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説教日:2011年5月15日 |
第三にお話ししたいことは少し込み入っていますので、これまでお話ししたことがありません。しかし、きょう取り上げている教えを理解するうえで大切なことでもありますので、少し詳しくお話ししたいと思います。 このイエス・キリストの教えでは、ただ「幸いです」という宣言がなされているだけではなく、その理由も示されています。その理由に注目しながら、改めてその教えを見てみますと、 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。 となっています。 これらの教えに出てくる八つの理由のうち、最初と最後の理由は同じで、 天の御国はその人たちのものだから となっています。しかも、この二つの(同じ)理由は(現在時制で表されていて)、この「天の御国はその人たちのもの」であるということが、今も後も、また、永遠に変わることがない現実であるということを表しています。 「天の御国はその人たちのもの」であるということは、その人たちがすでに神さまの救いにあずかって「天の御国」に入っている、「天の御国」に属しているということを意味しています。 その人たちがどのようにして救われて「天の御国」に入るようになったのかは、ここには記されていません。しかし、聖書の教えるところは旧約聖書と新約聖書をとおして一貫しています。それは、私たちが救われて「天の御国」に入るようになるのは、私たち人間の力や業績によらないで、ただ神さまの一方的な愛と恵みによっているということです。エペソ人への手紙2章8節、9節には、 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。 と記されています。私たちが救われることは、ここで、 行いによるのではありません。 と言われていますように、決して、私たちがよい行いをして報いとして受け取るものではありません。むしろ、「神からの賜物です」と言われていますように、神さまからの贈り物です。「賜物」と訳されたことば(ドーロン)は「贈り物」をも意味しています。また、「恵みのゆえに」と言われていますように、その贈り物としての救いは、神さまの一方的な愛に基づく恵みによって与えられたものです。 「信仰によって」と言われているのは、神さまが愛と恵みによって備えてくださった救いという贈り物を、私たちが信じて受け取ることを意味しています。「信仰」は神さまの愛と恵みと「賜物」を受け取る「手」に当たります。 このように、幸いな人たちについてのイエス・キリストの教えに示されている理由の最初と最後のものは、その人たちがすでに神さまの一方的な愛と恵みによって救いにあずかって「天の御国」に入っていることを示しています。そして、このことは今もまた後にも、永遠に変わることがない祝福であることが示されています。 これらに挟まれている、その他の六つの理由はすべて(未来時制で表されていて)、それらが将来において完全に実現することを強調しています。それが完全に実現するときのことはここには示されていませんが、聖書は、それは終わりの日にイエス・キリストが再び来られて、私たちの救いを完全な形で実現してくださる時のことであると教えています。その意味で、これら六つの理由は神さまの約束でもあります。 とはいえ、これら六つの理由が示している祝福は、すでに実現し始めていることでもあります。それは、最初と最後の教えに記されている理由が示していますように、その人たちが、神さまの一方的な愛と恵みによって救われて「天の御国」に入れていただいているからです。救われて「天の御国」に入れていただいている人たちは、いろいろな意味で、神さまのからの慰めを受け、あわれみを受けていますし、神さまから神の子どもとして受け入れていただいています。 幸いな人たちについてのイエス・キリストの教えの、このような構成は、大切なことを示しています。それは、ここに幸いな人たちについてのイエス・キリストの八つの教えが記されていますが、それは8人のあるいは8種類の幸いな人たちがあるという意味ではなく、最初と最後の理由が示しています、神さまの一方的な愛と恵みによって救われて「天の御国」に入れていただいている人たちが、やはり、神さまの一方的な愛と恵みによってですが、新しく造り変えていただいて「心の貧しい者」、「悲しむ者」、「柔和な者」、「義に飢え渇く者」、「あわれみ深い者」、「心のきよい者」、「平和をつくる者」としていただいているということです。最後の「義のために迫害されている者」は「義に飢え渇く者」が「義」を追い求めて生きるときに結果として起こることを示しています。 このような全般的なことを踏まえて、 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。 という教えに注目したいと思います。 この教えに出てくる「義」が何を意味しているかについて、意見が分かれています。最近の優れた注解書においては、私の知るかぎりではほぼ例外なく、この「義」は神さまのみこころに従う行いのこと、すなわち「正しい行い」のことであると理解されています。 このことに異存はありません。マタイの福音書ではそのような意味合いで「義」ということばが用いられることが多くあります。しかし、その「義」に「飢え渇く」とはどういうことなのでしょう。この「義」を神さまのみこころにそった正しい行いのことであると理解している方々のほとんどが、その「義」に「飢え渇く」とは、そのその「義」を絶えず熱心に追い求めることであるとしています。そのことを示すものとして、代表するものを上げますと、詩篇42篇2節に記されています、 私のたましいは、神を、生ける神を求めて 渇いています。 いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。 というみことばが引用されています。その他、詩篇63篇1節、143篇6節、アモス書8章11節などを見てください。 お話を進める前に、このイエス・キリストの教えの言い表し方についてお話ししますと、この「飢え渇く」と訳されている部分は「飢える」という動詞の現在分詞と「渇く」という動詞の現在分詞で表されています。これが現在分詞であるということは、その人たちがいつも飢えており、渇いている状態にあることを表しています。しかも、「飢える」ということと「渇く」ということを重ねることによって、それが強調されています。このようなことから「義に飢え渇く」ということは、神さまのみこころに沿った正しい行いを、絶えずまた熱心に追い求めることであると理解されているわけです。 そうしますと、この、 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。 というイエス・キリストの教えは、「神さまのみこころに沿った正しい行いを絶えずまた熱心に追い求め、行っている人たちは幸いである。その人たちは満ち足りるようになるから。」という意味であるということになります。 しかし、このイエス・キリストの教えをこのように理解することには問題があります。 今取り上げています教えは、幸いな人たちについてのイエス・キリストの八つの教えのうち、第四の教えです。この第四の教えを除きますと、第一の教えから第六の教えまでは、その人たちの内面的な状態を示しています。そして、第七の教えになって、 平和をつくる者は幸いです。 というように、その人たちの行いのことが取り上げられています。また、第八の教えも、 義のために迫害されている者は幸いです。 というもので、これは、その人たちが神さまのみこころに沿った正しい行いを追い求めていることを踏まえています。 そうしますと、第一の教えから第六の教えの中にある、この、 義に飢え渇く者は幸いです。 という教えも、その人たちの内面的な状態のことを取り扱っている可能性があります。 そのことは、この教えと同じことを記しているルカの福音書6章21節に、 いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから。 と記されていることからも推察されます。もちろん、「いま飢えている」人たちは必死で食べようとしていることでしょう。けれども、ここでイエス・キリストが取り上げて心にかけておられるのは、その人たちが必死で食べようとしていることというより、常に飢えている状態にあるということであると考えられます。微妙なことですが、少し意味合いが違います。 同じように、 義に飢え渇く者は幸いです。 という教えでも、イエス・キリストは、切に「義」を願い求めても、決して、満足する状態になりえない人たちのことを取り上げておられるのだと考えられます。その中心は、その人たちが常に飢え渇いている状態にあること、決して、満ち足りることがない状態にあることにあると考えられます。 そのことは、そのような人たちが「幸い」であるとされている理由が、 やがてあなたがたは満ち足りるから。 ということにあることからも分かります。この「満ち足りる」と訳されていることばは、文字通りには「満たされるようになる」(受動態、未来時制)です。このような場合には(受動態は「神的受動態」で)、「神さまが満たしてくださる」ということを表しています。ということは、この教えで、 義に飢え渇く者は幸いです。 と言われているときの「義」は、私たち人間の力では実現することができない「義」であり、神さまが実現してくださる「義」、また、神さまが実現してくださると約束してくださっている「義」であるということになります。 普通に考えますと、人が自分の力では実現できない「義」に「飢え渇く」と言いますと、社会的な不正がなされて、その力があまりにも巨大であって、個人ではどうすることもできないために、正義がなされることを求めている状態、あるいは、それに類する状態が考えられます。それに対して、神さまがご自身の「義」に基づくさばきを執行されることが期待されるということです。実際に、そのような理解の仕方もあるようです。 そのようなことが否定されるわけではありません。聖書のみことばは、神さまがご自身の「義」に基づいて、そのような不義や不正を必ずおさばきになることを示しています。 しかし、それがここでのイエス・キリストの教えの主旨であると考えることはできません。というのは、先ほどお話ししましたように、ここでイエス・キリストが教えておられる教えの最初の六つの教えは、「幸い」であると言われている人たち自身の内側のあり方のことを取り上げていると考えられるからです。 さらにこれには、より重要なことがかかわっています。そのような社会的な不義や不正の問題においては、そこで正義がなされるように告発する人たちは「被害者」です。その人たち自身は、告発されるべき状態にありません。つまり、問題はその人自身のうちにあるのではなく、その人の外にあるのです。聖書の教えでは、そのような問題が問題とならないということではありませんが、そのような自分の外側の問題より前に、自分自身のうちにある問題を取り扱っています。いま私たちが取り上げていますイエス・キリストの一連の教えも、「山上の説教」の導入に当たる教えです。ここでは、幸いな人たちの最も基本的なあり方を示しています。それで、この教えでは、幸いな人自身の内側のあり方のことが取り上げられていると考えられます。 たとえば、ここに記されていますイエス・キリストの教えの第八の教えは、 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。 というものです。最初にお読みしましたように、この教えには続きがあって、 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。 と言われています。 この最後に取り上げられている「預言者たち」とは旧約聖書の預言者たちです。確かに、その預言者たちは、その当時の社会の不正を糾弾しました。しかし、預言者たちは、自分は正しいが、あなたがたは不正を行っている、というような糾弾の仕方をしてはいません。たとえば、預言者イザヤが記した預言の書の終わりの方の64章5節、6節には、 私たちは昔から罪を犯し続けています。 それでも私たちは救われるでしょうか。 私たちはみな、汚れた者のようになり、 私たちの義はみな、不潔な着物のようです。 というイザヤの告白が記されています。自分自身も含めて、「私たちはみな」罪を犯している者であり、 私たちの義はみな、不潔な着物のようです。 と告白しているのです。このような告白を記しているイザヤは、まさに「義に飢え渇く者」でした。 実は、イザヤ書6章には、イザヤの預言活動の初期に、イザヤ自身が、幻のうちに、神さまの栄光の御臨在の御前に立たされて自らの罪の現実を思い知らされたことが記されています。5節に記されていますように、その時イザヤは、自分が直ちに滅ぼされてしまうことを実感して、 ああ。私は、もうだめだ。 私はくちびるの汚れた者で、 くちびるの汚れた民の間に住んでいる。 しかも万軍の主である王を、 この目で見たのだから。 と叫びました。イスラエルの民の汚れより前に、自らの汚れを告白しています。 しかし、ことはそれで終わっていません。続く6節には、 すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。 「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、 あなたの不義は取り去られ、 あなたの罪も贖われた。」 と記されています。主の御前の「祭壇」は、そこで罪の贖いのためのいけにえがささげられる所です。ここでイザヤが幻のうちに経験したことをとおして、主はイザヤに大切なことを啓示してくださっています。主は、ご自身の一方的な恵みによって備えてくださっている罪の贖いがあることを、イザヤに示してくださったのです。そして、これがイザヤの預言の原点となっています。自らのうちに罪があり、罪を犯し続けてしまう者たちのために、神さまがその一方的な恵みによって、罪の贖いを備えてくださるということが、イザヤの預言の原点となっているのです。 また、新約聖書において最も多くのみことばを記したのは使徒パウロです。パウロの晩年の著作の一つであるテモテへの手紙第一・1章15節には、 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。 と記されています。また、ローマ人への手紙7章15節には、 私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。 というパウロの告白が記されています。 個人的なことを申しますと、私は今から50年ほど前、高校生の時でしたが、ひとりで聖書を読んでいまして、このパウロのことばに触れて、聖書のみことばを自分のこととして読むようになりました。そして、程なく、突然のように、イエス・キリストとの出会いを経験し、イエス・キリストを自分の救い主として信じるようになりました。 そのパウロも、まさに「義に飢え渇く者」でした。そのパウロがローマ人への手紙3章23節ー25節において、 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。 と記しています。 先ほどお話ししましたイザヤが幻のうちに示された主の御臨在の御前にある「祭壇」は、そこで罪の贖いのためのいけにえがささげられる所でした。イザヤの時代には、まだ、「ひな型」で「視聴覚教材」の様な役割を果たす、動物のいけにえがささげられているだけで、その「本体」はまだ現実になっていませんでした。イザヤは預言者としてはるかにそれを仰ぎ見る形で預言しています。それは、ここでパウロがあかししています、神さまが備えてくださった「なだめの供え物」すなわち「キリスト・イエス」を指し示していました。 イエス・キリストが「なだめの供え物」であるということは、「その血による」ということばが示していますように、イエス・キリストが十字架におかかりになって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りを、私たちに代わって受けてくださって、私たちの罪を贖ってくださったことを指しています。また、「信仰による、なだめの供え物」と言われているときの「信仰による」ということは、先ほどお話ししましたように、私たちがその「なだめの供え物」の効果を受け取るのは「信仰による」ということを意味しています。信仰は神さまの贈り物を受け取る「手」です。 このようにして、私たちは、 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。 と教えられています。そして、それはまた、神さまが「ご自身の義を現すため」のことであるとも言われています。 この「なだめの供え物」のことを、使徒ヨハネはその第一の手紙4章9節、10節において、 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。 とあかししています。 イザヤやパウロのように、義を追い求めながらも自らの罪と罪の汚れを自覚するために「義に飢え渇く者」に、神さまはその飢えと渇きを満たしてくださると約束してくださっています。その根本には、イザヤやパウロ自身が経験した御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いに基づく神さまの賜物としての義があります。 私たちが自分自身のうちにある問題に気がついて、自分では自分を変えることができないと感じているときには、 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。 というイエス・キリストの御声が聞こえてきます。 |
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