今日は2008年の降誕節です。2003年の降誕節から、今日もテキストとして取り上げましたマタイの福音書1章18節〜25節に記されているみことばについて継続的にお話ししてきました。そして、1昨年から、マタイの福音書1章22節、23節に記されている、
このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)
というみことばについてお話ししています。
ここでは、イエス・キリストの誕生が、
見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。
という預言者を通して語られた主のみことばの成就であるということが示されています。ここで引用されているのは、イザヤ書7章14節に記されている、
見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を「インマヌエル」と名づける。
というみことばです。引用されているといっても、今日の引用とは少し違っていて、1字1句同じように引用しているわけではありません。
昨年と1昨年は、このイザヤ書7章14節のみことばの歴史的な背景についてお話ししました。今日は、この「インマヌエル」という御名の意味についてお話ししたいと思います。
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マタイの福音書1章23節の、
見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。
というみことばにおいては、「処女がみごもって・・・男の子を産む」ということ、その子の名が「インマヌエル」と呼ばれるようになるということが示されています。この「インマヌエル」ということばは、「私たちとともに」ということを表すヘブル語の「インマーヌー」ということばと、「神」を表す「エル」ということばの組み合わせです。それで、マタイの福音書では、
訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。
と説明されています。
ところで、21節には、御使いが夢に現れて、ヨセフに告げた、
マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。
ということばが記されています。また、24節、25節には、
ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。
と記されています。ヨセフが生まれてきた子につけた名前は「イエス」でした。
その当時の社会においては「イエス」という名前自体は特別な名前ではありませんでした。けれども、主の御使いをとおしてこの名前が告げられたということに、この「イエス」という名前が特別なものであることが示されています。
この「イエス」という名前は、ヘブル語の「ヨシュア」という名前に当たります。ヨシュアという名前はヘブル語の「イェホーシュア」あるいは「イェホーシューア」を音訳したものです。この「イェホースシュア」あるいは「イェホーシューア」の短縮形が「イエーシューア」です。これがさらに短縮されて「イエーシュー」となりました。これをギリシャ語化した名前が「イエースース」です。この「イエースース」を日本語では「イエス」と音訳しています。
「ヨシュア」という名前は「主は救い」あるいは「主は助け」という意味です。このことが、御使いが言った、
この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。
ということばに反映されています。
このようにして、人々はイエス・キリストのことを「イエス」と呼んでいました。他にも「イエス」という名の人々がいましたから、出身地である「ナザレ」をつけて「ナザレのイエス」と呼ばれることもありました。この呼び方は聖書の中に何回か出てきます。
ところが、知られているかぎりの資料では、イエス・キリストが誰かから「インマヌエル」と呼ばれたという事例はありません。その意味で、この「インマヌエル」という名は、「イエス」という呼び名とは違っています。この「インマヌエル」という名はイエス・キリストの存在の意味を明らかにする名です。
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この「インマヌエル」という名の意味するところについては、いろいろな意見がありますが、結論的なことをお話しすることしかできません。この「インマヌエル」という名は、イエス・キリストにおいて「神は私たちとともにおられる」ということが私たちの間に実現しているということを意味しています。イエス・キリストがおられるところでは、「神は私たちとともにおられる」ということが現実となっているということです。言い換えますと、イエス・キリストこそは「私たちとともにおられる神」なのです。
このような理解には反対論があります。けれども、すでにイザヤ書の預言において来たるべきメシヤが神であられることが示されています。いくつかの個所が考えられますが、9章6節には、
ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。
ひとりの男の子が、私たちに与えられる。
主権はその肩にあり、
その名は「不思議な助言者、力ある神、
永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
と記されています。
ここでメシヤが神であられることを示していることを否定する人々は、「力ある神」と訳されているヘブル語のことば(エール・ギッボール)を「偉大な勇者」というように理解しています。その場合には、「神」と訳されていることば(エール)を形容詞的に「偉大な」ということを表すと理解し、さらに「力ある」と訳されていることば(ギッボール)を「勇者」と理解します。けれども、この「力ある神」と訳されていることば(エール・ギッボール)は、同じイザヤ書の次の章である10章21節にも出てきます。そこには、
残りの者、ヤコブの残りの者は、力ある神に立ち返る。
と記されています。これは明確に「力ある神」です。それで、まったく同じことばを用いている9章6節においても「力ある神」と訳したほうがいいと考えられます。
このように、イエス・キリストの御名が「インマヌエル」であるということは、イエス・キリストがおられるところに「神は私たちとともにおられる」ということが現実となっているということを意味しています。また、その意味で、イエス・キリストは「私たちとともにおられる神」です。
マタイの福音書全体の流れの中では、この1章に記されていますように、イエス・キリストが処女であるマリヤからお生まれになったことによって、「神は私たちとともにおられる」ということが主の契約の民の間に実現しています。そして、そのことは、イエス・キリストの地上の生涯を通して変わることがありませんでしたが、特に、イエス・キリストが御霊に満たされてメシヤとしてのお働きを始められてから、「神は私たちとともにおられる」ということがより明確な形で現されました。
そして、イエス・キリストがその地上の生涯の最後に十字架にかかって、ご自身の民のための罪の贖いを成し遂げてくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったことによって、そして、父なる神さまの右の座に着座され、そこから御霊を注いでくださったことによって、「神は私たちとともにおられる」ということが主の契約の民の普遍的な現実となりました。普遍的な現実となったということは、「神は私たちとともにおられる」ということが、いつの時代のどこにいる主の民にとっても現実となっているということです。そのことは、マタイの福音書の最後のみことばである28章20節に記されている、
見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。
というイエス・キリストのみことばに示されています。
ですから、マタイの福音書は、イエス・キリストが処女であるマリヤからお生まれになったことによって、「インマヌエル」という御名が表していること、「神は私たちとともにおられる」ということが主の契約の民の間に実現しているということを示すことから始まって、「神は私たちとともにおられる」ということが主の契約の民の普遍的な現実となっているということを示して閉じています。
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イエス・キリストがおられるところに「神は私たちとともにおられる」ということが現実となっているということは、ヨハネの福音書においてより明確に示されています。その冒頭の、1章1節〜3節においては、
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
と記されています。
すでにいろいろな機会にお話ししてきたことですので、詳しい説明は省きます。ここでは、イエス・キリストが永遠の「ことば」として示されています。
初めに、ことばがあった。
ということは、この時間的な世界として造られたこの世界の「初め」において、「ことば」はすでに存在しておられたということを示しています。これは「ことば」が、時間的な世界には属していない永遠の存在であることを意味しています。事実、3節には、
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
と記されていて、「ことば」がこの世界の「すべてのもの」をお造りになった方であることが示されています。時間はこの世界の時間です。この世界がなければ時間もありません。時間はこの世界が造られたときに始まっています。それで、この世界の「すべてのもの」をお造りになった方ご自身は、時間の流れの中にはありません。つまり、この方は永遠の存在なのです。
さらに、1節では続いて、
ことばは神とともにあった。
と記されています。これは、「ことば」が父なる神さまとの愛の交わりのうちにおられることを示しています。そして、2節で、
この方は、初めに神とともにおられた。
と言われていることは、「ことば」と父なる神さまとの愛の交わりを強調するとともに、その交わりが永遠のものであることを示しています。神さまの本質的な特性は愛です。それで、父なる神さまの本質的な特性が愛であるように、「ことば」すなわち御子の本質的な特性も愛です。そして、実際に、父なる神さまと御子の間には永遠の愛が通わされています。
実は、このことが、御子イエス・キリストの御名が「インマヌエル」であるということの根底にあります。14節には、
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
と記されています。ここで、
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。
と言われていることには、豊かな意味があります。今お話ししたこととのかかわりでは、永遠に父なる神さまとの愛の交わりのうちにおられる「ことば」が「人となって、私たちの間に住まわれた」ということになります。それで、「ことば」すなわち御子イエス・キリストがおられるところには、常に、父なる神さまもともにおられるのです。
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同じヨハネの福音書の1章18節には、
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。
と記されています。
いまだかつて神を見た者はいない。
と言われていますが、これには2つのことが考えられます。
1つは、神さまは目で見ることはできないということです。目で見えるものは物質的なもので、光を反射して私たちの網膜に像を結ぶものですが、神さまは物質的な存在ではありません。それで、私たちは神さまを見ることはできません。ちなみに、物質的なものには限りがあります。しかし、無限の存在である神さまには限りがありません。
もう1つのことですが、テモテへの手紙第1・6章15節、16節には、
神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。
と記されています。人間が神さまを見ることができないのは、神さまの栄光が無限であるからです。これは、十分なたとえではありませんが、私たちが太陽を直接肉眼で見ることができないことにたとえられます。太陽と地球の間には1秒で30万キロメートル(地球7回り半)を走る光の速度で8分19秒ほどかかる距離があります。それでも、私たちには太陽がまぶし過ぎて見ることができないばかりか、直接見ようとすると目を痛めてしまいます。神さまの栄光が無限であるという点では、物質的な存在ではない御使いたちも直接的に神さまを見ることも、直接的に知ることもできません。神のかたちに造られて罪のない状態にあった人であっても、御使いたちであっても、どのような被造物も、無限、永遠、不変の栄光の神さまを直接的に見ることも、直接的に知ることもできません。
ですから、神のかたちに造られた人も、御使いも、ただ、神さまが、無限に身を低くして、ご自身の栄光を隠してご自身を示してくださることによってのみ、神さまを知ることができます。新約聖書は、そのようにして、無限に身を低くし、ご自身の無限、永遠、不変の栄光を隠して、ご自身を表してくださる役割を負っておられるのは御子であるということを、一貫してあかししています。ヨハネの福音書1章18節において、
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。
と記されていることは、このことを反映しています。
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けれども、これにはもう1つ重大なことがあります。それは、人が無限、永遠、不変の栄光の神さまを知ることができない最大の原因は、人が自らのうちに罪の性質を宿しており、実際に罪を犯しているということです。
ローマ人への手紙6章23節には、
罪から来る報酬は死です。
と記されています。この場合の「死」は肉体的な死を含みますが、肉体的な死で終るものではありません。ヘブル人への手紙9章27節には、
人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている
と記されています。肉体的な死は人の罪に対するさばきの結果としてもたらされたものです。人は肉体的に死んで終るのではなく、死後に自らの罪に対するさばきを受けることになります。ヨハネの福音書5章28節、29節には、
このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。
というイエス・キリストの教えが記されています。
神さまは無限に聖い方です。それで、自らのうちに罪を宿し、実際に罪を犯している人は、神さまの聖なる御怒りの下にあります。ローマ人への手紙1章18節に、
不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されている
と記されているとおりです。神さまは義であられます。それで、人の罪を決して見逃すことなく、すべてをその聖なる御怒りによって厳格におさばきになります。
このようにして、神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまっている人と神さまの間には、断絶があります。それは、人が造り主である神さまを神として礼拝してあがめることがないということに現れているだけではありません。それ以上に、神さまが人の罪に対して聖なる御怒りを示し、御前から退けておられることに現れています。
このようなことにおいても、イエス・キリストが「インマヌエル」という御名の主であられることが意味をもっています。
先ほど引用しましたマタイの福音書1章21節には、夢でヨセフに現れた御使いが、
マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。
と告げたことが記されていました。
イエス・キリストはただ無限に身を低くして、人となって来てくださっただけではありません。イエス・キリストは「ご自分の民をその罪から救ってくださる方」として来てくださいました。マルコの福音書10章45節には、
人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。
というイエス・キリストの教えが記されています。イエス・キリストは私たちの罪を贖うために「贖いの代価として」ご自身の「いのち」を与えてくださいました。これがイエス・キリストの十字架の死の意味です。
ローマ人への手紙3章25節には、
神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。
と記されています。ここでは、イエス・キリストが「なだめの供え物」として十字架にかかって死んでくださったことが示されています。この「なだめの供え物」ということばは、神さまが私たちの罪に対して聖なる御怒りを示しておられることを踏まえています。イエス・キリストは十字架にかかって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わって受けてくださったのです。神さまはイエス・キリストの十字架において私たちの罪を完全におさばきになりました。ここでは、
それは、ご自身の義を現わすためです。
と言われています。神さまは決して私たちの罪を見過ごしにされたのではありません。私たちの罪をすべて完全に清算されました。イエス・キリストの十字架においてこそ、神さまの義が立てられているのです。
そればかりではありません。御子イエス・キリストの十字架においては、神さまの愛もこの上なく豊かに示されています。ローマ人への手紙5章8節には、
しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
と記されています。また、ヨハネの手紙第1・4章9節、10節には、
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
と記されています。「私たちの罪のために、なだめの供え物として」ということばは、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りがあったことを示しています。しかし、神さまはその私たちの罪に対する御怒りをすべてご自身の御子にお注ぎになりました。
このすべてのことが、イエス・キリストが「インマヌエル」という御名の主であられることにかかわっています。
イエス・キリストにおいて「神は私たちとともにおられる」ということが私たちの現実になっているということは、
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。
ということ、また、
神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。
ということが私たちの現実となっているということを意味しています。
「インマヌエル」という御名の主であられる御子イエス・キリストは、十字架にかかって、私たちの罪のための贖いの代価としてご自身のいのちを捨ててくださった主として、世の終わりまでいつも私たちとともにいてくださいます。
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