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説教日:2009年12月20日 |
23節に記されています、 見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。 という預言のことばは、イザヤ書7章14節に記されています。預言者イザヤの書にはイエス・キリストの誕生に関する預言は、後で取り上げます9章1節ー7節や11章1節ー10節など、このほかにもいくつかあります。マタイがその中からこの7章14節に記されている、 見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を「インマヌエル」と名づける。 という預言のみことばを選んで、その成就のことを記しているのには理由があります。言うまでもなく、これによって、ただイエス・キリストがお生まれになることだけでなく、処女であるマリヤからお生まれになることが、すでに主によって預言されていたことを示すためです。 そればかりではありません。そのようにしてお生まれになった方は、「インマヌエル」という御名をもって呼ばれる方であるということも成就しているということを伝えています。この「インマヌエル」という御名は、「私たちとともに」ということを表すヘブル語の「インマーヌー」ということばと、「神」を表す「エール」ということばの組み合わせです。それで、マタイの福音書1章23節では、 訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。 という説明が加えられています。 この「インマヌエル」という御名は、イエス・キリストにおいて「神は私たちとともにおられる」ということが私たちの間に実現しているということを意味しています。イエス・キリストがおられるところでは、「神は私たちとともにおられる」ということが現実となっているということです。どうしてそうなるのかと言いますと、イエス・キリストが「私たちとともにおられる神」だからです。 イザヤは、この、 見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を「インマヌエル」と名づける。 と預言としてあかししているメシヤのことを、この後の9章6節、7節において、 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。 ひとりの男の子が、私たちに与えられる。 主権はその肩にあり、 その名は「不思議な助言者、力ある神、 永遠の父、平和の君」と呼ばれる。 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、 ダビデの王座に着いて、その王国を治め、 さばきと正義によってこれを堅く立て、 これをささえる。今より、とこしえまで。 万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。 と預言的に述べて、さらに、説明しています。 この二つのみことばを並べてみますと、そのつながりがよりはっきりとしてきます。 第一に、7章14節で、 見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、 と言われていることは、9章6節で、 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。 ひとりの男の子が、私たちに与えられる。 と言われていることにつながっています。この「ひとりのみどりご」と「ひとりの男の子」は「みどりご」と「男の子」の単数形です。 これが集合名詞であれば、「みどりご」である「男の子」の集合体を指すことになります。そして、後でお話ししますように、ここではダビデに与えられた、ダビデの子に関する契約との関連が述べられていますので、その「みどりご」である「男の子」の集合体はダビデの子孫として生まれてくるものの集合体であるということになります。しかし、この場合には、そのように理解することはできません。というのは、これからお話ししますように、ここでは、この「みどりご」である「男の子」は永遠の神であられることが示されているからです。そのような方はただお一人、永遠の神の御子であられるイエス・キリストだけです。 もちろん、 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。 ということばは、この方が、まことの人であられることをも示しています。ですから、この方は、永遠の神でありつつ、まことの人となられた方です。 第二に、7章14節に示されている、「インマヌエル」という御名は、「神は私たちとともにおられる」ということを意味しています。これは、 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。 ひとりの男の子が、私たちに与えられる。 と言われている、その「みどりご」が「私たちのために」生まれることにつながっています。この場合、「私たちのために生まれる」の「私たちのために」と「私たちに与えられる」の「私たちに」は同じことば(レヌー)ですので、同じように訳したほうがいいと思われます。それをどちらに訳すとしましても、この「みどりご」は「私たちのために」(「私たちに」)生まれ、「私たちのために」(「私たちに」)与えられた方なので、「私たちとともにおられる」のです。 このように、10章6節の、 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。 ひとりの男の子が、私たちに与えられる。 という預言のことばは、7章14節の、 見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を「インマヌエル」と名づける。 という預言のみことばを受けています。そして、そのようにして「処女」から生まれてくる「インマヌエル」という御名の「男の子」のことをさらに説明しているのです。 そのようなわけで、9章6節、7節に記されている預言のみことばを、もう少し見てみましょう。 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。 ひとりの男の子が、私たちに与えられる。 というみことばにおいては、誰がこの「男の子」(ベーン)を与えてくださるのかということが問題となります。もちろん、それは7節の最後に、 万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。 と記されている中に出てくる「万軍の主」が与えてくださるのです。7章14節においては「処女がみごもって」「男の子(ベーン)を産む」と言われていました。そして、ここ9章6節では、それは「万軍の主」が与えてくださる「男の子」(ベーン)であると言われています。 6節では、続いて、 主権はその肩にあり、 その名は「不思議な助言者、力ある神、 永遠の父、平和の君」と呼ばれる。 と記されています。 ここで「主権」と訳されていることば(ミスラー)は、聖書の中では、この9章6節と7節にしか出てきません。これは「支配すること」、「治めること」を表しています。これが「その肩にあり」ということは、22章22節において、 わたしはまた、ダビデの家のかぎを彼の肩に置く。彼が開くと、閉じる者はなく、彼が閉じると、開く者はない。 と言われていることを思い起こさせます。主から権威を委ねられてそれを負っているという感じでしょうか。いずれにしても、9章6節の、 主権はその肩にあり、 ということは、この「みどりご」である「男の子」として来られる方が支配権を担って、行使することを示しています。そして、7節では、同じことば(ミスラー)を用いて、 その主権は増し加わる と言われています。この方の支配は広がっていくのです。 さらに6節に戻りますが、そこでは、この方のことが、 その名は「不思議な助言者、力ある神、 永遠の父、平和の君」と呼ばれる。 と言われています。ここには4つの御名が出てきます。その一つ一つを見てみましょう。 「不思議な助言者」の「不思議な」と訳されたことば(ペレ)は「すばらしいこと」、「普通ではないこと」、「奇跡的なこと」などを表します。出エジプト記15章11節では「奇しいわざ」と訳されています。もちろん、これは出エジプトの時代に、主がエジプトをおさばきになり、その奴隷であったイスラエルの民を贖い出された御業のことを示しています。また、「助言者」と訳されたことば(ヨーエーツ)は分詞で「助言を与えること」や「計画を立てること」、「ものごとを定めること」などを表します。この場合には、「みどりご」である「男の子」として来られる方が支配されるために、まことにくすしきご計画をお立てになり、知恵をもって奇跡的な御業を遂行されることを示しています。もちろん、そのことの中に知恵深い助言をもって御民を諭して、導かれることも含まれています。それは、契約の神である主、「万軍の主」のご計画と御業が、この「みどりご」である「男の子」として来られる方が支配されることをとおして実現するということを意味しています。 次の「力ある神」という御名につきましては、昨年もお話ししました。ある人々は、ここで預言的に語られている人物が神ではありえないということから、この「力ある神」と訳されたことば(エール・ギッボール)を「偉大な勇者」というように訳しています。しかし、イザヤ書の中では、同じことばが、次の10章21節にも出てきます。そこには、 残りの者、ヤコブの残りの者は、力ある神に立ち返る。 と記されています。ここでは明確に「力ある神」を意味しています。それで、この少し前の9章6節においても「力ある神」と訳したほうがいいと考えられます。 「永遠の父」という御名には文化的な背景があると思われます。その当時の王たちは、その民に対して、また、捕虜たちに対してさえ、自分が「父」であると主張していました。ここでは、「みどりご」である「男の子」として来られる方について、 主権はその肩にあり、 と言われていて、この方が支配される方であられると言われていますから、そのような考え方が反映されていると考えられるのです。この方は、ご自身の民を父のように治めてくださり、守ってくださり、導いてくださるのです。人間の王であれば、その王が権力を失ったり、死んでしまえばそれは終ってしまいます。しかし、この方は「永遠の父」として、とこしえにご自身の民を治めてくださり、支えてくださり、導いてくださいます。 このことも、この方が神であられることを示しています。このことは、さらに、7節に記されていますが、この方が「ダビデの王座」に着くこととかかわっています。後でお話ししますが、この「ダビデの王座」は永遠の王座です。 最後の「平和の君」という御名(サル・シャーローム)は、この方が「平和」(シャーローム)を生み出してくださる方であることを意味しています。それも、最初に、 主権はその肩にあり、 と言われている、この方の支配をとおしてもたらされるものです。そのことの根本には、契約の神である主、「万軍の主」との和解による「平和」が生み出されることがあります。そして、そのことに基づいて、人間同士の間の和解による「平和」が生み出されるようになります。 以上、6節についてですが、7節には、 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、 ダビデの王座に着いて、その王国を治め、 さばきと正義によってこれを堅く立て、 これをささえる。今より、とこしえまで。 万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。 と記されています。 最初の、 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、 ということばは、先ほども触れましたように、前の6節で言われていることがさらに拡大し豊かになることを示しています。 その平和は限りなく、 ということは、「その平和」には終わりがないということを意味しています。 ここでは、さらに、 ダビデの王座に着いて、その王国を治め、 と言われています。これは、この方がダビデに与えられた契約に基づいて「みどりご」としてお生まれになり、その契約の約束を成就されるということを示しています。 ダビデに与えられた契約は、サムエル記第二・7章12節ー16節に、 あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。しかし、わたしは、あなたの前からサウルを取り除いて、わたしの恵みをサウルから取り去ったが、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることはない。あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。 と記されています。 これは、ダビデが主の神殿の建設を志したときに、主が預言者ナタンをとおしてダビデに語られた契約のことばです。イザヤ書9章7節で、主は預言者イザヤをとおして、このダビデに与えられた契約の約束が「みどりご」によって成就すると語っておられます。 サムエル記第二・7章13節には、ダビデ契約で約束された「ダビデの子」について、 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。 と預言されています。先ほどお話ししましたように、イザヤ書9章6節では、「みどりご」である「男の子」として来られる方が「永遠の父」という御名によって呼ばれる方であることが示されていました。そして、この「父」という呼び名は王として治めることとかかわっていると考えられます。この方は、永遠に変わることなく、王として、ご自身の民を父のように治めてくださり、守ってくださり、導いてくださいます。このことが、イザヤ書9章7節において、ダビデに与えられた契約の約束に基づいていることが示されています。 このダビデに与えられた契約の約束は、ダビデの子としてお生まれになった、永遠の神の御子イエス・キリストにおいて成就しています。すでにいろいろな機会にお話ししてきましたので、詳しい説明は省きますが、そのダビデの永遠の王座とは、地上のどこかにあるものではなく、天にご臨在しておられる父なる神さまの右の座のことです。使徒の働き2章33節ー35節に、 ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。ダビデは天に上ったわけではありません。彼は自分でこう言っています。 「主は私の主に言われた。 わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは わたしの右の座に着いていなさい。」 と記されているとおりです。 これらのことを踏まえて改めて振り返っておきたいことがあります。 イザヤ書9章6節、7節に預言されているのは、約束のメシヤのことです。けれどもこの約束のメシヤは、6節冒頭の、 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。 ひとりの男の子が、私たちに与えられる。 というみことばが示していますように、「みどりご」また「男の子」として紹介されています。私たちはこれまでお話ししてきましたような、この方について言われている主権性や王としてのお働きのことを考えますと、この「みどりご」また「男の子」が大きくなって王となったというように考えてしまいます。 確かに、実際には、ここで「みどりご」また「男の子」として預言的に紹介されている方であるイエス・キリストは、「みどりご」としてお生まれになり、成長されて、成人になってから贖いの御業を遂行されました。けれども、イザヤ書9章6節、7節では、そのことを預言して述べているのではありません。分かりにくいかもしれませんが、6節のみことばが、 ひとりの王が、私たちのために生まれる。 ひとりの王が、私たちに与えられる。 主権はその肩にあり、 その名は「不思議な助言者、力ある神、 永遠の父、平和の君」と呼ばれる。 となっていたとしたら、それによって伝わることはかなり違ったものとなっていたことでしょう。6節、7節では、あくまでも、「みどりご」また「男の子」として紹介されている方が、ダビデ契約において約束されている永遠の王座に着座されて、ご自身の民である私たちを治めてくださるようになることを預言的に述べています。これによって、このダビデ契約において約束されている永遠の王座に着座されて、ご自身の民である私たちを治めてくださる方は、血肉の力にものを言わせて、人々を屈服させて支配する方ではないということを示しているのです。 先ほどお話ししました、この方の御名として最後に挙げられていたのは、「平和の君」という御名でした。これは、この方が私たちの間に「平和」(シャーローム)を生み出してくださる方であることを意味しています。それはまず契約の神である主、「万軍の主」との和解による「平和」が生み出されることから始まります。そして、そのことに基づいて、私たち人間同士の間の和解による「平和」が生み出されるようになります。 後にイザヤは53章5節において、この方のことについて、 しかし、彼は、 私たちのそむきの罪のために刺し通され、 私たちの咎のために砕かれた。 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、 彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 と預言的に述べています。ここで、 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、 と言われているときの「平安」は「平和」と同じことば(シャーローム)です。 すでにお話ししましたように、9章6節、7節に記されているイザヤの預言のことばは、7章14節に、 見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を「インマヌエル」と名づける。 と記されている「処女」から生まれてくる「男の子」で「インマヌエル」、「神は私たちとともにおられる」という御名の方のことをさらに説明するものでした。「インマヌエル」、「神は私たちとともにおられる」という御名は、この方において「神は私たちとともにおられる」ということが実現しているということを示しています。この方が「神は私たちとともにおられる」ということを実現してくださったのは、ご自身の十字架の死の苦しみによって、私たちの罪を贖ってくださることによってでした。この方が私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わって受けてくださったのです。これによって、私たちを神さまと和解させてくださって、私たちに神さまとの平和をもたらしてくださいました。 この方が「処女」からお生まれになったのは、罪のない方として来てくださって、私たちに代わって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきをお受けになることができるためです。ご自身に罪があれば、ご自身の罪を清算する必要があるのであって、私たちの身代わりになることはできません。 この方は、私たちの間に契約の神である主との和解による平和をもたらしてくださっただけではありません。そのための御業自体が力尽くで人を屈服させるようなものではなく、まことに平和に満ちた御業でした。42章3節に、 彼はいたんだ葦を折ることもなく、 くすぶる燈心を消すこともなく、 と預言的にあかしされていますように、その御業において誰をも傷つけることはありませんでした。そればかりか、むしろ、ご自身が私たちのために苦しんでくださり、傷みを負ってくださいました。そして、この方ご自身が、「みどりご」また「男の子」として紹介されるように、平和に満ちた方であるのです。 この方、すなわち御子イエス・キリストは、今日でも、福音のみことばの宣教という、この世の目には愚かな方法によって、人々を救いへと導いてくださっています。決して権威を振りかざして押し付けることはなく、人々はいくらでもそれを拒否することができます。また、イエス・キリストは「インマヌエル」という御名のとおり、私たちを神さまのご臨在の御前に立たせてくださり、神さまとの愛の交わりのうちに生きるよう導いてくださっています。それは、この方が父なる神さまの右の座から注いでくださった聖霊のお働きによることです。この方は、この御霊によって、 その名は「不思議な助言者、力ある神、 永遠の父、平和の君」と呼ばれる。 というみことばに示されている四つの御名の意味するお働きを私たちの間でなしてくださり、私たちを救いの完成へと導き入れてくださいます。 |
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