意味があります。それは、その子は、人類がアダムから受け継いでいる罪を受け継いでいないということです。これによって、この方はご自身の民の身代わりになって、ご自身の民の罪に対する刑罰をお受けになることができるのです。もしこの方に罪があるのであれば、この方はご自身の罪の刑罰を受けなければなりません。とても他の人々の身代わりになることはできません。 事実、聖霊によってマリヤの胎に宿ってお生まれになったこの方は、十字架にかかって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わって受けてくださいました。これによって、私たちを罪から救い出してくださいました。それで、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきは、イエス・キリストの十字架の死において終わっています。私たちの罪を贖ってくださるために十字架にかかって死んでくださったイエス・キリストを、ひたすら信じている私たちは、この後、決して自分の罪に対するさばきを受けることはありません。 まことの「ダビデの子」として来られたイエス・キリストは、まことの「牧者」として、私たちご自身の民のために、ご自分のいのちをもお捨てになりました。それによって、私たちの罪をまったく贖ってくださいました。そして今も、まことの「牧者」として、私たちを永遠のいのちに生かしてくださっています。 |
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