しばらくの悲しみの後に
(イースター説教集)


説教日:1999年4月4日
聖書箇所:ヨハネの福音書16章16節〜22節


 1999年の復活節を迎えましたが、今日は、ヨハネの福音書16章16節〜22節に記されていることから、お話ししたいと思います。そこには(最初の、イエス・キリストの言葉は途中からですが)、

「しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます。」そこで、弟子たちのうちのある者は互いに言った。「『しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る。』また『わたしは父のもとに行くからだ。』と主が言われるのは、どういうことなのだろう。」そこで、彼らは「しばらくすると、と主が言われるのは何のことだろうか。私たちには主の言われることがわからない。」と言った。イエスは、彼らが質問したがっていることを知って、彼らに言われた。「『しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る。』とわたしが言ったことについて、互いに論じ合っているのですか。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。

と記されています。
 ここに記されているのは、イエス・キリストが十字架につけられて殺される前の夜、弟子たちとともに過越の食事をしている席上でお話しになった、最後の教えの一部です。そのイエス・キリストの最後の教えは、14章〜16章にわたって記されています。
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 16章16節〜19節には、「しばらくすると」(ミクロン)という言葉が7回出てきます。しかも、16節では、この「しばらくすると」という言葉がいちばん初めに出てきて強調されています。
 また、この福音書を記しているヨハネの書き方に注目してみますと、16節で、イエス・キリストが、

しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます。

と言われたことを記した後、17節で、弟子たちが、

「しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る。」また「わたしは父のもとに行くからだ。」と主が言われるのは、どういうことなのだろう。

と、お互いに言ったということを記しています。
 もし、弟子たちがイエス・キリストの言われたことが理解できなかったということを伝えるためであれば、簡単に、「弟子たちは、主が言われたことを理解することができなかった。」と言ってもよかったのですが、わざわざ弟子たちの言葉を引用しています。おまけに、18節では、さらに、

そこで、彼らは「しばらくすると、と主が言われるのは何のことだろうか。私たちには主の言われることがわからない。」と言った。

と記しています。
 これは、どう見ても、むだな付け加えとしか見えません。しかし、そうであるからこそ、これを記しているヨハネが、「しばらくすると」ということが大切なことである、と伝えようとしていることが感じられます。
 さらに、19節でも、

イエスは、彼らが質問したがっていることを知って、彼らに言われた。「『しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る。』とわたしが言ったことについて、互いに論じ合っているのですか。」

と言われています。
 ですから、

しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る。

という言葉は、これで三回出てきたことになります。このような、「くどさ」とも言うべきことの中にも、「しばらくすると」ということに注意するよう促している、ヨハネの思いが伝わってきます。
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 弟子たちが、イエス・キリストを見なくなるけれども、また、再びイエス・キリストを見るようになる、ということは、14章〜16章に記されていますイエス・キリストの地上の生涯の最後の夜における教えの中では、いくつかの意味で語られています。
 まず、14章1節〜4節では、

 あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。わたしの行く道はあなたがたも知っています。」

と言われています。
 ここでは、イエス・キリストが父なる神さまの御許にお帰りになり、世の終わりに再びこの世界においでになること、すなわち、イエス・キリストの再臨のことが語られています。イエス・キリストが再臨されるのは、主の民のすべてが、永遠に父なる神さまの御許において、父なる神さまと御子イエス・キリストとのいのちの交わりにあずかるようになるという、救いを完成してくださるためです。
 イエス・キリストが父なる神さまの御許に行かれるので、弟子たちはイエス・キリストを見なくなります。しかし、イエス・キリストの再臨の日には、再びイエス・キリストを見るようになります。

愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

 ヨハネの手紙第一・3章2節
 
次に、ヨハネの福音書14章16節〜20節では、

わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。

と言われています。
 これは、「もうひとりの助け主」と呼ばれている「真理の御霊」が与えられることの約束です。もちろん、第一の「助け主」はイエス・キリストご自身です。ここでは、「真理の御霊」が私たちとともにいてくださることは、私たちがイエス・キリストとともに生きることであり、その意味で、イエス・キリストを見ることであると言われています。

わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。

ということは、弟子たちを初めとして、私たちが、十字架にかかって罪の贖いを成し遂げてくださり、死者の中からよみがえられたイエス・キリストの贖いの御業にあずかり、イエス・キリストと結び合わされて、復活のいのちによって生かされるようになるということです。そのために、私たちを死者の中からよみがえられたイエス・キリストに結び合わせてくださるのが御霊のお働きです。
 私たちが自分の力でイエス・キリストにつながるのではなく、また、私たちがイエス・キリストにつながっていると「信じ込む」(思い込む)のでもありません。聖書の御言葉にあかしされているイエス・キリストを信じるとき、御霊なる神さまが、私たちを復活されたイエス・キリストに結び合わせてくださるのです。
 14章1節〜4節でも、14章16節〜20節でも、十字架にかかって死なれてご自身の民の罪の贖いを成し遂げられ、死者の中からよみがえられてご自身の民の復活のいのちを獲得されたイエス・キリストが、父なる神さまの御許にお帰りになるので、弟子たちが、イエス・キリストを見なくなることが語られています。
 その復活の栄光のうちにおられるイエス・キリストを、最終的に顔と顔を合わせるようにして、そのありのままの姿において見るようになるのは、世の終わりにおけるイエス・キリストの再臨の日においてのことです。
 しかし、贖い主であるイエス・キリストを信じている主の民は、「もうひとりの助け主」と呼ばれている「真理の御霊」が与えられることによって 、すでに、父なる神さまの御許におられるイエス・キリストと結び合わされており、イエス・キリストの復活のいのちによって生かされています。その意味において、イエス・キリストを親しく知っており、イエス・キリストを見ています。
 これに対しまして、16章16節の、

しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る。

という言葉では「しばらくすると」ということが強調されています。それで、イエス・キリストが十字架にかけられて殺されてしまうことによって、弟子たちの目の前から失われてしまうけれども、イエス・キリストが死者の中からよみがえられることによって、弟子たちは再びイエス・キリストを見るようになることを示していると考えられます。
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 このように見ますと、14章〜16章に記されているイエス・キリストの最後の教えは、十字架にかかって私たちの罪の贖いを成し遂げられ、死者の中からよみがえられて私たちのために復活のいのちを獲得してくださったイエス・キリストを、見るようになることを中心として展開していることが分かります。
 そのことが、まず、世の終わりのイエス・キリストの再臨による完成のことから説き起こされて、「もうひとりの助け主」と呼ばれている「真理の御霊」が与えられること、そして、イエス・キリストが死者の中からよみがえられることへと、だんだん弟子たちの現実に近くなってくる形で説明されているわけです。
 ということは、これを逆の方向に見ることになりますが、イエス・キリストが「またしばらくするとわたしを見る。」と言われて、イエス・キリストが死者の中からよみがえられることによって、弟子たちが再びイエス・キリストを見るようになることをお示しになったのは、その後に起こる、「真理の御霊」が与えられることや、世の終わりのイエス・キリストの再臨による完成へとつながっているわけです。
 このいずれの場合におきましても、イエス・キリストを見るようになることは、イエス・キリストとのいのちの交わりの中で、親しくイエス・キリストを知るようになることです。それは、御霊によってイエス・キリストに結び合わされ、イエス・キリストの成し遂げてくださった罪の贖いにあずかって罪と死の力から解放されるとともに、復活のいのちによって生かされることによります。
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 さて、ヨハネの福音書16章16節〜19節においては、「しばらくすると」ということが強調されていました。そのことが分からないでいる弟子たちに対して、イエス・キリストは、20節〜22節にありますように、

まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。

と言われました。
 ここでイエス・キリストは、「しばらくすると」という言葉によって表わされている「しばらくの間」に起こることには、「産みの苦しみ」という意味がある、と説明しておられます。そして、「産みの苦しみ」と、その後に起こる「出産の喜び」を対比されて、「産みの苦しみ」によってもたらされるものは、単に、以前の状態が回復されるということでなく、「それをはるかに越える喜びをもたらすこと」が起こるということを示しておられます。
 その喜びのもととなることとは、イエス・キリストが「またしばらくするとわたしを見る。」と言われたことですから、十字架にかかって私たちの罪の贖いを成し遂げてくださり、死者の中からよみがえって私たちのいのちの源となってくださったイエス・キリストを親しく知るようになることです。それは、単に、イエス・キリストと弟子たちの関係を元の状態に戻すことではありません。イエス・キリストが、

わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。

と言われましたように、「真理の御霊」のお働きにより、イエス・キリストの復活のいのちによって生かされ、父なる神さまと御子イエス・キリストとのいのちの交わりの中に生きるようになるのです。
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 このように、「しばらくの間」に起こることを「産みの苦しみ」と結びつけることは、預言者イザヤを通して示されていたことでした。イザヤ書26章16節〜21節では、

 主よ。苦難の時に、彼らはあなたを求め、
 あなたが彼らを懲らしめられたので、
 彼らは祈ってつぶやきました。
 子を産む時が近づいて、
 そのひどい痛みに、苦しみ叫ぶ妊婦のように。
 主よ。私たちは御前にそのようでした。
 私たちもみごもり、産みの苦しみをしましたが、
 それはあたかも、風を産んだようなものでした。
 私たちは救いを地にもたらさず、
 世界の住民はもう生まれません。
 あなたの死人は生き返り、
 私のなきがらはよみがえります。
 さめよ、喜び歌え。ちりに住む者よ。
 あなたの露は光の露。
 地は使者の霊を生き返らせます。
 さあ、わが民よ。
 あなたの部屋にはいり、うしろの戸を閉じよ。
 憤りの過ぎるまで、
 ほんのしばらく、身を隠せ。
 見よ。主はご自分の住まいから出て来て、
 地に住む者の罪を罰せられるからだ。
 地はその上に流された血を現わし、
 その上で殺された者たちを、
 もう、おおうことをしない。

と言われています。
 17節、18節には「産みの苦しみ」のテーマが出てきます。ここでは、不毛な「産みの苦しみ」ですが、19節で一転して、死者の復活が告げられます。それに続いて、20節では、「憤りの過ぎるまで、ほんのしばらく、身を隠せ。」と、「しばらくの間」のテーマが出てきます。
 このように見ますと、イエス・キリストが、

しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます。

と言われたことは、イザヤ書26章16節〜21節の言葉と深くつながっていることが分かります。
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 イザヤ書においては、「しばらくの間」は、神である主の御怒りが下される間のことを指しています。旧約聖書には、これと同じような「しばらくの間」が繰り返し出てきます。たとえば、同じイザヤ書では54章7節、8節で、

 「わたしはほんのしばらくの間、
 あなたを見捨てたが、
 大きなあわれみをもって、あなたを集める。
 怒りがあふれて、ほんのしばらく、
 わたしの顔をあなたから隠したが、
 永遠に変わらぬ愛をもって、
 あなたをあわれむ。」と
 あなたを贖う主は仰せられる。
 と言われています。詩篇30篇5節では、
 まことに、御怒りはつかの間、
 いのちは恩寵のうちにある。
 夕暮れには涙が宿っても、
 朝明けには喜びの叫びがある。

と言われています。
 これらの個所では、神である主の御怒りが「しばらくの間」であり、その後には、主の恵みによる、あわれみと救いがあることが述べられています。
 それは、神である主ご自身がそのような方であることによっています。出エジプト記34章6節、7節では、主が、ご自身がどのような方であるかをモーセに示してくださったときの言葉が記されています。そこでは、

主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」

と言われています。

罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。

という言葉には、神である主の完全な義に基づくさばきの厳格さが示されています。しかし、それに先立って語られた、

主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者

という言葉には、主が、はるかにまさる恵みをもってご自身を現わされる方であることが示されています。ここでは、さばきに関わる「三代に、四代に」と、恵みに関わる「千代も」の対比に注意してください。
 しかも、このような恵みの主の「御姿」が示されたのは、出エジプト記32章1節〜10節に記されていますように、主の栄光の御臨在のあるシナイの山の麓で、イスラエルの民が「金の子牛」を造って「偶像礼拝」の罪を犯し、主の激しい御怒りを引き起こした直後のことでした。
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 しかし、ここには一つの問題があります。それは、人間の罪はいつもあるのに、神である主の御怒りが「しばらくの間」であるのはどうしてか、ということです。
 神である主の御怒りは、ご自身の完全な義に基づく怒りです。その意味で、主の御怒りは聖なる怒りです。それは気分次第で怒り狂うということとはまったく違います。主の御怒りがご自身の完全な義に基づく聖なる怒りであれば、私たちの罪に対しては、その怒りをお示しにならなければなりません。そのようにして、ご自身の義が立てられなければなりません。罪をどうでもよいことのようにいい加減に扱っては、ご自身の義が損なわれてしまいます。
 聖書の御言葉は、それでも、神さまの御怒りは「しばらくの間」であるというのです。それは、神さまの恵みが単なる「お目こぼし」であるからではなく、贖いの恵みであるからです。ローマ人への手紙3章25節、26節では、

神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。

と言われています。
 神さまがご自身の完全な義に基づく聖なる御怒りを鎮められるのは、ご自身が備えてくださった、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いによって、私たちの罪が完全に清算されるからです。
 このように、福音の御言葉に示されている「しばらくの間」は、神さまの御怒りが過ぎ去る「しばらくの間」です。その「しばらくの間」に、御子イエス・キリストは十字架にかかって、いのちの血を流し、私たちの罪の贖いを成し遂げてくださいました。まさに、イエス・キリストが、

しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。

と言われて、ご自身が十字架の死によって取り去られることをお示しになったとおりです。
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 イエス・キリストは、また、この「しばらくの間」を、「産みの苦しみ」と結び合わせて説明されました。「産みの苦しみ」は、最初の人が罪を犯して堕落した直後に語られたさばきの言葉を記す、創世記3章16節で、

 女にはこう仰せられた。
 「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを
 大いに増す。
 あなたは、苦しんで子を産まなければならない。」

と言われているとおり、人間の罪に対する神である主のさばきによって大きくなったものです。その意味では、「産みの苦しみ」は、人間の罪に対する神さまの御怒りのしるしです。もちろんこれは、そもそも「産みの苦しみ」というものがあることが神さまの聖なる御怒りを示している、ということであって、「産みの苦しみ」の大きい人ほど罪が深いということではありません。
 しかし、創世記3章では、

 わたしは、あなたのみごもりの苦しみを
 大いに増す。
 あなたは、苦しんで子を産まなければならない。

と告げられたさばきの言葉に先立つ15節には、

 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。
 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。

という、人類を罪へと誘った「蛇」の背後にある存在である「悪魔」に対するさばきの言葉が記されています
 ここには「おまえ」と呼ばれている「悪魔」の頭を踏み砕く「女の子孫」が約束されています。この約束との関わりで、先ほどの「産みの苦しみ」が増し加わるというさばきの言葉を読み直しますと、その「産みの苦しみ」を通して、「女の子孫」が生まれてくることが分かります。
 イエス・キリストは、確かに、そのような方として来られて、贖いの御業を成し遂げてくださいました。

そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。
 ヘブル人への手紙2章14節、15節

 イエス・キリストにとって「産みの苦しみ」は、私たちの罪を贖うために十字架の死の苦しみを味わうことでした。イエス・キリストは、本来、私たちが味わうべき「産みの苦しみ」を、私たちに代わって極みまで味わわれました。
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 神さまはご自身の義の尺度にしたがって人間の罪をおさばきになります。しかし、聖書は、そのさばきの宣言の初めから、人間の罪の贖い主が約束されていたことをあかししています。このことから、神さまの御怒りは「しばらくの間」であることがあかしされるようになりました。それは、

しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。
 ローマ人への手紙5章20節

とあかしされている、神さまの恵みによることです。
 そのような、神さまの恵みを私たちの間に実現してくださるために、イエス・キリストは、十字架にかかって罪の贖いを成し遂げてくださり、死者の中からよみがえって、私たちのために復活のいのちを獲得してくださいました。今、私たちは、「真理の御霊」のお働きによってイエス・キリストと結び合わされて、父なる神さまと御子イエス・キリストとのいのちの交わりに生かされています。
 神さまは、このイエス・キリストの恵みにあって、肉体の死を初めとして、この世で、罪の結果として私たちが負わなければならない、さまざまな悲しみや苦しみさえも「産みの苦しみ」として用いてくださいます。
 それで私たちは、イエス・キリストの恵みによって、

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
 ローマ人への手紙8章38節、39節

と告白したいと思います。


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