眠った者の初穂として(6)
(イースター説教集)


説教日:2022年4月17日
聖書箇所:コリント人への手紙第一・15章20節ー22節


 今主日は2022年の復活節です。復活節の礼拝においては、2009年の復活節から、コリント人への手紙第一・15章に記されている、復活についてのパウロの教えを取り上げてお話ししています。そして、2015年から2019年の復活節には20節ー22節に記されている、

しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。

という教えについてお話ししました。
 この個所からのお話は3年ほど空いてしまいましたので、今日は、すでにお話ししたことを繰り返すことにもなりますが、さまざまな補足をしながら振り返ることにします。とはいえ、今日お話しするのは、20節に記されている、

 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

と記されていることについてです。
 ここには「初穂」が出てきます。旧約聖書のモーセ律法の規定では、「初穂」あるいは「初物」は聖別されて、「」への感謝を表すために献げられるものでした[新改訳2017年版では、「初物」は旧約聖書に20回、「初穂」は旧約聖書に15回、新約聖書に9回出てきます。]。
 この「初穂」、「初物」について、三つのことが考えられています。その三つのことの根底には、神である「」が天地万物をお造りになった方であり、お造りになったすべてのものを所有しておられるということと、お造りになったすべてのものを、一つずつ真実に支え、導き、生かしてくださっているということがあります。
 第一に、空間的な面ですが、「初穂」、「初物」は、それが収穫される地の収穫全体を代表的に表しています。この「初穂」、「初物」を「」に献げることは、その地も、その地の産物もすべて「」が与えてくださっている賜物であることを告白し、感謝し、「」を礼拝することの中でなされました。
 第二に、時間的な面ですが、「初穂」、「初物」は、それが最初の収穫であるという点で、その後に続いて収穫されるもののすべてを代表的に表しています。「初穂」、「初物」を育み育ててくださり、収穫させてくださった「」が、その後に続くもののすべてを収穫まで育み育ててくださるのです。
 第三に、レビ記19章19節には、同じ畑に二種類の種を蒔いてはならないという規定がありました。古い契約の下で、この規定に従って畑に種を蒔いていたイスラエルにおいては、その畑から収穫されるものはすべて、その「初穂」、「初物」と同じ種類のもので、同じ性質をもっていたのです。
 これら三つのことは、「初穂」、「初物」とその後に続く収穫のすべてが一つに結ばれていること、そして、「初穂」、「初物」がその全体を代表していることを示しています。それで、「初穂」、「初物」は聖別されて、「」への感謝とともに献げられたのですが、そのことは、その収穫全体が「」のものとして聖なるものされていることを意味しています。
 このことに基づいて、パウロはコリント人への手紙第一・15章20節で、

 今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました

と言っています。また、23節でも、

しかし、それぞれに順序があります。まず初穂であるキリスト、次にその来臨のときにキリストに属している人たちです。

と言っています。
 20節では、

 今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました

と言われていて、「眠った者」(複数形「眠った者たち」)と「死者」(複数形「死者たち」)が出てきます。「眠った者たち」と「死者たち」は部分と全体の関係にあります。「死者たち」が全体で、肉体的に死んでしまった人々すべてのことです。その中に「眠った者たち」がいます。
 この「眠った者たち」は肉体的には死んだ人々ですが、「初穂として死者の中からよみがえられ」た「キリスト」と一つに結び合わされている人々です。
 この世の発想では「人はみな死ぬものだ」ということになっています。しかし、それ神さまのみことばである聖書の教えではありません。聖書が教えているのは、愛である神さまが創造の御業において人を愛を本質的な特質とする神のかたちとしてお造りになったということです。それで、人は神さまとの愛の交わりに生きるものですし、その神さまとの愛の交わりに生きることが神のかたちとして造られている人のいのちの本質です。そして、神さまとの愛の交わりに生きている人が死ぬことはありません。ですから、人は、本来、死ぬものではありませんし、死ぬべきものでもありません。
 ローマ人への手紙6章23節に、

 罪の報酬は死です。

と記されているように、人の死は、その人の罪がもたらしたものです。そして、その死をもたらした人の罪とは、人が自分自身とこの世界のすべてのものをお造りになった神さま神とすることなく、神さまに背を向けて歩んでいることにあります。人は、その罪に対する神さまの聖なる御怒りによる刑罰によって死ぬのです。
 この世の発想による死は肉体的な死ですが、それは、人の罪がもたらす死の一面でしかありません。最終的な死は、世の終り、終わりの日に再臨される栄光のキリストによって執行される最終的なさばきに基づく刑罰としてもたらされます。その最終的な死は、マタイの福音書10章28節に記されている、

からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。

という、イエス・キリストの教えに示されている死で、「たましいもからだもゲヘナで滅ぼ」されることです。「ゲヘナ」は「地獄」に相当する所です。[注]

[注]新改訳第三版と2017年版、また、聖書協会共同訳では、「地獄」ということばはペテロの手紙第一・2章4節に出てくるだけです。しかも、そこに出てくるのは「地獄に投げ入れる(タルタロスに投げ入れる)」(新改訳2017年版)という動詞(タルタロオー)です。新改訳第三版と聖書協会新共同訳は「地獄に引き渡す」と訳しています。ちなみに、新共同訳は「ゲヘナ」を「地獄」と訳しています。
 「ゲヘナ」はエルサレムの南西にある「ゲー・ヒンノーム」(ヒンノムの谷)に由来すると言われています。「ゲー」は「谷」を意味するヘブル語で、「ヒンノーム」は人名であると考えられます。ヒンノムの谷は、背教したユダの民が異教の神であるモレク(列王記第二・23章10節)やバアル(エレミヤ書19章5節)などに、自分たちの子どもをいけにえとしてささげた所です。後には、そこ(ヒンノムの谷)で廃棄物や犯罪人の死体が焼却処理されるようになったと言われています。
 このような意味をもった「ゲー・ヒンノーム」(ヒンノムの谷)を象徴的な場所として用いて、「地獄」のことを表すようになりますが、このヘブル語の「ゲー・ヒンノーム」、アラム語「ゲー・ヒンナーム」が、ギリシア語で「ゲエンナ」となり、日本語で「ゲヘナ」と音訳されています。
 
 すべての人は造り主である神さまに対して罪を犯しましたし、犯しています。それで、その罪に対する刑罰を受けなければならない状態にあります。人は罪の力に捕らえられてしまっているために、どうしても罪を犯してしまいます。そして、罪の力に捕らえられてしまっている人は、罪が生み出している暗やみ――物理的、あるいは精神的な暗やみではなく、霊的な暗やみ、すなわち真理であり光であられる神さまとの関係における暗やみ――に閉ざされているために、自分が罪の力に縛られている状態にあること自体に気づくことができません。そのために、自分が造り主である神さまに対して罪を犯していることにも、さらには、その罪に対する刑罰を受けなければならないことにも気づくことができません。
 聖書はこのような状態にある人を死んでいると教えています。
 今日は復活節ですのでお休みしていますが、これまで取り上げてきていますエペソ人への手紙2章1節では「あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者」であったと言われています。
 この「あなたがた」はこの手紙を読んでいる人々ですが、それは、また、かつての私たちでもあります。私たちも、肉体的には生きていて、いろいろな営みをしていました。そのほとんどは人から咎められることはない、自ら恥じることもない営みでしたでしょうし、しばしば称賛され、感謝されることもあったでしょう。
 しかし、神のかたちとして造られている人として、最も大切なことが欠けていました。「自分の背きと罪の中に死んでいた」状態にあったために、罪の力に捕らえられていたために、何を考えるにしても、何をなすにしても、造り主である神さまを神とすることはありませんでしたし、造り主である神さまが、自分とこの世界のすべてのものをお造りになって、真実に支え続けておられることを認めることもありませんでした。まして、その神さまの愛を受け止めて、神さまを愛することはありませんでした。そのように、造り主である神さまに背を向けて歩み続けて、やがて、肉体的な死を迎えるだけでなく、最終的には、「地獄」の刑罰を受けて滅ぼされるべき状態にあったのです。
 このエペソ人への手紙の読者たちは、今から2千年前に、肉体的には死にましたが、4節ー6節に、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と記されているように、「あわれみ豊かな神」さまの「大きな愛のゆえに」、また、ただ「恵みに」よって、最終的に「地獄」の刑罰を受けて滅ぼされるようになる状態から救われています。それは、この人たちが、イエス・キリストを信じるようになったことによっています。
 イエス・キリストは、私たちご自身の民の罪を贖うために十字架にかかって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、私たちに代わってすべて受けてくださいました。私たちに対する「地獄」の刑罰は私たちにではなく、イエス・キリストに対して執行されました。それで、私たちに対する「地獄」の刑罰はイエス・キリストの十字架において終っているのです。
 イエス・キリストは十字架にかかって死んでくださっただけではありません。さらに、私たちご自身の民を永遠のいのちによって生かしてくださるために、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださいました。

 ヨハネの福音書5章24節ー25節には、

まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 ここでは、二つの教えのそれぞれが、

 まことに、まことに、あなたがたに言います。

ということばによって導入されています。この「まことに、まことに」と訳されていることばを音訳すると「アーメン、アーメン」となります。これは確かであること、揺るぎないことを表す「アーメン」ということばを重ねて強調するものです。イエス・キリストが語られることはすべて確かなことなのですが、そのイエス・キリストがこれから語られることはとても大切なことであり、信ずべきことであり、信頼すべきことであることを伝えておられます。
 そして、ここでイエス・キリストが語っておられることは、遠い先の終わりの日に起こることではなく、イエス・キリストが語っておられるその時に起こっていることです。
 25節においてイエス・キリストは、

 死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。

と教えておられます。この場合の「死人」(ホイ・ネクロイ、ホ・ネクロスの複数形。ネクロスは「死んでいる」状態を表す形容詞で、冠詞ホで実体化しています)は、先ほどのエペソ人への手紙2章1節に、

 あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり

と記されているときの「死んでいた者」(ネクロイ「死んでいる」)状態にあった者に当たります。それは、霊的に「死んでいる」、すなわち、神さまとの関係において「死んでいる」状態にあったということで、造り主である神さまを神とすることはなく、神としてあがめることも、感謝することもなく、まして、神を愛することもない状態にあったということを意味しています。
 ヨハネの福音書5章25節においてイエス・キリストは、

 死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。

と言われることは、そのような状態にある「死人が神の子の声を聞く」ということです。それは、そのような状態にある「死人が」自分の力でできることではありません。「神の子」であられるイエス・キリストが、御霊によって、その人々をご自身の声を聞くことができるようにしてくださるということを意味しています。
 ここで、

  死人が神の子の声を聞く時が来ます。

と言われているときの「来ます」と訳されていることばは、現在時制で現されていますので「来ています」ということです。「来ています」ですと、その次の、「今がその時です。」と同じことを言っているような気がしますが、その時、もうすでに来ているということを強調していると考えられます。
 イエス・キリストはこの後、28節ー29節において、

このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。

と言われて、終わりの日に起こることを教えておられます。けれども、このことを語られたときには、

 まことに、まことに、あなたがたに言います。

という、導入のことばはありません。それは、当時のユダヤ人たちは、例外もありますが、終わりの日におけるよみがえりとさばきのことを信じていたことによっていると考えられます。
 24節ー25節に記されている、

 まことに、まことに、あなたがたに言います。

ということばによって導入されている教えは、とても大切なことなのですが、それを聞いている人々にとっては、思いがけないことでもあったのです。
 その教えとその教えの大切さを理解する「鍵」は、この教えを語っておられるイエス・キリストご自身がどなたであるかということにあります。
 この5章の文脈では、18節に、ユダヤ人たちがイエス・キリストを殺そうとするようになった理由の一つとして、イエス・キリストが、

 神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。

と記されています。そして、続く19節には、イエス・キリストが彼らに答えて、

まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。

と言われたことが記されています。
 これによって、イエス・キリストは父なる神さまを個人的に「」と呼んでおられますし、ご自身と父なる神さまが一つとなってお働きになっておられることを示しておらます。特に、最後の、

 すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。

ということばは、ご自身が父なる神さまと等しい方であられることを示しています。[注]

[注]BDAG(ギリシア語のレキシコン)は「子も同様に行うのです」を「子もまた行うのです」(the Son also does)と訳しています。これは、御子が御父を模範としてそれに倣うということではなく、御子は御父がなさることを見て、それと同じことを行うということ、そこに完全な一致があるということを意味しています。

 ここでは、そのことが、単なる教義として語られているのではありません。
 このように、父なる神さまと等しい方である御子が、父なる神さまのみこころにしたがって、死んでいる状態にある者たちを、御霊によって、ご自身の御声を聞くことができるようにしてくださり、それによって、父なる神さまを信じるようにしてくださり、永遠のいのちをもつようにしてくださるということ、そして、それがすでに現実になっているということが示されているのです。

 ヨハネの福音書では、これと同様のことが、11章23節ー26節に記されています。そこは、マルタの兄弟ラザロが(肉体的に)死んだ時に、イエス・キリストがマルタに語られたことが、

イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」マルタはイエスに言った。「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています。」イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」

と記されています。
 イエス・キリストがマルタに、

 あなたの兄弟はよみがえります。

と言われたことを受けて、マルタは、

終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています。

と答えました。
 これは、先ほどお話ししたように、ユダヤ人たちが一般的に信じていたことでした。
 これに対して、イエス・キリストは、

 わたしはよみがえりです。いのちです。

と言われました。
 これは、強調形の現在時制で、

 エゴー・エイミ・・・。

という言い方で、このように言われる方は、契約の神である「」ヤハウェであられます。このとき、マルタに語っておられる方は、先ほどの、父なる神さまがなさることを同じく行われる御子であられます。その方が、ここでは、ご自身が契約の神である「」ヤハウェであられることを啓示してくださっています。
 この方こそが「よみがえり」であり「いのち」なのです。この方を離れては「よみがえり」はなく「いのち」もありません。はるか遠い先の「終わりの日」に、どのようにしてかは分からないけれども死者のよみがえりがあるということを信じるのではなく、今この時、

 わたしはよみがえりです。いのちです。

と言われる方を信じることによって、また、この方を信じた時から、「よみがえり」にあずかり「いのち」にあずかるようになるのです。そのことが、これに続いて、イエス・キリストが、マルタに語られた、

わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。

という教えに示されています。
 このことは、先ほどのイエス・キリストの教えで、

まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。

と言われていることと、実質的に同じことです。
 ここでマルタに語っておられる御子イエス・キリストが契約の神である「」ヤハウェであられるということとのかかわりで、一つのことに触れておきます。それは、マルコの福音書14章22節ー24節に、

さて、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、彼らにお与えになった。彼らはみなその杯から飲んだ。イエスは彼らに言われた。「これは、多くの人のために流される、わたしの契約の血です。

と記されていることです。
 古い契約の下では、その仲保者であるモーセも、動物の血によって「」の契約をイスラエルの民と結びました(出エジプト記24章5節ー8節、ヘブル人への手紙9章18節ー20節)。けれども、契約の神である「」ヤハウェであられる御子イエス・キリストは、ご自身が十字架の上で流された血をもって、新しい契約を結んでくださり、私たちをご自身と一つに結び合わせてくださいました。そして、その契約に基づいて、真実に、私たちをご自身の愛のうちに保ち続けてくださって、永遠に、私たちがご自身と父なる神さまとの愛の交わりに生きることができるようにしてくださっています。

 コリント人への手紙第一・15章20節に出てくる「眠った者たち」は、地上の生涯に置いて、十字架にかかって死んでくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったイエス・キリストを信じていた人々です。この人々は肉体的には死にましたが、契約の神である「」ヤハウェであられる御子イエス・キリストは、真実に、この人々をご自身と一つに結び合わせてくださって、永遠のいのちに生きるようにしてくださっています。それで、この方々は、2千年後の今も、永遠のいのち、すなわち、御子イエス・キリストと父なる神さまとの愛の交わりに生きています(参照・ヨハネの手紙第一・1章3節「私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。」。
 この方々のことを「眠った者たち」と呼ぶのは、今、地上にあってイエス・キリストを信じて、「永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移って」いると言われている、私たちの目から見てのことです――イエス・キリストを信じていない人々は、この方々のことをこのように呼ぶことはできません。
 このことは、テサロニケ人への手紙第一・4章13節ー14節に、

眠っている人たちについては、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくありません。あなたがたが、望みのない他の人々のように悲しまないためです。イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。

と記されていることにも当てはまります。

 私たちは、復活節には「召天者記念礼拝」をしています。私たちはイエス・キリストにあって「眠った」方々のことを覚えて、私たちすべてに対する主の愛と恵みに感謝して主を礼拝しています。
 「初穂」としてのイエス・キリストは新しい契約の主として、その「眠った」方々とともに私たちをも、ご自身と同じ種類の者、同じ性質をもつ者として新しく生まれさせてくださいました。そして、ご自身の契約に基づいて真実に、ご自身と一つに結び合わされている者として保ち続けてくださって、終わりの日には、ご自身と同じ復活の栄光をもつ者として、栄光化されたからだによみがえらせてくださいます。


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