罪人を招かれたキリスト

説教日:1998年5月24日
聖書箇所:マタイの福音書9章9節〜13節


 マタイの福音書9章9節には、マタイの福音書の著者であるマタイが、イエス・キリストからの招きを受けて、イエス・キリストに従う者、すなわち、イエス・キリストの弟子となったことが記されています。
 9節前半で、

イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって

と言われていることから分かりますように、マタイは取税人でした。
 マタイは「収税所」すわっていたと言われています。これは、シリアからエジプトに至る通商のための道路にあった「収税所」であると考えられます。輸入であれ輸出であれ、また、それ以外のものであれ、そこを通過する品物に税金がかけられていたのです。それは、イスラエルの北部であるガリラヤ地方のカペナウムの町でのことであると考えられます。カペナウムは、イエス・キリストがガリラヤ地方において宣教の活動をされた時の中心地でした。
 その当時は、ローマ帝国によって、実にさまざまなものに税金が課せられていました。その税金を取り立てるのは、収税人たちでした。ローマの係官は、5年ごとに税金を取り立てる権利の入札を行ない、最も高く入札した者が、その権利を獲得しました。
 税金を取り立てる権利を獲得した人は、取税人のかしらにその権利をまた貸ししていたようです。実際に税金の取り立ては、取税人のかしらの下にある取税人たちがしていました。ルカの福音書19章1節〜10節に出てくるザアカイは「取税人のかしら」でした。マタイは、実際に税金の取り立てをしていた取税人でした。
 税金の割り当て額の決定はローマの係官が行いましたが、その際、取税人たちが取り立てる額の制限は設けませんでした。それで、取税人たちは定められた額以上の取り立てをすれば、それを自分のものとすることができました。取税人たちは、貧しい者たちからも厳しく税金を取り立てた一方で、金持ちたちからは賄賂を受け取って、「手心」を加えていたようです。
 このように、取税人たちは、賄賂や着服などによって不正な蓄財をして金持ちになっていました。そのために、ユダヤ社会においては、取税人たちは人々の憎しみの的でした。ルカの福音書18章11節には、

神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。

というパリサイ人の祈りが記されています。この「ゆする者、不正な者」は、たまたま、そこに居合わせた取税人のことを意識して語られた言葉です。
 取税人たちは、「ゆする者、不正な者」と見られていただけではありません。税金は支配している民を富ませるためだけでなく、支配されている民が力を蓄えて反乱を起こしたりしないようにするための仕組みでもありますから、重い税金の負担は、ユダヤの社会の人々に、自分たちが支配されている民であることを日常的に思い起こさせるものでした。実際に、ユダヤの社会の人々は重税感にあえいでいたようです。
 取税人たちは、自分たちを支配しているローマのために働く者として、愛国心のかけらもない者とされていました。その上、絶えず異邦人と接している者として、異邦人と同様に汚れたものと見なされていました。
 そのような社会的な事情の中で、マタイは、カペナウムの「収税所」にすわって、そこを通過する商品に対する税金を徴収していました。


 マタイの福音書9章9節では、

イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。

と言われています。

わたしについて来なさい。

というのは、いっしょにどこかに行きましょうという、お誘いの言葉ではありません。それは、イエス・キリストがマタイをご自身の弟子として召してくださったことを意味しています。
 これは、余りにも突然すぎると感じられるかもしれません。もちろん、イエス・キリストがマタイに向かって

わたしについて来なさい。

と言われたのも、マタイがそれを聞いて直ちにイエス・キリストに従ったのも、マタイが、すでに、イエス・キリストを、神さまが約束してくださった救い主(メシヤ)であると、信じていたからです。それ以外にこのことを説明することはできません。
 マタイが税金を徴収する仕事をしていたのは、カペナウムの町においてであったと考えられますが、カペナウムの町は、イエス・キリストがガリラヤ地方で宣教活動をされた時の「本拠地」のような町でした。その町の幹線道路で税金を徴収していたマタイは、当然、イエス・キリストに関するさまざまな情報を手にしていたはずです。そのような情報をもとにして、マタイは、ひそかにイエス・キリストを信じていたと考えられます。
 しかし、マタイは、ひそかにイエス・キリストを信じてはいるものの、それを自分から告白するような立場にあるとは思っていなかったようです。それは、マタイが取税人であったことからすれば当然のことでした。その当時の発想からすれば、取税人であるということは、異邦人と同じように汚れたものであるということであり、とても、神の御国に入ることはできない者と見なされていたからです。
 マタイ自身も、それを十分よく分かっていたはずです。イエス・キリストが神さまが約束してくださっている贖い主であると信じてはいるけれども、自分のような者にはイエス・キリストの弟子となる資格はない、と感じていたということでしょう。
 これと同じような考え方をする人は、めずらしくありません。「自分のような者が救われるためには、まだまだ修行が足りません。」というようなことを言う人がいます。それは、金策に困っている人が、「十分な資金ができてから、融資をしていただく交渉をします。」と言うようなものです。あるいは、重い病気にかかっている人が、「もう少しよくなって、ちゃんと歩けるようになったら病院に行きます。」と言うようなものです。 
 マタイが、自分のことを記すに当たって、

イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。

と記していることは、確かに、イエス・キリストの招きが突然であったことを伝えています。
 しかし、それは、すでにお話ししましたように、マタイがイエス・キリストを知らなかったのに、突然イエス・キリストから声をかけられたという意味での突然さではありません。マタイはイエス・キリストのことを知っていましたし、約束の贖い主、メシヤであると信じていました。でも、取税人である自分が、律法の教師であるラビやラビの教えを熱心に守っているパリサイ人から退けられていることも、よく知っていました。まして、イエス・キリストが神さまが約束してくださっている贖い主であれば、取税人である自分が、どれだけ遠く隔たった所にいるかよく分かっていました。マタイにしてみれば、イエス・キリストの弟子となるということは、思ってもみないことであったのです。
 そのマタイに、イエス・キリストが

わたしについて来なさい。

と、お声をかけられたのですから、マタイにとっては、それは余りにも突然のことでした。その時、マタイは「収税所にすわって」そこを通る人々から税金を集めておりました。ですから、イエス・キリストが、マタイをご自身の弟子となるようにお招きになったのは、マタイの素性をご存知でないためのことではありません。マタイが取税人であることをご承知の上で招かれたのです。
 マタイは、

わたしについて来なさい。

という言葉がイエス・キリストの弟子となるようにとの招きであることは、分かっていたはずです。しかし、すでにお話ししましたように、それが自分のような取税人に向けて語られたことの意味は、とても理解できなかったはずです。
 それでも、

すると彼は立ち上がって、イエスに従った。

と言われています。この言葉は、マタイの決断の確かさを感じさせます。ルカの福音書5章28節では、「何もかも捨て、立ち上がって」と、マタイが「何もかも捨て」たことが記されていて、マタイの決断の確かさが強調されています。それは、マタイ自身が納得した上での決断です。当然、マタイは、取税人である自分が招かれていいのかどうか、イエス・キリストに尋ねたうえで納得したと考えられます。 
 マタイがイエス・キリストのことをどのように理解したかは、まず、

すると彼は立ち上がって、イエスに従った。

というマタイの決断の確かさに現われています。それは、マタイが、自分がイエス・キリストから召されて招かれていることを確かなこととして受け止めた、ということを意味しています。自分自身を含めてユダヤ社会の常識からすれば、決してありえないと思われることでしたが、それがイエス・キリストのみこころであり、招きであることを認めたということです。マタイは、自分にはイエス・キリストから招きを受けるに価するものが何もないことを、十分、分かっていました。ですから。マタイが納得したことの土台は、ただ一つ「それがイエス・キリストのみこころであり、イエス・キリストが、あえて、自分のような者を召してくださった。」ということだけです。
 マタイが、自分にはイエス・キリストから招きを受けるに価するものが何もないことを認めていたことは、10節で、

イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。

と言われていることにも表われています。
 今日においてもそうですが、その当時の文化にあってはより深い意味で、誰かと食事をともにすることは、その人と親しくお付き合いしていること、すなわち、その人の仲間であることを意味しています。

イエスが家で食事の席に着いておられるとき

というときの「」は、マタイの家です。同じことを記しているルカの福音書5章29節では、

そこでレビは、自分の家でイエスのために大ぶるまいをしたが、取税人たちや、ほかに大ぜいの人たちが食卓に着いていた。

と言われています。「レビ」はマタイの別名です。
 自分が何か特別な者だからイエス・キリストの召しを受けて招かれたのではないと理解しているマタイは、イエス・キリストは自分だけでなく、自分と同じような立場の者たちを受け入れてくださる方であると理解しました。それで、

見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。

と言われていますように、大勢の「取税人や罪人」たちを招待したのです。
 先ほど引用したルカの福音書では、「イエスのために大ぶるまいをした」と言われていました。マタイは、イエス・キリストのためにその宴会を開きました。そして、その宴会に大勢の「取税人や罪人」たちを招待しました。大勢の「取税人や罪人」たちを招待することこそが、イエス・キリストのために開いた宴会にふさわしいことであると考えていたからに他なりません。
 この宴会は、マタイがイエス・キリストに従うようになったことを仲間に知らせるために開かれたとする見方があります。けれども、それでは、ルカが言うようにイエス・キリストのために宴会を開いたというより、マタイのために開いたことになってしまいます。
 また、その宴会が仲間への別れを告げるためのものでしたら、取税人たちだけを招いたのではないでしょうか。そこに「罪人」たちも招かれていたことは、それが仲間に別れを告げるためだけのものではなかったことを思わせます。
 「罪人」というのは、この場合には、その当時の社会で「罪人」とされていた人々です。誰の目から見ても明らかに、律法の教師たちの教え守らず、それに背くようなことをしていた人々のことです。
 マタイは、イエス・キリストのためにその宴会を開きました。そして、その宴会に大勢の「取税人や罪人」たちを招待しました。このことの中に、マタイがイエス・キリストを本当に深いところで受け入れていることが見て取れます。もちろん、その奥には、イエス・キリストがマタイを受け入れてくださっているという事実があります。
 しかし、イエス・キリストのために開いた宴会に大勢の「取税人や罪人」たちを招待したことは、その社会の常識や、それまでのマタイ自身の思いからしますと、何という、常識外れのことであったことでしょうか。
 イエス・キリストについてのそのような理解は、とてもマタイ自身から出たものとは考えられません。マタイがイエス・キリストからの召しを受けたことは、イエス・キリストの一方的な恵みによることでした。それと同じように、マタイが、大勢の「取税人や罪人」たちを招待することが、イエス・キリストのために開いた宴会にふさわしいことであると考えるようになったのも、イエス・キリストの一方的な恵みによることであった、と言わなければなりません。 
 すでにルカの福音書から引用したところから分かりますが、マタイは、自分自身のことをごく控えめにしか記していません。ルカが

するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。

と記しているところを、マタイは

すると彼は立ち上がって、イエスに従った。

と記しているだけで、自分が捨てたものがあることには触れていません。
 また、ルカが

そこでレビは、自分の家イエスのために大ぶるまいをした。

と記していることを、マタイは

イエスが家で食事の席に着いておられるとき

と記しています。それが「大ぶるまい」であったことに触れていないばかりか、それが自分が開いた宴会であることも、はっきりとは言っていません。ただし、原文では「」に冠詞がついていますので、その「」がマタイの家であることが分からないわけではありません。
 そのように、マタイが自分のしたことを目立たせないようにして、もっぱらイエス・キリストに焦点を合わせていることのうちにも、すべてはイエス・キリストの一方的な恵みによることであって、自分自身のうちに何かがあったから弟子となるように招かれたのではない、というように受け止めていることが見て取れます。
 そして、マタイは、そのイエス・キリストの驚くべき恵みが自分だけに与えられているものではなく、自分と同じような立場にあるすべての者に与えられていると信じたのです。それで、大勢の「取税人や罪人」たちを招待しました。マタイは、イエス・キリストの恵みを、このようにくみ取ることにおいて、イエス・キリストご自身を深いところで受け入れています。 
 続いて、マタイの福音書9章11節では、

すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」

と言われています。
 先ほども言いましたように、誰かと食事をともにすることは、その人と親しくお付き合いしていることを意味しています。パリサイ人たちは、イエス・キリストが律法の教師(ラビ)の一人であると考えていましたが、彼らからしますと、律法の教師が取税人や罪人たちとともに食卓に着くというようなことは、言語道断のことでした。
 マタイは、イエス・キリストが自分のことを取税人であると承知の上で、弟子となるようにと招いてくださったことのうちに、イエス・キリストの一方的な恵みの現実に触れました。その恵みによって、さらに、イエス・キリストのために開いた宴会に、大勢の取税人や罪人たちを招くことが、イエス・キリストの恵みに応えることにふさわしいという、福音の本質に触れるような理解が与えられました。
 そして、その理解にしたがって、実際に、大勢の取税人や罪人たちをイエス・キリストのための宴会に招待しました。しかし、そのために、イエス・キリストがパリサイ人たちから激しい非難を受けることを、どれほど予想していたでしょうか。おそらく、そのような事態を予想していたとしたら、そのような宴会は開かなかったか、少なくとも、取税人や罪人たちは招かなかったのではないでしょうか。言い換えますと、マタイの心は、イエス・キリストの恵みの現実で一杯になっていて、他のことを考える余裕もないほどであったのではないでしょうか。
 そうであるとしますと、パリサイ人たちが、イエス・キリストの弟子たちに向かって言った、

なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。

という非難の言葉によって弟子たちも困ってしまったでしょうが、それ以上に困ってしまったのは、その宴会を開いたマタイ本人であったと考えられます。
 いずれにしましても、マタイとしては、イエス・キリストのために宴会を開いたのに、かえって、イエス・キリストが非難されるようなことになってしまったのです。それは、決して、マタイの意図したところではありません。
 それに対してイエス・キリストは、

医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。」とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。

とお答えになりました。
 これは、イエス・キリストのことを非難したパリサイ人たちへの答えです。しかし、それ以上に、これは、マタイに対するメッセージです。
 マタイは、自分のような取税人を弟子となるように召してくださったことのうちに、イエス・キリストの恵みの現実に触れました。それで、イエス・キリストのために開いた宴会に大勢の取税人や罪人を招待しました。イエス・キリストは、そのマタイの心をくみ取ってくださって、大勢の取税人や罪人たちのいる食卓にお着きになりました。それによって、イエス・キリストは、マタイがイエス・キリストとイエス・キリストの恵みを正しく受け止めていることを確証してくださいました。マタイは、自分が間違ってはいなかった、と感じることができました。
 ところが、それによって、イエス・キリストは、パリサイ人たちから激しい非難を受けることになりました。マタイにとっては、まことに不本意なことになってしまいました。それでも、イエス・キリストは一貫しておられました。

医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。」とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。

と言われて、パリサイ人たちにお答えになるとともに、マタイを守ってくださいました。
 そればかりではありません。そのイエス・キリストの言葉は、マタイが受け止めたイエス・キリストの恵みの現実を、言葉にして整理する役割を果たしています。
 マタイは、自分のような取税人をご自身の弟子となるようにと召してくださったイエス・キリストの恵みが、イエス・キリストが語られたその言葉によって示されている原則に従って働いていることを受け止めることができました。また、イエス・キリストが、自分が招いた大勢の取税人や罪人たちとともに食卓に着いてくださったのも、それと同じ恵みの原則に従ってのことであることが理解できたはずです。
 そこでイエス・キリストが述べておられる御言葉は、イエス・キリストの恵みの核心に触れるものです。それがパリサイ人たちの心を動かした形跡はありません。しかし、マタイはその言葉を記憶し、福音書に書き記しました。マタイを召してくださったイエス・キリストの一方的な恵みは、マタイだけに特別に与えられたものではありません。

医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。」とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。

という御言葉に示されているイエス・キリストの恵みの原則は、今日も変わることがない原則です。 
 振り返ってみますと、イエス・キリストは、マタイが用意した宴会に出席すれば、ご自身がパリサイ人たちから厳しい非難を受けることになるということをご存知であったはずです。それでも、その宴会に出席されたのは、マタイが受け止めたご自身の恵みの現実を、ご自身の身をもって確証してくださるためでした。言い換えますと、マタイが信じたとおりに、イエス・キリストは取税人や罪人たちとともに食卓にお着きになったのです。
 イエス・キリストにとって、マタイの信仰に答えて、ご自身の恵みの原則を貫き通されることことは、ご自身の身に非難を負うことを意味していましたが、それを厭うことはありませんでした。さらに言いますと、それがイエス・キリストにとってどんなに重荷になることであったとしても、イエス・キリストは、この時、マタイにお示しになった。ご自身の恵みの原則を貫き通してくださいます。
 それがどれほどまでかと言いますと、ご自身の恵みにあずかる者のために、その身代わりになって、十字架にかかって死んでくださるまでに、ということです。言い換えますと、イエス・キリストは、

医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。」とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。

という、ご自身の御言葉に示されている恵みの原則を最後まで貫き通されて、十字架にかかって死なれたのです。
 それは、今日の私たちにとっても同じことです。私自身しばしば思い知らされることですが、私のような者の主でいてくださることが、イエス・キリストにとってはどれほどの重荷になることか分かりません。私はしばしば、イエス・キリストのみこころに背いて、主を悲しませてしまいます。自分でも自分が赦せなくなることがあります。それでも、イエス・キリストは、私の主でいてくださいましたし、これからも、私の主でい続けてくださいます。
 どうして、そのようなことを言うことができるかと言いますと、イエス・キリストは、私たちがどのようなものであるかを初めからご存知であられて、私たちの主となってくださったからです。そして、私たちの過去と現在と未来のすべての罪を完全に贖ってくださるために、十字架にかかって死んでくださり、私たちを私たちの罪のもたらす死と滅びの中から救い出してくださったからです。
 私たちは、このようなイエス・キリストの十字架の光のもとで、イエス・キリストは、

医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。」とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。

という、ご自身の御言葉に示されている恵みの原則を、私たちに対して貫き通してくださっていると、確信をもって告白することができます。


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