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説教日:2018年4月1日 |
今主日は2018年の復活節に当たります。復活節の礼拝においては、2009年の復活節から、コリント人への手紙第一・15章に記されている、復活についてのパウロの教えを取り上げてお話ししてきました。そして、2015年の復活節から、20節ー22節に記されている、
しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。
という教えについてお話しししています。 これまでは、ここに記されていることの背景となっていると考えられることをお話ししてきました。具体的には、旧約聖書に記されていることのいくつかと、コリントにある教会の信徒たちの中に死者の復活を否定している人々がいましたが、その人々が死者の復活を否定していることの文化的な背景などについてお話ししました。 そして、昨年の復活節には、20節に記されている、
しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
というみことばについてお話ししました。今日は、おもに、それを補足するお話をしてから、続く21節ー22節に記されている、
というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。
というみことばについて、一つのことだけですが、お話しします。
* まず、昨年お話ししました、
しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
というみことばについて、二つのことを、いくつか補足しながらまとめておきます。 第一に取り上げるのは、
今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました
と言われているときの「初穂」のことです。 これには旧約聖書の背景があります。モーセ律法の規定では、「初穂」(ヘブル語・ビックリーム[複数形])あるいは「初物」(ヘブル語・レーシート[「最初のもの」ですが「最上のもの」という意味合いがあります])は聖別されて、「主」への感謝を表すために献げられるものでした。また、それは祭司たちに与えられ、彼らの働きを支えるものでした。 このことから、「初穂」、「初物」について、三つのことが考えられます。 一つは、「初穂」、「初物」は、それが収穫される地(畑)の収穫全体を代表的に表しているということです。それで、「初穂」、「初物」を「主」に献げることは、その地も、その地の収穫もすべて「主」が与えてくださる賜物であることを告白し、感謝し、「主」を礼拝することの中でなされました。 二つ目のことは、これには、時間的、歴史的な意味があるということです。「初穂」、「初物」は、それが最初の収穫であるという点で、その後に続いて収穫されるもののすべてを代表的に表しています。「初穂」、「初物」を育み育ててくださり、収穫させてくださった「主」が、その後に続もののすべてを収穫まで育み育ててくださるのです。 三つ目のことですが、レビ記19章19節には、
あなたの畑に二種類の種を蒔いてはならない。
という規定があります。これは、モーセ律法の中の儀式律法に属するものですが、古い契約の下で、この規定に従って畑に種を蒔いていたイスラエルにおいては、その畑から収穫されるものはすべて、その「初穂」、「初物」と同じ種類のもので、同じ性質をもっていたことになります。 これらのことは、「初穂」、「初物」とその後に続く収穫のすべてが一体に結ばれていること、そして、「初穂」、「初物」がその全体を代表していることを示しています。このことに基づいて、パウロはいくつかの個所で「初穂」、「初物」を全体を代表的に表しているものとして用いています。その一つがここコリント人への手紙第一・15章20節です。 第二に取り上げるのは、
今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました
と言われているときの「眠った者」のことです。 ここでは、「眠った者」(複数形「眠った者たち」)と「死者」(複数形「死者たち」)が使い分けられています。「眠った者たち」と「死者たち」の関係は部分と全体の関係にあります。「死者たち」が全体で、その中に、「眠った者たち」がいるということです。ここで言われている「眠った者たち」は、ご自身の民の罪を贖うために十字架にかかって死なれ、栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストを信じて、永遠のいのちを与えられている人々、父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛の交わり(ヨハネの手紙第一・1章3節「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです」)に入れていただいている人々で、すでに主の御許に召された主の民たちのことです。この「眠った者たち」というのは、この人々を私たち地上にある者たちから見たときの呼び方です。 同じ言い方はテサロニケ人への手紙第一・4章13節ー14節にも見られます。そこには、
眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。
と記されています。 ですから、コリント人への手紙第一・15章20節に、
今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました
と記されているみことばは、イエス・キリストがご自身の民と一体に結ばれていることを踏まえています。そして、この場合には、イエス・キリストのよみがえりのことを取り上げているので、特に、イエス・キリストとの一体にあって「眠った者たち」の「初穂として死者の中からよみがえられました」と言われています。その「眠った者たち」は「初穂」としてのイエス・キリストとの一体にあって、イエス・キリストと同じ種類の者、同じ性質をもつ者、同じ復活の栄光をもつ者としてよみがえるようになります。
* これは、ローマ人への手紙8章28節に、
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
と記されていることを受けて、
なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。
と記されているように、父なる神さまが「あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた」ことに基づいています。 ここで神さまが「あらかじめ知っておられる人々」と言われているときの「あらかじめ知っておられる」ということは、永遠のご計画、すなわち、永遠の聖定において「知っておられる」ということを意味しています。神さまはあらゆることにおいて無限、永遠、不変の方ですから、永遠にすべてのもの、すべてのことを完全に知っておられます。ですから、ここで「あらかじめ知っておられる人々」と言われている人々は、その永遠にすべてのもの、すべてのことを完全に知っておられる神さまが、特別な意味において「知っておられる人々」のことです。この場合の「知っておられる」ということは、ヘブル的な意味合いをもっていて、私たちのことばでは「愛しておられる」ということに当たることです。 これは、エペソ人への手紙1章4節ー5節に、
神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。
と記されていることに相当します。 ローマ人への手紙8章29節では、父なる神さまはこのような意味で「あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた」と言われています。この「御子のかたち」は栄光を受けて死者の中からよみがえられ、今は、父なる神さまの右の座に着座しておられる「イエス・キリストのかたち」すなわち「栄光のキリストのかたち」のことです。 ですから、これは、最初に、人としての性質を取って来られたときの「イエス・キリストのかたち」ではありません。人としての性質を取って来られたときのイエス・キリストは、創造の御業において「神のかたち」として造られたときのアダム、罪を犯して堕落する前のアダムと同じ状態にある人としての性質を取って来られました。その意味において、イエス・キリストはまことの人としてお生まれになりました。それによって、私たちご自身の民と一つになってくださり、私たちをご自身と一体に結び合わせてくださったのです。ヘブル人への手紙2章14節ー15節に、
そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。
と記されているとおりです。 このようにして、まことの人としての性質を取って来てくださった御子イエス・キリストは、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされました。そして、そのことに対する報いとして、栄光を受けて死者の中からよみがえられました。ピリピ人への手紙2章6節ー11節に、
キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。
と記されているとおりです。 イエス・キリストが最初に人としての性質を取って来てくださったときの人としての性質は、創造の御業において「神のかたち」として造られたときのアダム、罪を犯して堕落する前のアダムと同じ状態にある人としての性質でした。そのイエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことに対する報いとしてお受けになった栄光は、最初の人アダムが造られたときの「神のかたち」としての栄光よりさらに豊かな栄光、一段と豊かな栄光です。 イエス・キリストの、神の御子としての栄光は無限、永遠、不変です。それは永遠に無限の栄光であって、増えたり減ったりすることはありません。ですから、イエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことに対する報いとしてお受けになった栄光は、人としての性質における栄光です。それは、神のかたちとしての栄光をもつものとして造られた最初の人アダムが、委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて神である「主」のみこころに完全に従いとおしていたとしたら、そのことに対する報いとして受けていたであろう、より豊かな栄光に相当する栄光です。 繰り返しになりますが、イエス・キリストの、神の御子としての栄光は無限、永遠、不変です。ですから、イエス・キリストはご自身のために栄光をお受けになる必要はありません。イエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことに対する報いとして栄光をお受けになったのは、私たちご自身の民のためです。私たちをご自身の復活の栄光にあずからせてくださるためです。イエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたのも、私たちの罪を贖ってくださるためでした。そして、そのことに対する報いとして栄光を受けてよみがえってくださったのも、私たちをご自身の栄光にあずからせてくださるためでした。 このことが、コリント人への手紙第一・15章20節で、
しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
と言われていることに示唆されています。また、ローマ人への手紙8章29節で、
なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。
と言われていることにも表されています。 このことが最終的に実現するのは、終わりの日に再臨される栄光のキリストが、私たちご自身の民を栄光のからだによみがえらせてくださる時です。その時、私たちは栄光のキリストに似た者となります。ヨハネの手紙第一・3章2節に、
愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。
と記されているとおりです。 これらのことは父なる神さまと御子イエス・キリストの私たちご自身の民に対する愛と恵みから出ています。それはまことのあいでありめぐみです。それで、父なる神さまと御子イエス・キリストは私たち自身を愛してくださっています。それを言い換えると、私たち自身を目的としてくださっていて、決して、私たちを手段化されることはないということです。 そして、このすべてのことにはさらに究極の目的があります。それはこのすべてのことにおいて、父なる神さまの愛と恵みに満ちた栄光が現され、父なる神さまがほめ讃えられることです。 先ほど引用した、エペソ人への手紙1章4節ー5節には、
神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。
と記されていましたが、これに先立つ3節には、
私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
と記されていますし、これ(4節ー5節)に続く6節には、
それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。
と記されています。 また、同じく先ほど引用した、ピリピ人への手紙2章6節ー11節に記されているみことばの最後の10節ー11節には、
それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。
と記されていました。 その意味で、すべては神さまから出て、神さまによって成り、神さまに至るのです。ローマ人への手紙11章36節には、
というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。
と記されています。 このみことばの文脈では、
すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至る
ということは、救いとさばきの御業の両方にかかわっています。けれども、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりに基づく神さまの救いの御業においてこそ、神さまの愛と恵みに満ちたご栄光がより豊かに表されるようになります。
* これらのことを踏まえて、コリント人への手紙第一・15章21節ー22節に、
というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。
と記されているみことばを見てみましょう。 ここでは、まず、
というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。
と言われていて、次に、
すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。
と言われています。 これに「というのは」という理由を表す接続詞(ガル[この語は後置接続詞で、通常、文の2番目に置かれます。])があることは、これが、その前の20節に、
しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
と記されていることをさらに説明するものであることを示しています。[注]
[注]ここにはエペイデーとガルの二つの理由を表す接続詞があります。新改訳第3版は前の部分の理由を説明するものを生かして訳しています。2017年版[「死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。」]は、「というのは」を省略しています。ここでは、二つの接続詞を生かした方がよいと思われます(Fee, Ciampa&Rosener)が、日本語にするのが難しくなります。おそらく、「というのは、死が一人の人を通して来たので、死者の復活も一人の人を通して来るからです」というようになるでしょうか。 また、この文には動詞がありません。そのために、動詞(「来る」)を補う際に第3版は同じ時制で訳し、2017年版は時制を変えて訳しています。
いずれにしましても、ここで、
というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。
と言われていることには意味があります。 このことには、初めにも触れましたが、12節に、
ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。
と記されているように、コリントの教会には
死者の復活はない
と「言っている人」(複数形「言っている人々」)がいたことにかかわっています。 もし、このように言われないで、いきなり次の、
すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。
ということが言われるとすると、その「死者の復活はない」と「言っている人々」から、「キリスト」は単なる人ではなく神でもあるからよみがえったのだというようなことが言われかねません。そうしますと、単なる人はよみがえらないということになりかねません。そうなると、「初穂」としての「キリスト」と、それに続いてよみがえるはずの「眠った者たち」は同じ種類の者ではないし、同じ性質をもつ者、同じ復活の栄光をもつ者でもないことになってしまいます。 しかし、先ほど引用しましたヘブル人への手紙2章14節に、
そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。
と記されているように、イエス・キリストはまことの人としての性質を取って来てくださいました。それによって、ご自身が私たちご自身の民と一つになってくださり、私たちご自身の民をご自身と一つに結び合わせてくださったのです。 この論理は、コリント人への手紙第一・15章では、20節ー22節に先立って、13節に、
もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。
と記されていることにも見られます。これは、先ほど引用しましたが、その前の12節に、
ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。
と記されているように、
死者の復活はない
と「言っている人々」がいたことを受けて語られています。 通常、私たちはイエス・キリストが死者の中からよみがえられたから、死者の復活があると言っています。それは、そのとおりです。20節で、
しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
と言われていることは、そのことを示しています。 けれども、ここ13節では、死者たちの復活がないなら、イエス・キリストもよみがえられなかったと言われています。 これは、何となく、死者の復活は当然のことで、その一つの事例として、イエス・キリストは復活されたというように聞こえますが、そういうことではありません。神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった人が、その罪への刑罰を受けて死ぬことは当然のことです。しかし、そのようにして死んだ者がよみがえることは当然のことではありません。それはただただ父なる神さまの私たちへの愛から出たことで、御子イエス・キリストの恵みによることです。ローマ人への手紙6章23節に、
罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
と記されているとおりです。 それで、ここで、
もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。
と言われていることは、父なる神さまの愛と恵みに満ちたみこころを踏まえて理解すべきことです。その父なる神さまのみこころは、私たちご自身の民を、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずからせてくださるとともに、イエス・キリストの復活にもあずからせてくださって、復活させてくださることにあります。先ほどお話ししましたように、イエス・キリストが死者の中から復活されたのは、ご自身のためではなく、私たちご自身の民をご自身の復活にあずからせてくださって、よみがえらせてくださるためでした。 もし、私たちをよみがえらせてくださることが父なる神さまのみこころではなかったとしたら、そもそも、父なる神さまはご自身の御子を私たちの贖い主としてお遣わしになることもなかったはずです。それで、このような父なる神さまの愛と恵みに満ちたみこころに照らして見ると、
もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。
ということになるのです。
しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
ですから、イエス・キリストと一つに結ばれて「眠った者たち」は、イエス・キリストの復活にあずかって、必ず、「死者たちの中から」よみがえるようになります。しかし、それは自動的なことではなく、父なる神さまの愛と恵みに満ちたみこころに基づくイエス・キリストの御業によることです。ヨハネの福音書6章39節ー40節において、イエス・キリストが、
わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。
と教えておられるとおりです。 ここでは、「すべての者」「みな」が重ねられるとともに、「ひとりひとり」が繰り返されて強調されています。主イエス・キリストは私たちご自身の民を十把一からげにしてよみがえらせてくださるのではなく、私たち「ひとりひとり」をみこころに留めて、大切なご自身の民としてよみがえらせてくださいます。 |
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