預言と約束に従って
(クリスマス説教集)


説教日:1998年12月20日
聖書箇所:マタイの福音書1章1節〜17節


 多くの人が最初に聖書を読む時には、新約聖書から読み始めます。その人々が最初に目にするのが、マタイの福音書1章1節の、

アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図

という言葉から始まる、イエス・キリストの系図です。これを見ただけで聖書を読むことを止めてしまったという話をよく耳にします。
 私も、聖書は人生哲学の書で、金言や名言のように「ためになる」教えに満ちているものだと思っておりました。ところが、実際には、何か、イエス・キリストの伝記のようなものでした。さらに驚いたことには、後半には「手紙」が収められていました。
 聖書は、神や人生についての人間の意見や考えや洞察を記しているのではありません。私たちが生きているのと同じ地上の世界で起こったこと、私たちが生きているのと同じ歴史の中で起こったことについて記しています。
 しかも、聖書は、一人の人、すなわち、神の御子イエス・キリストをあかしすることに集中しています。イエス・キリストご自身、

あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。

 ヨハネの福音書5章39節

とあかししておられます。
 この「その聖書が、わたしについて証言しているのです。」というときの「聖書」は旧約聖書のことです。つまり、イエス・キリストは、旧約聖書全体を貫いているテーマが、ご自身をあかしすることであると言っておられるのです。そして、このことは、当然のことですが、新約聖書についても当てはまります。ですから、聖書を貫いているテーマは、神の御子イエス・キリストをあかしすることです。
 福音書を書いたヨハネも、

これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。
 ヨハネの福音書20章31節

とあかししています。
 聖書は、神の御子イエス・キリストをあかしするために書かれ、聖書を読む人々がイエス・キリストとの出会いを経験し、イエス・キリストによって「永遠のいのち」を得るようになることを目的として書かれました。ですから、聖書を読んで、そこに記されている教えに感銘を受けても、あるいは、そこから生きる力を与えられたとしても、もし、神の御子イエス・キリストに出会うことがないとしたら、そして、イエス・キリストとの生きた交わりの中に生きるようになることがなければ、聖書が記された目的に沿って聖書を読んだことにはなりません。
           *
 旧約聖書も新約聖書も含めて、聖書は、御子イエス・キリストをあかししていると言いましたが、旧約聖書は、御子イエス・キリストを、前もってあかしする預言と約束の形であかししています。そして、新約聖書は、御子イエス・キリストは旧約聖書を通してあかしされている救い主である、とあかししているのです。
 昔から、教会は、旧約聖書は新約聖書を含んでおり、新約聖書は旧約聖書を明らかにすると理解してきました。どういうことかと言いますと、新約聖書の中に記されていることは、すでに、旧約聖書の中で預言と約束の形で語られています。また、新約聖書は、旧約聖書に預言と約束の形で記されていることが成就して実現したことを伝えています。それで、新約聖書に記されている「成就したこと」に照らして見ると、旧約聖書で預言され約束されていたことの意味が「そういうことであったのか」と分かるようになるのです。
 マタイの福音書1章1節の「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」というイエス・キリストの系図の表題は、イエス・キリストが旧約聖書を通して預言され、約束されていた救い主であることを示しています。
           *
 「アブラハムの子孫」の「アブラハム」は、イスラエルの民の先祖で、紀元前2000年〜1850年頃の人です。アブラハムは、神である主から、

  あなたは、
  あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、
  わたしが示す地へ行きなさい。
  そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、
  あなたを祝福し、
  あなたの名を大いなるものとしよう。
  あなたの名は祝福となる。
  あなたを祝福する者をわたしは祝福し、
  あなたをのろう者をわたしはのろう。
  地上のすべての民族は、
  あなたによって祝福される。
 創世記12章1節〜3節

という召命と祝福を受けました。
 このアブラハムを通して約束された祝福の中心は、神である主との親しい交わりに生きるようになることにあります。神さまがアブラハムとその子孫に与えてくださった契約を記している創世記17章7節、8節では、

わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。

と言われています。
 この契約の目的は、7節で言われている、

わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。

ということにあります。そのことは、8節でも、

わたしは、彼らの神となる。

と繰り返されて、強調されています。
 それは、神さまが、私たちの神となってくださり、私たちが神さまの民とされるということを意味しています。神さまが、私たちのことを「わたしの民」と言ってくださり、私たちが、神さまのことを「わたしの神」と言うことができるようになるのです。そこには、当然、お互いのことを「わたしのもの」と呼び合う、親しい愛の交わりがあります。聖書は、神である主との愛にある交わりに生きるいのちを「永遠のいのち」と呼んでいます。
 その祝福は、実際には、アブラハムの子孫によって実現するようになることが示されています。神である主は、アブラハムに対して、

あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。
 創世記22章18節

と約束してくださいました。
 マタイの福音書1章1節の「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」というイエス・キリストの系図の表題は、イエス・キリストが、この、神である主がアブラハムに与えてくださった祝福と約束を成就して実現してくださった方であることをあかしするものです。
          *
 先ほど、ヨハネの福音書20章31節に記されている、

これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。

という、ヨハネが福音書を記した目的を述べた言葉を引用しました。この

あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。

ということは、私たちが神さまとの愛にある交わりを本質とする永遠のいのちをもつようになることを意味しています。これは、まさに、神さまがアブラハムに示してくださった約束と祝福をが、イエス・キリストにあって実現していることを示しています。
 さらに、このヨハネの言葉は、これに先立って記されている、トマスが、十字架にかかってご自身の民のために罪の贖いを成し遂げてくださった後、死者の中からよみがえられたイエス・キリストに向かって、

私の主。私の神。
ヨハネの福音書20章28節

と告白した言葉を受けて記されています。
 トマスが、イエス・キリストに向かって、

私の主。私の神。

と告白したことは、やはり、

わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。

という、神である主がアブラハムに与えてくださった約束が成就していることを示しています。
           *
 また、「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」では、イエス・キリストが「ダビデの子孫」でもあるとあかしされています。ダビデは紀元前1000年頃の人で、イスラエルの最初の統一王国を築いた王です。このダビデも、神である主から約束を受けました。
 サムエル記第二・7章12節、13節には、

あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。

と記されており、さらに16節では、

あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。

と記されています。
 神である主のダビデへの約束は、聖書の中で繰り返し覚えられています。たとえば、主は、ダビデから250年余り後の預言者イザヤを通して、

  ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。
  ひとりの男の子が、私たちに与えられる。
  主権はその肩にあり、
  その名は「不思議な助言者、力ある神、
  永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
  その主権は増し加わり、その平和は限りなく、
  ダビデの王座に着いて、その王国を治め、
  さばきと正義によってこれを堅く立て、
  これをささえる。今より、とこしえまで。
  万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。
 イザヤ書9章6節、7節

と預言し、救い主の誕生を約束してくださいました。
 この預言の言葉は、「ひとりのみどりご」としてお生まれになる方は、実は、

  主権はその肩にあり、
  その名は「不思議な助言者、力ある神、
  永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

方である、ということを示しています。
 ここには、永遠の神の御子が、人としての性質をお取りになってお生まれになるという、イエス・キリストのご降誕の奥にあることが預言されています。
          *
 さらに、神さまは、イザヤより約100年ほど後に活動した預言者エゼキエルをとおして、ダビデの子である王の支配が、本来どのようなものであるかを示してくださいました。エゼキエル書34章1節〜4節には、

次のような主のことばが私にあった。「人の子よ。イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して、彼ら、牧者たちに言え。神である主はこう仰せられる。ああ。自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わなければならないのではないか。あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくと暴力で彼らを支配した。」

と記されています。
 ここで言われている「イスラエルの牧者たち」とは、ダビデの血肉の子孫としてイスラエルを治めている王たちのことです。ここで、神である主は、その王たちを糾弾しています。この糾弾は、ダビデの王座に就くものは「牧者」であって、「牧者は羊を養わなければならない」し、「弱った羊を強め」、病気の羊を癒し、傷ついた羊を包んであげ、迷い出た羊を捜し出して連れ戻さなければならないということを、当然のこととして踏まえています。その上で、主は、ダビデの血肉の子孫たちが、そのような本来の務めを果たしていないことを糾弾しておられるのです。
 そして、このことを受けて、11節、12節では、

まことに、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。牧者が昼間、散らされていた自分の羊の中にいて、その群れの世話をするように、わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする。

と記されています。さらに、22節〜24節には、

わたしはわたしの群れを救い、彼らが二度とえじきとならないようにし、羊と羊との間をさばく。わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしのべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。主であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデはあなたがたの間で君主となる。主であるわたしがこう告げる。

という、神である主の言葉が記されています。
 ここでは、神である主ご自身が「牧者」となって羊たちを養ってくださると言われています。そして、そのことは「わたしのしのべダビデ」によって実現すると言われています。もちろん、この言葉が語られたのは、ダビデ王より400年ほど後のエゼキエルの時代のことですから、この「わたしのしのべダビデ」はダビデ王のことではありません。これは、「ダビデの子」として来られる救い主(メシヤ)によって成就することです。
 ヨハネの福音書10章11節〜15節には、このことの成就が次のように述べられています。

わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。

          *
 マタイの福音書1章1節の「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」というイエス・キリストの系図の表題は、イエス・キリストが、神である主がダビデに与えてくださった約束を成就して実現する方であることをあかししています。
 ついでに申しますと、先ほど引用しましたエゼキエル書34章22節〜24節で、「わたしのしのべダビデ」が牧者となるときには、

主であるわたしが彼らの神となり

と言われています、これは、先ほどお話ししました、アブラハムに与えられた契約の目的を示す、

わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。

ということが、「わたしのしのべダビデ」が牧者となるときに実現することを示しています。ですから、アブラハムに与えられた契約の約束と、ダビデに与えられた契約の約束は、根本的な目的においては一つです。それは、主の民が、「アブラハムの子孫、ダビデの子孫」であるイエス・キリストによって、神である主との愛にある交わりに入れていただいて、永遠のいのちをもつようになるためです。
           *
 この「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」というイエス・キリストの系図の表題が示しているように、イエス・キリストは、新約聖書にあかしされている救い主であるだけでなく、前もって、預言と約束の形で、旧約聖書においてあかしされている救い主であるということは、とても大切なことです。
 イエス・キリストは、たまたま、特別な力をもった人であったから、イエス・キリストに接して弟子となった人々が、この人こそ人類の救い主であると信じて、救い主に祭り上げたということではありません。
 むしろ、その当時の人々は、イエス・キリストを、人類の救い主はおろか、自分たちの民族の救い主としても信じることはできませんでした。なぜなら、イエス・キリストは、自分から救い主であると主張しておきながら、最後には、人々から見捨てられ、ローマ人の手によって十字架につけられて殺されてしまったからです。
 今日もそうですが、その当時の人々も、人類の救い主であれば、普通の人がもっている力を越えた力をもっていて、その力で人々を引きつけ、人々を従わせていくはずだと考えていました。それで、イエス・キリストが、さまざまな奇跡的な御業を行なわれたために、人々の目に、そのような力を発揮する人と写った時には、多くの人々が、イエス・キリストについて行こうとしました。
 しかし、イエス・キリストは、その人々が期待するようにはお働きになりませんでした。失望した人々から見捨てられても、人々の期待に応えることはありませんでした。むしろ、最後には、十字架につけられて殺されてしまいました。
 そのようなイエス・キリストを救い主に仕立て上げることなどとてもできません。
 ある人々は、弟子たちが、イエス・キリストはよみがえったことにしたのだと言います。しかし、イエス・キリストが十字架につけられて殺されてしまったという事実は、皆に知れ渡っております。現実的に考えれば、イエス・キリストが死者の中からよみがえったという「作り話」を作ったとしても、それで何とかイエス・キリストを救い主に仕立て上げられるというような可能性はありませんでした。
 その意味では、弟子たちがイエス・キリストが十字架につけられたことにつまずいてしまい、失望してしまったという、聖書の記録は真実を伝えています。
           *
 それでも、弟子たちは、やがて、十字架につけられたイエス・キリストこそは自分たちを初めとして、すべての信じる者の救い主であると信じるようになりました。そして、十字架につけられたイエス・キリストを救い主としてあかしするようになりました。使徒パウロが、

ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。
 コリント人への手紙第一・1章22節、23節

と述べているとおりです。
 その理由として考えられることの一つは、実際にイエス・キリストが死者の中からよみがえられたということです。
 しかし、それだけでは十分ではありません。もしそれだけであったなら、弟子たちは、おそらく、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことは前面に出しても、十字架につけて殺されたことは極力隠したことでしょう。ところが、実際には、パウロも言っているように、弟子たちは、「十字架につけられたキリストを」宣べ伝えたのです。
 この点で、弟子たちにとっても、私たちにとっても大切なことは、イエス・キリストが、旧約聖書の中で預言と約束の形であかしされていた救い主であるということです。
 パウロは、自分が宣べ伝えている福音のことを、次のように語っています。

私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って3日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。その後、キリストは5百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。
 コリント人への手紙第一・15章3節〜8節

 パウロは、イエス・キリストが私たちの罪を贖うために死なれたのは「聖書の示すとおり」のことであり、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたのは「聖書に従って」のことであったとあかししています。この場合の「聖書」は旧約聖書です。
 死者の中からよみがえられたイエス・キリストが、同時に多くの人々にご自身を現わしてくださったことも大切なことでした。しかし、それに劣らず大切なことは、イエス・キリストが苦難を受けてのちに栄光を受けるということが、すでに、預言と約束の形で、旧約聖書にあかしされていたということです。
           *
 先ほど、ダビデの子孫に対する約束を受け継ぐ預言としてイザヤ書9章6節、7節を引用しました。それは、「ひとりのみどりご」としてお生まれになる方は、実は、「その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる」方であるということを示していました。
 同じイザヤ書の後半の部分になりますと、「ひとりのみどりご」としてお生まれになりながら「その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる」方のことが、さらに預言されています。52章13節では、

  見よ。わたしのしもべは栄える。
  彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。

と言われています。これは、ダビデの子孫に約束された栄光を思わせる言葉です。しかし、その直ぐ後に、その栄光は、ご自身の治める民のために、ご自身が身代わりとなってさばきを受けて死ぬことを通して現われる栄光であることが示されています。53章3節〜8節では、

  彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、
  悲しみの人で病を知っていた。
  人が顔をそむけるほどさげすまれ、
  私たちも彼を尊ばなかった。
  まことに、彼は私たちの病を負い、
  私たちの痛みをになった。
  だが、私たちは思った。
  彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
  しかし、彼は、
  私たちのそむきの罪のために刺し通され、
  私たちの咎のために砕かれた。
  彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
  彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
  私たちはみな、羊のようにさまよい、
  おのおの、自分かってな道に向かって行った。
  しかし、主は、私たちのすべての咎を
  彼に負わせた。
      ・・・・・・
  しいたげとさばきによって、彼は取り去られた。
  彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。
  彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、
  生ける者の地から絶たれたことを。

 神である主が旧約聖書を通して預言し、約束してくださった救い主は、人々からさげすまれて見捨てられ、だれもが「彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと」思うような仕方で「生ける者の地から絶たれ」ると預言されていました。そして、その死は、主の民の「罪過のためのいけにえ」としての意味をもっていると説明されていました。
 このような、救い主の預言に当てはまる方は、「アブラハムの子孫、ダビデの子孫」としてお生まれになって、その生涯の最後に「十字架につけられたキリスト」です。
 お気づきのように、

  私たちはみな、羊のようにさまよい、
  おのおの、自分かってな道に向かって行った。
  しかし、主は、私たちのすべての咎を
  彼に負わせた。

ということは、

わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。

と言われるイエス・キリストにおいて実現しています。
 新約聖書があかししているとおり、やがて、弟子たちは、御霊の導きによって、このような聖書のあかしを理解することができるようになりました。弟子たちは、イエス・キリストが十字架につけられて死んだにもかかわらず、救い主として信じたのではありません。イエス・キリストが十字架につけられて死んだからこそ、聖書に従って、救い主であると信じたのです。それで、イエス・キリストは、私たちの罪を贖ってくださるために、十字架の上でご自身のいのちを「罪過のためのいけにえ」とされた、とあかししました。
 今日でも、旧約聖書と新約聖書のあかしを受け入れて、イエス・キリストを信じる人は誰でも、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって、永遠のいのちをもつようになります。
           *
 クリスマスは、イエス・キリストのご降誕をお祝いする日です。「イエスさま。お誕生日おめでとうございます。」と言ってお祝いしたらいいのでしょうか。
 しかし、イエス・キリストは、人々からさげすまれて見捨てられ、だれもが「彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと」思うような仕方で「生ける者の地から絶たれ」るためにお生まれになりました。それは、罪のために死んでいて、滅びの道を転がるように突き進んでいる私たちを、ご自身の十字架の死による罪の贖いを通して救ってくださり、永遠のいのちに生かしてくださるためでした。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
 ヨハネの福音書3章16節

 そうであれば、イエス・キリストが十字架の死をもって成し遂げてくださった罪の贖いの恵みを受け取って、永遠のいのちをもつようになることが、イエス・キリストのご降誕を心に留めてお祝いする最上の方法です。

【メッセージ】のリストに戻る


(C) Tamagawa Josui Christ Church