信仰の基礎としてのキリストの復活
(イースター説教集)


説教日:1994年4月3日
聖書箇所:コリント人への手紙第一・15章12節〜22節


 コリント人への手紙第一・15章12節〜19節においては、「死者の復活はない」と言っている人々の主張を取り上げて、もし死者の復活がないとしたら、どのようになるのかということを論じています。
 そこでの基本的な論点は二つあります。
 第一は、もし死者の復活がなければ、イエス・キリストもよみがえることがなかったということです。
 第二は、もしイエス・キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの信仰が実質のない、むなしいものとなるということです。
 これを受けて、続く20節〜22節においては、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことと、その意味がどのようなものであるかが述べられています。これによって、12節〜19節において取り上げられている「もし ・・・・ ならば」という仮定と、その仮定の上に立っていることを否定しています。
 今日は、これらのことの中から、特に、私たちの信仰にとって基本的なことをお話ししたいと思います。それは、「歴史的な事実としてのイエス・キリストの復活は、私たちの信仰の基礎である」ということです。
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 まず20節に注目してみましょう。20節では、

しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

と言われています。ここでは、第一に、イエス・キリストがよみがえられたのは歴史的な事実であるということが述べられており、第二に、その意味について、イエス・キリストは「眠った者の初穂として」よみがえられたということが述べられています。今日お話しすることは、第一の、イエス・キリストがよみがえられたのは歴史的な事実であるということと関わっています。
 第二の、イエス・キリストの復活の意味について、イエス・キリストは「眠った者の初穂として」死者の中からよみがえられたと言われていることは、イエス・キリストの復活と私たちの復活の結びつきを示すことです。それは、「もし死者が復活しないのなら、イエス・キリストも復活されなかったであろう」という13節と16節の言葉が、私たちの復活とイエス・キリストの復活の結びつきを示していることと呼応しています。
 このことは12節〜22節の論議の中でとても大切な意味を持っていますが、今日お話しすることからははずれますので、ここでは取り上げません。
 先程お話ししましたように、20節の、

しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

という言葉は、12節〜19節に述べられていることを踏まえて語られています。
 その12節〜19節においては、まず、もし死者の復活がなければ、イエス・キリストが死者の中からよみがえることはなかったということが指摘されています。続いて、もしイエス・キリストが復活されなかったとしたらどうなるのかということが語られています。
 もしイエス・キリストが復活されなかったとしたら、14節、15節にあるように、私たちがイエス・キリストをあかしし宣べ伝えることは実質のないこととなり、宣べ伝えられたことを信じることも実質のないものになります。
 2節では、

もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。

と言われていますが、もしイエス・キリストがよみがえらなかったとしたら、この福音によって救われるということは否定されるのです。
 その結果、第一に、17節にあるように、私たちの信仰はむなしく、私たちは「今もなお、自分の罪の中にいる」ことになります。
 第二に、18節にあるように、「キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまった」ことになります。
 第3に、19節にあるように、私たちは「この世にあってキリストに単なる希望を置いているだけ」の、「すべての人の中で一番哀れな者」とになります。
 これらのことを受けて、20節では、

しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

と言われています。イエス・キリストのよみがえりは歴史の中で実際に起こった事実であるというのです。
 これによって、「もしイエス・キリストがよみがえらなかったとしたら」という仮定と、その仮定の上に立つことがが否定されています。ですから、私たちが使徒たちから伝えられた「福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです」。
 このように、イエス・キリストの復活が単なる神話でも、人間の希望的観測でもなく、この歴史の中で実際に起こった事実であるということは非常に大切であって、私たちの信仰は、この歴史的な事実であるイエス・キリストの復活を基礎としていると言えます。それでパウロは、3節〜8節において自分が伝えている福音の言葉を要約する時、復活されたキリストが人々に現れたことを特に詳しく述べています。
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 しかし、私たちの信仰が歴史的な事実であるイエス・キリストの復活を基礎としているといっても、私たちは、ただ単に「イエス・キリストの復活は歴史的な事実である」ということを信じているだけではありません。
 確かに、多くの人々が、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことを否定している中で、私たちは、イエス・キリストは死者の中からよみがえられたと信じています。イエス・キリストの復活は、歴史的な事実であると信じています。けれども、イエス・キリストの復活は、歴史的な事実であるということだけであれば、悪霊たちも信じています。

あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。

ヤコブの手紙2章19節

このような悪霊たちも持っている信仰は、「事実を」信じる信仰、すなわち、あることを「事実である」と信じる信仰です。
 たとえば、「神が存在する」ということや、「神は愛と恵みに満ちた神である」ということ、「イエス・キリストが十字架にかかって死なれた」ということや、「イエス・キリストが十字架にかかって死なれたのは、私たちの罪を贖って下さるためであった」ということ、また「イエス・キリストが死者の中からよみがえられた」ということや、「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたのは、私たちが新しいいのちに生きるためであった」ということなどが「事実である」と信じるものです。これも一種の信仰ですが、私たちを救いに導く信仰ではありません。
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 私たちは、ただ単に、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことが「事実であるということを」信じているのではありません。あるいは、イエス・キリストが死者の中かからよみがえられたという「事実を」信じているだけではありません。
 私たちは、イエス・キリストの復活は歴史の事実であると信じる「前に」、あるいはイエス・キリストの復活という歴史の事実を信じる「前に」、「イエス・キリストご自身を」信じているのです。神さまやイエス・キリスト「についての事実を」信じる前に、「神ご自身と、イエス・キリストご自身を」信じているのです。
 もちろん、私たちが父なる神さまとイエス・キリスト「ご自身を」信じることができたのは、伝えられた福音の言葉を聞いて、私たち自身の罪を認め、罪を赦していただくためにイエス・キリストの十字架の上での死による罪の贖いを信じ、それを受け入れたことによっています。それが私たちの信仰の出発点です。
 すると、それは、イエス・キリストが十字架にかかって死んで下さって、私たちの罪を贖って下さったという「事実を」信じたことではないかと言われるでしょう。それはその通りですが、それだけではないのです。
 たとえば、私たちは愛する人からプレゼントをいただいた時、その品物だけを受け取っているのではありません。その人の「愛を」受け取っています。プレゼントはその人の愛を表わしています。その人の愛を受け取ることは、すなわち、「その人自身を、愛する人として」受け取ること(受け入れること)です。
 これと同じように、私たちがイエス・キリストの十字架の上での死による罪の贖いを信じ受け入れた時、私たちは、その死による罪の贖い(という効果)を受け取っただけではありません。それ以上に、また、それ以上に大切なイエス・キリストの私たち罪人に対する「愛を」受け取ったのです。それはそのまま、イエス・キリストご自身を受け取ることであり、イエス・キリストを「私の神、私の主」として受け入れることでした。
 私たちは、このようにイエス・キリストご自身とその愛を信じて受け入れた上で、イエス・キリストについての「事実」と、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業についての「事実」を、御言葉のあかしに従って信じ、受け入れているのです。
 ですから、私たちにとっては、神さまが存在されるだけではありません。その神さまは「私の神」であり、私は神さまのものです。神さまが天地万物を創造されただけではありません。その神さまが、愛といつくしみをもって私と私の住む世界をお造りになり、今も真実に支えておられます。
 また、イエス・キリストが十字架にかかって死なれただけではありません。イエス・キリストは私の罪を贖うために十字架時かにかかって下さり、私の罪はその死によってまったく贖われています。
 さらに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられただけではありません。イエス・キリストは、私の神、私の主としてよみがえって下さり、今も、私の救いの完成のために一切のことを治め、導いておられます。
 また、私はイエス・キリストと一つに結ばれて、十字架にかかって罪と古い自分に対して死に、イエス・キリストとともに復活のいのちに生かされています。
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 このように、私たちは、ただ単に、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたのは歴史的な事実であるということを信じているのではなく、私たちの罪の贖いのために、十字架にかかって死んで下さり、私たちが新しいいのちに生きるようになるために死者の中からよみがえって下さったイエス・キリストご自身を信じています。
 しかし、もしイエス・キリストが死者の中からよみがえられたのではなかったとしたらどうでしょうか。
 先程、見ました通り、私たちの信仰は実質のないむなしいものになってしまいます。私たちは今なお罪の中にいることになります。キリストにあって眠った人々は、滅んでしまったことになります。
 なぜそうなるのかについての詳しい説明は必要ないでしょうが、ここでは、その中心にあることをお話しします。というのは、それが、イエス・キリストの復活という歴史的な事実が、私たちの信仰の基礎であるということの意味を、さらに明らかにするからです。
 今お話ししましたように、私たちは、イエス・キリストご自身を信じています。私たちが信じているイエス・キリストは、死者の中からよみがえって、今も生きておられる方です。私たちは、イエス・キリストを「昔の偉人・聖人」として信じているのではありません。
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 もし、私たちが、イエス・キリストを「昔の偉人・聖人」として信じているのであるとしたら、私たちの信仰はどのようなものとなっていたでしょうか。せいぜい、イエス・キリストの教えに共鳴し、その教えに従おうとするものでしょうし、イエス・キリストの生き方に共感し、その生き方に倣おうとするものでしょう。事実、イエス・キリストを「昔の偉人・聖人」、「人類の偉大な教師」と捉え、その教えに従い、その生き方に倣おうとしている人々が多いのです。
 しかし、厳密に言いますと、それは、イエス・キリストが教えたことや、イエス・キリストの生き方を受け入れることであって、イエス・キリストを信じることではありません。イエス・キリストを「昔の偉人・聖人」と考えている以上、そこにはイエス・キリストとの人格的な交わりはありません。死んでしまった過去の人との人格的な交わりは成り立たないからです。
 イエス・キリストの教えを受け入れ、その生き方に倣うということは、自分が自分の力でその教えに従い、その生き方に倣って生きることです。イエス・キリストからの恵みによる働きかけを受けて、その恵みによって生きるということはありません。御言葉があかししているイエス・キリストの十字架の死による罪の贖いを信仰によって受け取って罪の赦しを受け、罪の力から解放されることも、イエス・キリストの復活のいのちによって生かされることもありません。
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 私たちの信仰はそのようなものではなく、私たちの罪を贖うために十字架にかかって死んでくださった後、死者の中からよみがえられて、今も生きておられるイエス・キリストを信じるものです。そのイエス・キリストは、ご自身が成し遂げられた罪の贖いにもとづいて私たちの罪を赦し、私たちを罪の力から解放し、復活のいのちによって生かして下さっています。今私たちは、イエス・キリストによって生かされて生きています。信仰によって受け取るイエス・キリストの恵みに生かされて生きています。

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
ガラテヤ人への手紙2章20節

 また、イエス・キリストが、御霊によって、私たちに贖いの恵みを当てはめて生かしてくださっているので、私たちは、イエス・キリストの教えを受け入れ、それに従って生きることができますし、イエス・キリストの生き方に倣って生きることができるのです。復活のいのちによって生かされていなくては、イエス・キリストの教えに従って生きることも、その生き方に倣って生きることもできません。
 さらに、私たちは、ただイエス・キリストから力をいただいてその教えを守り、その生き方に倣っているだけではありません。イエス・キリストの教えを守り、その生き方に倣うのは、イエス・キリストの私たちに対する愛を確信しており、私たちもイエス・キリストを愛しているからです。イエス・キリストの教えを守り、その生き方に倣うことは、私たちの愛の具体的な表現です。

イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。 ・・・・
ヨハネの福音書14章23節、24節

私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのことによって、私たちが神の子どもたちを愛していることが分ります。神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。
ヨハネの手紙第一・5章2節、3節

 このように、私たちは、私たちのためにご自分のいのちを捨てて下さり、死者の中からよみがえって下さったイエス・キリストを信じる信仰の中に生きています。イエス・キリストが成し遂げて下さった贖いの恵みの中で、罪の赦しと聖めを受け、復活のいのちによって生かされています。また、イエス・キリストにある父なる神さまの愛を受けて、私たちもイエス・キリストと父なる神さまを愛しています。
 私たちは、この父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛の交わりの中で、主の御言葉に従います。そして、私たちが御言葉に従うことができるのは、イエス・キリストの恵みによって復活のいのちに生かされているからです。
 これは、イエス・キリストを「昔の偉人・聖人」と考えて、ただその教えに従い、その生き方に倣って生きることとはまったく違います。その違いの根本にあるのは、十字架の上での死によって罪の贖いを成し遂げてくださった後、死者の中からよみがえって、今も生きておられるイエス・キリストを信じる信仰に生きるかどうかです。
 しかし、その信仰も、もしイエス・キリストが死者の中からよみがえらなかったのであれば、実質のない、むなしいものとなってしまいます。実際には死んでしまった「過去の人」を、今も生きていると考えるのは欺きであり、幻想でしかありません。そのような欺きや幻想の上に立つ信仰は実質のない、むなしいものです。そのような幻想の上に立った信仰には人を根本から変える力も新しく生かす力もありませんし、歴史を造る力もありません。
 このように、私たちの信仰は、イエス・キリストが十字架の上での死によって、私たちのために、罪の贖いを成し遂げてくださった後、死者の中からよみがえられたことを基礎としています。それが単なる人の言い伝えや、希望的観測ではなく、歴史的な事実であるということに基づいています。その歴史的な事実としてのイエス・キリストの復活に基づいて、私たちは、今も生きておられるイエス・キリストを信じており、その恵みによって生かされているのです。


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