子たちを栄光に導くために
(クリスマス説教集)


説教日:2011年12月25日
聖書箇所:ヘブル人への手紙2章5節ー18節


 本主日は2011年の降誕節にあたります。この年は東日本大震災とそれにともなう原子力発電所の事故や、集中豪雨による大洪水など、さまざまな災害がこの国を襲いました。そのために、私たちの信仰の友たちや知人たちが、今なお困難な状況に置かれています。私たち神の家族の間でも、さまざまな病や試練に直面しておられる兄弟姉妹たちがおられます。そのような困難な状況の中にあって降誕節を迎えて、私たちは、よりいっそう切実な思いで、恵みの主を仰ぎ、その愛といつくしみを待ち望みます。
 このようなことを心に刻みながら、この年の降誕節礼拝の説教のために、ヘブル人への手紙2章14節、15節に記されている、

そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。

というみことばを取り上げてお話しすることに思い至りました。


 14節は、「そこで」と訳されている、結論を表す接続詞で前の部分とつながっています。このことから分かりますが、この14節、15節に記されていることは、その前の5節ー13節に記されていることを受けています。そのことを受け止めていただくために、先ほどは、5節ー18節をお読みいたしました。この5節ー18節では、神さまが人を神のかたちにお造りになって、人に歴史と文化を造る使命をお委ねになったことが中心主題となっています。このことは、とても大切なことですが、このことにつきましては、すでに、いろいろな機会にお話ししてきたことです。それで、今日は、このことにはあえて目をつぶって、この14節、15節に記されていることを中心として、9節ー13節に記されていることにも触れていきたいと思います。
 14節前半には、

 そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので

というように、「子たち」[パイディア(パイディオンの複数形)「子どもたち」]が出てきます。これは、イエス・キリストの十字架の死にあずかって罪を贖っていただき、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって、栄光を受け、神の子どもとされている人々のことです。そのことについては、9節後半、10節に、

イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。

と記されています。

イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。

と言われているのは、イエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことによって、その完全な従順に対する報いとして栄光をお受けになったことを意味しています。そして、イエス・キリストの十字架の死の意味について、

その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。

と言われています。これが具体的にどのようなことであるかが、続く10節で、「神が多くの子たちを栄光に導く」ためのことであることが示されています。イエス・キリストが十字架にかかって死なれたのは、神さまが「多くの子たちを栄光に」導き入れてくださるためであり、それは、神さまの一方的な恵みによっているということです。
 ここには「多くの子たち」の「子たち」[ヒュイオイ(ヒュイオスの複数形)「息子たち」]が出てきます。14節の「子たち」とはことばが違いますが、同じ人々を指しています。神さまの一方的な恵みによって、イエス・キリストの贖いの御業にあずかって、罪を贖っていただき、栄光あるいのちによって新しく生まれ、神の子どもとしていただいている人々のことです。これには私たちも含まれています。
 このように、9節後半、10節では、イエス・キリストの十字架の死は、私たち神の子どもたちを栄光に導き入れてくださるためであることが示されています。

 これに続いて、11節ー13節には、

聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。
 「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。
 教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」
またさらに、
 「わたしは彼に信頼する。」
またさらに、
 「見よ、わたしと、神がわたしに賜った子たちは。」
と言われます。

と記されています。11節で、

 聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。

と言われているときの「聖とする方」はイエス・キリストのことであり、「聖とされる者たち」は私たち神の子どもたちのことです。ここでは、イエス・キリストがその十字架の死に基づいて、私たちご自身の民を「聖と」してくださること、聖めてくださることが示されています。
 これに続く、

 すべて元は一つです

と訳されている部分に関しては、見方が分かれています。これは直訳では、「すべて一つからです」とも「すべて一人の方からです」とも訳せます。[注1]これは、文脈から「すべて一人の方からです」ということで、「聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて」父なる神さまから出ているということ、つまり、イエス・キリストも私たち神の子どもたちも父なる神さまを父としているということを意味していると考えられます。[注2]

[注]この「一つ」と訳されたことばは、男性形とも中性形とも取れるからです。男性形であれば「一人の方」であり、中性形であれば「一つ」です。
[注2]これを男性形と取って、14節の「アブラハム」を指しているとする見方もあります。しかし、アブラハムもその「一人の方」から出ていると考えられます。

 このことを受けて、11節後半では、

 それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない

と言われています。この「」は新改訳による解釈で、直訳では「彼」です。これは9節の「イエス」を受けていますので、「イエス」としたほうがいいと思います。ご存知のように、「イエス」は人の名前です。[注]

[注]新改訳が「」としているのは、おそらく、「聖とする方」ということばの背景に、出エジプト記31章13節の「わたしがあなたがたを聖別するである」というみことば(その他レビ記20章8節など)があることによっていると思われます。けれども、ヘブル人への手紙のこの部分では、イエス・キリストが人としての性質を取って来てくださったことが決定的に大切なことです。このことは、14節に、
そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。
と記されており、16節に、
主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。
と記されているときの、「」(直訳「彼」)にも当てはまります。14節と16節では11節で「」としたことをそのまま当てはめてていると考えられます。

 ここ(11節後半)では、イエス・キリストが私たち神の子どもたちを「兄弟と呼ぶことを恥と」されないと言われています。

 11節後半に続いて、12節、13節には、旧約聖書からの引用が記されています。注目したいのは最後の引用で、13節後半に記されている、

 見よ、わたしと、神がわたしに賜った子たちは。

というものです。これはイザヤ書8章18節のみことばからの引用です。イザヤ書6章に記されていますが、預言者イザヤは主の一方的な恵みによる贖いを経験し、それをあかしする預言者でした。しかし、ユダの民はイザヤの預言のことばに耳を傾けないということが、前もって、主から示されています。イザヤは幻による啓示の中で、主の栄光の御臨在の御前に立たされて、自らの罪の汚れを実感し、自分が滅ぼされるべきものであるという、恐ろしい現実に圧倒されてしまいます。しかし、そのような絶望的な状況の中で、主の一方的な恵みによって、主の栄光の御臨在の御許には罪の贖いが備えられており、実際に、自分の罪が贖われるという経験をします。イザヤはこれによって示された、自らの罪の現実と、それに対する、主の一方的な恵みによる罪の贖いをあかしする預言者として召されました。しかし、自らの「よさ」を頼みとしているユダの民にはそのようなイザヤのあかしは、理解されませんし、受け入れられません。
 ユダの民の不信仰が渦巻く状況の中で、イザヤは、この8章17節において、

 私はを待つ。
 ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を。
 私はこの方に、望みをかける。

と、主に対する信頼を告白しています。そして、18節において、

 見よ。私と、が私に下さった子たちとは、
 シオンの山に住む万軍のからの
 イスラエルでのしるしとなり、
 不思議となっている。

と告白しています。これは、イザヤ自身とその子らについて語ったことばです。このイザヤの時代には、イザヤとその子たちが、不信仰のまっただ中で、なおもシオンに、すなわち、主の契約の民の間にご臨在してくださる主を信頼する者が残されていることのしるしとなっていることを告げています。言うまでもなく、イザヤがそのように主を信頼することができたのは、イザヤ自身が主の一方的な恵みによる罪の贖いを経験したからです。
 それが、このヘブル人への手紙2章13節で、

 見よ、わたしと、神がわたしに賜った子たちは。

と引用されています。これは、古い契約の下で、イザヤとその子らにおいて起こったことが、イエス・キリストご自身と、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかっている、私たち主の民において、最終的に成就していることが示されています。イザヤはユダの民の不信仰のまっただ中で、主の一方的な恵みによって、主の御前に備えられている罪の贖いを信じました。イエス・キリストはイザヤが信じた一方的な恵みによる罪の贖いを、その十字架の死において成就し、実現された方であり、その恵みと贖いを体現しておられる方です。私たちは、そのイエス・キリストが成し遂げられた罪の贖いにあずかって、イエス・キリストの復活のいのちによって生かされている者です。その私たちも、この時代にあって、主の契約の民の間にご臨在してくださる主を信頼する者が残されていることのしるしとなっています。
 この13節の引用の中に出てくる「子たち」(パイディア)が14節で、

そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。

と言われていることへとつながっています。

 この14節の、

そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。

というみことばは、イエス・キリストが私たちと同じ人の性質をお取りになったことに触れるものです。ここで、

 子たちはみな血と肉とを持っているので

と言われているときの、「持っている」と訳されたことば(コイノーネオーの完了時制)は、「分かち合うこと」や「交わり」を意味している「コイノーニア」と関連することばで、「ともにもっている」とか「分かち合ってもっている」ことを表します。これが完了時制で表されていることは、私たちお互いが初めから、すなわち、神さまの創造の御業において人として造られたときから、「血と肉とを持っている」という意味合いを伝えています。
 これに対して、

 主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。

と言われているときの「お持ちになりました」ということば(メテコーの不定過去時制)は、やはり、「ともにもつ」ということを表し、その前の部分で「持っている」と訳されたことば(コイノーネオー)の同義語です。これが不定過去時制で表されていることは、それが過去のある時に起こったことであるという意味合いを伝えています。言うまでもなく、それは、今から2千年前に、永遠の神の御子であられる御方が、私たちと同じ人の性質を取って来てくださったことを指しています。私たちは、きょう、このことを覚えて、降誕節の礼拝をしています。
 ここで、イエス・キリストが私たちと同じ人としての性質をお取りになったというときの人としての性質は、神さまが創造の御業において人を神のかたちにお造りになったときの人としての性質のことです。このことと関連して、同じヘブル人への手紙4章15節には、イエス・キリストのことが、

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。

と記されています。イエス・キリストが罪を犯されなかったのは、イエス・キリストの人としての本性が罪に汚染されていなかったからです。イエス・キリストの人としての本性が罪に汚染されていなかったので、イエス・キリストは、私たちの身代わりになって死んでくださることがおできになりました。もし、イエス・キリストが罪を犯されたのであれば、ご自身の罪のさばきを受けなければなりません。とても、私たちの罪の贖いを成し遂げることはできません。

 2章に戻りますが、14節後半、15節には、イエス・キリストが私たちと同じ人の性質を取って来てくださったことの目的が記されています.そこでは、

これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。

と言われています。
 これは、二つに分けられます。一つは、

その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし

ということです。
 ここに用いられている「悪魔」ということば(ディアボロス)は「中傷する者」、「そしる者」「悪意をもって告発する者」を表します。黙示録12章10節では、悪魔のことが「私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者」と呼ばれています。
 このヘブル人への手紙2章14節では、悪魔のことが「死の力を持つ者」と言われています。このことは注意深く受け止める必要があります。悪魔が「死の力を持つ者」であるというのは、悪魔が直接的に、また、思いのままに、人を殺すことができるという意味ではありません。
 神のかたちに造られた人にとって「いのち」とは、造り主である神さまとの愛にある交わりのうちに生きることにあります。それで、罪によって自ら神さまとのいのちの交わりを断ってしまうこと、あるいは、その罪のゆえに、神さまから、交わりを断たれてしまうことが「死」を意味しています。
 ヨハネの福音書8章44節には、

悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 このイエス・キリストの教えに示されていますように、悪魔は「偽り」をもって、人を造り主である神さまから引き離し、死に至らせるのです。人を誘惑して神さまに対して罪を犯すように誘ったのは悪魔です。さらに、悪魔は人が、神さまが備えてくださった福音を信じないようにと、人を偽りのうちに閉じ込めています(コリント人への手紙第二・4章4節参照)。そのために、この世において生きているために経験する、さまざまな試練が用いられることもあります。人を絶望に陥れて、福音が無力に見えるようにしてしまうのです。この度の大震災の中で、神の子どもたちが福音のみことばに留まり続けたばかりか、主への信頼をさらに深くされたということは、主の一方的な恵みによることと言うほかはありません。また、悪魔は、神さまに対して罪を犯している人々を、特に、神の子どもたちを、神さまの御前に告発しています。さらに、悪魔が偽りをもって人を動かした結果、偽りを信じた人がほかの人をを殺すこともあります。ただし、その人は自分の自由な意志によって、偽りを信じ、信じたことにしたがって行動しています。最も典型的な例が、人々が預言者たちを迫害したことであり、イエス・キリストを十字架につけて殺したことです。
 悪魔が「死の力を持つ者」であるのは、このような意味においてです。悪魔自身も偽りをもって自らを欺いており、造り主である神さまを神としてあがめることはありません。そのような自らの罪によって、死の力に捕らえられていて、やがて、地獄の刑罰を受けて、滅びることになります。ですから悪魔は「死の力」の上にあって、「死の力」を自在にコントロールしているのではありません。
 ヘブル人への手紙2章14節で、

 これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、

と言われているときの「滅ぼし」と訳されていることば(カタルゲオー)は「滅ぼす」という意味もありますが、ここでは「無力にする」とか「無効にする」ということを意味していると考えられます。悪魔は今も兄弟たちを告発していますが、その告発は空しいのです。なぜなら、イエス・キリストが十字架にかかって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによる刑罰をすべて、私たちに代わって受けてくださったからです。いくら悪魔が私たちの罪を告発しても、神さまの法廷においては、私たちの罪に対する刑罰はすでにイエス・キリストの十字架において終わっているということが宣言されているからです。ローマ人への手紙8章33節には、

神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。

と記されているとおりです。そればかりでなく、34節には、

罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

と記されています。
 ヘブル人への手紙2章15節では、さらに、

一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。

と言われています。これは、今お話ししたことに照らして見ますと、イエス・キリストが私たちを福音の真理のうちに保ってくださることによっていることが分かります。御霊によって、私たちに福音のみことばを理解し悟らせてくださり、私たちがイエス・キリストとイエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業を信じるように導いてくださることによっています。

 ここで改めて、これまでお話ししたことを振り返ってみましょう。
 まず、9節後半、10節では、イエス・キリストの十字架の死は、私たち神の子どもたちを栄光に導き入れてくださるためであることが記されていました。
 次に、11節では、イエス・キリストがその十字架の死に基づいて、私たちご自身の民を「聖と」してくださることが記されていました。
 さらに、12節、13節には、イエス・キリストが私たちを兄弟と呼ぶまでに、私たちと一つになってくださったことが記されていました。そのことは、私たちが神の子どもとしていただいていることを意味しています。
 そして、14節、15節では、イエス・キリストが私たちと同じ人の性質を取って来てくださったことが記されています。その目的は、私たちを死と滅びの中に陥れようとする悪魔の働きを無力化して、死への恐怖から、私たちを解き放ってくださるためでした。
 このようにまとめますと、イエス・キリストの十字架の死の意味をめぐる、9節ー15節までのあかしには、一つの流れがあることが見えてきます。それは、ちょうど水の流れが高い山から麓まで流れ下るような流れで、私たちを栄光へと導いてくださることという、最も高い目標から始まっています。そして、順次、そのさらに前にあることへと下ってくるという流れです。
 私たちを栄光へと導いてくださることとは、私たちがあらゆる点において、栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストの栄光にあずかることです。それは、私たちが最初に造られたときの、

 御使いよりも、しばらくの間、低いものとし

と言われている状態よりも、さらに栄光ある状態になることです。御使いたちは、イエス・キリストのことを兄弟とは呼べませんし、父なる神さまに向かって「アバ、父」と呼びかけることもできません。しかし、イエス・キリストは私たちを聖めてくださり、私たちを神の子どもとしてくださり、私たちの兄弟となられました。
 そして、イエス・キリストは私たちを神の子どもとしてくださるために、私たちと同じ人の性質を取って来てくださり、悪魔の働きを無力化し、私たちを死の恐怖から解き放ってくださいました。
 ですから、今から2千年前に、イエス・キリストが私たちと同じ人の性質を取って来てくださったことは、その一方的な恵みによって、私たちを、ご自身の栄光にあずからせてくださるためであるのです。私たちがイエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって、死と滅びの中から救い出されたのは、私たちがイエス・キリストの復活の栄光にあずかって栄光あるものとしていただくための出発点です。
 私たちはすでに、死と滅びの中から救い出され、死の恐怖から解放されています。私たちはすでに神の子どもとして迎え入れられていて、イエス・キリストと父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きています。そして、イエス・キリストの血潮によって常に罪を聖めていただいているだけでなく、御霊によって、イエス・キリストの栄光のかたちに似た者に造り変えていただいています。これは、終わりの日に、私たちがイエス・キリストの栄光のかたちに似た者としてよみがえるときに完成します。
 すべては、父なる神さまの一方的な愛から出たことであり、イエス・キリストの一方的な恵みによることです。


【メッセージ】のリストに戻る


(C) Tamagawa Josui Christ Church