1998年の復活節を迎えました。今日は、ヨハネの福音書11章25節、26節に記されている、
わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。
という、イエス・キリストがマルタに語られたことについてお話ししたいと思います。
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まず、このことが語られた背景について、簡単にお話ししておきましょう。
1節〜3節に記されていますように、ベタニヤ村のマルタとマリヤの兄弟ラザロが病気で死にかけておりました。マルタとマリヤは、その時ヨルダン川の川向こうにおられたイエス・キリストの許に使いをやって、ラザロが病気であることを伝えました。
しかし、6節にありますように、イエス・キリストはすぐにベタニヤに行かないで、なお二日そこに留まっておられました。イエス・キリストがおられた所とベタニヤまでの距離は徒歩で一日でした。17節にありますように、二日後にイエス・キリストがそこを発ってベタニヤに行かれると、ラザロが墓の中に入れられてから、すでに四日が経っていました。これらのことから計算しますと、使いの人々がベタニヤを発って間もなく、ラザロは死んだことが分かります。。
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20節〜28節には、ベタニヤに来られたイエス・キリストを出迎えたマルタとイエス・キリストのやり取りが記されています。21節、22節にありますように、マルタは、イエス・キリストに向かって、
主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。
と言いました。
ここには、イエス・キリストに対するマルタの信仰が表わされています。しかし、このマルタの言葉が何を意味しているのか、分かりにくいところがあります。
今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。
という言葉は、何となく、ラザロが死んでしまってもなお、イエス・キリストがラザロをよみがえらせてくださるという信仰を述べているように見えます。
しかし、39節に記されていますように、ラザロの葬られている墓の石をどけるようにと言われたイエス・キリストに対して、
主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。
と答えたことから判断しますと、マルタはそのようなことを信じてはいなかったようです。
そうしますと、先ほどの、
今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。
というマルタの言葉は、ラザロが死ぬことを止めることはできなかったとしても、それでも、自分はイエス・キリストが神から遣わされたメシヤであることを信じている、という意味での信仰の告白であると考えられます。
このことの背景には、37節に記されている、
盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。
という言葉に代表されるような、人々の反応があったからであると思われます。「あのイエスさまでも、今度ばかりはだめだったのだ。」というような失望でしょうか。それに対して、マルタは、自分の信仰は変わっていないということを、言い表わしているのだと思われます。
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そうであれば、兄弟ラザロを失った痛みと悲しみの中で精一杯の信仰告白をしていることになります。これを、日本人の一般的な発想からしますと、このような真心は「神」にも通じると考えられます。
しかし、そのようなマルタの信仰にも、重大な問題があります。それがイエス・キリストを信じる信仰にとっては決定的な問題ともなっています。そして、それは、そのまま私たちの問題ともなります。
結論から先に言いますと、マルタは、自分が持っている考え方の小さな枠の中でしかイエス・キリストのことを見ていません。イエス・キリストの言葉を、自分の持っている小さな枠に押し込めて理解しています。
マルタの信仰は、人間の標準からしますと実にけなげなものがあるのですが、それだけでは、神の御子イエス・キリストを自分の狭さの中に押し込めてしまうだけで、自分の小さな枠が打ち破られる必要があることに気が付くことができませんし、それが打ち破られて、イエス・キリストに対する新しい理解と信仰が生まれることもありません。
繰り返しになりますが、このように言ってマルタをとがめることは聖書の読み方として間違っています。むしろ、私たちは、マルタのうちにあるのと形は違っても本質は同じ問題が、私たち自身のうちにもあると、聖書によって指摘され、問われているのです。
マルタの場合には、その当時のユダヤ社会の人々が一般的に持っている、神さまとメシヤについての理解の仕方の枠の中に、自分自身が閉じ込められています。そのために、神さまとメシヤについての自分の理解が、その枠を越えることができないのです。私たちの場合には、私たちが生まれて育った、この日本の社会に一般的な「神」や「宗教」についての考え方の枠の中に閉じ込められてしまう危険、あるいは現実があります。そのために、聖書の教えを自分の枠の中でしか理解しないということになりかねません。
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このようなことを心に留めたうえで、改めて、マルタとイエス・キリストのやり取りを見てみましょう。
23節にありますように、イエス・キリストがマルタに向かって、
あなたの兄弟はよみがえります。
と言われた時、マルタは、
私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。
と答えました。
これは、その当時のユダヤの社会の人々の一般的な考え方を、そのまま述べたものです。生きている間に神さまを信じて律法の教えに従って生きた人は、世の終わりに、いのちによみがえるということです。マルタは、イエス・キリストにお会いするまでに、すなわち、ラザロが死んでからの四日間の間に、彼女を慰めるためにやって来た人々から、「ラザロはよみがえりますよ。」と言われ続けたことでしょう。
これは、私たちの社会で、愛する人を失った悲しみの中にある人に向かって、その人の愛する人は「天国に行った。」と言うことと同じです。ただし、私たちの社会では、一般的に言ってのことですが、そのように言う人自身が「天国」があるとは思ってはいないという問題があります。
その当時のユダヤの人々は、世の終わりの「よみがえり」を本気で信じていました。それがどれほど真剣なものであったかは、使徒の働き23章6節〜9節に記されている出来事を見れば分かります。使徒パウロを審問していた議会で、パウロが「私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです。」と言いますと、復活を信じているパリサイ派の議員と信じていないサドカイ派の議員が二つに割れて、パウロのことはそっちのけで論争を始めたのです。もちろん、一般の民衆は復活を信じていました。
そのようなわけで、イエス・キリストが、
あなたの兄弟はよみがえります。
と言われた時、マルタは、また同じ慰めの言葉を聞いたと思ったわけです。それで、改めて、
私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。
と、復活に対する自分の信仰を兄弟ラザロに当てはめて述べたのです。
このようなマルタの考えの中には、イエス・キリストが入る余地はありません。
マルタにとってイエス・キリストがどのような位置にあるかは、
主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。
という言葉に表わされています。「重い病気であっても、ラザロが生きている間なら何とかしていただけたはずだ。」あるいは、「ラザロが死んで間もないうちなら、何とかしていただけたはずだ。」ということでしょう。ちなみに、その当時は、死者の魂は三日の間は死体の近くにあって、死体の中に戻ろうとしている、と考えられていました。その間であれば、ラザロの魂をからだの中に戻していただけたかもしれないとも信じていたかもしれません。
しかし、先ほどの
主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。
という言葉から分かりますように、ラザロが死んでから四日も経ってしまった今では、もうイエス・キリストでもどうすることもできない、と思っています。
マルタの望みはイエス・キリストから離れて、「終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえる」ということに移っていました。
マルタは、自分自身の小さな枠の中に閉じ込められているので、そこに神の御子イエス・キリストがおられても、また、イエス・キリストの言葉を聞いても、そのことがマルタにとって特別な意味を持たないままになっています。
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主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。
という程度に、また、他の人々が失望したとしても、
今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。
という程度にイエス・キリストを信じていたマルタにとっては、この兄弟ラザロが死んでしまった状況では、イエス・キリストは遅ればせながらやって来た「わき役」でした。
ここでの主役は、その当時の一般的な考え方で身を固めているマルタ自身です。そのマルタの拠り所は、「終わりの日のよみがえりの時」があるということと、ラザロはそれにふさわしい「いい人であった」という思いでした。そして、イエス・キリストも同じ思いで、
あなたの兄弟はよみがえります。
と言ってくれたと思ったのでした。
マルタは、そのイエス・キリストの言葉を自分の狭い考えの枠の中に組み込んで、
私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。
と言い、自分なりの考え方で受け入れます。
このようなマルタに対して、イエス・キリストは、
わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。
と言われました。
当時に一般的な考え方で身を固めているマルタの「心の殻」を打ち破るために、イエス・キリストはご自身がどなたであるかをお示しになっておられます。もしマルタがイエス・キリストご自身に心を向けて、ご自身が明らかにしてくださるままにイエス・キリストを受け入れるなら、マルタの心の殻は打ち破られます。
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私たちも、自分たちの回りにある一般的な希望的観測を捨てて、確かな希望の土台を持たなくてはなりません。その希望の土台であり目的である方は、永遠の神の御子イエス・キリストご自身です。
イエス・キリストが、天の御国に対する私たちの希望の土台であり、復活の希望の源であることは、二つの理由によっています。
まず、ヨハネの福音書に七回出てくる「わたしは ・・・・ です。」というイエス・キリストの言葉は、ご自身が天地万物の造り主であり、お造りになったものを治めておられる主であることを背景としている言葉です。
イエス・キリストは、1章1節〜3節で、
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
とあかしされている永遠の「ことば」です。この方が、私たちにとってどのような意味を持った方であるかを示してくださったのが、一連の「わたしは ・・・・ です。」というイエス・キリストの言葉です。
ヨハネの福音書の冒頭で「ことば」として紹介されている御子イエス・キリストは、創世記の冒頭で、天地創造の初めに、
光よ。あれ。
という御言葉によってこの世界に「光」があるようにしてくださった神としてあかしされている方です。その御言葉によって、この世界のすべてのものをお造りになり、支えておられる方です。
御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。
ヘブル人への手紙1章3節
この方が、11章43節に記されていますように、
ラザロよ。出て来なさい。
と呼びかけられると、ラザロは葬られたときの姿で墓の中から出てきました。
これによって、マルタの小さな「心の殻」は打ち破られたはずです。「終わりの日のよみがえりの時」を漠然とした思いで考えていたマルタの前に、
わたしは、よみがえりです。いのちです。
と言われる方の本当の姿が、圧倒的な意味をもって現れてくるようになったということです。
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しかし、それが
わたしは、よみがえりです。いのちです。
と言われる方のすべてではありません。
このようにしてよみがえったラザロも、やがて肉体的な死を迎えました。なぜなら、ラザロの罪が彼のうちに残っていたからです。
いくら創造の初めに
光よ。あれ。
という御言葉によって「光」があるようにされた方であっても、罪あるものの罪をそのままにして、罪ある者を罪のない者に造り変えることはできません。それは力の問題ではなく、無限に聖く義である神さまは、罪をうやむやにしてしまうことができないということです。
ラザロを、また、私たちを、決して死ぬことがない者に造り変えてよみがえらせてくださるためには、私たちの罪が完全に清算されていなくてはなりません。
わたしは、よみがえりです。いのちです。
と言って、私たちにご自身を示してくださった方は、私たちの罪を完全に贖って清算してくださるために、私たちと同じ「人の性質」をお取りになりました。1章14節に、
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。
と言われている通りです。
これによって、イエス・キリストは、私たちの身代わりとなって十字架にかかり、私たちの罪に対する神のさばきをすべてその身に負ってくださいました。これによって、私たちの罪はすべて完全に贖われ清算されました。
キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。
ガラテヤ人への手紙3章13節
神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。
コリント人への手紙第一・5章21節
わたしは、よみがえりです。いのちです。
と言われる方は、ご自身の死の苦しみを通して私たちの罪をまったく贖い清算してくださった方です。ですから、この事実に基づいて、私たちを、再び死を見ることがない者、永遠のいのちをもつ者として造り変えて、よみがえらせてくださることがおできになる方です。それが、
わたしは、よみがえりです。いのちです。
という言葉に続く、
わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。
という言葉の意味するところです。
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「終わりの日のよみがえりの時」という歴史のプログラムが意味を持っているかのように、遠い彼方を漠然と眺めて希望的観測を持っていたマルタの目の前に、
わたしは、よみがえりです。いのちです。
と言われた方が、いのちの主としてご自身を現わしてくださいました。その方がいてくださらなければ、「終わりの日のよみがえりの時」は空しい失望でしかありません。
私たちにとっても同じことです。私たちも、人間の憶測に捕らわれないで、
わたしは、よみがえりです。いのちです。
と言われる方に心を向けることが大切です。
私たちのいのちは、ご自身が永遠に生きておられて、今ここで
わたしは、よみがえりです。いのちです。
と言われる方、私たちの造り主であり、贖い主である御子イエス・キリストのうちにあります。
そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。
ヨハネの手紙第一・5章11節、12節
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