インマヌエル預言の成就(2)
(クリスマス説教集)


説教日:2007年12月23日
聖書箇所:マタイの福音書1章18節〜25節


 2003年から昨年まで、降誕節の礼拝におきましては、マタイの福音書1章18節〜25節に記されているイエス・キリストの誕生の次第についてのお話をしてきました。昨年は、22節、23節に、

このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

と記されていることについて、特に、「主が預言者を通して言われた事」の歴史的な背景についてお話ししました。そのお話は途中で終わっている状態ですから、今年も、それを補足しつつ、まとめながら、お話を進めていきたいと思います。
 ここで引用されている、

見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。

という預言を「インマヌエル預言」と呼ぶことにしましょう。これは、旧約聖書のイザヤ書7章14節からの引用です。そのイザヤ書7章14節には、

それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を「インマヌエル」と名づける。

と記されています。
 イザヤ書は預言者イザヤによって記されました。イザヤは紀元前7百年代の後半、理解の仕方によって前と後が多少延びる可能性がありますが、740年から701年に、ユダ王国において活動した預言者です。
 この預言が与えられたのは、ユダ王国の王がアハズの時代のことです。アハズの生涯のことは列王記第2・16章に記されています。2節〜4節には、

アハズは二十歳で王となり、エルサレムで十六年間、王であった。彼はその父祖ダビデとは違って、彼の神、主の目にかなうことを行なわず、イスラエルの王たちの道に歩み、主がイスラエル人の前から追い払われた異邦の民の、忌みきらうべきならわしをまねて、自分の子どもに火の中をくぐらせることまでした。さらに彼は、高き所、丘の上、青々と茂ったすべての木の下で、いけにえをささげ、香をたいた。

と記されています。
 ひとことで言いますと、契約の神である主に背いて、偶像を礼拝し、自分の子どもを偶像の神、おそらくモレクにささげることさえもしたということです。このようなことは、「異邦の民の、忌みきらうべきならわしをまねて」と言われていることからも分かりますように、その当時、カナンや周辺の地の民の間で行われていたことでした。アハズはカナンの地の民の神々に心を奪われ、それを頼みとしていたのです。
 続く5節には、

このとき、アラムの王レツィンと、イスラエルの王レマルヤの子ペカが、エルサレムに戦いに上って来てアハズを包囲したが、戦いに勝つことはできなかった。

と記されています。ここには、そのようなアハズに対する主のさばきとして、ユダはアラムとイスラエルによって攻撃されたということが記されています。イスラエルはダビデとソロモンの時代は一つの王国でしたが、ソロモンの次の時代に、南王国ユダと北王国イスラエルに分裂しました。アラムは勢力を拡大してきているアッシリヤに対抗していました。そのためにイスラエルと連合しました。そして、アラムとイスラエルはユダもその連合に加わるように迫ったのですが、ユダはそれを受け入れませんでした。それで、アラムとイスラエルはユダを攻めたのです。
 この時のことを別の目で記している歴代誌第2・28章には、この攻撃によってユダ王国の多くの者が殺され、多くの男女がとりことして引き連れて行かれたことが記されています。具体的な数が記されているのはイスラエルのことですが、イスラエルはユダの12万人の兵士を殺し、20万人をとりこにしたと記されています。そうではあっても、アラムとイスラエルの、ユダを自分たちの連合に加えようというもくろみは達成されませんでした。


 これらのことを念頭において、「インマヌエル預言」が記されているイザヤ書7章の1節を見てみましょう。そこには、

ウジヤの子のヨタムの子、ユダの王アハズの時のこと、アラムの王レツィンと、イスラエルの王レマルヤの子ペカが、エルサレムに上って来てこれを攻めたが、戦いに勝てなかった。

と記されています。
 これは先ほど引用しました、列王記第2・16章5節に記されていることと同じことを記しています。ですから、「インマヌエル預言」は、アハズが王として治めているユダが、そのアハズの罪のために主のさばきにあおうとしている、まさにその時に与えられたのです。
 昨年もお話ししましたように、このイザヤ書7章1節の言葉は、2節以下に記されていることをまとめていると考えられます。そこで「戦いに勝てなかった」と言われているのは、アラムとイスラエルはユダに甚大な損害を与えたけれども、ユダを屈服させて、反アッシリヤの連合に加えることはできなかったということを意味しています。
 2節にはその時起こったことが、

ところが、「エフライムにアラムがとどまった。」という報告がダビデの家に告げられた。すると、王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺した。

と記されています。新改訳で「ところが」と訳されている言葉は、一般的な接続詞ですが、新改訳はこの戦いが二度行われたと理解して、「ところが」と訳しています。しかし、この戦いは一度なされたものと考えられます。いずれにしましても、先ほどお話ししましたアハズが自分の息子をささげたことも、このような状況の中で起こったのではないかと思われます。列王記第2・3章27節には、モアブの王が戦いにおいて危険が迫ってきていることを悟ったとき、自分の長男つまり王位継承者を全焼のいけにえとしてささげたことが記されています。
 このように、アラムとイスラエルの連合軍の攻撃が始まろうとしていることが「ダビデの家に告げられた」時、ユダの人々は、王も民も激しく動揺しました。
 これに対して主は預言者イザヤをお遣わしになって、アラムとイスラエルの王たちのもくろみが成功しないことを告げられました。イザヤをとおして語られた主の言葉は、

気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。

という言葉をもって始まり、

 もし、あなたがたが信じなければ、
 長く立つことはできない。

という言葉をもって終っています。主はアラムとイスラエルの王たちのもくろみが実現しないことを宣言されるとともに、恐れることなく、主を信頼して立っているようにアハズを諭されたのです。
 さらに、10節〜13節には、

主は再び、アハズに告げてこう仰せられた。「あなたの神、主から、しるしを求めよ。よみの深み、あるいは、上の高いところから。」するとアハズは言った。「私は求めません。主を試みません。」そこでイザヤは言った。「さあ、聞け。ダビデの家よ。あなたがたは、人々を煩わすのは小さなこととし、私の神までも煩わすのか。

と記されています。
 主は、アハズに、

あなたの神、主から、しるしを求めよ。よみの深み、あるいは、上の高いところから。

と言われました。これは、どのようなしるしでもよいから求めなさいということで、アハズの信仰の決断を促す言葉であると考えられます。主に信頼するようにと、信仰の背中を押すような言葉です。
 それに対してアハズは、

私は求めません。主を試みません。

と応じます。これは、一見、信仰の言葉、主に信頼しているゆえに主を試みることはしないという姿勢のように見えますが、そうではありません。ともにいてくださることを保証してくださったうえで、そのことを示すしるしをも与えてくださろうとしておられる主を退けることです。
 アハズが信仰をもって主に応答しなかったのは、初めから主を信じてはいなかったからです。また、この時には、すでに、アッシリヤに頼る決心をしていたからであると考えられます。事実、列王記第2・16章の7節〜9節には、アハズが「主の宮と王宮の宝物倉にある銀と金」を貢ぎ物として贈って「アッシリヤの王ティグラテ・ピレセル」に助けを求めたことが記されています。
 このように、アハズは信仰をもって主に応答しませんでした。それでも、主はイザヤを通して語り続けてくださいました。13節、14節には、

そこでイザヤは言った。「さあ、聞け。ダビデの家よ。あなたがたは、人々を煩わすのは小さなこととし、私の神までも煩わすのか。それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」

と記されています。

 さあ、聞け。ダビデの家よ。

という呼びかけの「ダビデの家」は、ダビデの子孫としてユダ王国の王座に着いているアハズとその家臣たち指しています。

 あなたがたは、人々を煩わすのは小さなこととし

と言われているときの「人々」は、預言者イザヤだけでなく、少数ではあったでしょうが、アハズが主の御言葉を信じて、主に信頼するようになることを期待していた人々をも指していると考えられます。アハズとその家臣たちは、この人々の期待を裏切り続けてきました。

 私の神までも煩わすのか。

という言葉は、神さまがこの上ない忍耐とへりくだりをもってアハズに接してこられたのに、アハズとその家臣が神さまを信じて受け入れることはなかったことを指しています。ここで「煩わす」と訳されている言葉(ラーアーのヒフィール語幹)は、「疲れさせる」とか「途方に暮れさせる」というような意味合いをもっています。神さまがアハズに、本当に深い思いをもって、忍耐深く接してきてくださったことが感じられます。冷徹にアハズを見ておられるだけであったとしたら、このようには言われなかったはずです。
 このこととの関連で思い出されるのは、黙示録3章20節に記されている、

見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

という、ラオデキヤにある教会に対する栄光のキリストの御言葉です。なんと、栄光の主がラオデキヤにある教会の人々の心から締め出されているというのです。それ以上に驚くのは、それでも、栄光のキリストは深い忍耐とへりくだりをもってその戸をたたき続けてくださっているということです。
 古い契約の下でも新しい契約の下でも、主はこのように限りないへりくだりと忍耐をもってご自身の民に接してくださっておられます。
 しかし、アハズとその家臣たちは主に対して心を開くことはありませんでした。11節で主はイザヤをとおして、

 あなたの神、主から、しるしを求めよ。

と言われました。ここでは、主は「あなたの神」と呼ばれています。しかし、この13節では、

 私の神までも煩わすのか。

というように、主は「あなたの神」から「私の神」に呼び方が変えられています。アハズが徹底的に主を退けてしまったことが感じられます。
 それでも、主はお言葉を続けられます。そして、

それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を「インマヌエル」と名づける。

と言われました。主の忍耐とへりくだりを踏みにじって、徹底的に主を捨て去ってしまっているアハズに対して、主がなおも「しるし」与えてくださったのです。それは、

見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を「インマヌエル」と名づける。

というもの、いわゆる「インマヌエル預言」です。
 これには私たちの理解を越えた面があり、これについていろいろな問題が指摘されています。けれども、今日は一つの問題しか取り上げることはできません。
 よく耳にするのは、ここで「処女」と訳されている言葉(アルマー)は「若い女性」、「乙女」を表わす言葉で、「処女」を表わすためなら他の言葉(ベトゥーラー)があるということです。けれども、聖書の中でこの言葉(アルマー)が用いられている個所を調べてみますと、これは結婚している女性に用いられることはありません。そして、そのような「若い女性」、「乙女」は、その当時の文化では、当然、「処女」であるという意味合いがありました。同時に、もう一つの言葉(ベトゥーラー)は「処女」ということしか表しませんが、この言葉(アルマー)は「処女」ということともに、「結婚しうる年齢に足しており」とか「子どもを宿しえる」というような意味合いももっています。このように、この言葉(アルマー)は「処女」ということを表すとともに、豊かな意味合いをもった言葉です。
 また、当時は、今日と違って、十代の後半で結婚することが珍しいことではありませんから、ただ単に「若い女性」が子どもを産むということであれば、それはどこにでもある日常のことでした。そのようなことがユダ王国の存亡にかかわる危機に際しての「しるし」とはなりえません。この場合は、それが「処女」ということを表す言葉(アルマー)が用いられていることに意味があると考えられます。
 さらに、

見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を「インマヌエル」と名づける。

という預言の言葉には、父親のことにはまったく触れられていません。また、通常、名前をつけるのは父親ですが、ここでは、その「処女」自身が「インマヌエル」と名づけると言われています。確かに、聖書の中には、夫ではなく妻が名をつけた事例があります。たとえば、創世記4章1節には、

人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。

と記されています。この場合もそうですが、母の方が子どもの名前をつける場合には、その子どもの誕生が特別な意味をもっています。
 これらのことから、この預言の言葉は、新改訳のように、

見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を「インマヌエル」と名づける。

と訳すべきであると考えられます。
 イザヤ書の流れの中では、この「インマヌエル」という言葉は8章8節と10節に出てきます。
 7節、8節には、

 それゆえ、見よ、主は、
 あの強く水かさの多いユーフラテス川の水、
 アッシリヤの王と、そのすべての栄光を、
 彼らの上にあふれさせる。
 それはすべての運河にあふれ、
 すべての堤を越え、
 ユダに流れ込み、押し流して進み、
 首にまで達する。
 インマヌエル。その広げた翼は
 あなたの国の幅いっぱいに広がる。」

と記されています。
 ここでは、アッシリヤがユーフラテス川にたとえられて、すべての国々にあふれて、それを飲み込んでしまうことが示されています。そして、「インマヌエル」の地であるユダ王国の「首にまで達する」と言われています。最後の、

 インマヌエル。その広げた翼は
 あなたの国の幅いっぱいに広がる。

という言葉は、少し分かりにくいのですが、

 その広げた翼は
 あなたの国の幅いっぱいに広がる。

ということは、アッシリヤの侵略がユダ王国に及ぶことを表しています。ここでは、ユダ王国が「インマヌエル」の国と言われています。「インマヌエル」なる方は、ユダの民と一体になっておられ、その一体において、敵の侵略に苦しめられることを経験されるのです。
 ところが、9節、10節では、これが一変します。そこには、

 国々の民よ。打ち破られて、わななけ。
 遠く離れたすべての国々よ。耳を傾けよ。
 腰に帯をして、わななけ。
 腰に帯をして、わななけ。
 はかりごとを立てよ。
 しかし、それは破られる。
 申し出をせよ。しかし、それは成らない。
 神が、私たちとともにおられるからだ。

と記されています。
 ここでは、あの広大なユウフラテス川にたとえられ、国々を飲み込んでゆくようになるアッシリヤを含めて、国々の民が神の民に対してどのようなはかりごとを巡らしても、それは破られてしまうと言われています。そして、その理由は、

 神が、私たちとともにおられるからだ。

と言われています。この「神が、私たちとともにおられる」と訳されている言葉が「インマヌエル」です。
 実際に、列王記第2・18章、19章に記されていますように、ユダ王国ではアハズの子ヒゼキヤの時代になって、アッシリヤの王セナケリブの軍隊がやって来ます。そして、北王国イスラエルの首都サマリヤを包囲して陥落させ、イスラエルを滅ぼしてしまいます。もちろん、その遠征の途上の国々もすべて打ち破ってのことです。そして、その足でエルサレムに迫り、これを包囲します。まさに、

 ユダに流れ込み、押し流して進み、
 首にまで達する。

と言われていたとおりのことになりました。
 しかし、主はヒゼキヤの祈りにお答えになって、一夜にして、アッシリヤの陣営の18万5千人を撃ちました。そのため、セナケリブは退却を余儀なくされました。実際、アッシリヤの記録にも、エルサレムを包囲した記録はありますが、それを陥落させたとの記録はないそうです。そこには、確かに、「インマヌエル」なるお方のご臨在があり、

 神が、私たちとともにおられるからだ。

という御言葉の現実があったのです。
 このように、「インマヌエル」なるお方は、ご自身の民と一つとなってその苦難を経験される方でありつつ、その当時の最強の帝国であるアッシリヤを含めた諸国の民を治め、それをさばき、歴史を支配しておられる主であられます。
 神さまは不信仰によって徹底的にご自身を捨てたアハズに限りない忍耐とへりくだりをお示しになって、「インマヌエル」なる方を預言してくださいました。また、このお方においてこそ、ご自身が私たちとともにいてくださるということを約束してくださいました。そして、その預言と約束が単なる言葉ではなく、確かなものであることを、実際の歴史の中で、アッシリヤという帝国をもお用いになってお示しになられました。
 確かに、この旧約聖書の記録は歴史の現実として起こったことです。しかし、それでも、これらは神さまの預言の言葉の確かさをあかしするものであり、地上的なひな型としての意味をもっているものです。それは、その後に来たるべき、まことの「インマヌエル」なる方を指し示しています。そして、このまことの「インマヌエル」なる方は、今から2千年前に、ご自身の民のための贖い主として来てくださった永遠の神の御子イエス・キリストです。
 この「インマヌエル」なる方は、物理的な力、血肉の力で人を支配する権力からの解放ではなく、それ以上の解放を私たちにもたらしてくださいます。またこの方自身も、物理的な力、血肉の力で人を押さえつけて支配なさることはありません。この方は、人間の根本問題、人間自身も気がついていない根本問題である、罪と罪の結果もたらされる死と滅びから、私たちを解放してくださるために来てくださいました。そして、十字架にかかって私たちの罪に対する神さまのさばきを、私たちに代わって受けてくださいました。これによって、私たちの罪は贖われており、私たちは罪を赦されています。そして、私たちを新しく復活のいのちで生かしてくださるために、死者の中からよみがえってくださいました。
 クリスマスは、神さまがまことの「インマヌエル」なる方を遣わしてくださったことを覚えるときです。ヨハネの福音書3章16節に記されている、

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

という御言葉を改めて噛みしめたいと思います。


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