眠った者の初穂として(5)
(イースター説教集)


説教日:2019年4月21日
聖書箇所:コリント人への手紙第一・15章20節ー22節



 今主日は2019年の復活節です。復活節の礼拝においては、2009年の復活節から、コリント人への手紙第一・15章に記されている、復活についてのパウロの教えを取り上げてお話ししています。そして、2015年の復活節からは20節ー22節に記されている、

しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。

という教えについてお話しししています。
 これまで、ここに記されていることの背景となっていると考えられることをお話ししました。いくつかのことを、補足を加えつつ、まとめておきます。
 20節には、

 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

と記されています。
 ここには「初穂」が出てきます。旧約聖書のモーセ律法の規定では、「初穂」あるいは「初物」は聖別されて、「」への感謝を表すために献げられるものでした。この「初穂」、「初物」については、三つのことが考えられています。
 最初に確認しておきたいことは、これからお話しする三つのことの根底には、神である「」が天地万物をお造りになった方であり、お造りになったすべてのものを所有しておられるということと、お造りになったすべてのものを、一つずつ真実に支え、導き、生かしてくださっているということがあります。
 一つのことは、いわば空間的なことです。「初穂」、「初物」は、それが収穫される地の収穫全体を代表的に表しています。この「初穂」、「初物」を「」に献げることは、その地も、その地の産物もすべて「」が与えてくださる賜物であることを告白し、感謝し、「」を礼拝することの中でなされました。
 もう一つのことは、いわば時間的なことです。「初穂」、「初物」は、それが最初の収穫であるという点で、その後に続いて収穫されるもののすべてを代表的に表しています。「初穂」、「初物」を育み育ててくださり、収穫させてくださった「」が、その後に続くもののすべてを収穫まで育み育ててくださるのです。
 三つ目のことは、レビ記19章19節には、同じ畑に二種類の種を蒔いてはならないという規定がありました。古い契約の下で、この規定に従って畑に種を蒔いていたイスラエルにおいては、その畑から収穫されるものはすべて、その「初穂」、「初物」と同じ種類のもので、同じ性質をもっていたことになります。
 これら三つのことは、「初穂」、「初物」とその後に続く収穫のすべてが一体に結ばれていること、そして、「初穂」、「初物」がその全体を代表していることを示しています。それで、「初穂」、「初物」は聖別されて、「」への感謝を表すために献げられたのです。[注] そして、このことに基づいて、パウロはここコリント人への手紙第一・15章20節で、

 今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました

と述べています。


[注]このことが、今日、私たちが礼拝において献げものを献げることにつながっています。今日の社会が貨幣経済の社会ですので、私たちは礼拝において「献金」をしています。


 ここでは「眠った者」(複数形「眠った者たち」)と「死者」(複数形「死者たち」)が使い分けられています。「眠った者たち」と「死者たち」は部分と全体の関係にあります。「死者たち」が全体で、肉体的に死んでしまった人々すべてのことです。その中に「眠った者たち」がいるのです。
 肉体的に死んでしまった人々の中に「眠った者たち」がいるということはどういうことでしょうか。
 神さまのみことばは、人が肉体的に死ぬことが、人の死のすべてではないことを教えています。それは、ローマ人への手紙6章23節に、

 罪の報酬は死です。

と記されているように、人の死は罪がもたらしたものだからです。そして、そのように死をもたらす人の罪とは、人が自分たちとこの世界のすべてのものをお造りになった神さまに背いていること、造り主である神さまを神とすることなく、神さまに背を向けて歩んでいることにあります。人は、その罪に対する神さまの聖なる御怒りによる刑罰を受けて死ぬのです。そして、肉体的な死は、その罪がもたらす死の一面でしかありません。最終的な死は、世の終り、終わりの日に再臨される栄光のキリストによって執行される「最後の審判」に基づく刑罰としてもたらされます。その最終的な死は、マタイの福音書10章28節に記されている、

からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。

という、イエス・キリストの教えに示されているように、「たましいもからだもゲヘナで滅ぼ」されることにあります。「ゲヘナ」は「地獄」に相当するところです。
 すべての人は造り主である神さまに対して罪を犯しているので、その罪に対する刑罰を受けなければならない状態にあります。人は罪の力に捕らえられてしまっているために、どうしても罪を犯してしまいます。そして、罪の力に捕らえられてしまっている人は、罪が生み出している暗闇に閉ざされているために、自分がそのような状態にあることに気づかないようになってしまっています。自分が造り主である神さまに対して罪を犯していることにも、その罪に対する刑罰を受けなければならないことにも気づかないでいるのです。
 聖書はこのような状態にある人を死んでいると教えています。エペソ人への手紙2章1節では「あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者」であったと言われています。この「あなたがた」はこの手紙を読んでいる人々で、この時には、生きている人々です。ここでは、この人々のことが、かつては「自分の背きと罪の中に死んでいた者」であったと言われているのです。肉体的には生きていろいろな営みをしていましたが、罪の力に捕らえられていて、やがて、肉体的な死を迎えるだけでなく、最終的には、「地獄」の刑罰を受けて滅ぼされるようになる状態にあったということです。
 しかし、このエペソ人への手紙の読者たちは肉体的には死にましたが、最終的には、「地獄」の刑罰を受けて滅ぼされるようになる状態からは解放されていました。それは、この人たちがイエス・キリストを信じるようになったことによっています。
 イエス・キリストは、私たちご自身の民の罪を贖うために十字架にかかって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、私たちに代わってすべて受けてくださいました。私たちに対する「地獄」の刑罰は私たちにではなく、イエス・キリストに対して執行されました。それで、私たちに対する「地獄」の刑罰はイエス・キリストの十字架において終っているのです。
 イエス・キリストは十字架にかかって死んでくださっただけではありません。さらに、私たちご自身の民を永遠のいのちによって生かしてくださるために、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださいました。エペソ人への手紙2章4節ー6節には、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と記されています。また、ヨハネの福音書3章16節ー17節には、

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

と記されており、5章24節には、

まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 それで、この「眠った者たち」は、十字架にかかって死んでくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったイエス・キリストを信じている人々で、すでに肉体的に死んで、「」の御許に召されている「」の民たちのことです。この「眠った者たち」というのは、この人々を私たち地上にある者たちから見たときの呼び方です。この人々は肉体的には死にましたが、栄光を受けて「死者たち」の中からよみがえられたイエス・キリストと一つに結ばれて、復活のいのちである永遠のいのちに生きています。ヨハネの福音書11章25節ー26節には、

わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 先ほどお話ししたように、コリント人への手紙第一・15章20節に、

 今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました

と記されているみことばは、「初穂として」のイエス・キリストが私たちご自身の民と一体に結ばれていることを示しています。そのイエス・キリストと一体に結ばれているイエス・キリストの民の中にはすでに肉体的に死んだけれども、永遠のいのちに生きている人々がいます。それが「眠った者たち」です。その「眠った者たち」は「初穂」としてのイエス・キリストとの一体にあって、イエス・キリストと同じ種類の者、同じ性質をもつ者として新しく生まれさせていただいており、終わりの日には、イエス・キリストと同じ復活の栄光をもつ者としてよみがえるようになります。
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 コリント人への手紙第一・15章では、20節に記されている、

 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

というみことばに続いて、21節ー22節に、

死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。

と記されています。
 21節では、

 死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。

と言われています。ここに記されていることは理由を表す接続詞によって導入されていて、これが20節に記されていることの理由であることが示されています。[注]


[注]昨年もお話ししましたが、少し分かりにくかったので、改めて注釈しておきます。この21節には(エペイデーとガルという)理由を表す接続詞が二つあります。その一つ(ガル)は、この21節に記されていることが、その前の20節に記されていることの理由であることを示しています。このことは、後ほどお話ししますが、この部分の理解にとって大切なことですが、2017年版はこの接続詞を省略してしまっています。訳すことが少し難しいのですが、この接続詞を生かして20節ー21節を訳すと、

しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは(ガル)、死が一人の人を通して来たのですから(エペイデー)、死者の復活も一人の人を通して来るからです

というようになるでしょう。


 これによって、20節に記されている、

 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

ということは、21節に記されている、

 死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。

という、「」の贖いの御業の歴史のより大きな流れの中で起こったということが示されています。
 そして22節には、

アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。

と記されています。これにも、理由を表す接続詞(ガル)があり、ここに記されていることが21節に記されていることの理由であることを示しています。これによって、少し意味合いが違いますが、21節に記されている、

 死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。

ということが、具体的には、22節に、

アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。

と記されていることであるということが示されています。
 そうであれば、初めから、

 というのは(ガル)、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるからです。

と言えばすむのではないかと思われますが、その前に(21節に)、

というのは(ガル)、死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るからです。

と言われています。
 このように、回りくどいように見える言い方をしていることには意味がありますが、これについては、昨年お話ししたので、ここでは結論的なことだけをお話しします。
 12節に記されていますが、コリントの教会には「死者の復活はないと言う人たち」がいました。もし、このように回りくどいように見える言い方をしないで、いきなり(22節の)、

というのは(ガル)、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるからです。

と言われると、その「死者の復活はないと言う人たち」から、「キリスト」は単なる人ではなく神であるからよみがえったのだというようなことが言われかねません。そうすると、単なる人はよみがえらないということになりかねません。そうなるとすると、「初穂」としての「キリスト」と「眠った者たち」は同じ種類の者でも、同じ性質をもつ者でもなく、同じ復活の栄光をもつ者でもないことになりかねません。それで、ここでは、イエス・キリストがまことの人となられたことを際立たせているのです。
 確かに、ピリピ人への手紙2章6節ー11節に、

 キリストは、神の御姿であられるのに、
 神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、
 人間と同じようになられました。
 人としての姿をもって現れ、
 自らを低くして、死にまで、
 それも十字架の死にまで従われました。
 それゆえ神は、この方を高く上げて、
 すべての名にまさる名を与えられました。
 それは、イエスの名によって、
 天にあるもの、地にあるもの、
 地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、
 すべての舌が
 「イエス・キリストは主です」と告白して、
 父なる神に栄光を帰するためです。

と記されているように、イエス・キリストはまことの人としての性質を取って来てくださいました。それによって、ご自身が私たちご自身の民と一つになってくださり、私たちの「かしら」となってくださいました。先ほどお話ししたように、「初穂」とその後に続く収穫のすべては一体に結ばれていて、「初穂」がその全体を代表しています。その意味で、私たちの「初穂」であるイエス・キリストは私たちの代表的な「かしら」であられ、私たちに代わって十字架にかかって死んでくださり、私たちの罪をすべて完全に贖ってくださいました。そして、イエス・キリストは私たちの「かしら」である「初穂」として、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったのです。
 ここで、イエス・キリストがまことの人としての性質を取って来てくださったというときの「まことの人としての性質」とは、神さまが天地創造の御業において人を神のかたちとしてお造りになったときの「人としての性質」です。それは、人が造り主である神さまに対して罪を犯して堕落する前の人の状態であり、それゆえに、人の本来の状態です。
 このような人の本来の状態にあったのは、創造の御業において造り出された時の状態にあったアダムとエバと、人としての性質を取って来てくださった御子イエス・キリスト、私たちが「使徒信条」において、「主は聖霊によってやどり、処女(おとめ)マリアより生まれ」と告白している御子イエス・キリストです。
 もしイエス・キリストがお取りになったのがまことの人としての性質ではなかったとしたら、イエス・キリストは私たちと一体とななることも、私たちの「かしら」となることもできません。
 また、もしイエス・キリストが人としての本来の状態にある性質ではなく、罪を内にやどす人としての性質お取りになっていたとしたら、自らの罪へのさばきを受けなければならないことになり、他の人の身代わりになってさばきを受けることはできません。
 さらに、もしイエス・キリストが、最初に造られた状態のアダムと同じように罪はなかったとしても、単なる人でしかなかったとしたら、私たちの罪を贖うことはできません。なぜなら、先ほどお話ししたように、人の罪は天地創造の御業を遂行された無限、永遠、不変の栄光の主であられる神さまに逆らう罪であり、その重さも無限であるからです。神さまは聖なるお方であり、その義も無限の義です。それで、神さまは罪を完全に清算されます。その贖い、償いのためには、無限のいのちの代価が支払われなければなりません。しかし、人はたとえ罪がないとしても限界があるものであり、だれかに代わって無限のいのちの代価を支払うことはできません。
 このようなことがあるので、神さまは私たちご自身の民の罪を贖ってくださるために、ご自身の御子を贖い主として遣わしてくださったのです。御子イエス・キリストは、先ほど引用したピリピ人への手紙2章6節に記されているように、「神の御姿であられる」方、まことの神です。この方が私たちご自身の民の罪を贖ってくださいました。ヘブル人への手紙1章3節には、

御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。

と記されています。また、同じ手紙の10章10節には、

このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。

と記されています。ここで「ただ一度だけ献げられた」と言われているのは、そこに不足があるからさらに何かが献げられなければならないのではなく、完全なものが献げられたので、それで十分であるということを意味しています。それで、14節には、

なぜなら、キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成されたからです。

と記されています。
 御子イエス・キリストはまことの神であられ、まことの人であられるので、私たちご自身の民と一体となられ、私たちの「かしら」となられて、私たちに代わって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる「地獄」の刑罰を受けてくださり、その無限のいのちの値を支払って、私たちの罪をすべて完全に清算してくださったのです。
 コリント人への手紙第一・6章20節には、

 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。

と記されています。この「代価」は、無限、永遠、不変の栄光の主であられる御子イエス・キリストのいのちの「代価」です。
 コリント人への手紙第一・15章21節ー22節には、

死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。

と記されています。
 ここには、二人の「かしら」がいます。最初の人アダムとイエス・キリストです。同じ15章の45節には、

こう書かれています。「最初の人アダムは生きるものとなった。」しかし、最後のアダムはいのちを与える御霊となりました。

と記されています。ここでは、イエス・キリストが「最後のアダム」と言われていていて、「最初の人アダム」と対比されています。
 ここで

 最初の人アダムは生きるものとなった。

と言われているのは、創世記2章7節に、

神であるは、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。

と記されていることを受けています。この場合の「」(ハーアーダーム、「ハー」は冠詞)は「アダム」とも訳すことができますし、実際に、アダムでもあります。けれども、この場合は、個人としての「アダム」というより、最初の人であり、人類全体を代表している存在としての「」です。そして、この最初の人アダムが神である「」に罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、アダムから生まれるすべての人が、罪と罪がもたらす死の力に捕らえられてしまいました。繰り返しになりますが、肉体的な死は罪がもたらす死の一面でしかありません。罪は、最終的には、神さまの聖なる御怒りによる「地獄の」刑罰としての死をもたらします。それは、無限、永遠、不変の栄光の主である神さまに背く罪を犯している人が、当然、受けるべきものです。これが、コリント人への手紙第一・15章21節で、

 死が一人の人を通して来た

と言われていることの真相です。
 これに対して、

 死者の復活も一人の人を通して来るのです

と言われていることは、当然のことではありません。無限、永遠、不変の栄光の主である神さまに背く罪を犯している人が、当然、受けるべきものは「地獄」の刑罰であって、復活の栄光としての永遠のいのちではありません。
 死者が永遠のいのちをもつものとして復活するためには、まず、死をもたらす罪が完全に贖われなければなりません。しかし、それはたとえ罪がない状態の人であっても、他の人の罪を贖うことができません。それで、神さまはご自身の御子をお遣わしになって、御子によって私たちご自身の民の罪の贖いを実現してくださいました。これは、ひとえに、神さまの一方的な愛と恵みによっています。ヨハネの手紙第一・4章9節ー10節に、

 神はそのひとり子を世に遣わし、
 その方によって
 私たちにいのちを得させてくださいました。
 それによって
 神の愛が私たちに示されたのです。
 私たちが神を愛したのではなく、
 神が私たちを愛し、
 私たちの罪のために、
 宥めのささげ物としての御子を遣わされました。
 ここに愛があるのです。

と記されているとおりです。
 このことを踏まえると、先ほど引用した、

まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。

というイエス・キリストの教えを理解することができます。


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