インマヌエル預言の成就(1)
(クリスマス説教集)


説教日:2006年12月24日
聖書箇所:マタイの福音書1章18節〜25節


 降誕節の礼拝におきましては、2003年から昨年までマタイの福音書1章18節〜25節に記されているイエス・キリストの誕生の次第についてのお話をしてきました。今年もこの個所からのお話を続けます。
 昨年までは、18節〜21節に記されていることについてお話ししました。それを簡単にまとめておきましょう。
 18節で、

その母マリヤはヨセフの妻と決まっていた

と言われているときの「妻と決まっていた」ということは、その当時の考え方では、すでに結婚しているけれどもまだ一緒に住んでいない状態のことでした。この関係を解消するためには、正式な離婚の手続きが必要でした。
 マリヤは、そのような状態にある時に、聖霊によって身重になりました。そのことは、マリヤには知らされていましたが、ヨセフには知らされていませんでした。それで、「正しい人であった」と言われているヨセフは、マリヤと別れるほかはないと考えました。同時に、マリヤを「さらし者」にするようなことはしたくないとも考えましたので、マリヤを告発して裁判において事の真相を明らかにしようとすることを避けました。具体的には、申命記24章1節に記されている規定と当時の決まりにしたがって、2人または3人の証人を立てて「離婚状」を作成し、それをマリヤに渡して去らせるようにしたと考えられます。このように、ヨセフはマリヤのことを考えてこの決断をしました。
 ヨセフがこの決断をした時に、主の御使いが夢でヨセフに現れて、そこで起っていることの意味を明らかにしました。御使いは、

ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。

と告げました。
 「ダビデの子ヨセフ」という言葉は、ヨセフがダビデ家の家系に属していることを示しています。

その胎に宿っているものは聖霊によるのです。

ということは、聖霊がマリヤのうちにあるものをお用いになって、新しい人を造り出されたことを意味しています。このことのうちに、永遠の神の御子が人の性質をお取りになったという降誕節の出来事の中心があります。このことによって、御子イエス・キリストがお取りになった人の性質は、私たちと同じ人の性質となりました。ただし、それは罪によって汚染されていない本来の人の性質でありました。
 このようにして、永遠の神の御子は私たちと同じ人の性質をお取りになりました。そして、マリヤの胎に宿ることから誕生に至るまでの経験をされました。さらには、この世に生まれ出てこの世で生きることと、それに伴うさまざまな苦しみや悲しみをもご自身のこととして経験されました。ヘブル人への手紙2章17節、18節には、

そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。

と記されています。
          *
 御使いは続いて、

マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。

と告げました。
 永遠の神の御子であられる「この方」が人の性質をお取りになり、聖霊のお働きによってマリヤからお生まれになったのは、「ご自分の民をその罪から救ってくださる」ためでした。その救いは罪からの救いであると言われています。というのは、この世には、憎しみや争い、病や死など、涙と叫びを伴うさまざまな問題がありますが、それらすべての問題の根は人間自身の中にある罪にあるからです。その罪が清算されて、その人が罪の力から解放されないかぎり、人間にとっての真の救いはあり得ません。「この方」が「ご自分の民をその罪から救ってくださる」のは、「この方」が私たちの身代わりとなって、私たちの罪に対する神さまのさばきを受けてくださったことによっています。「この方」がお取りになった人の性質が私たちと同じ人の性質であるとともに、罪に汚染されていないので、「この方」は私たちの身代わりとなることができました。そして、そのことは、「この方」が十字架にかかって死んでくださったことによって歴史の現実となりました。これによって、私たちの罪は完全に贖われています。なぜなら、これは永遠の神の御子であられる方が、その十字架において私たちの罪に対する刑罰の苦しみをすべて味わってくださり、ご自身のいのちという無限の値を支払ってくださったことだからです。このことに基づいて、「この方」を信じた私たちは罪を赦され、罪に対するさばきとしての意味をもっているさまざまな問題と、その最終的に行き着くところである死と滅びから救われています。
 ローマ人への手紙5章8節、9節には、

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。

と記されています。さらに、6章23節には、

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

と記されています。
          *
 マタイの福音書1章22節、23節には、

このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

と記されています。

このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。

と訳されている部分は文字通りには、

このすべてが起ったのは、主によって、預言者を通して言われた事が成就するためであった。

となります。マタイの福音書においては、これと同じような、

これは(主によって)預言者(預言者たち、預言者誰々)を通して(何々と)言われたことが成就するためであった。

という言葉が、このほかに7回(2章15節、23節、4章14節、8章17節、12章17節、13章35節、21章4節)出てきます。
 個人的なことになりますが、私は最初に聖書を読んだのは新約聖書でしたが、マタイの福音書にこのような言葉が繰り返し出てくることに何とも言い様のない不可思議な印象をもちました。普通であれば、このことによって預言が成就したと言うのに、このことは預言が成就するためであったという言い方はおかしいと感じたのです。考えてみますと、その時は、「このことは預言が成就するために起った」というような捉え方しかしていませんでしたので、おかしなことだと思ったわけです。ただそれもゆえなきことではありません。というのは、

主によって、預言者を通して言われた事が成就するためであった。

というように「」がその預言の言葉を語られた方であるということが明確に示されているのは、最初の1章22節と2章15節だけで、後の6回は、

預言者(預言者たち、預言者誰々)を通して(何々と)言われたことが成就するためであった。

という言い方がなされているからです。もちろん、

預言者を通して言われたこと

という言葉は、主によって語られたことという意味ですが、最初に読む者にとっては、そのようなことまでは心が回りませんでした。
 いずれにしましても、これらの言葉は、すべてのことが主がすでに預言者たちを通して示してくださっていたみこころと目的にそって実現しているということを示しています。それは、事態の思わぬ展開に対応してなされた対応策によることではないということです。これは主が前もって語られたことであって、人間が後からこじつけたことではないということでもあります。
 マタイがこのような言葉を繰り返し用いていることは、旧約聖書において預言されていたことがイエス・キリストにおいて最終的に成就しているということのあかしに他なりません。それはイエス・キリストご自身がユダヤ人たちに対してあかしされたことです。ヨハネの福音書5章39節には、

あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。

と記されています。これに続いて、イエス・キリストは、

それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。

と言われました。これはご自身を信じないユダヤ人に対する糾弾の言葉ですが、永遠のいのちは聖書にあかしされているイエス・キリストのもとに行くことによって得られるということ、したがって、永遠のいのちはイエス・キリストが与えてくださるものであるということが、大前提となって語られています。信仰とは、イエス・キリストのもとに行って、イエス・キリストが与えてくださる永遠のいのちを受け取ることに他なりません。
          *
 マタイの福音書1章23節には、主によって、預言者を通して語られたことが記されています。それは、

「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

ということです。
 これは新改訳の欄外引照にありますように、イザヤ書7章14節からの引用です。そのイザヤ書7章14節には、

それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を「インマヌエル」と名づける。

と記されています。
 これだけですと、これが語られた事情がよく分かりませんが、7章1節、2節には、

ウジヤの子のヨタムの子、ユダの王アハズの時のこと、アラムの王レツィンと、イスラエルの王レマルヤの子ペカが、エルサレムに上って来てこれを攻めたが、戦いに勝てなかった。ところが、「エフライムにアラムがとどまった。」という報告がダビデの家に告げられた。すると、王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺した。

と記されています。
 少し分かりにくいのですが、これは「ユダの王アハズの時のこと」です。その時、ユダはアラムと北王国イスラエルによって攻撃されました。それはアラムとイスラエルがアッシリヤに対抗するために連合して、それにユダも加わるように迫ったのに、ユダがそれを受け入れなかったことによっています。新改訳ではアラムとイスラエルの連合軍の攻撃が2度あったように読めます。実際に、そのように解釈している人々がいます。その一方で、1節は全体的なまとめで、具体的な描写が2節から始まると解釈している人々もいます。この点に関しては、はっきりとしたことは分かりません。ただ、アハズの時代にこの連合軍の攻撃があったことはアハズの王としての生涯を記している歴代誌第2・28章などから分かります。そして、それはアハズが主を捨てて偶像に仕えたことに対するさばきであることも示されています。さらに、彼らの攻撃によってユダ王国が多大な打撃と損害を被ったことも記されています。
 この歴代誌第2・28章の記事からしますと、連合軍の攻撃は1度であったように見えます。そうであるとしますと、1節は全体的なまとめであると考えられます。ところが、そうであるとしますと、イザヤ書7章1節に、連合軍が「戦いに勝てなかった」と記されていることがおかしなことであるように思われます。というのは、歴代誌第2・28章の記事では連合軍は多くのとりこを引き連れて帰っていったと言われているからです。アラムの王に関しては多くの者をとりこにしたと言われています。イスラエルの王については、その後に記されていることとの関連もありますので、より具体的に、1日に12万人を殺し、女性や子どもたち20万人をとりこにしたと言われています。しかし、イザヤ7章1節は、目に見える戦いだけでなく、2節〜9節に記されている主の御言葉をも含めてのことで、最終的には連合軍の企ては成功しなかったということを示していると考えられます。その企てとは、6節に、

われわれはユダに上って、これを脅かし、これに攻め入り、わがものとし、タベアルの子をそこの王にしよう。

と記されています。ユダ王国に自分たちの傀儡政権を樹立しようというものです。「タベアルの子」が誰なのか分かりませんので明確なことは言えませんが、これはダビデ王朝の滅亡の危機であったと考えられます。かりに「タベアルの子」がダビデ王朝に属するものであったとしても、異教のアラムや背教した北王国イスラエルの支配下に置かれるということで、ダビデ王朝の危機であるということになります。そうであるとしますと、これは主のダビデに対する契約において与えられたダビデの子が永遠の王座に着くという約束の危機であったということになります。
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 いずれにしましても、連合軍の攻撃が始まろうとしていることが「ダビデの家に告げられた」と記されていて、それがダビデ王朝にかかわる危機であることが示されています。その時、ユダの人々は、王も民も激しく動揺しました。
 これに対して主は預言者イザヤをお遣わしになって、アラムとイスラエルの王の企てが成功しないことを告げられました。その言葉は、4節に記されていますように、

気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。

という言葉をもって始まります。これは主に信頼して心を静めるべきことを告げるものです。そして、最後は、9節に記されている、

 もし、あなたがたが信じなければ、
 長く立つことはできない。

という言葉をもって終っています。
 このように、主がイザヤを通して語られた言葉は、基本的に、主を信頼して立つべきことでした。
 これに対して、アハズは信仰をもって応答しなかったようです。歴代誌第2・28章に記されている記録でも、アハズが主を捨てて偶像に走ったことしか記されていません。
 もちろん、アハズは一国の王でしたから動揺しながらも、側近たちを招集して対策を講じたはずです。ただそれは、危機感に追い立てられてなされたのであって、主と主の御言葉を信頼して、そのうえで対策を講じたわけではないのです。実際に、歴代誌第2・28章の記録では、アハズはアッシリヤに助けを求めています。けれども、アッシリヤの王は何の助けにもならなかったばかりか、かえって、アハズを苦しめました。歴代誌第2・28章22節には、

アッシリヤの王が彼を悩ましたとき、このアハズ王は、ますます主に対して不信の罪を犯した。

と記されています。さらに、アハズは自分たちに多大な損害を与えたアラムの偶像を頼みとするようになっています。
 イザヤ書7章に戻りますが、アハズが信仰をもって主に応答しなかったことを受けて10節〜13節には、

主は再び、アハズに告げてこう仰せられた。「あなたの神、主から、しるしを求めよ。よみの深み、あるいは、上の高いところから。」するとアハズは言った。「私は求めません。主を試みません。」そこでイザヤは言った。「さあ、聞け。ダビデの家よ。あなたがたは、人々を煩わすのは小さなこととし、私の神までも煩わすのか。

と記されています。主を信じることができないアハズに対して、主の側から歩み寄ってくださって、

あなたの神、主から、しるしを求めよ。よみの深み、あるいは、上の高いところから。

とまで言ってくださいました。

 よみの深み、あるいは、上の高いところから。

というのは、いわば、「どのようなしるしであってもよいから」というような意味です。
 それに対してアハズは、

私は求めません。主を試みません。

と応じます。これは一見すると、申命記6章16節に記されている、

あなたがたの神、主を試みてはならない。

という主の戒めにしたがって、主を試みることはしないという信仰の態度のように見えます。けれども、実際には、これは主を信じようとしないアハズに歩み寄ってくださって、信じられないのならしるしを求めなさいとまで言ってくださった、た主を退けるものです。主を試みることは、主がともにいてくださることを疑って、主がともにおられるならしるしを与えてくれるように要求することです。けれども、この場合は主がともにいてくださることを保証してくださったうえで、そのことを示すしるしをも与えてくださろうとしておられるのです。アハズはそのような主のご配慮を退けています。ですから、アハブの応答は、自らの不信仰を敬虔な信仰の装いをもって覆い隠しているだけのものです。
 それでも、主はイザヤを通して語り続けてくださいます。その最初の部分が、13節、14節に、

そこでイザヤは言った。「さあ、聞け。ダビデの家よ。あなたがたは、人々を煩わすのは小さなこととし、私の神までも煩わすのか。それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」

と記されています。そして、この後の部分で、ここに預言されている「男の子」の誕生から間もなく、アラムとイスラエルの王が滅ぼされることが告げられています。つまり、ユダ王国は存亡の危機から守られるのです。主がダビデに与えてくださった契約の約束を守り通してくださったのです。
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 これが、マタイが引用しているいわゆる「インマヌエル預言」が与えられた歴史的な状況です。ユダ王国の王も民も、アラムとイスラエルの連合軍による攻撃にさらされてすっかり動揺してしまっていました。確かに、それはユダ王国の危機でした。私たちは後からその記録を読んでいますので、ユダ王国の動揺をなかなか理解しがたいものです。しかし、自分をその立場に置いてみるとどうでしょうか。外国からの攻撃にさらされるというような事態にならなくても、動揺してしまうことはいくらでもあります。そのような自分の姿を忘れてしまってはなりません。
 ユダの王アハズは現実の厳しさと、そのゆえの動揺の激しさのために、預言者イザヤを通して語られた主の言葉を信じることができませんでした。明確に語られた主のみこころを信じることができませんでしたし、それを示してくださった主に信頼することへの招きを受け入れることができませんでした。このアハズの姿にも、私たちは自分自身の姿を見るような思いになります。迫っている危機を前にして、動揺のあまり、静まって主を信頼することができない自分の姿、あるいは、主を信頼して静まることができない自分の姿です。必死で主の御名を呼び求める敬虔の現れの奥には不信仰の思い煩いが秘かに燃えているというような現実です。
 しかし、マタイが引用している「インマヌエル預言」は、まさにそのような現実のうちにあるご自身の民に対して、主の側の一方的な恵みによって与えられたものです。その預言の中心は、そのような者たちのために主が備えてくださったお方があること、そしてその方において、神さまは私たちとともにおられるという、驚くべきことが私たちの現実になるということです。しかも、それは、その方が成し遂げてくださる「ご自分の民をその罪から救ってくださる」御業において私たちの現実になるというのです。
 危機に直面して思い煩いに身を焼かれている自分に気がついて、そのような自分の現実に暗たんたる思いになる私たちです。しかし、そのような私たちに対して、このインマヌエルという御名の主が備えられています。そして、この方において神さまが私たちとともにおられるということが確かな現実となっています。私たちはこの方のお支えと導きによって、

気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。

という主の御言葉に耳を傾け、主に信頼することを学び、主を信頼して生きるように導かれていきます。


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