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説教日:2000年12月24日 |
創世記38章26節
と言って、自分の方に非があることを認めています。 オナンがレビラト婚における自分の責任を果たさなかったために主の御怒りをかって死んだことも、ユダの方の罪の重さを裏付けています。 また、モーセ律法の規定にはありませんが、イスラエル以外の社会では、レビラト婚において、子どもがないまま死んでしまった夫に兄弟がない場合には、その夫の父がその役割を果たすようになっていた例もあったようです。タマルは、そのことを念頭において、ユダに義務を果たさせようとしたのかも知れません。 この後、ユダは、その子孫から救い主がお生まれになるという祝福を受けるようになります。その祝福は、この咎められるべき出来事をとおして生まれた子の一人であるパレスに受け継がれていくようになりました。それは、他に「候補」がいなかったためではありません。ユダには、自分の妻との間に生まれた子であるシェラがいました。それにもかかわらず、神さまは、タマルから生まれたパレスを救い主の家系に連なるものとしてお選びになりました。 ここに、神さまの恵みの不思議な現われがあかしされています。もちろん、ユダが、自分の罪を悟って、それを主の御前に告白していることを忘れてはなりません。 * また、5節では、 サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが 生まれ と言われています。 ここでその名前が挙げられているラハブもルツも、異邦人の女性でした。 ラハブは、ヨシュア記2章1節、6章23節、25節、ヘブル人への手紙11章31節、ヤコブの手紙2章25節などで、「遊女ラハブ」と呼ばれています。 彼女のことを好意的に見る人々の間には、彼女は単なる「宿屋の女主人」であったという説もあります。その説には確かな根拠がありませんが、仮にそうであったとしますと、ラハブの経営していた「宿屋」が、遊女を使って商売をしていた宿屋であったということになります。 そのようなことによっているのでしょうか、現存しているユダヤ人の手による文書の中で、ラハブがダビデ王の先祖の家系に属しているということに触れているのは、この「イエス・キリストの系図」だけのようです。 ルツは、私たちの間で「人気のある」女性です。しかし、彼女はモアブ人で、ユダヤ人からすると、やはり異邦人でした。モアブ人については、申命記23章3節、4節で、 アモン人とモアブ人は主の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、決して、主の集会に、はいることはできない。これは、あなたがたがエジプトから出て来た道中で、彼らがパンと水とをもってあなたがたを迎えず、あなたをのろうために、アラム・ナハライムのペトルからベオルの子バラムを雇ったからである。 と戒められていたほどです。 その十代目の子孫さえ、決して、主の集会に、はいることはできない。 という規定はとても厳しい排除の規定です。「決して、主の集会に、はいることはできない。」の「決して」は、直訳しますと「永遠に」です。その前の「その十代目の子孫さえ」の「十代目」は、いわゆる完全数で表わされていて、やはり、決して主の集会に入ることができないことを表わしていると考えられます。ですから、この規定では、モアブ人が決して主の集会に入ることができないということが、重ねて強調されているわけです。 この「イエス・キリストの系図」では、そのように「いかがわしい」職業に就いていたラハブと、そのような厳しい排除の規定が当てはまるルツが、ともに、主に対する信仰のゆえに、救い主の家系にかかわる子どもの母となるように選ばれていることを特筆しています。このことにも、主の恵みの現われの不思議さが示されています。 * さらに、6節では、 ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ と言われています。 この「ウリヤの妻」の名前は、バテ・シェバです。ここで、その名が用いられないで、「ウリヤの妻」と言われているのには理由があります。 ウリヤはユダヤ人ではなくヘテ人でした。サムエル記第二・23章39節によりますと、ダビデの軍隊の精鋭部隊で「あの三〇人」と呼ばれる部隊の一員でした。 サムエル記第二・11章に記されていますが、ダビデは、ウリヤが戦いに出ている時に、ウリヤの妻バテ・シェバを見初めました。そして、王としての立場を使って、バテ・シェバを召し入れ、彼女と性的な関係を結びました。それによって、彼女は身ごもりました。 ダビデは、そのことを隠すために画策し、戦場からウリヤを呼び戻して、自分の家に帰らせようとしました。しかし、ウリヤは、自分の属する部隊が、主にあって、戦場で戦っている時に、自分だけが家に帰ることはできないと言って、自分の家に帰ることはありませんでした。 それで、ダビデは、再びウリヤを戦場に返しましたが、その際、ウリヤに将軍ヨアブ宛の手紙を託しました。何と、その手紙には、ウリヤをわざと戦死させるようにという命令が記されていたのです。そのようにして、ウリヤは殺害され、ダビデは、バテ・シェバを自分の妻としたのです。 ダビデは、預言者ナタンの糾弾をとおして、主の御前にこの罪を悔い改めました。けれども、主のさばきによって、その時にバテ・シェバが身ごもった子は死にました。また、自分の子であるアブシャロムの反逆によって逃亡生活を強いられることなどの苦難を経験します。しかし、後に、バテ・シェバとの間に生まれたのがソロモンです。 マタイは、 ダビデに、バテ・シェバによってソロモンが生まれ とは言わずに、 ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ と言って、この事実を際立たせています。これは、この系図の表題が「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」となっていて、イエス・キリストが「ダビデの子孫」であることを伝えようとしていることを考えますと、より一層、印象深いこととなります。 この記述は、ダビデが犯した罪の深さを際立たせ、また、思い起こさせます。 今日、神の子どもを自認している私たちの間ではどうでしょうか。あるアメリカの大きな教会で、実際に、同じように重大な罪を犯した兄弟を、悔い改めをとおしての回復に導いた牧会者の苦闘を記している本を読んだことがあります。 その罪のことはスキャンダルとなって広まってしまっていました。それで、直ちに罪を犯した兄弟を追放するように求める人々も出てきました。しかし、その牧会者は、罪を犯した兄弟を悔い改めをとおしての回復に導くために受け入れました。そのために、多くの人々が、そのような罪を犯した人とともに礼拝することはできないといって、その教会を去ってしまったそうです。これは、罪を犯した兄弟を受け入れることの難しさを示しています。 この「イエス・キリストの系図」は、そのようなゆゆしい罪をとおして結ばれた、ダビデとバテ・シェバとの間に生まれた子であるソロモンが、メシヤの家系を構成する子として選ばれたことを伝えています。もちろん、この場合にも、他に「候補」がいなかったわけではありません。 しかも、ソロモンは、「ダビデの子」であるメシヤの「ひな型」としての意味をもっている存在として、知恵を初めとして多くの賜物を付与されていました。 ここでも、神である主の恵みの深さと不思議さを思わないではいられません。ダビデの罪の重さを思えば思うほど、なおも、それを覆ってくださっている主の恵みが映し出されてきます。それによって、 しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。 ローマ人への手紙5章20節
という主の恵みが、いわば、「決定打」のようにあかしされています。 * マタイが、「イエス・キリストの系図」の中で、これら四人の女性たちに触れているのは、これら四人の女性が栄誉ある女性として覚えられているからではありません。むしろ、一般的な基準からすれば、系図にわざわざ載せることなど考えられない女性たちです。それでもマタイは、これらの女性のことを記しています。その目的は、これまでお話ししてきましたことから分かりますように、約束の救い主を与えてくださるまでの歴史をとおして示されている、神である主の恵みの深さと不思議さをあかしすることです。 ここでは、このことを、さらに別の面から見ておきたいと思います。 そのために、まず、「イエス・キリストの系図」の中で、これら四人の女性たちのことが述べられているのは、決して彼女たちを責めるためではないということを心に留めておきたいと思います。もし責められるべきであるとすれば、それは。むしろ、ここに記されている父祖たちの方でしょう。 バテ・シェバの件については、ダビデに決定的な非があることは、主がダビデの許に預言者ナタンをお遣わしになって、その罪を糾弾されたことをまつまでもありません。 また、すでに取り上げましたように、ユダ部族の最初の族長であるユダは、タマルとのことについて、 あの女は私よりも正しい。私が彼女を、わが子シェラに与えなかったことによるものだ。 と告白しています。 このことを踏まえてお話しするのですが、一般に認められていますように、マタイの福音書は、ユダヤ人を対象として記されていると考えられます。そのユダヤ人たちは、自分たちがアブラハムの子孫であることを誇りに思っていました。たとえば、ヨハネの福音書8章33節には、ユダヤ人たちが、ご自身を信ずる者に与えられる自由について教えられたイエス・キリストに向かって、 私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、「あなたがたは自由になる。」と言われるのですか。 と言ったことが記されています。 ユダヤ人たちは、自分たちが血肉のつながりにおいて「アブラハムの子孫」であることを誇っていたために、かえって、イエス・キリストが与えてくださる本当の自由が分からなくなってしまっていました。 この「イエス・キリストの系図」に記されている血肉のつながりに注目するなら、メシヤにつながっていく「アブラハムの子孫」たちの中に、その血肉のつながりを通して、父祖たちから連綿と伝えられてきている罪が深い影を落としていることが見て取れます。マタイは、自分が記している福音書の初めに、約束のメシヤの系図を記すとともに、これら四人の女性たちのことに触れることによって、血肉のつながりによる「アブラハムの子孫」は、決して誇ることができないことを思い起こさせています。 そして、このことは、神さまが与えてくださるメシヤは、このような、血肉のつながりによる「アブラハムの子孫」ではありえないことを指し示すようになります。血肉のつながりによる「アブラハムの子孫」は、父祖たちの罪を受け継いでいるので、とても、主の民の罪を贖う救い主とはなりえないのです。 その意味で、これは、18節〜23節で、 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。) と記されていることへの準備をしています。 * さらに、ユダヤ人を対象に記されていると考えられるマタイの福音書の冒頭に記されている「イエス・キリストの系図」の中で触れられている女性たちは、すべて異邦人である可能性があります。バテ・シェバはヘテ人であるウリヤの妻でしたので、彼女も異邦人であった可能性があります。タマルは、ほぼ間違いなく、異邦人であったと考えられます。ラハブとルツは異邦人でした。 このように、ユダヤ人であることを誇りにしているユダヤ人たちに向かって、マタイは、神である主の御手のお働きを思い起こさせています。主は、父祖たちが異邦人の女性との間に設けた子どもたちを、救い主の家系から排除されることなく、その中に入れてくださっていました。 そのことの中に、父祖アブラハムに、 地上のすべての民族は、 あなたによって祝福される。 創世記12章3節
と約束してくださり、さらに具体的に、 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。 創世記22章18節
と約束してくださった主の約束が、確かに覚えられていることが示されています。 確かに、イエス・キリストは、血肉のつながりから言えば異邦人である私たちの救いのためにも、人の性質を取ってこの世に来てくださったのです。 * 「イエス・キリストの系図」について注目したい、もう一つの点は、17節において、 それで、アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代、ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる。 と言われていますように、この系図では、十四代が三つ重なるようになっています。 これは、この系図を記したマタイが、すでに十四代が三つ重なるように揃えてある資料を用いたのでなければ、マタイの手によって揃えられたものです。また、すでにそのように揃えられた資料を用いたのであれば、マタイはそのような資料を選んだことになります。 これをそのように揃えるために、何人かの人物が省略されています。 8節のヨラムとウジヤの間に、アハジヤ(列王記第二・8章25節)、ヨアシ(同11章21節)、アマジヤ(同14章1節)の三人が省略されています。また、11節のヨシヤとエコニヤの間に、エホヤキム(歴代誌第一・3章15節、16節)が省略されています。さらに、恐らく12節のサラテルとゾロバベルの間になると思われますが、ペダヤ(歴代誌第一・3章17節〜19節)が省略されています。 このような省略は、私たちの目で見ますと何かごまかしのような気がするかも知れません。 しかし、たとえば、不名誉なことをした父祖たちを省略してしまうというように、何らかの理由によって父祖たちの何人かを省略することは、その当時の文化の中にあっては、必ずしも、おかしなことではありませんでした。 また、たとえば、その間の三人を省略しているのに、「ヨラムにウジヤが生まれ」(直訳「ヨラムはウジヤを生み」)というような言い方をすることは、その当時の文化にあっては、決しておかしなことではありませんでした。事実、ユダヤ人たちは、二千年近くの時を越えて、アブラハムのことを自分たちの父と呼んでいたのです。 さらに、すでにお話ししましたように、この「イエス・キリストの系図」では、普通であれば省略されていたであろう不名誉な出来事のことが、あえて取り上げられています。ですから、この省略は何かをごまかすためのものではないことが分かります。それは、あくまでも、十四代を三つ重ねるためだけのものでした。 * このように十四代が三つ重ねられていることの理由については、いくつかの見方があります。 このことに関して、多くの注解者たちが、ゲマトリアと呼ばれる解釈法に注目しているようです。 捕囚期以後にギリシャ文化の影響を受けてのことと考えられますが、アルファベットの最初の文字(ヘブル語であればアレフ)が1、次の文字(ベース)が2というように、文字で数が表記されるようになりました。 これをダビデという名前を構成する三つの文字(ダレス、ワウ、ダレス)に当てはめますと、4、6、4になります。これらを足すと14になるので、それがここで用いられているというのです。そして、これによって、「イエス・キリストの系図」を貫いている主題が、ダビデ的な王権の継承にあり、それがメシヤであるイエス・キリストにおいて実現していることを示しているというのです。 今日の私たちには馴染みがないので分かりにくいのですが、ゲマトリアという解釈法は、ユダヤ教のラビたちに用いられていた解釈法です。それは、初代教会でも用いられていました。有名なものは、黙示録13章18節に出てくる「六六六」という数が、「皇帝ネロ」を表わしているということを割り出したものです。 けれども、この黙示録の「六六六」を含めてのことですが、聖書がゲマトリアという手法によって何らかのメッセージを伝えているという主張には、大いに疑問があります。というのは、ゲマトリアという特殊な解釈法を成り立たせているのは、数そのものに意味があるという、ギリシャ的で神秘主義的な発想だからです。 確かに、聖書の中では、「1」、「3」、「4」、「7」、「10」、「12」、「40」など、いくつかの数に象徴的な意味が与えられている場合があります。その場合には、普通に読めば、そして、正当な聖書解釈の原則に従えば、聖書の本文が象徴的な意味を伝えているということは分かります。しかし、ゲマトリアは、一見しては分からない「隠されている意味」を、計算を通して「発見する」ものです。 当然、このような解釈法によっては、かなり主観的な解釈が入り込む余地が生まれてきてしまいます。 黙示録の場合は極めて象徴的な表象を用いている「黙示文学」という様式で記されていますので、まだ議論の余地はあるとしましても、マタイの福音書にまでそれを当てはめるのは行き過ぎであると思われます。 確かに、「イエス・キリストの系図」を貫いている主題が、ダビデ的な王権の継承にあり、それがメシヤであるイエス・キリストにおいて実現していることを示しているという(ゲマトリアに基づく)見方は、一応この系図の趣旨に合っているように見えます。しかし、これは、イエス・キリストが「ダビデの子孫」であることに触れるものですが、「アブラハムの子孫」であることには触れていません。 けれども、1節の表題は、 アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。 となっています。この表題は、この系図が、約束のメシヤであるイエス・キリストが「ダビデの子孫」であるだけでなく「アブラハムの子孫」でもあることを示していることを、はっきりと伝えています。その意味では、このゲマトリアによる解釈は、表題が明示している趣旨に、必ずしも一致してはいません。 * これらのことから、ゲマトリアという解釈法によって「発見された」意味を採ることはできません。むしろ、ここでは、聖書に広く見られる、「七」と「三」という、いわゆる「完全数」が採用されていると考えた方がすっきりします。つまり、「十四」は「完成、成就、完全」を象徴的に表わす「七」の二倍で、より完全な成就を表わし、さらに、それが三つのサイクルで重ねられていると考えられます。 基本的には、これによって、アブラハムに与えられた、 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。 創世記22章18節
という約束と、ダビデに与えられた、 あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。 サムエル記第二・7章12節、13節
という約束が、イエス・キリストにおいて確かに成就していることが示されています。 当然、このような成就に至るまでの歴史が、神である主の完全な導きの御手の中にあって導かれてきて、完成していることが示されています。 * それとともに、改めて、 それで、アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代、ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる。 ということに注目してみましょう。 ここには、先ほどの四人の女性たちにかかわることもかすんでしまうほどの、民族全体に関わる不名誉な出来事である「バビロン移住」のことが述べられています。しかも、それによって、三つの十四代の第二グループと第三グループが区切られています。 第二の「ダビデからバビロン移住まで」の期間は、イスラエルの王国の歴史が造られた期間です。 しかし、ダビデによって確立された王国は、その子ソロモンの後に、南北に分裂してしまいます。そして、北王国イスラエルは主の御前に罪を重ね続けて主のさばきを招き、アッシリヤによって滅亡しました。 ユダヤ人を対象としていると考えられる「イエス・キリストの系図」は、残された南王国ユダに関心を寄せているのですが、そのユダ王国も、主の御前に罪を犯して背教していき、ついにはバビロンの捕囚というさばきを招いて滅んでしまうに至ります。ですから、「ダビデからバビロン移住まで」は、ユダ王国の歴史が、背教によって主のさばきを招いて滅亡するに至る歴史であったことを示しています。 さらに、第三の「バビロン移住からキリストまで」においては、もはや、ダビデ家の存在さえもどこかに忘れ去られてしまっているような状況になってしまっていることを示しています。そこに記されている名前の最初のいくつかを除いては、聖書には記されていません。それは、ヨセフの個人的な家系図によったものであると考えられます。 そして、ダビデ家の家系に属していたヨセフは、中央のユダヤではなく、地方のガリラヤのナザレという村の大工に身を落としている始末でした。 そうであるとしますと、ましなのは、第一の「アブラハムからダビデまでの代」であるような気がします。 ところが、先ほど取り上げました四人の女性をめぐる問題は、ダビデをそこに含めてのことですが、その「アブラハムからダビデまでの代」の中で起こっているのです。 これらのことを見ますと、約束のメシヤを生み出すに至る家系の系図を見るだけでも、このような家系の流れを通してメシヤが与えられること自体が、不思議なことであったことが分かります。それは、決して、血肉の力によることではなく、ただただ、主が一方的な恵みとあわれみによって成し遂げてくださったことであることが分かります。 十四代を三つ重ねることによって示されている、神である主の導きの確かさは、ご自身の約束に対する主の真実さの確かさと、人間の罪を覆って働く主の恵みの確かさとして覚えられるべきものです。 * 私たちは、この「イエス・キリストの系図」に記されている父祖たちと同じく、罪ある人間です。この系図から見て取ることができる人間の罪の暗やみと、聞き取ることができるさまざまな痛みとうめきは、現われた形は違っても、私たちの現実でもあります。 しかし、この系図には、そのすべてを神さまの恵みが包んでくださっていることがあかしされています。そして、神さまが、ご自身の約束を真実に果たしてくださって、救い主を遣わしてくださったことがあかしされています。 クリスマスは、神さまの救いの約束と、一方的な恵みとあわれみが、救い主であるイエス・キリストの誕生によって、私たちの間で現実となっていることを覚える時です。 |
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